「ロディ、この夏すごく焼けたよね」
目に入ったロディのすらりと伸びる上腕を見ながら出久はぽつりとつぶやいた。
出久の家に泊まりに来たロディは既にシャワーを浴び終え、すっかりリラックスモードだ。普段腕時計がはめられている手首には、周囲の肌の色とは違うロディ本来の肌の色が残っている。それがくっきりと見て取れるほど、周りの肌が焼けているのだ。
寝る前に晩酌しようぜ、とシャワーを浴び終えたロディが出久の家の冷蔵庫から缶ビールをとってきて、それを出久に差し出したことで日焼けが目に入り、最近感じていたことが出久の口から飛び出したわけである。
「ん? ああ、機体点検のとき今年は特に日差しと照り返しすごかったから……日焼け止め塗ってても限界あったな。コックピットは紫外線対策だいぶされてっけど、外は流石に……」
確かに焼けたな、と言いながらロディが自分の腕を見る。ロディの肩に乗るピノも同じような仕草をするものだから出久は漏らす息に合わせてこっそり笑った。
ロディはソファとテーブルの間に座る出久の隣に腰を下ろし、プシュっと音を立てながら缶ビールのプルタブを引き起こす。それに倣い、出久も同じ音を立ててプルタブをひき開けた。二人の間で、こつんと中身がたっぷり入った缶同士をぶつけ、同時に口に運ぶ。缶ビールと一緒に冷蔵庫からロディが持ってきていたらしいベーコンには、ブラックペッパーとオリーブオイルがかけられ二本のつまようじが突き立てられていた。ロディのこういう手際の良さにはいつも感心する出久だ。
確かに今年の日本の夏は全国的に晴れの日が多かった。日本よりも晴れの傾向が強いオセオンと、そしてその日本を往復するフライトを担当するロディは、今年随分日に当たったらしい。
ロディの言葉から、激しい日照りの中で機体点検をスタッフと一緒にする制服姿のロディを想像する。暑さにへばるピノをきっとポケットに収めながら、自身は汗だくで点検をしていたのだろう。見たことはないけれど、出久にも簡単に思い描けた。
出久の隣では慣れた様子でテレビのリモコンを操作し、ロディがテレビ局を選んでいる。その横顔は酷く涼やかだ。半袖から伸びる腕には程よい筋肉がついている。
「ねえ、ロディはなんでパイロットになりたかったの?」
バラエティ番組に腰を据えることを決めたらしいロディにそう問いかけると、両眉をひょいと上げたロディが顔を出久に向けた。少し驚いたような表情から、いつもの食えない表情へスムーズに切り替えられた。はぐらかれそうだなあと出久は苦笑する。
「なんだよ、一般人にヒーローインタビューのつもりか?」
「ええ、そういうつもりじゃなくて……ロディの夢が叶った今だから、聞いてみたくて。実はずっと気になってたんだ」
日本のバラエティ番組には芸人がたくさん出ている。日本語というのは外国人からすれば随分難しい言語らしく、かなり日本語が使えるようになったロディだが、よく芸人の動画を見て未だに日本語を勉強している。ロディ曰く、言い回しや語彙が独特だし会話のテンポが速いので学ぶことが多いらしい。日本の芸人の漫才をみて笑えるようになったら俺も日本語マスターかもな、なんて以前笑っていたことを出久は思い出しながら、ロディに微笑みかける。
わずかに両眉の間に皺を作ったロディは、そんな出久に小首を傾げた。
「なんだそれ。別に大それた話じゃねぞ?」
「聞かせて欲しい! だってパイロットって本当になるの大変だよね。ちょっと調べただけでお金も時間もかかるし、資格も本当に多い。なんでパイロットになろうとおもったのかなって、なんでそんなに頑張れたのかなって、知りたいなあというか」
話す出久の隣で、ロディが皿の上のつまようじをつまみ、先端についていたベーコンを口の中へ放り込む。同じようなスピードで先が無くなったつまようじを別のベーコンに刺し、肩の上のピノの前に差し出した。ピノも当たり前のようにそのベーコンをつつく。
自身の口の中身をもぐもぐと咀嚼しながら、出久からテレビへ再び視線を戻したロディが独り言のように口から音をこぼした。
「だいたい夢っつってもなあ……叶ったっつーか」
横からロディをみると、下唇がかすかに出ているのに気づく。癖らしいそれにロディ自身は気付いていないようだ。
「んー……」
くぴ、と缶ビールを手に持ち、喉に流し込んだロディが目を伏せ考えるそぶりをする。出久も話の続きがあることを期待しながら缶ビールを手に取った。すっかりアルコールの味にも慣れてしまった自分たちだけど、まだ話していないことがたくさんある。そして知りたいことだって。
そうしてベーコンを自分も食べようと出久が手をテーブルに伸ばしたときだった。
「ピノは、飛べていいなあって、思ってたんだよ」
テレビから流れる芸人の声と、観客の笑い声。その音に混じって、リビングにぽとりとロディの紡いだ言葉が落とされた。
はぐらかさず話してくれることに、出久の肌がぶわりと粟立った。きっと紅潮しているだろう頬をそのままにロディをばっと勢いよく見れば、しょうがねえなとばかりに笑っている。喜びが隠しきれず前のめりになっている自覚はあった。
「常時発動型の個性のくせに、発現して数年はピノ安定しなくてさ。現れたり消えたりって繰り返してたんだ。の、わりに出てる時といったらいつも楽しそうに飛んでてよ」
肩の上に収まる小さな相棒の、もっと小さな額を人差し指でくすぐりながらロディが笑って、そして、個性が安定してピノの発現状態が続くようになったのはオヤジが失踪してからだった、っつーのはまあ別にいいか。なんておどけたようにロディは薄い笑みを浮かべながらつぶやく。その言葉に勝手にちくりと胸を痛ませながら、出久は「そっか」と相槌を打った。
ここはロディのやわらかい部分で、出久が安易に触れて良い場所ではない。それでも、話してくれることが嬉しい。出久は自身の中の矛盾を自覚しながら、ロディの話の続きを待つ。
「そもそもどういうコイツが個性なのか最初はわかんなかったしな」
「ピイ」
「ああ、確かに……ピノの行動とロディの本心がリンクするってどうやってわかったの? 遺伝? いや、そうだったらすぐどういう個性かわかるか。じゃあロディのその個性は突然変異で、」
「おーい、デク戻ってこい」
「あ、ごめん」
「もう慣れてっからいいけどよ……」
「それはそれでもっとごめん」
出久の謝罪にロディが肩を小さく揺らしながら頬を緩めた。ピノもピピピと上機嫌なままロディの肩で鳴いていて、出久もつられるように破顔する。
ソファを背もたれにしながら、ロディがラグに片手をついた。そのまま缶ビールを傾け、テレビを見る。作られた笑い声がテレビから流れ出てくるのを、軽く瞼を下ろしながら眺めて、そうしてロディは静かに口を開いた。
「飛行機に憧れを持ったのがさ、ロロが生まれる直前に行った家族旅行だったんだ。はじめての飛行機にビビる俺に、キャビンアテンダントから飛行機の中で飛行機のおもちゃを貰ってさ。あれ良いサービスだよなあ」
ロディの視線はテレビの中にいる芸人だったけど、出久にはその目に別のものが写っているのがわかった。この土地では珍しいグレーの瞳の光彩がきらりとひかる。
「シートベルトしめてシートに座って、親二人に励まされながらおもちゃの飛行機握りしめて、走り出した飛行機に半べそかいて……そこから内臓が浮き上がるみたいな、重力に逆らうような感覚を経て、ぶわって浮いたんだよな。身体も心も全部から解放されたような感じ、いまでも忘れらんねえ。窓の外みたら、あっという間に地上が遠のいて、雲が俺の下にあって、離陸の時はでてきてなかったピノがいつのまにか現れて大はしゃぎしててさ。こいついつも飛んでるくせに何はしゃいでんだって思ったんだけど、そのときに、ああコイツ俺と同じ気持ちになるんだってわかった。ピノがいつも楽しそうに飛んでたのはピノが出てきたときに俺のテンションがあがってたからってのが種明かしってわけ」
缶ビールを持つ手反対の手を動かしながら、ロディが軽やかにしゃべり続ける。出久にとっていつだってわかりやすくて面白いロディの話は、今日は一段と特別なものだった。
「で、まあ、そこからは単純だよな。空を飛んで、嬉しくて、楽しくて、憧れた」
ゆっくりと片膝を立てたロディが、そこに肘を置いて頬杖をつく。ピノが同意をするようにピイと鳴いたのを、出久は見つめ続けた。
「ピノみたいに俺も空を飛べるんだ! って思ったら、もう絶対にパイロットになる! って考えしかなくなっちまったんだよな」
「なんだかわかるなあ、その気持ち」
「ヒーローサマに同感してもらって光栄だねえ」
「もう、茶化さないでよ」
ちらりと出久を見てくるロディがにやりと笑うので、出久も苦笑混じりにそう答えた。そんな出久を一度笑ってから、ロディは身体を軽く横に傾け、膝を立てた体勢のまま再び口を開く。バラエティ番組で漫才をしていた芸人は別の芸人に切り替わっている。
「オセオンには俺が勤務してるオセオン空港とは別にさ、小さな飛行場がいくつかあって。俺んちの近くにもあってさ。飛行機乗って以来、飛行機に夢中になってる俺をオヤジがよく休みの日に連れていってくれたんだ」
「いい、お父さんだね」
「……そうだな、うん」
懐かしむように、ロディが表情を緩める。細められた目は、穏やかだ。
「連れってくれた飛行場でセスナ機が滑走路突っ走って、ぶわっと風を攫って空に向かって飛んでくのがカッコよかった。形状もまるで鳥みたいで、俺ここでセスナのパイロットになる! って宣言したってわけ」
「なんでその飛行場がいいって思ったの?」
「……笑わねえか?」
ロディはいつだってころころと表情を変える。今度はいつか個性を話してくれた時のようにむずりとどこか居心地が悪そうにするから、出久はそのときと同じように「笑わない」と頷いた。
そうすると、ロディは観念したように口を開いてくれる。それが、どれだけ出久の身体の奥にあるかどうかもわからない心を温めるとも知らないで。
「……家から近い方が親とずっと一緒にいれるって思ったんだよ。そんで、俺がいろんなところに連れてってあげようって……ま、きっかけはそんな感じだ」
きっと、ロディは昔、自分では見えないところへ押しやり、そして見ないようにしていた記憶をいま、出久に話してくれているのだ。幼いロディの記憶は、いなくなってしまった親との記憶と直結している。こんなに素敵な思い出を見ないようにしてきたロディを衝動的に抱きしめたくなりながら、出久はぐっとそれを堪えた。
貰った飛行機のおもちゃは、小さなロディの宝物だったに違いない。きっと出久にとってのオールマイト人形と一緒だ。でも、そのおもちゃを今ロディがどうしているのか聞けなかった。なんとなく、彼の置かれた状況を考えれば、どうなったのかは想像できたから。
夢のきっかけをそうやって話してくれたロディは、ベーコンを再びつまんで一気に缶ビールを煽った。上下する喉仏を見て、出久はハッとする。全然自身のビールが進んでいない。慌てて飲めば随分とぬるくなっていて思わず顔を顰めると、ロディが「バカだな」と隣で笑っている。ロディが笑ってくれるなら、ぬるくてまずくなったビールを飲むのもやぶさかではないなと出久は思いつつ、それでも唇を尖らせた。まずいはまずいので。
そんな出久を一通り笑ってから、ロディは空になったらしい缶を手の先で力なくぶらりと持った。同時にすっと表情が抜け落ちたロディに、出久の心臓が跳ねる。
少し、迷うような表情をわずかに見せてから、ロディは口を開いた。話を、続けてくれるらしい。
「でも飛べたって、ピノもどこにもいけやしなくてさ。あんなに憧れてた空が、遠くて、どんどん煩わしくなって」
「……ロディ」
出久が思わずロディの名前を呼ぶと、ロディの代わりにピノが小さく鳴いた。そのピノは相変わらずロディの肩にちょこんと乗ったままで、出久を見ていた。その表情があまりにも真剣で、出久は少し驚く。
同時に、ぱちりとロディと目が合った。ピノと同様にまっすぐに出久をみてきたロディに肩を跳ねさせると、ロディがくしゃりと笑う。戻ってきたロディの表情に安心しつつ、出久はゆっくり開かれていく形の良い唇をどこか他人事のように見ていた。
「そうやって日々を過ごしてたら、どっかのおひとよしヒーローに強制的に飛ばされたんだよ」
並びが良く、白い歯。その歯を覗かせながら、ロディが薄く笑う。
「それって」
他人事のように見ていたのに、そのロディの表現には覚えがあって。出久の感覚が引き戻される。手に持ち続けていたぬるくなった缶ビールをテーブルに置いて、出久はロディを見つめた。続きが聞きたかった。
出久をまっすぐに見ていたロディは、ふっと眼差しを緩め、視線を再びテレビへ戻した。それでもロディはやはりここではないどこかをみている。きっと、ロディと出久が出会ったあの日に想いを馳せているんだろうと、出久にはわかった。
「抱えられて、訳わかんないくらいビュンビュン飛んでさ、怖くてたまらなくて……空が近かった。しまいにゃセスナ機まで無免許運転しちまってさ。緊張しまくり責任重大、チンピラで底辺を生きる一般人には荷が重いのなんのって」
肩をすくめて、おどけるように、テンポよく。ロディがどんどん紡ぎだす言葉に、出久は大きく息を吸い込んだ。動き続ける、ロディの口はとまらない。
「――……でも、」
出久の吸った息を、まるでロディが吐き出したようだった。ロディの目元が下がり口元が緩む。
「わくわく、したんだよなあ」
それを、出久はなんだか泣きそうになりながら見つめていた。
「飛行機ってさあ、カッコいいんだよな。だって空飛ぶんだぜ」
少年のように無邪気に笑うロディを、見つめることしかできなかった。目頭が熱くなってきて、それを誤魔化すようにして、出久はこくりと頷いた。でも、そんな出久の反応など気にしていないかのように、ロディはテレビを見つめながら話しつづける。
「初フライトが世界を救うためにヒーロー運んで空飛んだってさ、すげえよな。自分でも笑っちまうわ。あんときゃ必死だったから、デクたちが日本帰って、しばらくしてからあの数日を振り返って、夢みてえだったなって震えて。でも、夢で終わらせたくねえなって。やっぱ、自分で、自分の意思で飛びたかった。全部取るって決めたあの日からさ」
この世で一番美しい横顔だと、心の底から思った。
「だから、パイロットになった。大切な人を乗せて、俺が空を飛んで、笑顔にしたかった」
涼しい顔をして、そう語るロディが、出久は心の底から好きだと、そう思った。
「んー、つまりなんていうかさ……夢を持ったガキの頃に想ったふたりはもういねえけど」
ロディがわずかに傾けた首に筋が浮き出る。襟ぐりから見える鎖骨は首筋と比べると随分白い。
「ロロとララ、そんで俺の運転する機体に信頼して乗ってくれるお客さん、あと……あの日みてえなコエー顔じゃなくてさ、ヒーローでもなんでもないただのデクを乗せて、無事目的地に到着して笑わせられたら、」
ふっ、と酷く優しい目をしてロディが笑った。その吐息が随分やわらかくて、次いで向けられた眼差しが穏やかで、出久は息を呑む。
「その時やっと俺の夢は叶うことになるのかもしれねえ」
告げられた言葉が、水彩絵の具を紙にしみこませるようにじわりじわりと出久の胸に浸透して裾野を広げていく。
ロディの夢の一部に、自分がそんな風に携わっていたなんて、出久は思ってもみなかった。嬉しくてたまらなくて、きゅっと喉の奥がひきつって、吐き出した息は熱くて。なにも言えない出久を見て、ロディが肩をすくめた。
「……なァんてな。ほら、面白くもなんともねえだろ」
結局耐えられなくて、ぽろりと出久の頬を涙が転がり落ちた。
ロディがそんな出久に気付いて、眉尻を下げ、わずかに苦みを混ぜて微笑んだ。空き缶を持つ手とは反対の手で、出久の背中をぽんぽんと叩いてくる。すぐにピノが飛んできて、出久の肩に乗り、目に三日月を描いてピイと鳴いた。それでもう駄目だった。涙腺が壊れたんじゃないかというくらい涙がぼろぼろとこぼれて、シャワー後に着替えたTシャツに染み込んでいく。そうなるといっそ面白いのか、ロディがアハハと笑いだした。ひどい。
「おいおい、笑せたいって言ったろォ? なあに泣いてんだよ、デク」
「だ、って、嬉しくて」
「そうかよ」
「うん」
「じゃあ、いっか」
「うん」
もう一本飲もう、と言って、ロディが立ち上がる。軽やかにキッチンへ向かうその背中を見ながら、出久はまだ止まらない涙を手の甲でくしぐしと拭った。
なかなか止まらない涙に困っていると、チュウハイ片手に戻ってきたロディが慌てて「バカ、明日腫れるって」と慌てて止めてきた。お兄ちゃんモードだ、なんて他人事のように思っていると、ついでに用意して持ってきてくれたらしい濡れタオルを顔に押し付けられ、ぶへっと間抜けな声をだし、出久はロディに盛大に笑われたのだった。
今日も今日とて、出久はロディへの気持ちが募る。けど、今日は、何も言わずこのままロディとの晩酌を続けようと思った。なにせ、ぬるくなったビールはまだたくさん残っているから。