私を温めるのは君 重く感じていた湿気を纏う空気は午後になって雨になっていた。雨が次々と打ち付ける窓ガラスは斑のような模様になって外を見ることが出来ない。あっと言う間に「バケツをひっくり返したような雨」だ。
視線を手元のファイルに戻す。資料室から自分のデスクへ持ってきた数冊のファイル。現在追っている事件との関連性を調べるためにピックアップした、古い事件の記録。警察官としての人生も長くなってきたが、未だに多少は気が滅入る。遺体、凶器、血溜まり。几帳面にファイリングされた写真を一瞥し、捜査記録書類を読み込む。
目ぼしい情報がなく閉じたファイルはこれで六冊目。見当違いだっただろうか。次の一冊に手を伸ばした所で捜査一課の部屋がにわかに騒がしくなる。入室してきた彼を認めて、人だかりの中へ向かった。
「敢助君」
「おう、高明。そっちはどうだ」
「これと言う関連は見つかっていません。まだ数冊ありますがね。そちらは?」
「良くねぇな……事件当時が豪雨だったから目撃者が出て来ねぇ。そんで、雨に降られてびしょ濡れになって早々に中断だ」
「上原さんは?」
「着替えがねぇから一旦家に帰るってよ」
「君はなぜ濡れたままここに?せめてタオルで拭かないと」
「風邪なんか引かねぇよ」
「いえ、PCや書類が濡れると困るので」
「お前なぁ」
顰めた顔を近付けて睨んでくる彼の腕を掴み部屋を出る。それについては文句はないらしく、大人しくついてくる。背後では「またやってる」と呆れたような、面白がるような笑い声が聞こえていた。
更衣室。中は無人だった。敢助君の手を離し、ロッカーを開け、念の為備えていた大きめのタオルを取り出した所でカチッと小さな音がした。鍵が締められたのだろう。
ずぶ濡れの敢助君がロッカーの間に設置されたベンチに腰を下ろした。彼の体を支える杖もベンチの上に横たえられる。重そうなスーツを脱ぎ、それも傍らへ。
「替えのスーツは?」
「スーツはねぇな。シャツがある」
私の隣の敢助君のロッカーを開ける。ハンガーに掛けられたシャツと、これは。
「敢助君、新品のパンツもあるじゃないですか。よかったですね」
「パンツまでは濡れてねぇよ」
「スーツの替えがないのでは結局濡れっぱなしじゃないですか。僕の予備のスラックス貸しますよ。上は肩が合わないでしょうけど、下ならどうにかなるでしょう」
「お、悪いな。わっ」
タオルを敢助君の頭に投げるように被せる。座る敢助君の前に立ち、後頭部で髪をまとめる髪ゴムをするりと外すとパタタと水滴がベンチへ落ちていった。ゴムを手首に通してから、タオルを被せた頭を力を入れず柔らかく撫でる。長めの髪をタオルで挟んで水気を移していく。
突然敢助君に腰回りを抱き寄せられた。鳩尾の辺りに濡れた頭を押し付けられる。
「止めてください、濡れるじゃないですか」
「こう言う気分なんだろ」
「違います」
引き剥がして、タオルを肩に掛ける。顔をぽんぽんと拭いてやり、左の傷痕を指先で撫でる。
「左眼が痛むんでしょう?朝から調子が悪そうでしたが、更に低気圧がきつくなってきていますから」
「あー、まぁ…そうだな。まあまあ痛む」
「痛み止めありますよ。市販のものですが」
「貰うわ」
胸ポケットから鎮痛薬のシートを取り出し、手のひらに二錠押し出す。
「何でそんなとこに入れてんだよ」
「僕もさっき飲んだので。はい、あーん」
「はぁ?」
一錠を指で摘んで敢助君の口元へ運ぶ。間抜けな声と共にパッと開かれた口の中に粒を放り込む。続けてもう一つ、と言う所で口が閉じる。
「こら、イヤイヤしないで」
「何ごっこだよ……」
苦い顔をする敢助君の唇にぐいぐいと押し付ける。雨に濡れて湿っぽい感触がする。薄く開かれた唇に親指を押し込んで残りの一錠も口腔内に収まった。
「高明、水がねぇ」
「飲み物は持ってきてないですね。無くても飲み込めるでしょう?」
こちらを見上げる敢助君と視線が交わると逸らすことが出来なかった。冷えた身体に反して彼の口の中は温かかった。額に張り付いた癖毛を払い、両頬を手で包む。悪趣味だ。
私が思わず笑うと敢助君も口角をにやりと歪めて笑った。
上から唇を重ねる。唇は最初から開いている。自分の中の水分、唾液を舌を伝わせて敢助君の中に流し込む。ぬるりと絡む舌の間に錠剤の異物感。その異物を奥へ押し込むと、唇を合わせたまま彼の喉がゴクリと音を鳴らす。
腰に回された腕が降りてきて、私の左の腿を優しくさする。銃創で出来た溝を布越しになぞる。
「薬を飲むほど痛むのか?」
「少しだけ。痛み止めを飲むほどではないですよ。ただ痛みを気にして資料を見るのが嫌だっただけです」
「ふーん……見たい、脱げよ」
「嫌です。こんな所で何考えてるんですか」
「更衣室なんだから脱いでてもおかしくねぇだろ」
「なるほど?」
敢助君の右隣に腰を下ろす。ベルトとファスナーを寛げて、一瞬腰を浮かしてスラックスを下ろす。左脚だけすべて抜く。足先に黒い靴下だけを履いた間抜けな脚を上げ、敢助君の右腿の上に無遠慮に乗せる。
「よく見えますか?」
「丸見え」
素肌に浅黒い指が這う。冷たい指先がくすぐったい。
未宝岳の一件から数ヶ月経った今でも、敢助君はこの傷を気にしている。体を重ねる時もよくそこに口付けを落とす。何かを誓うように。その真意を聞いたことがないのは、彼の気が済むなら好きにしてくれていいと思っているからだ。
物憂げに目を眇めている時もあれば、愛おしげに瞳を揺らすこともある。私からすればこんなもの、特に意味などない。たまたまそこに傷が出来ただけ。
それでも、彼がそこに何かを感じるなら。それは愛のしるしと言えるのかも知れない。
「敢助君」
「ん?ン」
釘付けになっている敢助君をこちらに向かせて、もう一度キスをする。今度は唇を合わせるだけ。
「んだよ、やっぱりその気なんじゃねぇか」
「更衣室に入るなり鍵を掛けた君の方でしょう。僕にそんなつもりはありませんよ」
「どこまで?」
「キスまで、五分間」
「……まあ、そうだよな」
「仕事中、職場。当たり前です。勃起しても責任取りませんから、ご自分で処理してから戻ってくださいね」
「お前のは俺が責任取ってもいいぞ」
「お断りです」
唇を重ねながら彼の濡れたシャツを脱がし、冷えた身体を温めるように抱き締める。
窓のない壁に囲まれたこの部屋に雨の音は聞こえない。しかし夢中になるのはまた後で。ドアの向こうの足音耳を澄ませながら、熱を持った息を吐く。傷の痛みはもうない。
君の熱を感じられれば、すべてが安泰だ。