「ちょっと、ごめん」
そう言うなり、冒険者は何処かへ走り去っていった。その顔は蒼白で、キャンプ・ブロークングラスに吹きつける寒風のせいだけとは、到底思えない。心配するなというほうが無理な話だ。つい先程まで、彼の身体にはあのゼノスの魂が入っていたのだから。
「……オレ、ちょっと様子見てくる」
雪に残った足跡を辿って後を追うと、人目につかない建物の陰にその姿はあった。地面に蹲り、苦しそうな息を漏らしている。
「……大丈夫か」
「っ、……ラハ」
蹲った彼の手元の雪が、黄色く染まっていた。吐いたのだろう。ここに来てからは動き通しで、ろくに食べてもいなかったから、出たのもは胃液だけのようだ。「吐いたのか。やっぱり少し休んだほうがいい」
「……違うんだ。体調が悪いとか、そういうことじゃなくて……」
渦巻いた風に、饐えた匂いが薄っすら混じっている。目尻に浮かんだ生理的な涙も、ここでは寒風に晒されてすぐに乾いてしまう。
「ただ、不快なんだ。この身体にあいつが入っていたと思うと、嫌悪感がこみ上げてきて……。自分の身体のはずなのに、自分ではない何かが残っている気がして……全部、出してしまいたい……」
胃酸に喉を焼かれたのか、掠れた声が震えている。血の気の失せた顔はどこか虚ろで、皆の前では気丈に振る舞っていたのだと知れる。ここでは、彼は英雄の仮面を外すことが出来ずにいるのだろう。
「なあ、こっち向いて」
俯いた頬に直接触れたくて、手袋を外す。刺すような冷気が指先から腕へと走った。だけど、触れた頬はそれよりももっと冷たく感じる。少しでも温もりが伝わるように包み込んで、唇を寄せる。
「だめ、待って、今吐いたばっかり……!」
「いい、平気」
重なった唇も、いつもより随分とひんやりしていた。割り入れた舌先に、ピリピリとした刺激が伝わる。それごと拭い去るように、舌も、歯列も、上顎も、くまなく舌を這わせた。
「っは、……うん、大丈夫。全部、オレの知ってるあんただよ」
「ラハ……」
覗き込んだ影色の瞳は、少し力を取り戻したようだった。この状況では、ほんの僅かな時間しか、その仮面を外してはやれないけれど。
「大丈夫だから。……さあ、落ち着いたら、口濯いで、皆のところに戻ろう」
「うん……ありがとう、ラハ」
あんな悲劇は、二度と繰り返させない。どんな難関が待ち受けていようとも、きっと皆なら超えていけるから。