【1/29とらきば冬まつり】マダマダ・トチュウ【サンプル】 315プロの社用車の窓は少しだけ開けられていた。
夏は盛りを過ぎ、早朝は涼しさが感じられる。半分ほど開けた窓の外に目をやる大河タケルが深呼吸すると肺の中は冷たい空気で満たされて、滑り込んだ涼風がタケルの前髪をそよと撫でた。
「暑かったり寒かったりしませんか?」
「ちょうどいいッスよ」
運転席のプロデューサーの問いかけに助手席の円城寺道流が返事をし、後部座席のタケルはうなずく。窓から顔を離して隣を見れば、牙崎漣はうとうとともう片方の窓辺に寄りかかっているところだった。
(……静かでいいな)
思いながら、タケルは鞄の中から分厚い冊子を取り出した。
映画『アンダーエッジ』のオファーを受けたのはつい先日のこと。ヴォクサーの役のイメージを掴むためにも台本は読み込まなければいけないと、タケルは冊子のページを繰る。
プロデューサーは問いかけたきり何も言わず、寝ている漣はもちろん、道流もタケルも沈黙を守った。
朝からTHE 虎牙道の三人で車に乗り合わせてはいるものの、道流はテレビ番組の収録、タケルは『アンダーエッジ』の打ち合わせ、漣は雑誌の撮影とインタビューと、仕事は三者三様だ。全員の仕事は昼には終わる予定で、二人が午後からどうやって過ごすのかをタケルは知らない。今日はもう、これきり二人と会うことはないだろう。
姿勢を変えるついでに、タケルは漣に背を向ける。車の揺れに体勢が崩れたのか漣は「んご」と寝息を立てたが、タケルの邪魔にはならないので放っておく。漣を完全に視界から外して台本を読むうちにまずは道流の目的地であるテレビ局に到着し、道流は「じゃあな」とタケルに微笑みかけた。
「助手席にタオルを置いておくから、漣が腹を出していたら掛けてやってくれ」
「……そうする」
そこまでアイツを気にしなくていいと思う――と言いかけた言葉を飲み込んで、タケルはテレビ局に消えていく道流を見送った。
「もうすぐ撮影スタジオですね」
「分かった、起こしておく」
膝の上の台本はそのままに、タケルは漣を見やる。
大股開きの漣の寝姿は緩みきっていた。「おい」と呼びかけた程度では漣は目を覚ます気配はなく、タケルは漣の腹を平手で払うように叩いてから「おい」と声を強めた。
「起きろ」
「あァ……?」
髪の毛と同じく色素の薄い睫毛に縁取られた瞳は神秘的な黄金色だが、眉間に皺を寄せて大あくびする姿は年相応。垂れていたよだれを手の甲でぬぐう漣は窓の外の景色を見て目的地に到着したことに気づいて、それからタケルの視線にも気づいた。
「なに見てんだよ、チビ!」
「うるさい。起きたなら早く降りろ――」
手荷物のたぐいを持たない漣は身軽だ。ドアに手を伸ばす漣――タケルの胸に芽生える小さな違和感。思わず漣の手首を掴むタケルを、漣は「ア?」と怪訝な顔で睨みつける。
「何か文句でもあんのか?」
「……」
違和感の正体を探るタケルの視線が漣の姿を走査する。髪や服装はこの後ヘアメイクの手が入るだろうから知ったことではない。頭頂から顔、首、胸、腹と視線を下げるタケルは漣の下腹部に目を留め、それからふいと目を逸らす。
「……何でもない。早く行け」
「ッチ」
漣の返事は舌打ちだけ。
車のドアが乱暴に開けられ、乱暴に閉じられる。あっという間に漣は姿を消し、運転席のプロデューサーは遠慮がちに「出発しますか?」とタケルに尋ねる。
「……ああ」
ハザードランプが消え、車はゆっくりと進みだす。
タケルが車内のミラー越しにプロデューサーの表情を伺うと、プロデューサーはいつも通りの表情でハンドルを握っている。特段の不安も気遣いも見えない表情は、何かあればタケルが相談をしてくるだろうと信頼している証拠だ。そんなところが助かると感じて、タケルは車のシートに身を預ける。
寝起きの漣はズボンの前を膨らませていた――止めようとしたが漣が覚醒するにつれ大人しくなったのだ、とわざわざプロデューサーに報告することはせず、タケルは沈黙を守った。
「打ち合わせの場所は少し距離があるので、休んでいても大丈夫ですよ」
「ああ、分かった」
プロデューサーと短い会話を交わして、流れる外の景色を眺めて、思い出したように膝の上の台本に目を通して。
気を紛らそうとしても、先ほど見た漣の下腹部のものはタケルの頭から離れない。
(誰にだってあることだ)
朝勃ちは当たり前の生理現象で、タケル自身も毎朝経験していることだ。聞いたことはないが(そして聞くことは今後もありえないが)、道流も、315プロのアイドルのほとんど全員も経験しているはずのこと――漣に<ruby>それ<rt>、、</rt></ruby>があることは、当然のことだとタケルは分かっている。
(でも、何か)
陰部そのものを見たわけでもないのに妙な気まずさが胸に残り、それよりも強く、奇怪な空想がタケルの中を埋めていく。
自分のものとはどんな風に違うのか。
色は。形は。毛の感触は。手ざわりは。においは。見たら、触ったら漣の表情はどう変わるのか。
とりとめのない妄想はタケルの制御を離れ、頭の中で架空の漣が動き出す。人を小馬鹿にしたような態度、突っかかってくる言動は記憶の中のまま、しかし姿は想像で組み立てた裸だった。
ステージ衣装のたびに鍛えられた上半身は見ていた。付き合いもそれなりの期間になり、脚の形も覚えている。唯一知らない性器の部分だけは想像の中でも靄がかかったように曖昧で、その輪郭が分からないことがなぜだかタケルを苛立たせた。
「――さん、大丈夫ですか?」
「え……?」
急に耳に飛び込んできたプロデューサーの声にタケルは顔を上げる。気づけば流れていたはずの景色は止まり、運転席からタケルに振り向くプロデューサーは不安そうに眉を下げてタケルを見つめている。いや、と呟いたタケルはいつの間にかシートに預けきっていた身体を持ち上げ、これもまたいつ落としたのか覚えのない台本を拾い上げる。
「着きましたが……どうしましたか? ミネラルウォーターならありますが飲みますか?」
「ああ――」
差し出されたペットボトルを受け取って封を切る。ボトルを握る手に力が入りすぎていたのか飲み口から冷水が滴り、あ、と声が漏れた。
「悪い、シートに」
「気にしないでください。拭いておきますから」
目を細めて微笑むプロデューサー。
幸いにも水は服には飛び散っていない。一口飲むと喉から胃までが急速に冷え、いつの間にか温度が上がっていた手のひらも冷やされていく。
まだ中身の残るペットボトルに封をし、台本もろとも鞄の中に押し込む。車のドアを開ける寸前に気になって自身の身体を見下ろすタケルだが、体に昂りの証はなかった。