■ 冬の五半╱ぬばたまの動物というのは人が思うより頭が良い。
息も白む冬の最中、いつの間にやらするりと入り込んだ猫が書き物机の隣に置いた火鉢に背を着け丸まり、ごろごろと喉を鳴らしていることなどもままある。
しかしまあ、逆に時折、人であっても動物より頭がよろしくないのではないか、と思う時もある。
半蔵は暫し席を立った間にどこから乗り込んで来たやら、火鉢の傍で身を縮めていたそれに溜息付きつつ呼びかけた。
「……五右衛門」
「なんだァ?」
「冬の間は山越えが危のうてかなわぬから、滅多に来るなと言うたじゃろう」
熊かと思うて背筋が冷えたわ、と半蔵は帯に忍ばせた短刀を再びしまいながら呟いた。火鉢の前に黒い毛皮の小山が見えた時には本当に熊かと思い一瞬肝を冷やしたのだった。
よくよく見れば熊の毛皮を着込んだ五右衛門で、それはそれで名張からわざわざ雪山か凍る川を下ってまで来たのかと呆れてしまう。
「いやあ、熊みてえに冬眠してるのは性に合わなくてよ」
ははは、と笑って頭をかいた五右衛門の言い草は昨年も聞いた気がすると、半蔵はまたひとつ息をついた。
白狐で仕立てた袖無しの羽織の前をかき合せながら火鉢の傍、五右衛門の隣に座れば、それが何年も前に土産と渡した毛皮である事に気付いてどこか自慢げで満足そうな鼻息が半蔵の耳に届いた。
「お前は白も似合う」
「手入れが大変なのじゃぞ」
「大事に使ってくれてるたぁ嬉しいね」
確かにそれはそうだ、と些か気恥しい気持ちで火箸を取る。不意にぶるりと大きく身を震わせ、小山のような背をちんまりと丸めて火鉢に当たり直す五右衛門の姿に半蔵は小さく笑った。
どれほど丈高く逞しい身体も寒さには耐えられぬらしい。どうにも可愛らしいようにすら思え、ふふっとこぼれた声に、五右衛門が片眉を跳ね上げた。
少しばかり不満そうな顔の後に、いい事を思い付いたとばかりに明るい顔になり、
「あっ、なにをするんじゃお主」
「何もしねえよ」
少しばかりの炭を足す間に、図体の大きさに見合わぬ素早さで後ろに回られ、すっぽりと収まるように抱きかかえられ、こいつも忍びの者であったなとそこだけは冷静に半蔵の頭をよぎった。
「こうすりゃあったけえ」
「二人羽織か」
「やりてえなら羽織持ってくるが?」
「そうでは……はぁ」
頭の上から聞こえてくるのんびりとした声に半蔵の力が抜けた。唐突にこういった事をするのもこの男ではあるが、たまさか相手を間違えていやしないかと思わないでもない。
衣越しにもじわりと伝わる体温。胸元に近い耳を澄ませば力強い脈動さえ聞こえそうな距離。
「わしが女子(おなご)であれば寄り掛かりもしたろうがな」
さくりと火箸を灰に刺して遠回しにも聞いた言葉は何処吹く風と流されて、もぞもぞとした後ろの動きの後にゅっと突き出された太い腕が断りも無く五徳の上に網を置き干し魚を炙り始めた。
まったく人の話を聞いているのかわかりはしない。
確かに断りもなく火鉢を使われようが、怒らないし許すがわかっていてそうされているのもなにやらむず痒い。
この寸刻で何度目ともわからない息をついて、小腹でもすいているならなにか出そうかと少しばかり考えている半蔵の目の前に炙った干し魚がぬっと突き出された。
「食うか?」
「……お主、わしにこれを食わせたかっただけじゃろう」
そう言ってやれば「へへ」と幾分照れたような声が頭の上からした。名張の子らと川でとったんだけどよ、などと。
聴きながら大きな骨を取り身を割いて、まだうっすらと湯気の立つ半分ほどを五右衛門に渡す。
「頭から全部食っちまって良いのに」
「持ってきたお主の分け前じゃ」
「はあ、お前のそういうところがよぉ」
差し出された半身を大口でぱくりと頬張り、くぐもった声で五右衛門が言う。顔は見えずとも、話す度、体躯に響く動きを背中に感じながら半蔵も塩味の残る魚を齧った。
「なあ、半蔵よ」
不意に伸し掛る身体の重さに半蔵がわずか眉を寄せる。むさ苦しい。が、振りほどく程には嫌ではないから困る。重い身体、頭蓋のてっぺんに頭を乗せて。
「お前だからこうしたいんじゃねえか」
わかんねえ奴だなぁ。
そうして低く震える喉に、わかってたまるか、と半蔵は目を伏せた。
顔にまで五右衛門の体温が移るような、太陽に照らされた後の熱さが移るような気がしていた。
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半蔵の髪は不思議といつも綺麗だった。
――いや、俺にはそう見えた、ってだけかもしんねえが。
白い顔にさらさらと落ちる前髪を払うのが、なんだか高貴なお公卿さんの御簾を覗いてるみたいで妙に胸が跳ねた。
蒼く艶がかった長い後ろ髪が風に遊んで鳥の翼みたいに広がるのは、何回見ても目を見張った。広い草っ原の真ん中でスっと立ってのそんな姿には、そのまま飛んで行っちまいやしねぇか、なんておかしな心配までしたくなるくらい。
だから、俺にひと足遅れて元服すると聞いた時には、そんな姿もこれで終いかと惜しんだし、お前が前髪を残してくれたと聞いた時には嬉しくて。
「お主も酔狂よな」
ぽかぽかと暖かな日差しが落ちる縁側に腰掛けた半蔵の背中で、胡座をかいた五右衛門がその長い髪を手に取っていた。
余人より一回り大きな体躯に見合って岩のようにゴツゴツとした大きな手が、精緻な飾り彫刻の入った柘植櫛をちょんと摘んで丁寧に髪を梳く。
「そんな酔狂な奴に付き合ってくれるんだから、お前もよ」
何故か五右衛門は昔から半蔵の髪の毛が気に入っているようで、時折こうしたがる。にこにことなにやら嬉しそうであるし、断わる理由も特に無く、半蔵は好きにさせていた。
「俺の髪はちぃとも収まりゃしねえから、お前の聞き分けがいい髪が面白いんだ」
「……そういう事にしておいてやろう」
戦も無いことだから、と前髪を残したままの半蔵の総髪は女と見紛う程にも長い。髪を切らねばならぬ掟も道理も無かろうとそのままにしたのは、そうして幼馴染が慈しむ顔がこそばゆいながら嫌いではなかったからだとは半蔵は口にはしなかった。
柔らかな日差しと上機嫌な鼻歌、優しく髪を梳かれる感触に、こんな日が長く続けばいいと。
――思っているのは、きっと自分だけではないと、半蔵は静かに目を伏せ微笑んだ。