これからは、義兄弟として 家族、きょうだい……楝にとっては無縁と言っていいものだった。あの家を飛び出し、縁を切って軍人になった今では、完全にとは言えないが、少しずつ、あの家に今までされてきた扱いによって、受けてきた心の傷は癒えてきていた。あの家では、一生出来なかったであろう体験や出来事も見て、感じた。そんな中、楝は自分の従兄弟である游樂の後ろ姿をじっと見つめていた。
あの家にいた頃から、初めて自分の味方だと思えた相手。自分の事を、"女が産まれるまでの繋ぎ"とでも、"本来ならいない方がいい存在"とも見ていなかった。いつでも、自分のことを気にかけてくれていた。気にかけてくれたからこそ、あの時も自分の事を匿ってくれたのであろう。本で見た"きょうだい"のことを知っては、もし游樂が自分の兄だったら、なんて、ないものねだりをしていた昔の自分を思い出す。
妹が生まれた時、楝は兄になったはずなのだが、その兄という自覚は今でも生まれていなかった。一度も会ったことが無かったからだろうか、一度も、あの家から、家族として接することが無かったからだろうか。普通の人なら当たり前に体験するであろう、家族の温かさも、きょうだいのいる楽しさも、一度も、一度も知ることは無かった。
「ねぇ游樂」
「どうしたの楝」
楝から呼ばれた游樂は振り向く。游樂は楝と話す時、必ず目線を合わせるようにしゃがむのだ。これは、初めて会った頃から変わらない。楝は少し黙った後、游樂の目を見続けた。
「游樂……その……。………」
今から言う言葉が、喉に突っかかるように上手く出てこない。口ごもってしまった楝に対し、游樂は静かに待っていた。数分ぐらい経っただろうか、楝は口をまた開いた。
「游樂と、兄弟に……なりたい」
「ん? オレと? なってもええよ?」
「……」
あっけらかん、その言葉が似合うほどに、游樂は返事をしたのだ。悩んだりされてしまったらどうしようか、と思っていた楝にとっては、その呆気なさに思わず拍子抜けしてしまったのだ。
「……いいの? そんな軽く返事をして……」
「もちろんもちろん、断る理由ないよ?」
游樂の様子を見る限り、嘘をついていたり、冗談で返事をしているようには見えなかった。
「……なんで、游樂はそこまで僕の事を気にかけてくれるの……? 従兄弟だから……?」
兄弟になりたい、そう言い出したのは楝だ。游樂がいいよ、と返事をしてくれた事に関しては、安心と、嬉しさもあった。ただ、少しも悩んだ様子のない游樂の反応に対し、その気持ちよりも戸惑いが占めてしまっていた。いくら従兄弟とはいえ、ここまでしてくれるのか、と。
一方、楝の言葉に游樂は少し困ったかのように笑う。
「そりゃ従兄弟だし、大事な家族だからだよ。……本来なら、家族ってこんな感じなんだけどね」
「……生まれた時から、一緒に住んでたわけじゃなくても?」
「もちろん、楝の事はずっと大事な家族だって思ってたよ」
「……」
游樂の言葉を聞いて、俯いてしまう楝。游樂の言葉を聞いて、動悸が激しくなったような気がした。
「……游樂と」
「……楝?」
「一緒に住んでなくても家族だったなら、僕、やっぱりあの家じゃ」
「楝」
「家族なんかじゃなくて、僕なんて、いてもいなくても……」
「……楝」
「……男で産まれたから、僕、産まれない方が」
恐らく、ずっと我慢し続けてきた気持ちが溢れてしまった。コップに注がれ続け、満杯になって溢れてしまう水のように、家出した時ですら、ここまではならなかった。なんで今、こんな事を言ってしまうのか。もうあの家の事など、割り切れたと思っていたのに。
「楝」
游樂に何度か呼ばれていた事に、今気づいた。そして恐る恐る顔を上げる。游樂は楝の頭を撫でていた。何となく、あの時撫でられて「自由になれたらいいのにね」と言っていた、あの時の出来事を思い出していた。
「産まれない方が、なんて言うのはだめ」
「……」
「オレと兄弟になってくれるんでしょ? 楝が産まれてないと叶わないからね」
「……」
ボロッ、大粒の涙が幾度となく楝の目から零れ落ちた。泣くなんていつぶりだろうか、家出した時すら、泣かなかった記憶がある。家にいた頃など、泣くなんて出来るような状況でもなかった。楝は困惑した様子で、慌てて目をゴシゴシと擦る。それでも涙はボロボロと溢れて止まらない。止め方を知らない、どうやって止めればいいのだろうか。
「ずっと、泣かなかったよね楝。いつ会っても泣かなかった。あの夜、オレの家に来た時だって、泣かなかった。でも、泣いてもいいのよ、辛かった時泣くのは当たり前なんだから」
「……ほん、と……?」
「ほんとよほんと、ほら目が傷つくから擦っちゃだめ」
「……」
泣きすぎて返事が出来ず、首を頷くことしか出来なかったが、游樂の言葉をゆっくりと飲み込むように、考えていた。暫く黙り込んだまま、楝は恐る恐る游樂を見る。
「落ち着いた?」
「……うん」
「今は分からなくても、きっとこれから、もっと分かって来ると思うよ」
「……うん」
游樂の言葉にほんの少しだけ微笑む楝。確かにまだ分からない、分からない事があまりにも多い。けれど、自分がずっと心のどこかで憧れていた、家族という存在が、実はずっと近くに居てくれたこと、そして、その相手と義兄弟になれた事に、楝は安心したように目元を緩ませていた。
あの時、游樂の家に来た時に見えたような綺麗な満月が、二人を優しく淡く光りながら、見下ろしていたように見えた。