【文仙】予習と復習のつもりだった、のに。 「口吸いの練習?」
きょとんと開かれた左右異なる形の瞳が、私と私が掲げる教科書のページを何度も見比べて困惑の色を浮かべる。
「その……仙蔵は、俺でいいのか」
今日同じ授業を受けたばかりだというのに、文次郎は唸るようにそう絞り出して、逆にこちらに問うてくる。
いいから声をかけたに決まっているだろう。
だが、「これも術の一つ、と割り切れないうちは無理をしてはいけない」と先生も言っていた。
たかだか身体の一部を触れ合わせるだけ、握手と大差ない。私にはそう思えるのだが、教科書の『人体でも鍛えづらい粘膜部分であり、急所を守りたいという本能と天秤にかけられるからこそ、親愛の情を示す動作として成り立つ』という一文を思い出し、ふむ、と頷く。
「練習相手として適切か、という意味合いか? つまり、本能的な忌避感は普段見慣れている相手では薄くて、練習の効果が低いのでは、と?」
「そうじゃねえって。どんだけ難解な思考回路してんだ」
真面目に答えてやったのに、なぜか呆れた視線が返される。
では逆に、私相手では拒否感が強いので練習相手は御免被りたいという意思表示か。そう思いつけば、なんだか無性に腹立たしい。
「……嫌なら、別に」
「嫌じゃない! いや、だからその、なんというか普段から同室で見慣れているお前といきなりそういうのは気恥ずかしくてだな」
今度は急に大きな声を出したと思ったら、しどろもどろ早口になり語尾は聞き取れない。だが、「普段から見慣れていると気恥ずかしい」というのも一理あるかとまた頷く。
「わかった、少し待っていろ」
衝立に隠れるようにゴソゴソと着替え始める。バサリと脱いだ服が床に落ちる音に、文次郎の慌てたような声。
「おい、仙蔵……?」
「これでどうだ」
パタパタと手早く化粧をすれば、町娘の出来上がり。上目遣いで指を組み、文次郎の前に膝をつく。頬を染め、いかにも緊張と期待で言葉を詰まらせたように囁く。
「文次郎様、お慕いしております……! あの、わたくしと……わたくしとく、くちっ」
「そういう小芝居をしろとは言ってねえよ!」
「チッ、私の色仕掛けが通じんとはつまらんやつめ」
だいたい、普段通りではないほうが良いと言ったのは文次郎のほうではなかったか?
「女装したって仙蔵は仙蔵だろうが。だいたい、それならいつものお前のほうがよっぽど好まし……どうした」
「ッなにが」
「赤いぞ」
不意に額を覆った手のひらに、心臓が跳ねる。
「……!? それは、お前が……いや、なんでもない…」
「ん? なんでいきなり口吸いの練習なんて言い出すかと思ったら、熱でもあんのか?」
「ない!」
その手を振り切ろうと首を振った瞬間に、ゴチン! と鈍い音。一瞬まぶたの裏に星が飛び散る。
互いに額を抑えて涙目でしばし睨み合った後、「いいから着替えてこいよ」という文次郎の言葉にしぶしぶ化粧を落として着替える。鏡を見ても、文次郎が言うほど赤くなんてなっていなかった、はずだ。
「それで……どうなんだ」
改めて向かいあうと、妙に照れてしまう。どう考えても文次郎のせいだ。
「どうって……まあ、そうだな」
ぐいっと引かれて、文次郎に向かって傾く身体。近づいてきた唇が、ふに、と一瞬重なって離れていくのが妙にゆっくり見えていた。
「ん」
「……これでいいのか?」
くらくらと目眩がしてはじめて、瞬きも、息も忘れていたことに気づく。
「……違う」
「は?」
「口吸いを〝する〟練習のつもりだったから、〝される〟のは違う…ッ」
なんと言えば良いのか分からなくなって、口をついて出たのはそんな言葉。だがきっと、驚いたのはそのせいだと胸の内でひとり頷く。
「ややこしいな、わかんねえよ違いが」
「だから、こういう……ええい」
武器の実技中は視線だけで互いの考えることが手に取るように分かることも多いというのに、なぜこんなにもどかしいのだろう。
文次郎の頭を引き寄せて、頬に手を添え、唇を親指の先でそっとなぞって。
目と目を合わせてからゆっくりと睫毛を下げて。
歯が当たらぬように柔らかく唇を重ねて。
余韻ごと閉じ込めるように、首から背中をぎゅっと抱きしめる。
抵抗せずに――というより石になったかのようにピクリともせずにそれを受けていた文次郎が、掠れた声を出す。
「おまえ……恥ずかしくないのか、それは」
「……恥ずかしいに決まっているだろう」
だから練習しようと思ったのだ。
「……本番は?」
その呟きは耳元でボソリと、眉が下がっている時の声で。
まだそんな実習忍務の予定はない、と返そうとして、ふと私以上に赤くなっている文次郎の耳を見つめる。
黙りこくること、数瞬。
「…………今から、する」
お前もそうしろと呟くと、「とっくにそのつもりだ」と返ってくる。合わせた胸の間で駆けるように響く鼓動がどちらのものなのか、分かってしまうのが怖くてなかなか離せない。
再び、今度はどちらからともなく恐る恐る触れ合わせた唇は、互いに先程よりもずっと熱かった。