⑩バランスを取る必要がある。
それまで休日の朝、もしくは日中に現れていたジュウォンはあの日以来判で押したように休日前の夜に訪れる様になった。仕事を終えこの家に着くのは大体ドンシクがベッドに就いた後だ。
なるべく音を立てないようシャワーを浴びた彼がそっと毛布を捲り、向けられた背を抱きかかえ、うなじに口づけ、耳の後ろに鼻を入れ深く息をする。毎回判で押したような一連の行動をドンシクは毎回寝たふりで受け入れる。
そしてこの時間が何より至福な事に後ろめたさを感じている。
うら若き青年の休日の始まりから何もかもを独占している。人道的に見て喜ぶべきではないのだ。
ジュウォンのこれは依存や執着に近い。
分かっていながら解放するよう誘導してやれない自分もまた。
次第にドンシクの日常を大きく占めるジュウォンの存在が恐ろしくさえあった。
いつか彼を失う時、自分がどうなるのか、想像するだに右の腿が突き刺す様に傷んだ。
このままではいけない。何とかしなくては。
安全弁を開くには第三者が必要だと考えたドンシクは久しぶりにソウルの街を訪れた。真夜中の繁華街を歩くのはミンジョンを迎えに行ったあの時以来かもしれない。
広域捜査隊から異動する頃は何度も飲み歩いていた。
眠れない夜、都合良く気を紛らわせてくれる相手はいつだって容易く捕まった。
そうして今夜もカウンターに着けば元から約束でもしていたかの様に数名の候補が現れた。
ドンシクは髪や体型がジュウォンに似た男を選んでしまった事にひっそりと俯き苦笑いをする。
中身のない会話を交わしながら腹の探り合いは容易い。見つめ方、俯き方、カウンターにもたれて肩をすくめたり、どう笑うか、息のつき方、駆け引きは釣りに良く似ている。泳がせて、引く。男は身を乗り出し間合いを詰める。この手練手管を無意識の内にジュウォンに使っていないと言えるだろうか。巧妙に手繰り寄せて、繋ぎ、逃がさないようとどめて置く。
河岸を変えようと店を出る頃にはドンシクはもう当たり前の様に男の腕を纏うように巻き付けさせている。
エレベーターでなく薄暗い階段を選ぶ。
踊り場の壁に柔らかく押し付けられる。
秘密めいたクスクス笑いと覆いかぶさる様な口づけ。
さっき飲んでいた物の味がする舌をすんなりと受け入れて絡める。
遊び慣れている男のキスは上手だ。ジュウォンよりもずっと。
腰を抱いていた手が服の裾から直に背中を滑る。
すんなりと押し付けられる腰。太腿がするりと割って入って押し上げる仕草をする。
心地良いはずの全てはドンシクを叩き落とす様に絶望させた。
ただ一つ。この男がジュウォンじゃない。
それだけで何もかもダメだった。
男の胸を押し戻すその眼差しはただただ力なく乾き切っていて、察しの良い男はこれ以上無理強いする事もなかった。
そうして建物を出た路地はもう夜よりも朝に近い。
「ドンシガヒョン」
聞くはずのない呼び名に肩が震える。
そこにいたのは久しぶりに見るジフンだった。
数人の同世代らしき連れはすっかり出来上がっていて今にも眠り落ちてしまいそうだった。
「とハン警衛」と言う言葉を飲み込んだのは顔を見れば明らかだった。
青く薄れ始めた闇とネオンの影、男はなおさら似て見えただろう。
「良い年して夜遊びか。早く帰って寝ろ。また昼過ぎまで寝ているとジファに蹴られるぞ」
そう言ってシッシッと手を振って別れた。
人の事を言えた立場でもないがジフンは無闇に詮索する野暮でもなかった。
理由を尋ねた所でドンシクがあの子を迎えに来た可能性は完全にない。
最後まで「また」を持ちたがった男とも適当に別れて一人駐車場の車のドアを閉める。
車の匂いと訪れた静けさに安堵のため息をつく。
大した量ではないが呑んでいるし代行を呼ぶ気分でもない。酒が抜けるまで待とうとシートを倒して寝返りを打つ。
目をつぶって自室のベッドを思い出す。
毛布の隙間から外気が入りスプリングが沈む。
ふわりと温かい体に包まれる。
家のシャンプーや石鹸なのに彼の匂いになる。
冷たい唇や鼻先。息で湿る首筋。
明日の晩、彼はまたやって来るだろう。
ドンシクはつたう涙の感覚で泣いている事に気づいた。
彼はこの感覚を今まで知らなかった。
子供の頃の片思い、学生時代の恋人、信頼できる知人や友人。
それでもセックスは切り離して楽しめた。
のめり込む事もなかった。身体の快楽はただ独立してそこにあった。
ずっとそう言うものなんだと思っていた。
知らなかった。知りたくなかった。
気を紛らわせる為に来たのにまるで逆だった。
俺は、ジュウォンと、セックスがしたいのだ。
彼だけが欲しいのだ。
いつか必ず彼を手放す時が来る。
そうなった時追い縋らないで済むのか、お願いだからどうか優しく手放せるように。彼の幸せを願えるように。
恐ろしくて恐ろしくて肩を丸めた。
心細い子供の様な気持ちで息を吐くと嗚咽で震えるのがますます情けなくて膝を丸めて抱え込む。
耳鳴りと、足の痛みだけが確かなものみたいでその感覚に縋り付くようにしてもう一度ぎゅっと目を閉じる。