なんでも叶えてあげたいの聡実くんの小さい口から覗く前歯、ほんまかわええなぁリスみたいやなぁとかそういうことを考えながら話を聞いていたせいで、言われた意味が一瞬理解出来ずに咄嗟に「なんてぇ?」と声が出た。
自分でも随分間の抜けた声やなぁと思うが、出てしまったものは仕方がない。
聡実くんも「アホやな」というか「なんでちゃんと聞いてないんですか」というか、口に出しては言わなかったが、きっとそういう感情が入り混じった顔をして、出来の悪い生徒に言い含めるように繰り返した。
「やから、キスしてくれたらレッスンしてあげます」
──キス。キスってあれ?俺の知ってるあれか?日本語でいうと口付け、接吻とかそういうやつ。 いやいやいやいやそんなアホな。もしかしたら聡実くんの言うとるキスとかいうやつと、自分の知っているキスはちゃうやつかもしれない。ほら、中学生の間で流行ってるやつで〜歌ったり踊ったりして動画とったりするやつで〜て、そんな訳あるか。
キスと言ったらこの世でひとつしかないだろう。で、俺が聡実くんにそれをしたらかわりに聡実くんが俺に歌のレッスンをしてくれる。へぇ〜そうなんや〜!え、なんで?
聡実くんから飛び出した、文字通り突飛な要望についてしばらく真剣に考えこんでしまったせいで、聡実くんが不安そうにこちらを見つめている。俺は慌てて確認した。
「えーと、レッスン代いうならやっぱり毎回したほうがええの?」
「一応、毎回がええですけど。……でも、狂児さんが嫌いうなら一回だけでもええで、」
「嫌な訳なんないやん!!」
「声でか。狂児さんて声のボリュームを調整できない人なんですか」
聡実くんはしかめ面をしたが、それでもその表情がどことなく嬉しそうに見えたのは、自分の心が汚れているのかそれとも欲目のせいなのか。
「レッスンしてあげてもいいですけど、ひとつ条件があります」
年季の入ったカラオケボックスのソファーに座るなり聡実くんはそう言った。
真面目くさって言うその姿がかわいらしくて思わず吹き出しそうになったが、中学生の提示する条件なんてそう大したものでもないだろう。そう高をくくっていた。が、キス。さすがに想定外すぎた。そんなもの一体誰が想像できるだろう。俺は腕組みをし、天井を少し見上げてから聡実くんの顔を見た。
「毎回火、金に歌教えてもろてキスまでしてええの?」
「レッスン代なんで」
「そうかぁ」
いや、俺はそれでもええけどさぁ、聡実くんはほんまにそんなんでええのん?
俺はええけど、どころの騒ぎではない。正直にいうとご褒美だ。本来なら何十万何百万積んででもしたい。金銭のやりとりが発生するのはいかがなものかと思うが、タダでしていいものでもない。相手が聡実くんなら尚更だ。
もしかして。キスをした現場をおさえて警察に突き出すつもりだろうか。
ここのカラオケボックスにある防犯カメラが全てダミーなのは自分がバイトをしていた頃から変わっていない。防犯意識の低さが心配になる。入り口に「暴力団お断り」の張り紙がしているにもかかわらず昔も今も普通にヤクザ入店させてもうてるし。
しかし防犯カメラがいくらダミーだとしても、今なら手持ちのスマートフォンで動画でも写真でもなんぼでも撮れるだろう。あーそれは確実に捕まるやろな。0対100で俺の負けだろう。ほぼ同意の上とはいえ、なんせヤクザが中学生を密室のカラオケボックスに連れ込んでいる。そこからしてなんの言い訳もできるものではない。その時点でほぼツーアウト満塁だ。実名で新聞にも載るしニュースにもなるし前科もつく。『ヤクザ幹部の男が男子中学生に淫行』という太字の見出しがデカデカと脳裏に浮かんだ。と、同時にしゃあないか、という気持ちにもなる。聡実くんに突き出されてお縄になるなら諦めがつくし、ええ思いさせてもろたんだから仕方ない。
しかし、自分はどうなっても良いが聡実くんが世間から後ろ指さされたりせえへんだろか。そっちの方がとんでもなく重要でとてつもなく心配だ。自分のせいでこの子自身にいらぬ好奇や好色の目を向けられるのだけは我慢ならない。
それか、聡実くんが動画サイトにアップして炎上狙いとか。いやいやいや聡実くんがそんなことする訳ないやん。聡実くんのことまだよう知らんこともあるけど、そういうタイプの子には見えへんし。そういうタイプの子に見えへんいうならレッスン代にキスをねだるような子にも見えへん。
「あの、さっそく今日の分もらってもいいですか?」
当の聡実くん本人はそんな邪な考えなどなにひとつないような澄んだ目をしてまたさらり、と言った。
「え?ああ、せやな」
聡実くんはソファーの上で居住まいを正すと、それはもう、ギュッとか音がしそうなくらいに力いっぱい目をつぶった。眉間に皺がよってもうてる。自分から言うといてそんな必死な顔せんでも、とつい吹き出しそうになった。
なあ聡実くん、ヤクザの前でそんな無防備に目なんつぶったらあかんよ?ヤクザやなくてもこの世には悪い大人がぎょうさんいる。餌を目の前にだされて「いただきます」の挨拶どころか遠慮もなしに頭からガブリと食べてしまうような悪い奴は君が思うとるよりも身近にいる。聡実くんが自覚しているかはわからないが、君はとても可愛くてとても無防備だから、おじさんは余計に心配になる。
聡実くんの瞑ったまぶたのまつげが震えているのを見つめながら、俺は聡実くんの額に手のひらを置いた。すると聡実くんは目をつぶったまま驚いたように肩を揺らした。俺がつい声をだして笑うと、目をつぶったまま聡実くんは「はよしてください」と怒った声で言った。そのまま自分の手の甲に軽く口をつけると「したよー」と聡実くんに伝えた。
聡実くんはゆっくり目をあける。ぱちぱちと二、三回瞬きし、茶色の瞳が開いた。ほんまに綺麗やなぁとその瞳をみていると、眉間に皺がよりはじめた。聡実くんの額においたままの手でその縦線になった眉間の皺をほぐしていると、聡実くんの右手が伸び、俺の手の甲をつねった。
「やーん聡実くん痛いわぁ。力強いんやネ」
「してないですよね」
「したよぉ。手のひら越しやけど」
「それはカウントにはいりません」
「あかんの」
「狂児さんは今のをキスだと思ってるんですか」
「うーん、まぁ判定的には難しいかもなぁ」
「それならレッスンしません」
聡実くんは、む、とまた眉間に縦線を寄せる。
「ごめんごめん。せやけどおじさんも心の準備が必要やねん。いきなり口は緊張するわぁ」
「やくざやのに」
「聡実くんのやくざのイメージてどんななん?」
「やくざやなくても、そもそも狂児さんにそんな純情なイメージ全然ないですけど」
君に対してはおじさん純情やねん、と言いかけたが、さすがに自分でもキモいなと思ってやめた。
自分が生まれて初めてキスしたのは今の聡実くんの歳よりももっと前だった。その時の相手の顔はもう忘れてしまったし、初めての感慨みたいなものもなかった。同じようにセックスもそうだった。それは「なんや、こんなもんかぁ」という諦念に近い。まわりの皆が騒ぐほど、自分にとってその行為は特別でもなんでもなかった。もともとキスにもセックスにも幻想も何も抱いてはいなかったのだが、あまりにも感動がなさすぎて、自分がなにか欠落した人間のように感じた。まあ欠落しているのは確かだが。
それでも性欲がない訳でもなく、そしてまわりも自分にそのような行為を求めていて、お互いのそのたったひとつの利害が一致しては行為にいたること多数。今に至る。
ただ、相手がそれ以上の、もっと精神的な、簡単にいうと愛とか恋とかそういうものを求めてきた途端に心がすん、と静かになってしまう。やはり、自分はなにかが欠落した人間なのだろう。
それがどうだ、今は聡実くんと俺は言ってみれば利害が一致している。聡実くんはキスして欲しいらしい。俺だってしたい。めちゃくちゃにしたい。なのに聡実くん相手にはこのざまだ。したいけどできない。というかしたらあかんやろ、という人らしい感情がある。自分でもよくわからない。
聡実くんはスクールバックを肩にかけなら「じゃあ次は別の場所にしてください。手の甲越しじゃなくて」と言った。
「聡実くんどこがええとかあるのん?」
聡実くんは少し黙って「考えておきます」と言った。
聡実くんはソファーに座るなり「今日はほっぺたで」とオーダーをだしてきた。
「ほっぺたかぁ」と俺は言いながら天井を見上げた。
「なんか不満でもあるんですか」
「ほっぺたはまだ心の準備ができてなくてぇ」
「どんな心の準備がいるんですか」
「顔近くやと緊張すんねん。聡実くんかわええから」
「なに言うてるんですか」
「いっそ足とか靴とかにさせてもろたほうがええかも」
「それは僕が絶対嫌なんでやめてください」
「じゃあ今日は手の甲からさせてくれへん?」
「お願い!」と顔の前で手を合わせると聡実くんは「仕方ないですね」と大御所の先生風情で言う。
聡実くんが差し出した右手を握る。半袖のシャツから伸びる細い腕にはうっすらと産毛が生えていて、その先の少しくびれた手首と子どもの紅葉の手。いや、赤ちゃんの手やん。
しばし聡実くんの手のひらの柔らかさを堪能してから手の甲にちゅ、と音をたててすると聡実くんのほっぺたがぽっぽと赤くなった。
「ー聡実くん」
「はい」
「俺以外とこんなことしたら絶対にあかんよ?ええか?」
おじさんは本気で心配だ。レッスン代だなんだとほいほい安易に自分の肌を他人に差し出してはいけない。どの口がいうとるんやと言われても、これは言わなければならないことだ。自分のようなおっさんだろうが若い男だろうが女だろうがなんだろうが、俺以外の他人が聡実くん相手にこんなことをするのはどうしても許せない。そんな奴がいたらそいつのことを山か海かに沈めてしまうだろう。随分勝手なことを言っているのはわかるが、わかるからといって我慢できるものでもない。
聡実くんはこちらの気など知らぬ顔で「する訳ないじゃないですか。何言ってるんですか」とすっかりいつもの顔に戻っている。
わからない。十四歳てこういうものなんだろうか。
レッスン後、聡実くんを家の近くにおろし、その後ろ姿が団地の奥に入っていくのを見届けてから、煙草に火をつけた。
そもそも。これはレッスン「代」なんだろうか。
キスまでさせてもろて歌も教えてくれる。密室でふたりきり。俺にとって至れり尽くせりすぎる。死期が近いのだろうか。確かに今死んでも悔いはない。あの世があるなら、そして神様がいるならば、人生の最後に聡実くんという存在に会わせてくれてありがとうと神様に礼を伝えよう。そう思ってしまうくらいには好条件が揃いすぎている。俺にとっては利益しかないことだが、一方の聡実くんにとって利益があるとは思えない。俺とキスすることが聡実くんにとって有益?ほんまに?キスが?うそーんヤクザのおっさんと?
聡実くんの考えがわからない。だがそのわからなさがまた聡実くんの魅力に思えた。
フードメニューを開いた聡実くんは真剣な顔をしてどれにするか選んでいる。
「どれにしよう」
「そんな選ばんと、食べたいもん全部頼んだらええよ」
聡実くんはちらりとこちらを見てから「富豪やん」と呟いた。それからもしばし悩んだ末に「ほなチャーハンと山盛りポテトとマルゲリータピザにします」と顔をあげた。
「焼きうどんはええの?いつも頼んでるやん」
「今日給食うどんやったから」
「ほな頼も。聡実くん給食なにが好き〜?やっぱカレー?」
「やっぱってなんですか」
「あ、もしもしチャーハンと山盛りポテトとマルゲリータピザお願いします。はいっはい」
受話器を置いてから聡実くんの方を振り返った。
「いや、カレーてやっぱり定番やん。人気あるし。給食のカレーてうまいよなぁ」
「狂児さんの頃もカレーあったんですか。なんかあの銀色のお皿に入ったやつ」
「俺そんな昭和初期うまれちゃうよぉ」
やがて注文したものが運ばれ、テーブルの上を埋めつくした。
聡実くんは「いただきます」と律儀に手を合わせてからもりもりと食べ出す。このあとお夕飯普通に食べるいうてたもんなぁ。運動部ちゃうけど合唱部ってお腹へるんやなぁ。と俺はポテトをつまみながら聡実くんの良い食べっぷりを堪能した。
聡実くんの小さな口が物を咀嚼していく。給食食べて、リコーダーとか吹いて、国語の時間に朗読して、そういうお口なんやねんもんなあ。とその赤くよく動くちいさな唇をぼんやりと見つめた。
テーブルのものを一通りたいらげ、歌も歌い終わったあと、聡実くんはまたソファーの上で居住まいを正した。
「今日のレッスン代ください」
「今日はどこにしましょうか?」
「そろそろほっぺたいけるんやないですか」
聡実くんの丸いほっぺたを見る。さっきまで食いもんでまるまる膨らんでおもちみたいなほっぺた。かわいい。そら俺だって確かに吸いつきたいよ。だけどなぁ。俺は口を開く。
「なぁ、その前にいっこ聞いてもええ?」
「なんですか」
「なんでレッスン代をキスにしよー思うたん?」
「だめですか」
「だめやあれへんけど不思議やん。物とか金の方がええんちゃう」
聡実くんは少し考えた後にぼそぼそと話だした。
「……この間友達が彼女と初めてキスした言うてて」
「羨ましくなったん?」
「羨ましいいうか、僕したことないな思うて」
「してみたなったん?」
聡実くんは「うん」とうなづいた。
「ほな、彼女とか彼氏とかそういうのがええんちゃう?」
「……うまそうな人のがええかなって」
「うまそうて」俺はつい声をだして笑う。
「それにべつにそんなあせらんと、聡実くんもな大人んなったらなんぼでもキスくらいするやろ」
「あせっとるわけとちゃうけど、ただ」
しばしの沈黙のうち、聡実くんはきゅっと閉じていた口を開いた。
「するなら狂児さんがええな、って思っただけ」
途端に胸がきゅんとした。えっ、なに?俺いま胸がきゅんとしてん?きゅうていうよりもうぎゅん!て感じやけど。うそぉ。初めての感覚に俺は胸を抑えながらソファーにうつ伏せになった。
「えっ?ちょっと、狂児さん?」
「胸が、」
「えっ!?胸って、痛いんですか?どないしよう、店員さん呼ばな、きゅ、救急車、」
慌てて立ちあがろうとした聡実くんを制した。
「聡実くんが可愛すぎて胸がきゅんって痛なってん」
「……立ちあがって損した」聡実くんはさっさとソファーに座った。
「ちゃうねんちゃうねん!ほんまに痛なってん!信じて!」
これはもしかしてもしかすると、本当にそうかもしれない。
俺はよっこらせと体を起こして聡実くんを見た。
「聡実くん。レッスン代払うんは今日で終い」
「え」
「聡実くんになら金で物でもなんぼでも、なんでも欲しいもんあげたいとは思うてるけど、聡実くんとのキスは大事なもんやからレッスン代とかそういうん引き換えみたいなんはちゃうな〜思うて。やからやっぱりレッスン代はレッスン代で別で払いたいねん。やからツケ払いはどうでしょうか」
「ツケ払い。…ってなんですか」
「聡実くんが大人になったらいっぱい払うよ〜てこと」
「狂児さんそれまで生きてはるんですか」
「聡実くん俺のこと何歳やと思うとる?そんなおじいちゃんちゃうで」
「そうやなくて、やくざって早死にしそうやし」
「心配してくれるん?ありがと。でも聡実くんとの約束もあるし死ねへんかなぁ」
「……しかたないからそれで許してあげます。ほな、狂児さん長生きしてくださいね」
その言葉だけでめっちゃ長生きできそう。聡実くんの言葉ひとつで生きるも死ぬも左右されてしまう。
「うん。するする長生き」
俺は自分の指先に口をつけ、その指で聡実くんのやわこいほっぺたに触れた。たったそれだけで聡実くんのほそっこい首筋が一気に真っ赤になった。
「聡実くんいちごちゃんみたいやなぁ」
「……大人になるまでに慣れておきます」
「そんなん慣れんでええよ」
俺もたぶん、君に触れるのは一生慣れないしずっとドキドキしていたい。
世間ではきっとこの感情を、昂りを「恋」とかそういう風に呼ぶのだろう。