いつもと違う日『仁科、まだ起きてる? 練習室』
もうすぐ日付も変わろうかという真夜中、笹塚からの着信なんて珍しくもない。
「ああいいよ。すぐ行く」
いつも通り答えると、先刻片付けたばかりのヴァイオリンをケースから取り出し、弦を軽くはじいてみる。うん、これならまだ調弦も大丈夫だろう。
最近の笹塚ときたら、よほど朝日奈さんのヴァイオリンを気に入ったらしい。作曲の合間に度々呼びつけては彼女の音も使うようになってるから、俺がこんな風に呼び出されることは減ってきていた。特に外に出ているときに呼び戻されないのは有り難い。
しかしこの時間だ。
「夜中にコンミス呼ぶわけにいかないって、一応はわかってるんだな」
ただ代わりに呼ばれただけか、頼りにされているんだかどうだか怪しいけど、笹塚の役に立つなら苦はない。とにかく、さっさと行って終わらせよう。明日はライブの予定もあるし、それに。
仕事以外の連絡を待ちたい日だってある。
階段を上った先にある練習室はドアが細く開いており、光が漏れていた。一応ノックをして声をかけると、返事を待たずに部屋へ入った。
「お誕生日おめでとうございます! 仁科さん!」
煌々と点いた部屋の明かりの中、突然かけられた声と共に目に飛び込んできたのは、満面の笑みを浮かべた朝日奈さんの顔だった。
「ふふっ、びっくりしました?」
ニコニコと朝日奈さんが顔を覗き込んでくる。なんだこれ、まるで自分に都合のいい夢でも見ているみたいだ。
思考が混乱して何をしにどこへ来たのだったか忘れそうになる。
「さあさあ、こちらへお座りくださいねー」
誘導されるまま椅子に腰かけると、なぜか笹塚がコントラバスを抱えているのが見え、そういえば笹塚に呼ばれて来たんだっけ、とやっと思い出すことができた。
いつの間にかヴァイオリンを構えた朝日奈さんの合図で、演奏が始まった。
聞きなれた前奏から、だんだんアレンジされた曲調へと変化していく二重奏は、まぎれもなく《ハッピーバースデー》だった。
以前、ネオンフィッシュの支援者に頼まれてパーティーで演奏したことがあるけど、その時とは音の絡み方が全然違う。編曲が異なるというだけではない、弾き手二人の思いが伝わってくる様なふくよかで優しい響き。
自分の誕生日を知っていてくれただけでもうれしいのに、こんな風に祝ってもらうのは初めてで、不覚にも涙が出そうになってしまった。
異なる編曲で三周ほど奏でられた旋律が一層複雑になる。
「はっぴばーすでーぃ、でぃーあにしなさぁーん♪」
かわいらしい朝日奈さんの歌声を挟んで、演奏は終了した。
「……ありがとう、素敵な演奏だったよ」
自分でもびっくりするくらい心が揺さぶられている様で、いつもならすらすら出てくる言葉が続かない。
このまま何も考えずに、まだ耳に残っている美しい余韻をもっと楽しんでいたい。
「結構うまくいったな」
「はい、サプライズ成功ですねっ」
「じゃあ、あと任せた」
どれくらいぼーっとしていただろう。途中で、視界の端を大きな影が横切っていくのが見えたような気がする。
ふと視線を感じて顔を上げると、頬杖をついてこちらをじっと見つめてくる朝日奈さんと目が合った。いつもより優しい雰囲気の微笑みに囚われそうになったが、無理やり自分を現実に引き戻す。
「朝日奈さん、改めてお礼を言わせて。素敵なプレゼントを本当にありがとう。実のところマインか、あわよくば電話をもらえたらラッキーくらいに思ってたから、すごくびっくりしたし、すごくうれしいよ」
「えへへ、わたしも仁科さんのお誕生日を一番にお祝いできてうれしいです」
今年はなんだかいつもと違う誕生日になりそうだな。
そして。
この笑顔を独り占めさせてくれた相方にも感謝を──。