きょさと昔話むかしむかし西の国のお山の奥に小さな村がひとつありました。
その村ではいつの頃からか三十年に一度、歌の上手な子どもが鬼に捧げられるというしきたりがありました。
ある年の水張月の頃。
村では日照りが続いていました。皐月の頃に植えた緑の苗もすっかり元気がなくなり、田になみなみと張っていた水も枯れ果て、土は稲妻のようなひびがたくさん入ってしまいました。水張月の名前とはうらはらに、毎日お天道様がさんさんと照りつけます。
村の年寄りたちはその様子を見てため息をつきました。
これは鬼の祟りだ。今年も鬼のところへ子どもを連れていかねばならん。難儀なことだ。そう囁きあったのです。この年は前に子どもを捧げてからちょうど三十年目だったのです。
そうして鬼への捧げものとして選ばれたのは、十四になったばかりのさとみという男の子でした。
さとみは村で一番美しい声をした子でした。毎年の夏祭りでは歌を披露して村人たちを楽しませていたのです。さとみが歌うと山の奥に住んでいる鳥も「ケーン」と答えて鳴いたのです。
両親や兄と別れるのは悲しかったですが、村のためと気丈に振る舞い、さとみは鬼のところへ行くことになりました。
鬼の住む屋敷はお山をふたつ越えた先にあります。さとみはお馬に乗せられて朝早く村を出ました。お馬は、かっぽかっぽと歩を進めます。さとみはそっとうしろを振り返ると村は遠く小さくなり、すっかり見えなくなっていました。
休み休みしながら谷を下り、峠を越えしていきました。村を発ってから二日目の夕暮れ前、鬼の住む大きなお屋敷にやっとたどりつきました。鬼のお屋敷にはそれはそれは立派な門が建っていました。
「ここが鬼の住むお屋敷だよ」
「堪忍なさとみ」
そう言いながら、村の大人達はさとみを残して帰って行きました。
大人達は何度も何度もさとみを振り返り振り返りしていましたが、やがて小さく、すっかり見えなくなってしまいました。
さとみは門を見上げます。分厚い門はぴったりと閉じていて、さとみの力くらいではびくともしそうに見えません。
どうしたものかしらと思いながら、さとみは「ごめんください」と小さな声で呟きました。すると門はぎいいときしんだ音を立てて左右に開いたのです。
さとみは驚いてその場に尻餅をついてしまいました。
門の奥から鮮やかな模様の入った羽織と着物を着た大きな鬼が一匹、さとみの側に近づいてきました。さとみは恐ろしさのあまり動けません。
よくよく見ると、鬼の肌には着物の柄と同じくらい、それ以上に鮮やかな模様がびっしりと入っていました。
「あら、かあいらしい子ぉが来たなあ」
鬼の低い声がうわんと響きます。
そして鬼はしゃがむとさとみの顔を覗き込みました。
「ボクお名前は」
「さとみ、です」
さとみは震える声で答えました。
「さとみくんかー。声もかあいらしなあ」
鬼はひょい、とさとみの体を持ち上げるとそのまま肩に乗せました
「さとみくん腹へってるやろ。お夕飯食べよー」
勇気を振り絞ってさとみは鬼に話しかけました。
「鬼さん、」
「きょうじでええヨン」
「きょうじ、さん?」
鬼にも名前があるのだと、この時さとみは初めて知りました。鬼はみんな同じような怪物だと村の大人達に聞かされていたからです。
広い屋敷の中には他にもたくさんの鬼がいました。長い長い廊下を歩いていると、様々な鬼がきょうじに話しかけます。
「なんやきょうじ。そん子どもどっから攫ってきてん」
「ちゃいますて、ほらなんや山の向こうの村の人間がいつも置いてくあれですやん」
「ああもうそんな時期か。早いなあ」
また別の鬼達はきょうじを見ると一斉に「きょうじさんおつかれさまです」と頭を下げたりしたのです。しばらく行くと広間につきました。この一部屋だけでさとみの住む村がすっぽり入ってしまうのではないかしらと思うほどの大きさでした。
「ほらさとみくんここ座り」
そう言ってきょうじはさとみを自分の隣に座らせました。
目の前の大きな卓には、今まで見たこともないご馳走がずらりと並んでいました。
きっとお腹にこのご馳走を詰め込んでから鬼に喰われるのだと思うと、さとみは小さな体をさらに小さく縮こめました。ですが目の前のご馳走からはいい匂いがただよっていて、思わずきゅうとお腹が鳴りました。それを聞いてきょうじは笑います。
「さとみくん好きなもんどんだけでも食べや。おかわりもあるよって」
ほらほらときょうじに促され、さとみはおそるおそる一番近くにあった、白いもちもちとしたお饅頭を手にとりました。
「いただきます」
ひとくちかじるとほかほかと湯気がたちのぼります。中にはぎっしりと餡が詰まっていました。村でもお饅頭は食べたことはありましたがこんなおいしいものは初めてです。
「うまい?」
きょうじの問いかけにさとみはうなづきました。
他にも野菜や牛の肉を油で揚げたものや、卵をふわふわに焼いた物。あまい白い飲み物など、初めて見る食べ物ばかりでした。そしてどれもとびきりおいしかったのです。
なかでもさとみがいちばん気に入ったのは、卵と野菜と米を油でぱらぱらに炒めた物でした。それはたいそうおいしくて、皿にこんもりと盛ってあったものをすっかり平らげてしまいました。きょうじはさとみの食べる様子をにこにこしながら見ています。きょうじは黒い蜜のかかった食べ物を食べていました。
「なあさとみくん、お夕飯食ったら俺にお歌教えてんか。さとみくんみたいに綺麗な声の子ぉやったらお歌も上手なんやろ」
「歌、ですか」
「そ。今度なーお披露目会があってな、どべけつには罰があんねん」
「ばつ、」
鬼の罰とはどんな恐ろしい罰なのでしょう。さとみは震えあがりました。
「アニキは天狗んとこに歌習いに行きよったわ。天狗のとこなんよう行かれへん」
「あにきとはきょうじさんのあにさんのことですか」
「ええ?まああにさんっちゃあにさんかなあ」
あにさんと聞いて、さとみは故郷の村に残してきた六つ違いの兄のことを思い出したのです。
途端に家族や村が恋しくなって、さとみの大きな目からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちました。
「さとみくん、泣かんで」
きょうじはそう言ってさとみの頭をなでたり背をさすったりしますが、いっこうに涙は止まりません。きょうじは泣き止まないさとみを抱え上げると、着物のふところにすっぽりと入れ、ぽんぽんとあやすようにしたのです。ひっくひっくとしゃくりを上げながらさとみはきょうじに言いました。
「ぼくのことを食べてええですから、どうか村に雨を降らせてください」
きょうじは驚いた声をあげました。
「ええ?俺そんな力ないよ?」
今度はさとみが驚く番です。
「やって、鬼さんは雨を降らせられるて」
「なんや知らんけど、昔っから村の人間みーんな俺らん家ん前さとみくんみたいな子ども置いて行きよるねん。最初は捨て子なんかな思てたけど、なんや俺らが贄よこせ?とかそんな話んなってるん?やけど俺らいっぺんもそんなん頼んだことあれへんのよ。ほんで毎回うちに来た子どないするかなーて迷ってんねん。村に帰したら鬼んとこから逃げよった思われてなんやひどい目にあわされてもうても可哀想やなあ思てそれもできひんからな。やから都に連れてってな仕事みつけてやってん。都ん人間は鬼言うてもあんま怖がらへんからな。あ、仕事いうても人売りとかそういんちゃうからな。もうちょい固いお仕事よ。派遣みたいなんもうちやってるから」
ところどころ難しい言葉がでてきてさとみにはよくわかりませんでしたが、とにかくきょうじが雨を降らせられないのはわかりました。
だけれど雨を降らせてもらえないなら困ったことです。村の人達も困ってしまうでしょう。すっかりしょげてこうべを垂れてしまったさとみを見て、きょうじはうーんと唸りました。
「まあ、降らせられんこともないけど。ほんなら龍のアニキんとこに頼みに行くか」
「りゅう?」
「雨の神さんと龍のアニキは仲良いからな。聞いてくれはるやろ」
そう言うときょうじはまたひょいとさとみを肩に乗せました。広い屋敷の中のいくつかの座敷の奥、ひとりの鬼があぐらをかいてぷかぷかと煙管をふかしていました。
「お、なんやきょうじ。そん子どもどないしてん」
「二つ向こうの山奥の村の子です。また連れてこられたんですわ」
「あーいつものやつか。坊、名前なんて言うん」
「さとみです」
「ところでアニキ頼みがあるんですけど、この子の村に雨降らせてやってくれませんか」
アニキはしばらく黙ってきょうじとさとみの話を聞いていました。
「おねがいします」
全部話終わるとさとみは三つ指をついて頭を下げました。
「なんや坊んとこ村の田んぼがひたひたになったらええんやろ」
「はい」
「飯食われへんのが一番しんどいからよってなあ」
そう言うとアニキは羽織と着物を脱ぎました。アニキの胸から背中には立派な緑色の龍が一匹描かれていました。
「おい聞いとったやろ。ちょお神さんとこまでひとっ飛び使い頼むわ」
すると鬼の体に描かれていた龍がずるりと這い出てきたのです。
龍はみるみる大きくなり、部屋いっぱいの大きさになりました。
頭を擦り付ける龍に、アニキは二言三言何やら話をすると、龍は窓から東の空に飛んでいきました。
次の日、さとみはきょうじに連れられてお屋敷の天井階にあがりました。
東の空を見上げると、アニキの龍よりももっと大きな白い龍がすうっと現れたのです。そしてお屋敷の空の上をくるくると三回まわりました。それから西の方角へ飛んでいくのが見えました。
きょうじはさとみを肩車をすると、綺麗な模様の入った筒を手渡しました
「さとみくん、それ覗いてみ」
その筒は遠眼鏡と言って、遠い場所が近くに見える不思議な筒でした
さとみが筒を覗いてみると、西の空に霧のような白い雲がどんどんと広がり、雨粒がばらばらと落ちているのが見えます。白い雲の上では雷様が太鼓をどんどんと叩いていて先程の白い龍といっしょになにやら楽しげに歌って踊っています。
「雨の神さんしばらくあちこち旅してはっててな、すっかり雨ふらすん忘れてしもてたみたいやねん。しばらくはちゃんと面倒みるよって安心しや」
これで村の田んぼは秋になったらたくさんの穂を実らせることができるでしょう。
さとみは胸をほっと撫で下ろしました。
「きょうじさんありがとうございました。お礼といってはなんですが僕のこと食べてください」
「さとみくん、なんでそんな食べられたいん」
「やって鬼さんはみんな人間を食べはるんでしょう」
「俺ら人間なん喰わんよ。人喰ったことあれへんけど牛のが絶対うまいやん。人間喰いよるのは森に住んでるたちの悪いチンピラやで。あいつら見境ないからな。さとみくんはひとりで森の方なん行ったら絶対にあかんで。あぶないからな」
村の大人たちから聞いていた話とずいぶん違います。鬼は女子どもを喰い、村を荒らす恐ろしい生き物だと聞いていたからです。
「それよりさとみくんお歌教えてんか」
きょうじはさとみを膝に乗せました。
実はさとみは村人以外に歌を聴かせるのは初めてのことでした。しかも相手は鬼なのです。さとみはどきどきしながら、すうと息を吸いました。さとみの美しい歌声が屋敷の中に響きます。
すっかり全部聴き終わったきょうじはうっとりとしながらさとみに話しかけました。
「さとみくん、いつも夏のお祭りの時にうとうとったやろ」
「なんで知ってはるんですか」
数年前の夏の夜の頃。山をおりたきょうじはさとみの村近くを通りかかったことがあるのです。
その時にとても美しい歌声を聞きました。なんて美しい声のこどもだろう!きょうじはしばらくその場から動けなくなりました。そしてそれからきょうじは毎年夏になると山を降り、村の近くまで来てその歌声を聴いていたのです。
「あれはさとみくんやったんやなあ」
そう言って嬉しそうにきょうじは笑いました。
その時ケーンと一際高い鳴き声がしました。
さとみが驚いていると、きょうじが羽織と着物を脱ぎました。するときょうじの背中から美しい鶴が一羽、ひょっこりと顔を覗かせました。
「アニキは龍やけど俺には鶴がおんねん。さとみくんの歌聞いて嬉しくて鳴いたんやな」
村の夏祭りで山の奥から聞こえてきた鳥の鳴き声も、実はきょうじの鶴だったのです。
そして鶴はさとみにすりすりと寄ってきました。
その日から毎日さとみはきょうじの膝に乗って歌を歌いました。
その歌声はお屋敷のなかにもよく通り聴こえ、鬼たちもうっとりとその美しい声に耳を傾けました。
さとみはきょうじといつも一緒に過ごしていました。
ぬかるんだ道できょうじはさとみのからだをひょいと背負い、さとみの手や足が汚れるときょうじは桶に水を汲んできては手ずから洗ってやりしました。食事の時も風呂に入る時も朝起きてから晩に布団に入るまでずっと一緒にいるのです。
屋敷の鬼たちはきょうじが甲斐甲斐しくさとみの世話をするのがおかしくて仕方がありませんでした。
ある日のこと。いつものようにさとみはきょうじの膝の上で歌をうたっていましたが、急にこんこんと咳払いをしました。一度出た咳はなかなかとまりません。
「さとみくん喉痛いんか」
きょうじは心配そうに聞きました。
ここ最近、毎日歌っていたので喉を痛めてしまったのかもしれない。そう思い、さとみは少しの間歌うのをやめましたが、それでも一向に治りません。それどころか日に日に声はがさがさとまるで古い紙を擦り合わせたかのように掠れてしまったのです。
こんな声ではもう高い音のある歌も歌えません。
さとみはすっかりふさぎこんでしまいました。
お屋敷のなかは静かになり、鬼たちもみんなさとみのことを心配しました。
ある夜中。さとみがふと目を覚ますと隣で寝ていたきょうじがいません。
布団を出て、ふすまの隙間から明かりの漏れている部屋をそっと覗くと、そこにはきょうじと、鬼達から「くみちょう」と呼ばれている鬼が、ふたりでなにやら真剣に話し込んでいました。
さとみはそうっと聞き耳を立てました。
「あの子の喉が…」
「歌も歌えんようなって…」
「それなら都に…」
とぎれとぎれに聞こえるふたりの会話を聞き、さとみは思わず声を上げそうになりました。以前にきょうじから聞いた、都に連れていかれた子と同じように自分も連れていかれるのだと思ったのです。
さとみは泣きながら屋敷を抜け出すと、裸足のまま暗い森に駆け込みました。
大きな木の洞に座り込むと、そのまま俯いてしくしくと泣きました。
都でどんな仕事をするのだろう。なにより、あんなにおそれていた鬼のきょうじと離れてしまうのが今は悲しくて悲しくて仕方がありません。
ぽろぽろと涙をこぼしていると、すぐそばから獣の荒い息が聞こえます。
さとみがびっくりして顔をあげると、暗闇にたくさんの目が光っていました。
そこには頭は狼、体は人間をした化け物が、みっつよっつとこちらを見ていました。
それは以前きょうじから教えられた森に住み人を喰うという「ちんぴら」でした。
「うまそうな人の子がいるぞ」
「肌もすべすべでうまそうだ」
「おれは腕をもらおう」
「ならばおれは脚をもらおう」
「腹を裂いてなかをもらおう」
鋭い爪がさとみの着物を引っ掛けびりびりと破きました。
あっという間に着物はばらばらになりさとみは裸になってしまいました。生暖かい息が肌にかかり、ぞわぞわと粟立ちます。恐ろしさのあまりさとみはがたがた震えながら、「きょうじ、」と名前を呼びました。
するとその瞬間、一羽の鶴が狼の顔をめがけてものすごい勢いで飛んできたのです。
鋭いくちばしが狼たちの頭をつつき、強い足の爪が体をばりばりとひっかきます。
「あいてて!なにしやがる」
鶴はケーンとひときわ高い声で鳴きました。するとすぐに木々の奥からきょうじが飛び出してきました。
「さとみくん!」
「きょうじさん」
「さとみくん良かった。ケガしてへんか」
きょうじはさとみの体を抱きしめると、すみずみを確かめました。
さとみの太ももには着物をはがされた時にできたひっかき傷ができていました。その赤い傷をきょうじはぺろりと舐めます。
「かわいそうに。痛かったやろ。お家帰ったら手当しよな。ちょおここで良い子にしててや。すぐ終わらすから」
そう言ってきょうじは自分の羽織をさとみに被せ、くるりとくるむと、丈夫な太い木の枝の上にそうっと乗せました。
振り返り、ちんぴらを見るきょうじの目は、いつものまっくろい色ではなく、暗闇の中でギラギラと紅く染まっていました。
森の闇の奥からぞろぞろと鬼たちが現れました。ちんぴら達は鬼の力には到底かないません。あっというまに縄でぐるぐる巻にされました。
きょうじは手下の鬼に「簀巻きにして蛇ん谷に放り込んどけ」と言いました。
蛇の谷に入れられたものはあっという間に蛇の餌になるのです。ちんぴら達はガタガタ震えて赦しを乞いましたが、そのまま鬼達につつかれながら連れて行かれました。
「さとみくん。お待たせ。ぜーんぶ終わったよ」
そう言ってさとみは枝から下されました。
「さとみくんどないしてんこんな夜中にひとりで抜け出してからに。あぶないやろ」
「ごめんなさい」
またさとみはしくしくと泣き出しました。きょうじの首にだきついたままさとみは言いました。
「僕のこと都に連れてくん?」
するときょうじはびっくりした声をあげました。
「ええ?なんで?」
「やって、ぼくの声変わってしまったし。もう歌も上手に歌われへん。僕、都で仕事するんやないの」
「連れてきなんせんよお。まあさとみくんが観光したい言うならいつでも連れてくけど。うまいもんもあるしなあ。やけどさとみくんはここでずっと俺と一緒に暮らすやんか」
「ずっと?」
「それともさとみくんは村帰りたいか?」
悲しそうな顔できょうじは言いました。
村、と聞いてさとみは懐かしくなりました。両親や兄、友達の顔が浮かびます。みんな元気だろうか。だけどさとみは首をふりました。
「僕きょうじとおりたい」
それを聞いて、きょうじはさとみをぎゅうぎゅうと抱きしめました。
「さとみくんの喉なあ、都のお医者さんにみてもらお思っててな。組長と相談しててん」
次の日、都から腕利きと評判の医者がやってきました。
さとみの足の傷口に薬を塗り手当をしたあと、今度は喉をみます。
ぴかぴか光る銀色のヘラで喉の奥を覗いたり、手首を握ったりいろいろと調べたのです。隣できょうじが心配そうに聞きました。
「先生、どうですか」
「これは声がわりですなあ」
「こえがわり?」
「人間の子どもは大人になる時に声が高い音から低い音へ変わるんですよ。成長の証ですな。なに、病気なんぞじゃありませんから安心なさい」
「なんや〜良かったわあ」
お医者さんが帰った後きょうじはにこにことさとみにいいました。
「よかったなあさとみくん病気やあれへんて」
ですがさとみはやっぱりしょんぼりしたままです。
きょうじはまた心配そうにさとみの顔を覗き込みました。
「さとみくんどないしてん。まだどっか悪いんか」
「病気やあれへんけど、でももう高い声では歌われへん」
「高い歌やなくてもほかのん歌えるやん」
さとみは眉尻を下げながらきょうじを見ました。
「歌、上手に歌われへんのに僕ここにおってええの」
「ええよ。あたりまえやん。大人になってもずーっとここにおってな」
「ほんまにええの?」
「ええよお」
そういってきょうじはさとみの口をちゅうと吸いました。
さとみはびっくりしてきょうじを見ました。なぜだか胸もどきどきしています。
そのどきどきはここに初めて連れてこられた時とも、きょうじの前で初めて歌を歌った時とも、ちんぴらに襲われた時とも違うどきどきでした。
「きょうじさん人間は食べへん言わはったのに」
「さとみくんは特別やねん」
ぼくのこと食べたくなってしまったんやろか。食べられるのはとても怖いけれど、きょうじが食べたいと言うのなら仕方がない。さとみはそう思いました。
「きょうじさんになら食べられてもええよ」
さとみがそう言うときょうじは今度はさとみの頬をちゅうと吸いました。
「もうちょいさとみくんがおにいさんなったらな」
「僕も鬼さんなるの?」
不思議そうに言うさとみを見てきょうじは声をあげて笑いました。きょうじの背中の鶴もケーンと嬉しそうに鳴きます。
それからさとみは村にあてて、手紙を書きました。
鬼の屋敷で元気で暮らしていることと、そしてもう子どもはつれてこないようにということと。手紙はきょうじの鶴が咥えて持っていきました。
それからもふたりはずっとずっと幸せに暮らしましたとさ。おしまい。