桜庭薫:ゴキカ:315プロに入所したばかりの薫が書類を提出する話 はじめて315プロに足を踏み入れた桜庭薫は、どこか疑うような目でプロデューサーとなる人物を凝視していた。
「では、こちらの書類にご記入ください」
差し出された用紙は全て薫の方を向いていて、書類の傍らにはボールペンが添えられている。けちをつける必要のない所作だと判断して、薫はプロデューサーとなる人物の指示通りに書類の空白を埋めていく。
「……」
ちらと視線を送ると、正面に座って何かの書類仕事をしている姿が目に入る。手元の書類を見るために伏せられていた瞼がこちらを見る直前に薫は目を伏せて、淡々としたテンポで文字を綴っていく。
書類の記入欄は多かった。待たせているかと視線を送るとプロデューサーとなる人物は書類に目を落として何か考えているらしい。険しい表情を見るに向こうもしばらく時間はかかるのだろう、薫は気にせず自分の書類を書き進める。
長いこと時間が経ったような気がする頃、ようやく書類の全てが片付いた。集中した様子のプロデューサーとなる人物へ「おい」と呼びかけると反応は存外早く、すぐに顔を上げてニコリと笑顔を形作る。
「ありがとうございます! お預かりします」
手を差し伸べながらの言葉に、特別不満はない。
ただ、このまま渡したいとは思わない。
「ゴキカ」
書類を突き出して言えば、プロデューサーとなる人物の顔には疑問が浮かぶ。
「……? ええと……お預かりしてもよろしいですか?」
「そう言っているだろう」
「……では、お預かりしますね。ありがとうございます」
一瞬見えたぎこちなさを洗い流して、薫から受け取った書類に目を向ける。
「御、机の下、と書いて『ゴキカ』だ」
意識が薫から書類に向けられた瞬間をついて、薫は告げる。
「病院では当たり前に使う言葉だ。こんなものも知らないのに僕をトップアイドルに出来るのか?」
「はは……すみません、もっと勉強しますね」
反論するでもなく、深く謝罪するでもない、言葉。
「…………」
これといって不満はない。
だからこそ、苛立ちをぶつけたかったのだと気付いて、薫は顔を背ける。
「謝罪の必要はない。教養はあるに越したことはないという話をしただけだ」
早くトップに連れて行けとは、まだ言いたくなかった。