よく眠れるおまじない 同じ部屋を取るのは初めてだった。部屋が全て埋っているというのだから仕方ない。
僕としては廊下に転がされてるのでも、なんなら外でも構わなかった。なにせ今日は雨が降っていないので。
「僕たちは適切な距離を保っているべきだと思うから、それでいいだろ?」
そう言うと、レイシオは常に不機嫌そうな顔を、いっそう歪めた。
「よくない」
「僕、慣れてるから」
「慣れていることは、今日もそうであっていいという理由にはならない」
「わ、善良だ!」
「善良とは得てして誉め言葉として使うものだ」
「文句のつけ方が陰湿だね」
溜息をついたレイシオが僕の二の腕をぐっと掴む。
「痛い痛い! おいレイシオ! 怪我人だぞ!?」
「怪我人は大人しく医者の言うことを聞け」
「……分かったよ、君と同じベッドで寝るよ」
「同じベッドである必要はない。僕はソファを使う」
「なんだ、それなら早く言ってくれ。時間を無駄にした。知ってるかい、こんな諺がある、『時は金なり』」
「……君を黙らせることができるのが僕しかいないのが、これほどまでに面倒だとは」
シャワーを浴びて血行が良くなったせいか、止血した上腕がじくじく痛んだ。
うっかり銃弾を掠めたせいだ。
――うっかりではない、完全に故意に。今後の交渉材料の一つにするために、本当は避けられたものを、わざと避けなかった。痛むのは仕方ない。今後のための必要経費だ。
レイシオはこのやり方は気に入らないみたいだけれど。
クリスタルでできた小瓶をベッドサイドのデスクにコトリと置いた。中に入っている少し粘性のある液体がとぷりと揺れた。
「……それは?
見とがめたレイシオが言う。風呂を出たばかりで髪がぺったりとしている。
小瓶を持ち上げて揺らしてみせる。
「睡眠薬だよ、ドクター」
「そうか」
「用法用量は守ってるよ、ドクター。これがないと上手に寝れなくて」
「服用理由は聞いていない。睡眠薬を飲むのに『眠れない』以外の理由はないだろう。それにデリケートな問題だ。わざわざ言わなくていい。僕も聞かない」
「そう? 助かるね」
「……ただ些か多いだろう」
「全然口出すじゃないか! 効きづらいんだよ、僕。常用するせいかな。どうしようもないね。夜は毎日来るから」
茶化すように言って、もう一つ小瓶を取り出す。隣に行儀よくコトリと並べる。
「……」
レイシオはそれをじっと見た。
「気になる?」
「……いや」
「おや、聞いてくれないんだ。これはね、毒薬だよ、ドクター」
「は?」
「きっちり一人分の死さ。これがないと寝れないんだって。お目こぼし願いたいね」
レイシオは深淵から拾ってきたような、深く長い溜息をついて、低い声でこぼした。
「看過できない」
「君が認めようがどうしようが、僕は好きにするけどね」
ジャケットのポケットから、手慰みによく放っている金貨を出した。軽くて、しかし僕の命の総額より重い。
「おまじないさ。悪い夢を見ない。よく眠れる。……簡単なコイントスだよ。外れたら毒を、当たったら睡眠薬を。たったそれだけ。……教授、投げてみる? 僕の命運をコインに託してみようよ」
断ると思った。彼は善良だから。
しかしレイシオは、不機嫌そうにコインを受け取り、雑に放りあげ、手の甲で受けた。
「……僕は君と逆の方に賭ける」
はあ?
随分間抜けな声が出たものだ、と思った。それから、聞き間違いかな、と。
レイシオの顔を見る。
聞き間違いじゃなさそうだし、まあ彼は冗談を言わないから、ジョークって線もない。
「……待ってくれ、コインを投げてとは言ったけれど、賭けに参加しろとは言っていない。君はディーラー。ギャンブラーは僕一人だ」
「降りるのか? それなら僕はどちらも飲まなければいけないな」
「どっちかが死ぬゲームだぞ。降りるべきは君だ」
レイシオは皮肉るように笑った。猛禽に似た目が僕を刺した。
「分かった、乗ってやるよ。……表」
「では裏」
声は震えていなかったか。
自分の幸運は知っている。痛いほど。嫌になるほど。
だからこれほどまでに祈るのは久しぶりだった。
「虚飾がはがれてるぞ、ギャンブラー。怖いのか」
「ひどいね、ドクター。怖いに決まってるだろ。僕は定められた幸運だけど、君はそうじゃない。君の命運を憂いてるんだ」
レイシオが手をどかす。コインは表が上だった。
詰めていた息を吐く。
「死ぬのは僕のようだな」
レイシオは言って、なんの躊躇いもなく『毒薬』を呷った。
「無味無臭だ」
「味の感想はいらないよ、バカ」
力が抜けて、ベッドに倒れこんだ。
「だって、水だからね、それ」
ほんとうにめちゃくちゃバカだ、と呟く。
「君は僕をちっとも信用していないんだな。僕に毒を服す勇気なんてないと思ってる?」
「まさか。君が1/2の死の選択肢を軽率に用意するわけないと信じていたんだ。君は善良だから、エヴィキン人の悲願に報いないことなんてできないだろう」
「僕が地母神の祝福を信じて、絶対に外すわけないと信じて、本当に毒薬を用意しているとかは考えなかったわけだ」
「地母神を信じているなら、君はギャンブラーではなく信奉者(ビリーバー)とでも自称すべきだ」
「ああ、××!」
「なんだって?」
「君が知る必要のないツガンニヤのスラング!」
「さて、僕は『毒薬』を飲んだ。君も睡眠薬を飲むんだな」
「最初から決まりきった結果じゃないか……。なんで遠回りする必要があったんだ。さっきも言ったけど、時は金なりだよ、レイシオ」
僕の恨み節なんて知らないふりをして、レイシオは睡眠薬の小瓶を僕に渡した。
どろりと甘いような苦いようないかにも薬臭いそれが食道を伝い落ちる。
ベッドに押し込まれる。
「難儀だな」
「そうしないと眠れないから」
「絶対に外れないことを毎夜確かめないといけないのか」
「そうだよ。尋問みたいだね、これ」
「……『毒薬』と偽る必要はなかったはずだ。例えば栄養剤でもよかった」
「そうだね、君は聡明だ。明日からはそうするよ」
「君は、それを毒だと信じたかったんだな」
「……」
「君は、毒を飲みたかったのか」
「……毒を飲みたいか、だって!? 教授もそんなバカなことを聞くんだね。そんなことあるわけない
……わけないだろう。外れろって毎夜祈ってる。僕の苦しみを、僕以外の見えざる手の介入でお終いにしてくれって! だって、外れるはずのないものが外れて死ぬんなら、僕のせいじゃないはずだ。僕はエヴィキン人の誇りに背信したわけじゃないはずだ」
「それでも君は水を入れていた」
「……教授の言う通りだよ。死んだら困る。芯じゃいけない。僕に自死の選択肢はないよ。そんな権利はない、許されていない。……二律背反だ。外れてくれと願いながら、外れることに怯えてもいた。……ねえ、教授。だからさ、死なないから大丈夫だよ。僕の賭けが危うく見えるんだろうけど、ちゃんと考えているんだから。君はガラス張りの廊下に立つ人が地に落ちることに怯えて首に縄を括ってやるタイプかな? 僕の賭けに付き合うようなバカにはならないで。びっくりして寿命が縮んだ」
「……僕も、君には命をノータイムで賭けるようなバカはやめてほしいと言ってるんだ。君が僕を思うように、僕も君を思っているとは考えられないのか。君が立っているのはガラスではなく薄氷だから退けと言っているんだ」
意味の分からないことを言っている、と思った。ので、黙って聞いている。沈黙は時に金だから。
レイシオはますます不機嫌そうだった。
「君はもう少し自分を勘定に入れるということを学ぶべきだな」
「それ、どこの大学で学べる? 僕、学校に行ってみたかったんだよね」
「……」
「怒らないでよ教授。ジョークだよ、小粋な。僕ほど自分の価格を把握して勘定に入れてる奴もいないよ」
「価格ではなく、価値だ。分かるだろう。君はそれほど愚かではないはずだ」
「分かるよ。人に値段はつけられないし、つけてはいけない。でも僕はついてしまったんだよ。つけられた。それから逃れられない。ただの数字として損得勘定してる」
「勘定にいれた結果がその腕か」
「蒸し返すね。いいかいレイシオ、経済学概論の時間だ。物は有限だ。だけど、血とか肉とか、あとは感情とか、好意とか、そういうのはほぼ無限湧きだよ。天秤に真っ先に乗っけるべきものを乗っけた。それだけだ」