好きにしたいだけ今日は元の世界で言うところのバレンタインデーだかなんだか、らしい。
そんな習慣がこっちにもあるのかと不思議になったが、恋人やら家族やらへの感謝の日みたいなもんがあるって事は、誰かに感謝とか好意を伝えたい人間がそれなりにいたって事だろうし、悪くねぇと思う。
女からチヤホヤされたいか、と言われれば、性別どうのじゃなく好意を貰えばそりゃ嬉しい。が、好意のフリだけしたご機嫌取りだの媚びだのは昔から遠慮願ってたくらいには興味がねえし、いっそ煩わしい。口にこそ滅多にしねえが。
もし、愛情の形とか貰えるなら、大事に思う相手からだけで良いし、なんなら貰うより送る方が性に合ってる――それが誰か聞かれたら困るが。
コートのポケットに突っ込んだままのエネルギーバーを思い出して軽く眉を顰める。
午前中、買い出しに付き合った時に見付けて、あいつの――隼人の好物だったなとつい買ってしまった。今日がそんな日だなんて聞いたのはその後で、知らなかったんだと誰にともなく言い訳したくなったがこらえた。男らしくない見苦しい真似はしたくねえ。
渡すには絶好の機会のはずがなんだか気後れする。ただ渡したいだけで、そんな大仰にしたい訳じゃねえし。
……大体、好物と公言こそしちゃいるし、実際嫌いじゃねえんだろうがちゃんと飯を食え、飯を。あいつは自分を粗末にもしないが、自分の考える最低限以上には大事にもしやがらねえのが昔からなんか腹立つ所で。
そんなことを思いつつ廊下を歩いていたら当の本人にばったり出くわした。今日も朝から間借りした研究室に篭って資料の山と格闘してたんだろう、とは手に持った小難しそうな本でわかる。
「――メシ、食ったか」
「……朝は食べたな」
「昼食ってねえの誤魔化そうとすんじゃねえよ」
何を言おうか迷ったのも一瞬で、考えてた事がそのまんま口から出た俺の声には、やっぱり考えてたまんまみたいな言葉が返ってきて自分でもわかるくらいに眉間に力が入って目が険しくなる。不満を追い出すように鼻を鳴らして目をあわせれば、隼人が困ったように眉尻を下げた。
……情けねえ顔すんなって。
思わずポケットに突っ込んでたままのエネルギーバーを衝動的につっけんどんに差し出した。
「やる」
本当はもう少し優しくきちんと渡してやるつもりだったのにと思えば自然目が逸れた。失敗した。
ちらと隼人を伺えば驚いたように身を固くして、いつもは涼やかな切れ長の目を丸くして瞬きしている。猫みてえだなとこんな時よく思う。
「ン」ともう一度差し出せば、ふと隼人の顔が緩んで微笑んだ。ゆっくり差し出された手の平にエネルギーバーを渡して、受け取ってくれた事に内心少しほっとする。
したいからした事だけで礼を言われるのもなんだなと「晩飯は食えよ」とだけ言い残して行こうとすると「リョウ」と控え目に呼び止められた。
「コーヒーでも、飲まないか」
礼は言われてないのにほんの少しだけ声に混じる嬉しそうな色に、なんだか照れそうになって「いいぜ」と返しても隼人の顔が見れなかった。
昼下がり、人気も少ない食堂で「これは甘いからな」と隼人はわざわざキッチンからフィルターやらを取り出して来て、テーブルでコーヒーを落とした。
ゆっくり回し入れたお湯が挽いた豆とフィルターを通って焦げ茶色したコーヒーになって落ちる様子をテーブルに肘ついたまま眺める。こういう時、隼人の長い指が壊れ物を丁寧に扱う様子は嫌いじゃなかった。俺はそんな御上品な真似できねえし、する気も無いが、だから少し面白かった。
ぼんやり眺めてるうちに通りすがった女子集団が俺達にばらばらと菓子を幾つか置いて行った。知らなかったらしい隼人に今日がどんな日か話して。
「……知ってたのか?」
「知らなかったぜ、それ買った後まで」
湯気の立つマグカップを渡されながら聞かれたが、その返事は本当だ。
あんがとよ、と軽く言って口をつければ普段のサーバーのコーヒーより良い香りと濃い味がした。コーヒーはよくわかんねえけど。
「……大体よ――いや、いい」
「?」
いつもの飯の代わりの栄養補給なら適当に包装紙剥いて齧るのに、丁寧に開けてひと口大に折る隼人の手元になんだか恥ずかしくなって言いかけた事をやめた。
「コーヒーに合うだろうから」と一口分差し出されたエネルギーバーの欠片を摘み取れば「ありがとうな」と微笑んで言われて、貰った欠片を握り潰しそうになる。
考えてみりゃ、別に日付けなんかにかこつけなくたって、特別な日でもなんでもなくたって、おれはきっとこれからも渡したい時に渡したいもん渡すし。
受け取ってくれるかなんてわかんなくたってそうしたいからするだけで。
だって、日付けが大事なんじゃなくて、いつだってお前が、なんて。それこそ恥ずかしくって言えたもんじゃねえし。
色々誤魔化すようにぽいと口に入れたエネルギーバーの欠片はチョコレートの味で甘ったるくて、あいつがいれてくれた濃い目のコーヒーがよく似合った。