【よそのこ】【オリキシン】北の神の春日和 人魚と形容して笑われたのはまだ記憶に新しい。極光の王女は深窓の令嬢のように穏やかで、しかし凛々しく強靭だ。自分の側にいるのが勿体無いくらいだと思ったこともある。……歯の浮いた台詞はお互いの腹筋に良くないため口には出さないが。
普段はラップタオルを巻いた子供のような愛らしい姿をとっているリヒュペだが、どうしたことか今日は神相撲をするときの大きな姿をとっていた。
「面白いものが観れるかもしれないぞ。出かけようじゃないか」
そう言った彼女に連れられて、どこかへと向かっている。白いドレスとカーテンが目立たないかと一瞬気になったが、一般人には太陽自身しか見ることができないと思い出して今に至る。
穏やかな春風に流れるカルガモの親子を橋下に眺めながらのんびりと歩みを進めた。リヒュペのコツコツとコンクリートを踏む足音はささやかだ。
「見えてきたぞ、太陽」
リヒュペの声に顔を上げると、向こうの空に何かの群れがひらひらと浮かんで移動しているところが見えた。遠目には小鳥のようだが、あの自由気ままな空の泳ぎ方は見覚えがある。
「あれは、カナちゃんのチームの」
「メンヒャク……の友達大勢だな」
愉快なハンカチ神たちは公園の広場に集まっているようだった。
「集会をすると噂で聞いたのだよ。ここまで集まると壮観だな」
集会場は色とりどりのハンカチたちが埋め尽くしていた。木の枝に引っかかって休憩するもの、風に流されているもの、高速で飛び回っているものなど気ままで様々な有り様であった。ハンカチ神たちはひらひらと舞いながら近況報告をし、お互いの装飾を褒めあっている。刺繍のデザインを語り合い、小さいブローチを可愛いと褒め、安全ピンをロックと称賛し、ビーズの飾りを綺麗だと全力で褒め合う。何もつけないからこその自由ささえも全てが彼らの中で高評価の対象で、素直な感想と心からの賛辞が飛び交っていた。ハンカチ神たちは太陽とリヒュペの周りも飛び回り、妖精の輪の中に迷い込んだようなおかしい気分だ。
「確かに面白くて楽しいね」
明るい光景と優しい言葉が響き合う空間に笑顔が溢れる。リボンが解けてしまった神に声をかけて飾りを結い直してあげると、足元を冷たい空気が這った。
「……?」
足首から駆け上がる冷気に異変を感じて周囲を見回すと、思わず踏んだ芝生がさくりと軽快な音を立てた。霜が降りている。ハンカチ神たちもゆっくりと浮遊しながら、空気の変化に戸惑っているようだ。
「リヒュペ、これ────」
「来た」
晴天の下、超局地的な冷気が太陽たちを襲う。死に至る温度ではないが、この時期には異常な気温だ。あたたかい集会の空気を壊す北風に乗って現れたのは、冬の使者と言うには禍々しい蝿の群れと見紛う黒い靄。その神霊は空飛ぶ絨毯のように滑らかに飛び、肉体を流体のように変形させながら、この世のものではない雄叫びを上げた。そして靄の一部分を巨大なシャチの顎に変えてハンカチ神に食らいつこうとする
「それはよくないね」
リヒュペの指先にティアードロップの結晶が散る。散らばるガラス球のような氷片が美しい列をなし、氷の鞭の美しい造形になる。その一瞬で作り出された連なり輝く氷の鞭でシャチの鼻先一寸前を切り裂き、間一髪でハンカチ神の捕食を阻止した。霧のシャチの威圧に恐れをなしたハンカチ神たちの一部は太陽とリヒュペの後ろに隠れ、その他は蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
「あいつは一体……!?」
「あれは春嵐で南へ迷い込んだ妖精だ。本来獰猛な奴ではないが……迷子になって不安なのだろうな」
一歩前に出たリヒュペを標的に定めた冷気の神霊は口をもごもごとさせるように靄の肉体を凹凸させ、じりじりと相対する距離を測っていた。
「神相撲で追い払えるんだよね?」
一応確認する。明らかに敵対の意思を見せる神を前にしてリヒュペは落ち着いた様子で「そうとも」と答えた。
「そのために太陽を連れてきたのだからな」
またも威嚇で空気が震わされ、ハンカチ神たちはそれぞれ小さく悲鳴を上げながら木陰に隠れる。
「さて、やっていいことと悪いことの区別はつけさせてあげなきゃね……」
全く臆さないリヒュペは氷の鞭を霧散させ、神相撲の掛け声と共に土俵を展開する。冷たい海の中のような、青色さえ薄い澄んだ氷の景色が広がる。リヒュペはふわりと土俵に降り立ち、黒い霧の絨毯に指先で手招きする。
「さあ上がっておいで、古き冬神の末裔。バーバヤガーの孫息子」
言葉に誘われるように、靄は土俵のルールに縛られて形が変化する。枝のように細い鳥の脚、肋のように組み合った骨の胴体、太く乾燥した銀色のたてがみは腕に繋がっているだけではなく、後ろ髪が太い三つ編みの尻尾として流れている。形をもったそれは不定形の怪物ではなく、どちらかといえば人のシルエットに近い。初めて外界を見た子どものように辺りを見回し、鉤爪の伸びた腕を動かす。神がここを戦いのための場であると理解するのに時間はかからない。たてがみの中央に位置する仮面の、縦方向へ並んだ三つの目を爛々と輝かせる。短く吼え、氷の矢を放ちながらリヒュペへと猛進した。
「リヒュペ!」
神太鼓を打ち鳴らす太陽の神通力がリヒュペに流れ込む。
「踊れ」
迷子の幼神と極光を母に持つ女神の力量差は歴然だった。再度構築された氷の鞭に矢は全て打ち壊され、一直線に突っ込んできた骨の肉体を絡め放り投げる。危うい着地でたたらを踏んだ相手に微笑ましい視線を向け、リヒュペは左肩を覆うカーテンをぐるりと捻るように変形させた。肩まで覆う鎧と一体化したその槍は、流麗な鞭とは打って変わって重く豪傑な印象を与える。しかし軽やかに駆けるリヒュペは四肢の指先にまで渡る神通力をそのまま攻撃に出力し、拳打の要領でバランスを崩しかけた神を打った。庇う鉤爪と槍がぶつかる重い音が響く。その衝撃で膝をついたのははたして、迷子の神の方であった。
ハンカチ神の歓声が上がる。
敗北を認め落ち着いた北風の幼神はリヒュペの言葉に素直に耳を傾け、うんうんと相槌を打つ。帰りの道を聞いた神は黒い空飛ぶ絨毯となり、高く高く冷気を全て持ち帰るように舞い上がり、飛び去っていった。
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「リヒュペ、見せたかった面白いものってどっちだったの?」
春風が舞い戻った広場で身体を温めながら、太陽は思い出したように聞いた。スモードの小柄な少女の姿に戻ったリヒュペは木陰でハンカチ神の愉快な掛け合いを眺めている。
「もちろん彼らの集会のことさ。さっきの危ない方は個人的に送り返しておきたかったんだよね……」
感性を疑ったかい?とリヒュペは意地悪そうな微笑を浮かべた。そういうわけではなかったが、スリルを楽しむのも良いものだ、と言いそうな雰囲気も持ち合わせている。
「どっちでも大丈夫だったよ」
本当の意味で繋がりあったことがあるからこそ、信頼を口にする。丸裸の心だけで直接触れ合ったことがあるからこそ、疑いなど微塵も無い。カーテンの女神が自分の側にいるのが勿体無い……という過去の考えは改めて訂正しよう。互いに選んでこうして側にいるのだから。
ちらほら解散を始めたハンカチ神を横目に、帰る前に何か食べていこうかと考える。折角リヒュペから誘われた散歩だ。取り戻した春日和も心地良い。
もう少し、大切な友人との時間に浸っていいだろう。