虚(うろ)の底よりiを込めて「さて」
其の空間を埋め尽くすモニター全ての電源を落とし、目の前のラップトップを閉じる。
此処は、人間の世界よりも更に深くに息衝く魔の巣窟。「悪魔系ヨーチューバー」として活動する本物の悪魔ブラックは、自身の動画編集用に用意した部屋で一息つくと席を立ち、モニターの群れに埋もれている古い壁紙に視線を移した。
「…そういえば最近言ってないですね。休憩がてら様子を見に行ってみましょうか」
「じ!」
ブラックは小さな撮影助手、通常カメラちゃんを連れて部屋を出ると、ふわりと蝙蝠の翼を広げて上昇した。
「此処へ来るのも久しぶりです。一万年ぶりくらいか、ちょっと…放置し過ぎましたね」
「じ〜」
二人の悪魔が見据える先には、国一つ程の面積に広がる根を虚空に伸ばし、その頂点は魔界の空を突き破り地上まで届きそうな、巨大な樹木が浮かんでいる。
其れは、天より神の恵みを運ぶ生命の樹と対を成す、此の世全ての悪徳が湧き出づる源泉。
ブラック達は赤黒い瘴気に包まれた其の樹の根本を目指してゆっくりと前進し、浮かぶ根の最下層に見える球体…人間の世界に於ける高層ビル程の大きさで、両脇から蝙蝠の様な翼を広げた樹の実の上に着地した。
「おや、丁度良いタイミングだったようですね。収穫できそうです」
ブラックは足元に在る、射干玉を思わせる果実を眺めると、爪を尖らせ其の外殻を小さく引き裂いた。ひび割れから覗く内側は甘ったるい臭いを漂わせ、濃厚な琥珀色の液体で満たされている。
ブラックが其処へ腕を降ろし、掻き混ぜるように内容物を掬うと、其れは忽ち固体と成り、色は琥珀から深紅へ…艶が有り瑞々しい林檎の果実へと変容した。
此れに満足したのか、ブラックは普段のにやけた表情から更に口角を上げ、掌に乗せた果実へ口付けを落とした。
「此れを御馳走するのが本当に楽しみですよ、さとくん…キミの魂は、我が地の底でこそ相応しい」
「じ〜!」
「カカッ!カメラちゃんもそう思いますか」
「じーじじっじー!」
「ええ…さとくんが此のクリフォトの樹で育つ全ての実を食し、此の樹を支配する『虚無』を克服する迄…オレちゃんも待ちますよ。さとくんがどんなに年老いても、死んだ後も、何時迄も…」
澱む外気に晒された果実を暫く眺めた後、ブラックは鋭い牙の間から長い舌を伸ばし、執拗に舐っていく。
「嗚呼…とは言ってもやっぱり待ち切れませんねえぇ…魔界の空気に当てられてどんな異形に成ったとしても、あの子はきっと阿呆で間抜けで、綺麗な涙と強い眼差しが在って…はぁ、さとくぅん…」
しなやかな濡羽の長身が、ダラダラと零れる唾液で下品に汚れてく。普段の優雅な振る舞いなど忘れ、聞くも悍ましい妄想に耽る此の悪魔の思考は、地上で出会った一人の少年を如何にして手に入れるかを算段するのみ。傍らに居る小さな撮影助手は、同じ少年を想い嬉しそうに飛び回っている。
此れ迄も地上で千差万別の生涯を経た人間を見つけ、其の闇を観客席で蠢く魔物共の前でばら撒き、絶望する彼等を見てはえも言われぬ快楽を享受して来た。だが、あの少年は…さとしは違う。
只、純粋に、渇きすら覚える程、欲しい。
魂を得た後にどうするか等考えてはいない。兎に角、手元に置きたい。動画撮影の合間に、否、動画撮影の最中であろうと一瞬足りとも目を離したくない。
「じじっ!」
「おっと…そろそろ戻りましょう。他の果実も、管理している悪魔の皆さんから分けて貰っておいて正解でしたね!冷蔵庫に入れておけば三千年くらいは保つ様なので、レシピは幾らでも考えられます」
溢れた涎を拭うと再び浮上し、ブラック達は上空へと急加速していく。
愚かで憐れな、愛しい少年に会いに行く為に。
「さとくん、結構好き嫌いが激しいみたいですし、ちゃんと食べてくれたら良いのですが」
「じぃ〜…」
「ジュースにするか、擦り潰して料理に混ぜるか…カメラちゃんならどうしますか?」
「じーじっ!」
「皆で取り分けられるようなデザートに…カメラちゃんらしいですね!」
他愛の無い会話は、悪魔達が赤黒い曇天を突破する迄続いた。
「さとくん…キミに無機質な神の加護など全く以って不要です。其の役割はオレちゃんが担ってあげますから…カカカッ!」
「じーっじっじっ!」
虚(うろ)の底よりiを込めて
Fin.