【こへ滝】大型猫科動物のように睦み合ってほしい ふっ、と虫の声が止んだ。
秋の夜長だからと一人文机に向かっていた滝夜叉丸は、その静けさを警戒するように懐の戦輪に指を伸ばす。肌の温もりを吸っていた鉄の輪が、白い寝間着の隙間から顔を出した途端に武器らしい冷たさを取り戻していくのを指先に感じながら、呼吸を整えるように深く吸って、吐いて。
ほどなく、バン! と力加減なく開けられた長屋の戸。
足音が無かったのは流石だが、殺気とも言えそうなギラついた空気を隠しもせず飛び込んできた男は、滝夜叉丸を見てフンッと蒸気が見えそうな鼻息を吐く。見慣れた、濃い緑の忍者服で。
「……七松先輩? どうされました」
髪はボサボサ、目つきは鋭く、何かに怒っているようにも見える荒々しさで。しかし、どうやら七松小平太には間違いなかった。
危うく放りかけた戦輪をなんとか爪の先で引き戻すと、同室の口癖のように思わず「おやまあ」と呟く。
その言葉ののんびりさとは逆に、滝夜叉丸はいつでも飛び出せるように身構えていた。緊急事態だろうか? 手の届くところに道具袋があるとはいえ、寝間着のままでは心もとない。着替える数秒の余裕はあるだろうか?
しかし小平太はそんな〝い組〟らしいお手本通りの予想と心構えを全部轢き飛ばすような勢いでドカッと横に座ると、滝夜叉丸の肩にあごを乗せてくる。
「ちょっと、お前の匂いを嗅ぎにきた」
「えっ!?」
教科書には絶対に載っていない回答に、ぱちくりと目を瞬いた。
いつも以上にゴワゴワガサガサとした指先が、滝夜叉丸の下ろしたままの髪をそっとかき上げる。
そのまま首すじに唇を滑らせながら、小平太が不機嫌に呟く。
「……文次郎のようにはいかんな、二晩寝ないと理性が死ぬ」
彼から漂うのは、汗と、土と、火薬の臭い。
確かにここしばらく姿を見ていなかった。忍務にでも出ていたのだろうか。
「もう休まれてもよろしいのですね?」
「まだ眠くはない」
小休止、というわけではなさそうだ。普段よりも低い声で呟くと、滝夜叉丸の腰をぐっと抱き寄せる。
抵抗せずその胸に収まり、滝夜叉丸はやや疑り深い目で小平太の頬に手を伸ばした。いつもは飛び出しそうなほど丸い目にまぶたがかかり、ジト目がちになっている。目の下の隈も濃い。
「一緒に湯浴みに参りましょうか? それとも…このままここで眠って行かれますか」
よしよしとあやすように頬を撫でる指を掴んで、小平太はおもむろにがぶりと噛み付く。
「!?」
痛くはないが、いきなり何をするのだろうこの人は。
驚きで固まった滝夜叉丸を、悪戯っ子と言うにはやや獰猛な笑みが見下ろした。
「こんなに美味そうなものが目の前にあるのに、眠りたくない」
匂いだけでは足りなくなったと、鼻先を滝夜叉丸の下ろした髪に潜り込ませるようにまた首筋へ顔を寄せ、ちろりとその肌を舐めて。
「美味しそう、ですか?」
「歯を立てたい。齧りつきたい。痕が残るほど噛んでみたい。この首筋も、脇腹も、脚も。どこもかしこも美味そうだ」
なるほど七松先輩の理性が死ぬとこうなるのか、と頭の片隅で考える。
背筋に走るピリピリとした緊張感は、今にも喉に噛み付かれそうだという本能的な恐怖か。背中の産毛がチリチリと立ち上がるようだ。もし尻尾があれば、ぶわっと膨らませていたかもしれない。
「そんなふうに、獣じみたことを仰られますと…っ」
「怖いか?」
首をすくめる滝夜叉丸が、小さく笑う。
「いいえ――」
ぐるりと、逆に小平太を床に押し倒して。
「こちらも人の皮を脱ぎ捨てて、どこまで私の牙が届くか……喰らい合ってみたくなりますね?」
歯を見せて美しく獰猛に笑ってみせる滝夜叉丸に、小平太は仰向けのままぽかんと見惚れた。
あなたより幼いと、侮るなかれ。わたしもまた――あなたに鍛えられた獣の子なのです、と。二つ下とは思えない妖艶な歪み方をした唇が近づき、鼻先にかぷりと歯を立てられる。
ぞわり、と小平太の背が震える。こちらもたてがみがあれば、逆立ててブルリと震わせていただろう。
「最高だな」
できるものならやってみろと、爛々と目を輝かせるこの獣を、寝かしつけるまでにどれほどかかるやら。
こういう時のために、同室に向けた「しばらく戻るな」の合図は決めてある。
いつの間にかまたうるさいほど鳴き出した虫の声。
秋の夜長で良かったと滝夜叉丸は笑みを浮かべ、再び噛みつくように唇を寄せた。