【こへ滝】成長if 陽が落ちてもまとわりつくような暑さの残る、夏も終わりのある夜のことだった。
「異常なーし!」
時折聞こえるそんな声の他には、槍を持った見回りの足音だけがざりざりと響く静かな城を、密やかに蠢くいくつかの影。闇に溶け込む濃い緑色の忍者服に身を包んだその影たちは、ごくわずかな身振りだけで散り、また集まり、そして――首を傾げた。
『なかったな』
『うん』
矢羽根と呼ばれる、風の音にも聞こえる息遣いでそう囁きあう。
六年生らしい、難しい課題だった。学園長先生が探してこいと言ったのは、かつて現役忍者として活躍していた頃に手に入れたという、とても小さな翡翠の彫刻。ガールフレンドに贈る約束をしたが、よくよく思い出せば何十年も前に忍務の途中で壁ののぞき穴を塞ぐのに使ってしまっていたという、嘘か真か非常に怪しい話ではあったけれど。
『滝夜叉丸は?』
『もう少し探すとさ。どうする? 三木ヱ門』
『ったく……回収して出よう。喜八郎、下を頼む』
『ほーい』
***
髪結いとして先に潜り込んでいたタカ丸の手引きで、忍び込んだところまでは良かった。しかし、城の中から豆粒ほどの小さな彫刻の行方を探し出せとは、草原に放られた一つの石を探すような難しさである。
当たりをつけていたいくつかの部屋には、残念ながら彫刻の影も形もなかった。
諦めるか?
いやせめて、もう一箇所。
暗い部屋で、滝夜叉丸は窓から差し込む月明かりだけを頼りに、のぞき穴がかつて空いていたと思われる戸の成れの果て――いまやどれがその穴かわからないほどボロボロになって他の廃材とともに物置に放り込まれた板――の周辺にその彫刻が落ちてはいないかと目を凝らす。指先でも探りたいところだが、思ったよりも見張りの多いこの城では、カタリと物音がしただけで人が飛んで来そうだ。
見つからなくとも、いつ頃までそれがこの城にあったかを探れば良いという課題ではあったが、どうせなら見つけ出したいではないか。
その思いのあまり、滝夜叉丸は気づけなかった。先ほどまで闇しか無かったはずの場所に、いつの間にか闇と同じ黒い忍者服があることに。
「――動くな」
「!」
くぐもった低い声を左耳の後ろで聞いたと思った時には、首すじに苦無を突きつけられていた。
振り向こうとしても、皮膚に食い込んでくる苦無がそれを阻み、滝夜叉丸は目だけでなんとか相手を窺おうとする。
それすらも困難にするような、静かな殺気。
永遠にも思えるような刹那。生きて戻るために何を犠牲にするべきか、いくつかの道が滝夜叉丸の脳裏を過る。
背中にわずかに感じる相手の体温と、冷たい鋼の感触に背筋が凍る――と同時に、なぜだか肌が粟立つほどのゾクゾクとした歓びが一瞬走り抜けていった。
なぜ、と思ったのはわずか一秒のこと。視界の端にギリギリ滑り込んだ、その苦無を握る手の爪の形を見て目を細める。
ふっと力の抜けた滝夜叉丸の身体。急に遠慮なく体重を預けてくる背中に、まさか気絶したわけでもないだろうがと訝しげに覗き込む黒服の忍者。そこへ、苦無が首筋を浅く傷つけるのもかまわず、滝夜叉丸は身体を捻って顔を寄せる。
「何を――」
突然の口布越しの口付け。
黒服の忍者は意表を突かれたかのように動きを止める。
「!?」
薄い布の向こうの唇が、かろうじて読み取れるほどに動いた。
――せんぱい、と。
「……!」
次の言葉をかき消すように響いたのは、軽く小さな破裂音。投げ込まれた鳥の子から振り撒かれる煙が一瞬で部屋を満たす。
『こっちだ!』
矢羽根は足元から聞こえた。めくられた床板の下から、滝夜叉丸の足首をつかむ、緊張に汗ばんだ手のひら。
渡すまいとするように一瞬強く腰を抱かれ、滝夜叉丸は顔を上げた。
その口布を下げる、先ほどまで苦無を握っていた指先。
「……ん」
ほんの束の間、重ねられた唇。
言葉を交わすよりもずっと雄弁なその熱に、目を細める。
焦れたようにもう一度引っ張られた足に応えるように、滝夜叉丸の身体は煙の中に吸い込まれていった。
***
黒服の忍者は余韻をなぞるように唇に指を当てる。
「逃がしたのか」
「ああ。せっかく珍しく長次と同じ雇い先だったのにな。いいとこなしだ」
「それにしては楽しそうだな、小平太」
「そうか?」
モソモソとかけられた声に振り向いて、ニッと笑うその表情は忍術学園にいた頃と変わらない。同じ黒い忍者服に身を包んだ長次は、やれやれといった様子で肩をすくめる。
「土産までくれてやるのは、後輩に甘いと言われても仕方ない」
「あんなにあっさり見破られるとは思わなかったからなあ」
バレていたか、と舌を出した小平太が、ううんと大きく伸びをする。
「私もまだまだだな! 声も変えていたつもりだったんだが」
「……たぶんあれはそういうことではない」
嘆息する長次は遠い目で、今頃は学園に向かって駆けているだろう二つ下の後輩たちのことを思いやった。
「まったく! 血の気が引いたぞ」
「深追い厳禁でしょ、馬鹿夜叉丸」
「おい、滝夜叉丸?」
三木ヱ門、喜八郎、守一郎は山道を走りながら、ふと妙に静かな滝夜叉丸を見た。いつもの調子で言い返してこないと、今度は心配になってくるのが付き合いの長い同学年である。
滝夜叉丸はというと、彼らと変わらぬ速度で走りながらも眉をぎゅっと寄せて、頬を膨らませて、不満げに唇を尖らせている。
「まだ見つけ出すことにこだわってるのか」
「あんだけ危ない目に遭っといて? 一応持ち帰るべき情報は得たんだからいいだろうに」
「そうじゃない」
確かに、『見破ったんだから逃がしてくださいますか?』という下心が無かったと言えば嘘になる。
でも別に、こういう手助けをねだったつもりではなかったのに。
滝夜叉丸が、膨らんだ頬から手のひらにプッと吐き出した、小さなもの。
「あー! そ、それ!」
「いつの間に見つけたんだ? ……いやいい、触りたくないからしまっとけ」
山の端に朝日が覗く。
明けていく空、白く西にかかる月。
戦輪の傷が縦横に刻まれた手のひらの上、小指の先ほどの翡翠がきらりと光る。
「わたしにも最高学年としての意地があるのですからね、七松先輩」
横を走る友人たちに聞こえないほど小さく呟く。まだぷりぷりしながら、翡翠を握り込んだ拳でそっと唇をなぞった。
闇の色に染まっていた忍者服が、濃い緑色を取り戻す。
あっという間に過ぎていく夏を惜しむように蝉が鳴きだす。
「次にお会いしたなら、文句の一つも言って差し上げねば」
――それもきっと、もうすぐだ。