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    zippopopon

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    トワイライト・ワンダー・ラスト・ダンス〈三月〉
     雷鳴のようだ、と思った。
     割れんばかりの拍手に背を押され、司はいつもより一歩前に出た。スポットライトが眩く目を灼き、心臓がドクリと跳ねる。
     圧巻だった。信じられなかった。
     司と類の卒業公演の千秋楽は、立ち見でも足りないほどの大盛況だった。二年前のガラガラのステージが嘘のようだ。
     いつものように挨拶を、と声を張る。
    「本日はお越しいただき、」
     ああ、そうか、と思い至る。もうこれは〝いつも〟ではなくなるのか。ここで座長としてあいさつをすることはもうないのか。得も言われぬ何かがこみあげてくる。ともすれば泣き出してしまいそうだった。滲む視界でスポットライトがその輪郭を溶かしていく。
     息を大きく吸い、万感の思いを声に乗せ、深く礼をする。
    「ありがとうございました!」
     横並びの類、寧々、えむも声を揃え頭を下げる。拍手の波が一層強まった。
     司はそれを一身に浴びるため身を起こす。舞台が明るいせいで観客の表情はよく見えなかったが、皆が笑顔だと確信していた。誇らしくて、自分も笑みがこぼれる。
     きっと自分は、この光景を一生忘れない。ワンダーステージで得た経験は、全てが人生の根幹に関わるようなものだった。そして、きっと、今日のこれも。
     今後これより大きなステージで、これより盛大な歓声を貰う機会は何度もあるだろうが、それでも。
     隣の類を見遣る。いつも一番深く丁寧に礼をする類だが、今日は殊更長かった。
    「類、皆も顔が見たいだろう」
     声をかけると、類はゆっくりと顔をあげた。客席を見渡し、上気した頬で、ああ、と嘆息する。
    「綺麗だね、司くん」
    「ああ」
    「この世で一番綺麗だ」
     涙の膜が張った金の瞳にスポットライトがキラキラ反射している。月影に翳した宝石のようだ。
     幕が下り始める。別れを惜しむ拍手が雨音のように散らばった。終わりの時間が目前まで迫っている。
     きっと聞こえないと思ったのだろう。
     小さな、喝采に混ぜるように紡がれた類の言葉を、しかし司の耳は拾ってしまった。
    「まだ、終わりたくなかったなあ」
     寂寞を追い出すように、類はゆっくりと目を閉じた。涙が一筋、頬を伝って落ちた。

    ***

    〈一月〉
     今日は稽古ではなくて話し合いをしようか、と声をかけるも。面々は全く乗り気ではないようだった。
     外部での新春のショーを終え、次のショーを考えなければいけない時期に差し掛かっている。しばらく外部でやる予定はなく、時期的に、これが司と類の卒業公演となる。
     ゆえに、だろう。
     いつもは次のショーを心待ちにして次から次へと案出しをするえむも、類も寧々も、なかなか次公演の話をできないでいた。
     もちろん司も、やわらかなモラトリアムの終幕は名残惜しく寂しい。終わりの日は決まっているのだから引き延ばしても仕方ないと分かってはいるけれど、直視するとそれが現実のこととして圧し掛かってきそうで怖かった。見ないことで、この箱庭が永遠のものだと錯覚できた。
    しかし、誰も切り出せないのであれば、こういうときこそ口火を切らなければならないのが座長の役割だとも重々承知していた。
    ワンダーステージの舞台上に車座になる。中心に大きな画用紙を置き、各々思考を書き出すスタイルだ。一月の風は身を切るように冷たいが、かえって頭が冴えるようで良かった。
     場が整ってもどこかしょんもりとした様子の面々に、司は仕方ないと溜息を吐いた。
    立ち上がり、パンと手を鳴らして注目を集める。
    「そんな顔をするな! 卒業公演だが、卒業公演だからこそ、一番楽しく華々しいものにすべきだろう。なあ類!」
     話を振られた類は司を見上げ、にこりと微笑む。
    「……うん、そうだね。頑張らなくっちゃね」
    「オレはアメリカ、類は進学と進む道は分かれるが、そのときにワンダーステージでは最後にこんなに凄いことをやったんだと誇れるようなものにしようじゃないか!」
     天に拳を突き上げる司に、類は苦笑した。
    「僕の進学はまだ確定じゃないけどね」
     寧々が尋ねる。
    「いつだっけ、受験日」
    「二月の最終の土日だよ」
    「……大丈夫なの、それ。公演期間と被るでしょ? ねえ、司」
    「そうだな……。二月半ばから三月半ば——卒業式の少し前までを想定していたが、三月入ってからに……。いや、練習期間を考慮するともっと後ろ……」
     脳内のスケジュール帳を繰りながら司はうーむと唸る。類に支障が出ないような公演期間にしたいが、自分が出国する日もある。調整しても公演期間はごく短くなりそうだ。
    「僕は大丈夫だよ。当日だけ休ませてもらえたらそれで。せっかくの土日に演れないのは申し訳ないけれど」
     なんてことないように、飄々と類が言う。
    「しかし、準備とか追い込みとかあるだろう?」
    「ないよ。なんなら、今からよーいドンでやったって平気さ」
    「……類なら本当にできちゃうだろうね。本人が大丈夫って言うんならいいんじゃない? 練習はいつも通り、期間も予定通り、日程は調整ってだけで」
    「ああ、そうだな。じゃあ、内容だが……」
     えむが勢いよく挙手する。挙手制ではないが、類が「では、えむくん」と勿体ぶって言った。
    「はいはーい! あたし、ハッピーエンドがいいな!」
     スケッチブックの中央に、えむが丸文字で大きく「ハッピーエンド!」と書き、ぐるぐると囲んで協調する。ワンダーステージの大前提なので三人も異論はない。
    「やっぱり司と類が目立つようにしたいよね」
    「というと、司くんが主人公で、僕がライバル、あるいは悪役っていう構図かな」
    「協力もアリじゃないか? うちはなんだかんだオレ対類の構図が多いからな。新鮮さがある」
    「うーん……でも、えっと……最後、だから、新鮮さっていうより、これがワンダーランズ×ショウタイムだよ! っていうのがいいなあ」
    「じゃあ、やっぱり対決系? ウチの十八番だもんね」
     画用紙の中心の「ハッピーエンド!」の文字から枝分かれするように様々な意見が書き込まれる。これ絶対一公演じゃ足りないでしょ、と寧々が苦笑いした。
    「類はどうだ? せっかくだからやりたい演目をやろう」
    「僕? 僕は、そうだな……」
     類は顎に指を添わせ暫し考えこむ。司には分からないが、その出来のいい頭で途方もないことをくるくると考えているだろうことは窺えた。
     黄金の瞳がパッと司を捉えたかと思うと、子供のようにキラキラと輝いた。
    「司くんに騎士をやってほしいな」
    「騎士?」
    「そう。この二年で司くんの役の幅は随分広がったから、もうなんだってできるだろう。けれど、天馬司という人間の本質は、騎士役で最も発揮されると思うんだ。つまり、我らが座長の、最も〝らしく〟て、最も輝く舞台といえば騎士モノ、ということさ。どうせ演出で輝きを百倍にするのなら、一を百にするより百を一万にする方が、僕もやり甲斐がある」
    「ふんふん。でも、類くんも〝らしく〟輝くべきだよね。……じゃあ類くんは、悪役?」
    「そうだね。その役回りが僕の期待されるところだろう。……どうかな」
    「ああ、いいだろう。ではそんな感じで脚本を書く。類は最後にやりたい演出をリストアップしてくれ。それと照らし合わせながら細かいところを見ていこう」
    「いいのかい! ゆうに百はあるけれど」
    「……厳選して、リストアップしてくれ」

    ***

     わりあい速筆な司は、ものの一週間もせずに初稿をあげた。
     人数分コピーしたそれを片手に額を突き合わせる。
     王道の勧善懲悪モノ。司演じる白騎士と、類演じる黒騎士が対決し、白騎士が勝ってハッピーエンド、という単純な図式だ。しかしスパイスとして、白騎士と黒騎士は鏡合わせの存在、という一捻り加えた設定だ。すなわち——
    「最後になかなかいいものを持ってきたね、司くん」
     類は満足げに鼻を鳴らした。
    「身長差……は、まあ、君に頑張ってもらうことでどうにかなるだろう。もっとも、僕も多少ヒールのある靴だから、大体10㎝かな。気にならない誤差程度に抑えるなら、まあ、このくらいだね」
     ——すなわち、設定に説得力を持たせるため、類と司の背格好やその他を揃える必要がある。
     細部まで気の抜けない、指先まで神経を通わせた難易度の高い演技になる。
     やれるかい、司くん、と類の瞳が閃く。
     やるからには、一部の隙も許されない厳密さが求められる。類はそれを当然のように求めてくる。覚悟の上だったし、望むところだ。そういうつもりで書いた。不敵に笑って言い放つ。
    「勿論だ!」
    「なら良し。それから、揃えるべきところは揃えて、仕草や表情……これはあえて逆にするポイントを作ろうか。そもそも僕らはこういう点は逆のところが多いからね」
     えむが言う。
    「それじゃあ二人は結構役作りに時間がかかりそう? 揃えたり逆にしたりって気をつかうもんね」
    「そうだね。性格や演技そのものはあまり難しいものではないから早々に立ち稽古は始められると思う。けれど、二人でブラッシュアップしていくから、完成形になるまでは時間を要するかもしれないし、演技が次々変わるかもしれない。合わせるのは大変かもしれないけれど、そこはよろしく頼むよ。……それから、今回は僕ら二人がかなり出張って主軸となるから、兼役は厳しい。寧々とえむくんには、その他の焼くと、機材の操作をほぼ全て任せることになる。相応に大変だと思うけれど、いけるかい?」
    「うん!」
    「大丈夫」
     二人は力強く頷く。類の作るロボットは動きこそ複雑だが、操作は簡便化されたものが多い。二年つきあっていた二人ならば心配はいらない。
    「詳しい演出とかは一度やってみてから考えたいな。僕からは以上だ。……一言で言うと、とっても楽しみだよ」
    「ああ、なら良かった。ではいいものを作っていこう! 早速だが一度読み合わせをしようか」
     司の号令で皆がすっと役者の表情に切り替わる。細い糸がつ、と張られるように、空気の質も緊張をはらんだピリッとしたものに変わる。
     息を吸う音。
     入りは寧々のナレーション。歌うように、語るように、詩人の老婆がえむ演じる孫に物語るという設定で舞台を展開させる。
    「昔々の話……」
     年齢を感じさせる声質ではないが、確かに、経てきた歴史を感じさせる重みがある。されど詩人らしく、どこまでも深い青の泉のような澄んだ声。
    「おばあちゃん、もっと教えて! その騎士様のこと!」
     溌剌とした子供が続きをせがむ。祖母の周囲をくるくる周っている様子が目に浮かぶ弾んだえむの声。観客の心を一気に世界観の中に引っ張る役を担う。
    「……」
     言葉少なな黒騎士は、しかし、纏う雰囲気で魅せる。動きのない読み合わせでも、仄暗い炎を燃やす眼差しには、圧倒的な存在感がある。司は小さく息をのんだ。
    「——私が貴様を倒す!」
     司の台詞に、類が無言でもって応える。
     類の、平時であれば蜂蜜のように甘くとろけた双眸が、違う色を纏って司を突き刺す。
     知らぬ間に口角が上がっていた。
     ——オレは今、類とショーをしている!
     エンドロール。
     司がふ、と息を吐くと空気が緩んだ。
     寧々がちらりとスマホを見る。
    「場面転換なしで30分。……長い、けど、これでいいと思う。このままやりたい」
     類も満足げに笑んだ。
    「やっぱり司くんはこういうのがよく似合うよ。君の今までのどんな役だって素敵だったけれど、できれば君、今後もこういうのを積極的にやるといいよ」
     言いながら、くるりとペンを回す。
    「さて、さっそくだけど、いくつか提案していこうか。皆もこういうのがやりたいとかあったらバンバン言ってほしい。なんだって応えるから。……まずは1シーン、明転から入って……」
     矢継ぎ早に出る類からの提案を台本に書き込んでいく。入りの方向から照明のタイミングまで、まるで眼の前に舞台があるように類は次々と指示を出す。頭の回転に口がついていかなくて何度かどもっていた。宝物を見せびらかす子供とそう変わらない。
    「……それから、白騎士の登場シーン、せっかく最後だから、前に使わなかった降雪機で、一発景気よく雪を降らそうと思う。今年は暖冬だったし、ワクワクしそうじゃないか!」
    「降雪は景気いい、のか?」
    「いい、いい。……それから、そうだな、最後だし飛距離を増量して……」
    「待て待て待て! 〝誰の〟飛距離だ⁉」
    「え、そりゃあ、司くんの」
    「オレが飛ぶ必要はあるのか⁉ ただの登場シーンだろう⁉」
    「景気がいいじゃないか」
    「却下だ!」
    「じゃあ、このシーンで飛ぶのは保留で」
    「100%の却下!」
    「冗談だよ」
     それから、と類はページを捲る。
    「この、山場の、白騎士と黒騎士の決闘シーンがあるだろう。一度白騎士が退場する。しかし決意を新たに再戦、勝利……。ここで司くんには客席に降りてもらいたい」
    「客席降り、か。一度目の決闘の後の退場で、袖ではなく客席に降りる、という風でいいのか?」
    「いや、その後の登場の方でのインパクトが要るんだ。だから、客席降りではなく、客席に登場、と言った方が正しいのかな。歌舞伎の花道みたいにしたいんだ。退場は袖で、その後黒騎士の独白があるだろう。その間に客席の後ろに回ってもらう」
    「ふむ、まあ、できるだろうな。黒騎士の長台詞もあるし、少し急げば問題はない」
     じゃあそれで、と双方の了解がとれたところで、えむが遠慮がちに、ねえ、と声をあげた。
    「その客席に回る前に着替えるのってできるかなあ? 変身みたいに」
    「変身、か」
    「そう! ワンダーランズ×ショウタイムって、メインじゃないけどヒーローショーもやったし、類くんもヒーローショーを参考にしてたことあるよね? 最後の戦いに向けて変身するのってあたしたちらしいよね! ……時間的にはキツい、かも、だけど! やれたらいいな!」
     司と類は同時に台本に目を落とす。
     黒騎士の長台詞は二分ほど。独白なため、あまり長いと観客の意識が逸れテンポが悪くなる恐れがある。かつ、想定される司の衣装は華美で着脱に時間がかかる、
     脱いで、着て、更に客席の後ろに移動となると現状では厳しい。けれど——。
     顔をあげた二人の視線がかち合う。
    「やれるな、類」
    「やろうか、司くん」

    ***

     司と類はしばしば二人の時間を作り役作りに励んだ。
     進学しない司はこの時期やるべきことと言えば英語の勉強くらいで真実時間はあるが、そうではない類も同等の時間を割いているのだから恐ろしい。もう100回は本当に大丈夫なのか確認したし、類は証拠としてA判定の並ぶ模試結果を提出するはめになった。
     自由登校で三年生はまばらにしか登校していない。探せば空き教室などいくらでもあるのに、類は「ここが僕の城で原点だから」と屋上で作業するのをやめようとしなかった。集中すると頬や耳が真っ赤なことも忘れて、冷えたコンクリートの床に膝をついてノートにガリガリ何かを書くから、身体を壊しやしないか心配で、司は監視役も兼ねて類に付き合っている。確かに机に向かっているときより類の筆はのるようだったから、天才としての能力が遺憾なく発揮されるに必要なルーティンのようなこれに、あまり強くは言えなかった。
     雲が立ち込め、空が低い。
     寒空の下、類はマーカーやらで書き込みが多く賑やかになった自分の脚本を司に見せた。度重なる開閉で真ん中の方が膨れ、端はよれている。
    「この、さあ」
     ペン先がしまわれたボールペンで文字をなぞる。
    「黒騎士の独白を自然に、せめて三分……できれば四分に増やしたい。それで、その後客席で君も独白するだろう。それに黒騎士が応えて、白騎士が応えて、君が舞台に戻って……。これ、すごくカッコいいし、目を引く。印象に残るから、この構図は絶対にほしいんだ」
     けれど、と形のいい眉を寄せる。
    「動機が甘いんだ、このままだと。たった三十分の劇だ。なんでもかんでも詰め込めない。できるだけ簡単にした方がいいとは分かっているよ。けれど三分も語れる厚みがない。善性の白の鏡だから悪性の黒っていう構図はわかる。けれど、それだけじゃ、白が黒を〝絶対に〟打ち倒したいとはならないんじゃないか。悪を倒すのは、あるいは世界のためだけれど、一度負けたのに立ち上がる、その過程にはもう一押し必要だと思う。変身も加わったんだ。新たな理由……なるべくして立ち上がる理由がほしい」
    「外発的な動機だけではなく、内発的な、内側から湧いて出るタイプのものが必要、ということだな」
    「そう。それで提案なんだけど、黒騎士をただ白騎士の鏡とせず……弱さのメタファーとするのはどうだろう」
    「弱さ……? それを疎んで白騎士は黒騎士を倒す、のか」
    「弱さゆえに誤り世界を滅ぼそうとする自分の反転の存在……。説得したい、だとか、どうしても倒したい、だとか、厚みを増そうとすればどうとでもなりそうじゃないかい? 構図の単純性は変わらないままで」
     忌憚なき意見が欲しいな、と類が言う。
     ふむ、と司は唸る。
    「根本的な問題になってしまうが……弱さは倒すべきだろうか。弱いことは、悪に分類されるのだろうか」
    「……おっと、思ったより本当に根本的なところを突くんだね」
     類はにこりと笑み、寒さでかじかんでいるのか先が赤くなった人差し指を立てた。
    「極論、それは悪は〝悪〟なのかって問題になって、こんな屋上で話すべきことでもなくなってしまうから、あくまで今回に限ったこととしてフラットに議論しようか。……さて、なぜ司くんは弱さは悪ではないと? 一般的な思考の流れだと弱さが悪に結びつくのに引っ掛かりはあまりないと思うから、興味があるってだけで、ちっとも君を否定するつもりではないんだけど」
    「たしかに、分類するなら悪に入り得るだろうが、しかしそれは絶対的ではない。白騎士は弱さを倒す、だろう? 己の弱さを完全にないものとしてしまったら、白騎士はどうなるのだろう、と思ったんだ。現実的な話になるが……そういう、弱さを完全に切り捨ててしまった人は危うくないか」
    「なるほど、弱さの効能か。……これは僕の考えだけれど、弱さは必ずしも悪じゃない。この点は君に同意だ。人のやわらかいところに触れるときも、自分のやわらかいところに触れられるときも、緩衝材になるのは弱さだ。遠慮とか気遣いとか、そういうものに名前を変えて、弱さは自分も他人も守ってくれる。……けれど、それよりずっとしばしば、やわらかいところを滅多刺しにしたり、どうしようもなくしたりする。だから、総合得点でいくと、一般的に倒すべき悪だと設定できるはずだ」
     どうかな、と類が首を傾げる。
    「では、白騎士は、その、類の言うところの、弱さの暴力性を疎んでいる、という具合か」
    「そうだね」
    「己の弱さで人を傷つけることを恐れ、それを排除したい、と。その弱さは黒騎士の形をしていて、事実世界を脅かしている。世界を守ることと己の弱さをなくすことは、二重になっていて、世界のためであり己のためである、そういう決意を新たに変身する。……ふむ、違和感はないな。流れも自然だ」
    「まあ、脚本は司くんだから細部は君にまかせるけれど、僕の想定するところはそんなかんじだ。そうすると黒騎士の方もキャラ設定に説得力が増すだろう」
     ふ、と司は息を吐く。熱中して気づかなかったが、いつの間にか雲が分厚くなった空は陰鬱さを増し、更に冷えこんでいて、細い息は白く色づいた。
    「類もそう思うのか」
    「え?」
    「一般論は抜きにして、類もやはり、弱いことは悪だと思うのか? なくしてしまうべきだ、と。……もしや、それは経験談だろうか。類もいつか、そんな風に、誰かの弱さで傷つけられたのか?」
    「……そうだね、僕は」
     言葉尻を濁した類はす、と立ち上がる。司より幾分高い身長が、司の前に影となった。呆ける司の手を引き、無理やり立ち上がらせる。
    「手が冷たい」
    「逆になんで司くんはそんなにあったかいの」
     ケラケラ笑って、類は屋上の中心まで司を引っ張った。
     何らかの意図があろうが、司にはそれが分からない。やけに思わせぶりなだけで、実はただのおふざけかもしれないが、長い付き合いで類の突拍子のない行動に慣れた司は為されるがままにする。
     エスコートするように、類は司の指に自分の氷のようなそれを絡ませた。胸に手を添えて、恭しく礼をする。
    「例えばさ」
     類が司の腰を引き寄せる。二人の間の空間が縮まり、ずっと近いところで歌うように囁き声がする。
    「僕、前よりずっと色々なところで色々な人に受け入れてもらえることが増えて、それはとっても嬉しいのだけれど。やっぱり一瞬、怖いなって思ってしまう。人を心から信じていないんじゃないかって、そんな自分も嫌になってしまう。この弱さは、司くんはどう思う?」
    「それは、類が常にショーに本気で、人間関係にも本気で真摯なんだろう。譲れないこだわりを持っている証左で、それで苦労はするだろうが、誇るべきことだ。誰にだってできることじゃない。オレはそれを弱さだとは思わない」
     そう、と類が吐息に混ぜる。君はそう言うよね、分かってた、ありがとう。
     透明な音に合わせ身体を揺らし、類のリードで司がターンする。
    「それじゃあさ、たまにふっと怖くなるんだ。いつだって僕の演出は万全を期しているけれど、100回やって100回上手くいくとは限らないし、100回やって100回上手くいったって、101回目がどうかは神様も知らない。失敗したらとか、それも怖いけれど、ひどく冷めたお客さんの目を、考えてしまう。そうするともう動けない。案外臆病なんだ、僕は」
    「分かるぞ。オレだってそうだ。けれど、最悪の想定をするのは悪いことじゃない。それゆえにリカバリーが効くことだってある」
     だから、と司は続ける。
    「それは弱さだとは思わないが、類がそれを弱さだと言うのならば、そうなのかもしれない。けれど、オレはそれを悪いとは思わない」
     類のアンバーの瞳がゆるりと弧を描く。
    「君がそういうことを言ってくれる人でよかった」
     ステップが軽やかに跳ねる。
     くるり、くるりと楕円を描き、つま先が屋上を滑る。
    「じゃあさ」
     声が、少し震えている。
    「もし僕が……」
     司の背に添えられた類の右手に、僅かに力がこもった。繋いだ司の右手が類の身体に引き寄せられ重心が崩れる。凭れるように体を預けた司と見下げる類の鼻先が触れそうになる。
     黄金の瞳が、一瞬、真剣に揺れた。
     何か言いたげに唇は戦慄いたが、しかし視線は斜め下に伏せられた。
    「類……?」
     鼓動が聞こえてしまいそうな距離で押し黙る類に、おずおずと声をかける。
     長い睫毛をふるわせ、寂しげにゆらいだ黄金を隠した類は、ゆっくりと息を吐きながらもう一度目を開けた。
     司は小さく息をのんだ。
     夜の底を掬ったような、何もかもを飲み込んで沈めてしまいそうな諦念が黄金の奥に滲んでいる。
     ああ、と類は言った。
    「いけない、雨が降りそうだ。今日はもう撤収しようか」
     なんでもないように笑って、類は身を引いた。類の支えなしに司が立ったのを確認して、わずかに体温が移った絡んだ指を一本一本ほどく。
     名残惜しさを置き去りに、小指があっけなく離れていく。
    「とかく、ね。思うに、少し脚本に味付けが必要だということだよ。その具合は司くんに任せるけれど、お願いしていいかい?」
    「あ、ああ」
    「じゃあ、頼んだよ」
     呆然とする司からするりと離れて、類は散らかしたものを拾って帰り支度をする。
     遠くなってしまった背中を司は見つめた。
     類は、司に何を期待し、何を言いかけて、何を諦めたのか。
     いかなる自身の弱さを司に開示することを恐れたのか。
     司には知れない。類が身を引いてしまえばどうしようもない。
     るい、と舌に馴染んだ響きを空気に溶かす。
    「お前のためなら、オレは、ずぶ濡れになりながら踊ったっていいと思っているんだ」
     ぽたりと。
     降り始めた冷たい雨が、司の頬を濡らした。

    ***

     沈む、夢をみた。
     水面が幾何学的に揺らめいて、複雑に絡んだ光線が目を刺した。
     口の端から零れたあぶくが光へ向かう。溺れる苦しさや怖さはどこか遠くて、ただ漠然とそれを見ていた。
     ぞっとするほどの安寧に揺蕩いながら、これが永遠であれ、と。
     願う思考も、すぐに黒く塗りつぶされた。

    ***

     類の提案を加味した第二稿の見せ場は、司の舞台降りからクライマックスにかけてだ。
     一度黒騎士に負けた白騎士は退場する。黒騎士の独白の最中に裏で着替え、客席に回る。司の用意が完了するまで、類は適宜アドリブも交え間を持たす。司の姿が客席に確認できたら、類は腰の剣に手をかける。
     それは寧々と司に向けた第一段階の合図。
     寧々が照明機能を備えたドローンでスポットライトを白騎士に当て、黒騎士に応えるように白騎士も独白を返す。
     次いで黒騎士、白騎士と一回ずつ独白をする。類が舞台袖で降雪機を操作するえむの準備ができたのを確認したら、二度目の合図、剣を抜く。
     えむは降雪機を始動させ、同時に白騎士が舞台上に駆け上がる。
     丁度白騎士が舞台に上がると同時に雪が舞うようになる算段だ。
     舞台袖のえむも客席の司も見える類がコンダクターの役割を担うことになる。
     流れを説明した類は、えむに顔を向けた。
    「司くんの動きは勿論重要だけど、ここでは、実は、えむくんが主役だ。降雪機の扱いが難しくてね。前、白騎士の初登場シーンで雪を降らせたいって言っただろう。雪と白騎士のイメージがリンクすれば、清廉さが印象に残る。だから、やっぱり白騎士が登場する度に降らせることにする。けれど、問題が一つあってね。機械が熱くなりすぎるんだ。冷却装置は備えているけれど、あんまりバンバン使う想定のものではないからね。この再登場のシーンだと、前に使ったときとあんまり間がない。使えるか使えないか微妙なラインだと思う。もしかすると気温にも左右されてしまうかもしれない。だから僕らで間を繋ぐ。使えるようになったら教えてくれ。そうしたらそれを司くんに伝えるから、同時に起動させるんだ」
    「りょーかい! 寧々ちゃんは剣に触ったらで、あたしは剣を抜いたら、だね」
    「大丈夫そうなら、一度動きの確認のために舞台でやってみようか。僕らの設定も追加されたから、その確認も兼ねて。動画を撮るから、それをもとに僕らの演技を調整していこう」

    ***

     司と類は液晶画面を囲んで額を突き合わせて唸る。
     類は、ここだ、と動画を止めた。
    「司くん」
     司は画面の自分のポーズを再現する。
    「右肩下げて、僕から目を逸らすみたいに上半身軽くひねって右向いて、左のつま先は僕側」
    「……攣りそうなんだが」
    「残念、これが一番カッコよく見えるんだ。君より体が硬い僕も同じポーズをやらなくちゃなんだよ。できてるんだから我慢して」
     画面から顔をあげた類も司の隣に立ち、司と鏡合わせになるようにポーズを調整する。
    「……やっぱやめようか、別のでも」
    「これが一番カッコいいんだろう。我慢しろ」
    「……」

    ***

    「司くん、このシーン、言ってる途中に剣に触れたろう。僕はすっかり言い終えてから触れたけれど、ここのタイミングはどうしようか」
    「白騎士は黒騎士より若干直情的な感じがするから、そこで性格を出すのもいいんじゃないか」
    「じゃあその時の手の角度なんだけど……」

    ***

    「司くーん? 類くーん?」
     えむの声でぱっと顔をあげる。
     透き通った夜空を背景に、えむの桃色の瞳が輝いた。
    「もう従業員用の方もしまっちゃう時間だよ」
    「あ、え、そんなに経っていたか⁉ さっき日が暮れたと思っていたんだが……」
     対面の類も目を丸くしている。
    「うーん、今日中に話したいことがまだあるんだけど……」
    「遅いから、一旦帰りなよ。話したいことがあるんなら後でセカイで話せば? っていうか、いつかホントに風邪ひくよ? 今度からセカイでやって」
    「ああ、そうだな。こんなに冷えているのに気づかなかった。これでは、いつもの類のことをとやかく言えないな」
     立ち上がると節々が痛んだ。長いこと同じ姿勢をとっていたせいだ。ぐ、と背を伸ばせば、背骨が派手に鳴った。
    「えむも寧々も、悪いな。こんな時間まで」
    「大丈夫! あたしたちも確認したいこと沢山あったから!」
     閉園して随分経ち、キャストもほとんどが帰った園内を歩く。まだイルミネーションは灯っていて、夢の残滓が目の端で蝋燭のように揺らめいた。
    「今までで一番いいものにしよーって思ってるの! ね、寧々ちゃん」
     もこもこのミトンに覆われたえむの手が、色違いのそれをつけた寧々の手をぽふっと捕まえる。寧々は気恥ずかしそうに顔を逸らしたが、手を振り払うことはせず、握り返した。
    「最後だから、ね」
    「こんなに演出側やるのは初めてだからドキドキむぎゅーってするけど、あたしたちも頑張るぞーって気持ち!」
    「じゃあ僕たちも早々に仕上げて、ドキドキむぎゅーってした演出とドッキングさせなきゃね」
    「そうだな! じゃあ類、あとで、セカイで!」
    「ああ、セカイで!」

    ***

     瞼の裏の、一番暗いところに星が散った。
     目を開く。薄藍の空に虹の雲が浮かび、宙を汽車が駆けている。
    「司くん!」
     星の街灯に凭れて真剣に台本を読み込んでいた類は、司に気が付くと顔を輝かせ、台本ごと手を振った。
    「早速なんだけど、聞きたいところがまだあって」
    「調整ではなく、聞きたいことか?」
    「うん、ここの……」
     迷わずバッと台本を開いた類を手で制する。
    「待て待て、歩きながらはやめよう。この前転んだろう」

     セカイの中心に座する劇場の中は無人だったが、照明は煌々としていた。
     最前列の、青のカバーの張られた席に横並びでかける。
    「クライマックスのとこなんだけど」
     類の長い指が文字をなぞる。
    「――白騎士に斬られた黒騎士は地に伏し……実際やったほうがはやいね」
     台本を放り出して舞台にあがる。
    「司くんも来て」
    「ああ」
    「18シーンから」
     息を吸って、吐く。気持ちを切り替える。眼の前にいるのは類ではない。自分を憎む敵。自分が倒す敵。
     視線をあげると、同様に覚悟した表情の類――黒騎士。
     合図はいらなかった。
     白騎士は不可視の剣を振りかぶり、その重みのまま袈裟懸けに斬る。
     零れそうなほど目を見開いた黒騎士は、驚愕に歪んだ表情で左肩に触れ、ああ、と吐息をもらす。生あたたかい血が虚しくも零れ出るのを、生命そのものが、指の隙間から、だらだらと溢れるのを悟って。
     身体が揺れ地に頽れるのを、白騎士が手を伸ばしてすんでのところで支える。黒騎士を地に横たえ、片膝をつき、頭を抱える。
     苦痛に歪められた黒騎士の視線が焦点を結び、白騎士のそれと交わる。
     類の視線だ。まったくの、透明な。
     黒騎士は痙攣する手を宙に伸ばし。
     暗転、するはずである。本番は。
    「ここなんだよ」
     司の膝に頭を乗せたまま、先ほどまでの緊張感を微塵も感じさせないで類は言う。
     横着するなと言うと、渋々身体を起こした。
    「司くんは二人の視線をどう解釈する?」
     二人の、交わる視線。
     白騎士は黒騎士を、すなわち己の弱さを疎んでいる。倒すべき悪としている。その目には、憎しみ、怒り、正義感がある。
     それでも、最後に黒騎士を支えたのだ。きっと、僅かばかりの親愛。弱くても自分の半身だから。
     そういう一筋縄ではいかない色をのせて司は演じている。きっと観客には見えないところだろうが、そうすることに意味があるから。
     では、黒騎士の視線は。その感情は。自分を死に至らしめる白銀を振るった、自分と違い光の当たる道を歩く半身は。憎いだろうが、それでも半身だ。それだけ、というわけにはいかないだろう。他に、何か。
     黙り込む司に、類は続ける。
    「視線もだけれど、何故黒騎士は白騎士に手を伸ばすのか。君がト書きにそう書いているから演っているけれど……。憎いから? 一矢報いたいから? そうしたら手を伸ばすんだろうか。……分からないんだ。ずるいかもしれないけれど、教えてほしい。君はある意味この世界の神なんだから。ねえ、司くん。どうして僕(黒騎士)が手を伸ばすと思ったの?」
    「何故、だろう。そうすべきだと、そうするだろうと思ったんだ」
     例えば、吸ったら吐くように。挨拶に返事があるように。当たり前のこととして思って、それを書いた。それだけだった。
     司は苦笑いする。
    「理由になっていないな。類が納得いかないなら改めようか」
     類は首を振った。すみれ色が流れるように揺れた。
    「僕もこうすべきだと思うし、直感はなるべく大事にした方がいい。行動としては、正しいと思う。それに伴う感情が、まだ合点がいってないだけなんだ、多分。きっとそうだよ。大枠として黒騎士のことを理解していて、だから深層も撫でるようには分かるけれど、その本質が知れない。それだけなんだ。まだ僕が完全に黒騎士になっていなくて、黒騎士も完全に僕ではない。そこを、もっとずっと近づけて、そうしたらきっと上手くいく。本番までには僕もすっかり彼を飲み込んで、彼を僕のものにしてみせる。君のトルペみたくさ」
    「いいのか? 変えたほうが楽だろう」
    「トルペを演ったとき、君は変えたかった? 楽な方がいい道とは限らないさ。それに、僕はもっと黒騎士(ぼく)を知りたい。ちゃんとした黒騎士(ぼく)で白(き)騎士(み)に向き合いたいから」

    ***

     控室で着替えながら黒騎士の独白を聞く。
     類が瑞希に頼み込んで作ってもらった、着脱しやすくて、それでいて見た目を損なわない衣装のおかげで、時間の余裕はまだある。帯剣し、深呼吸。
     ここからは新たな自分だ。
     黒騎士の血を吐くような呪い。たった今排除した己の半身、己にはない部分を寄せ集めた白騎士への憎しみを吠える。
     それを背に、司は控室から茂みの裏を通り、客席の後ろへ回った。最終リハーサルの今日は客は入っていないが、本番はけして気取られないように注意しなければいけない。音を立てないよう、茂みから客席の中央通路の一番後ろに立った。
     類と目が合う。
     司の準備ができたことを了解した類――黒騎士が自然な動作で剣に触れつつ、長台詞を締めた。
     瞬間、舞台の照明が落ち、同時に頭上のドローンからスポットライトがあたる。体温があがったと錯覚するほどの光量。
     脳が冴えわたる気がした。小さくモーター音が聞こえる。降雪機の準備をしている。今日は少し暖かい。時間がかかるはずだ。
     不可視の観客の視線を感じる。
     いつの間に、衣装が違う、どうして。驚く観客のざわめきが、聞こえる。
     きっと今、世界で一番注目されているのは自分だ。
     その機会を容易く設けた我が演出家を誇らしく思う。
     司は口を開く。
    「――あいつは、私だ。私の弱さだ。私の弱さが独り歩きをして、この世を脅かしているのだ。……なればこそ、私は退くわけにはいかない。私には責任がある」
     スポットライトが消え、代わりに舞台上の黒騎士が照らし出される。顔を手で覆い、背を丸め苦悩する姿。
    「俺は何者だ、奴は、なんだ……⁉」
     白騎士にスポットライト。
    「覚悟するのだ、己と向き合う覚悟を。弱さと向き合うのは、つらいことだ。おそろしいことだ。けれど、皆を、世界を守るため、光の方を向いて歩いていかねばならない!」
     黒にスポットライト。
    「何故こうも胸がざわつくのだ。……いや、こんな思いなどいらない。俺は、ただ、世界を呪うのみ」
     類(・)の視線が司を貫く。
     くる、と思った。
     黒騎士が剣を引き抜きながら噎ぶ。
    「この世界など不要! 一度壊し、理想を作るのだ!」
     客席の最後列から最前列まで、一息で飛ぶように駆けた白騎士は、その勢いのまま舞台へ舞い戻る。
    「そうはさせない!」
     黒騎士の目が驚きに歪む。
     二人の間に、ゆっくりと雪が舞い降りてくる。タイミングはばっちりだ。上手の舞台袖のえむがピースサインを掲げているのが見えた。
     白騎士が剣を抜く。光の下で新雪のように輝く、一点の曇りもない白銀の刀身を黒騎士に向ける。
    「弱さよ、お前が憎いよ。だからこそ……」
     黒騎士も、漆黒の刀身を白騎士に向ける。つやが消され、どこまでも光を吸い込むそれ。
    「……今度こそ」
     二年間。
     ほぼ毎日顔を突き合わせてきた。
     あるいは、既に類は司の半身とも言い得る存在になっていた。
     ゆえに、合図などいらない。
    『お前を倒す!』
     声はぴたりと重なった。
     数合打ち合う。互いの姿が観客によく見えるよう、立ち位置を反転させながら、かつ、鏡合わせを強調するように、動きのタイミングを揃えて。
     司はちらりと類を見遣る。
     この後に続く、黒騎士が斃されるシーン。その表現に、類は苦戦し続けていた。
     毎度手を変え品を変え、違う風にする。なにもかも実験的だったが、それぞれに裏打ちされた確固たる根拠がある演技なため、それに翻弄されることについて、司は全く文句はなかった。しかし類は、どれも納得感がないと言う。観客の納得感ではなく、自分自身の。目隠ししながら探し物をしているようだ、と言う。
     しかし、今日の類は決めてくる。
     司は確信していた。
     類が本番には間に合わせると言ったのだ。用意周到な類のことだから、一発本番にするわけがない。実質今日がタイムリミットだ。
     白銀が閃き、黒騎士が地に伏す。
     屈んだ白騎士の膝に頭を預けた黒騎士は。
    (っ⁉)
     どうにか声を抑えた。
     黒騎士は、類は、目を細め、優艶に笑んだ。
     弱弱しく伸ばされた手は、白騎士の頬を掠めるように撫ぜ、落ちた。
     呆然とする司が白騎士としてなにかアクションをとる前に、照明が徐々に絞られ、暗転した。

    ***

     全体として、全く文句のつけようがない出来のリハーサルだった。
     細々とした最終確認を終え、いざ解散となったところで、司は類を呼び止めた。
     司には分からなかった。
     黒騎士の最期の笑み、その意味。それに加え、あれは確かに類の表情だった。観客に見えようがない角度だった。
     まるで、黒騎士としての演技ではなく、類が司に笑ったようだった。司一人のための、何かのようだった。
     司の問いに、類は口端を緩めた。
    「そう見えた? 勿論ここで答えを提示するのもやぶさかではないけれど……黒騎士の笑った理由を白騎士が知ることはないだろう? 死者に口はないから。 だから、司くんが知って、メタ的に白騎士が知ってしまうのはナンセンスだと思う。だから内緒」
     類はすっと長い人差し指を薄い唇の前に添えて、からかうように目を細めた。
    「ずっとか?」
    「そんなに気になるかい?」
    「類が何を考えたのか知りたいんだ。オレはオレの幼少期の経験を重ねてトルペを掴んだが、類は自分の何を黒騎士に重ねて、ああいう風になったのか」
    「そう。……じゃあ、千秋楽を終えたらいいよ。僕がもう黒騎士じゃなくなったたその意味を教えてあげる。楽しみにしてて。そして、明日からこの世で一番いいものを魅せて、悔いなく終わろうか」

    ***

     幕がおりきってもまだ微かに聞こえる拍手に、司は呆けて聞き入っていた。
     ワンダーランズ×ショウタイムの面々も、誰も動き出せずにいた。
     のっぺりとした幕の裏面をぼうっと見ていた。これはもう二度と司の眼の前で開くことはない。どっと疲れたような虚脱感がある。
     えむがぺたりと舞台に座り込んだ。
    「終わっちゃったね」
     ピンクの大きな瞳に涙がたまり、すぐに決壊した。飴玉みたいな大粒の涙がぼたぼたと溢れる。
    「だめだなあ、あたし。ホントはこういうときこそ笑っていれたらいいのに、司くんと類くんに、お疲れさまって、今までありがとうって、言えたらよかったのに、困らせたくなかったのに……!」
     頬を伝う涙をぬぐうこともせずしゃくりあげる。
    「ちょっと、えむ……! そんなこと言ったら、私まで……!」
     寧々も言葉を詰まらせ、涙をこぼす。
     司もつられて感極まりそうになったが、なんとか年長者の意地で耐えた。
    「あまり泣くな。二度と会えないわけじゃないんだから」
    「でも、『ワンダーランズ×ショウタイムの司くんと類くん』とはこれでもうお別れなんだもん、寂しいよ……」
    「それは、そうだが……」
     まるで一人の人間の死のように泣かれるのは、なんとなく気恥ずかしさがある。司の属性、ひとつのアイデンティティの終幕なのだから、あるいはこれを享受すべきなのかもしれないが。
     ちらりと類をうかがうと、類も号泣する年下に気圧されたのかあたふたしている。いつもは振り回す側だから慣れていないのだ。先ほど舞台上で見せた涙は見間違いかと思うほど、余韻の欠片もなかった。
     涙でぐちゃぐちゃになりながら、えむは「忘れないでねえ」と言った。ず、と鼻をすする。
     せっかくかわいい顔をしているのに台無しだ、と涙を拭いてやろうと屈んだ司に、えむは抱きついた。ひどく泣くせいでゆるやかな熱源となったそれを、司は甘んじて受け入れる。
    「忘れないでね、あたしたちのことも、ここのことも! 司くんも類くんも、難しいかもだけど、また来てね! あたしたちはここで、二人で、頑張るから、よくやってるなって見に来てね。約束して」
    「ああ、約束だ」
    「うん。……だけど、今日は、あとちょっとだけ泣いてても許してね」
     顔をあげたえむは、にっと笑む。
     不格好で下手くそだが、名に恥じない矜持が見える。
     きっと自分たちがいなくなったって、すっかり大丈夫だ。ここは変わらず、まばゆいほどの夢を魅せ続ける。
     少し寂しい気がした。

    ***

     本格的な片づけと打ち上げはまた後日、として、閉園前に解散となった。年下二人は寄るところがあると言い、司と類は二人で、ショーのあそこがよかった、ここが上手くいった、と話しながら帰路につく。
     別れ際、司は類を引き留めた。
     サプライズで渡された、各自のイメージカラーで作られた大振りの花束を抱えなおす。
    「約束だっただろう。――演技の意図について」
    「いいよ。約束だったからね」
     言って、類はすたすた歩いて、さびれた公園に入った。都会で埋もれて忘れて去られてしまったような、小さな、遊具だって錆びたものが片手で数えるほどしかない。空地と言った方が相応しいようなところだ。
     不釣り合いなほどの光量の電灯で、類が煌々と浮かびあがっていた。
     長躯を無理やり小さなブランコにおちつけた類は、立ちっぱなしの司を見上げた。
    「白騎士は、本当に、キラキラしていて眩しかった。絶対的だった。――白騎士は善性で、黒騎士が悪性だ。白騎士は正しい。それはもう間違いない。白騎士に倒されるということは、つまり、自分がこの上ない悪だと肯定されることだ。それが、嬉しかった」
     黒騎士はね、と類が付け足した。
    「悪であることが、嬉しいのか?」
    「そりゃそうだよ。……いや、違うな。〝悪であること〟が嬉しいんじゃなくて、それを肯定されたこと。そういうラベリングが、自分に名前が付いたことが嬉しいんだよ。ラベルの内容はさほど重要じゃない。けれど、名もなき不定形で、淡い靄のような生より、極悪としての確固たる死のほうがよかった、そっちの方が救いだった、嬉しかった、安心したんだ。罪をひっくるめて白騎士に、すなわち世界に肯定されて。……それから。罪から解放される感謝、かな。とかく、複雑に絡まった蜘蛛の糸、あるいは毛玉みたいに、一通りには言い表せない感情の発露として、ああいう形をとった」
     まだ冬の気配を色濃く残した風が、類の髪をゆらした。わずかに花の香りが滲んでいる。
     類は寒いね、と身じろぎした。錆びた鎖がギシ、と悲鳴をあげた。
    「弱いことは、罪だろうか」
     いつかの問いを、司は再度漏らした。
     今となっては終わってしまった話だが、あるいは、倒さずともよかったのではないか。その問いがずっと司の中で燻っていた。
     類は決着のついたことには興味がないようで、問答を放棄して、うん、と言った。
    「いけないことだよ」
     都会の喧騒から一歩離れ、誰からも忘れられたような小さな公園で、言い含めるような類の声はやけに響いた。
     司のトルペと同じように、きっと類も、自分自身と黒騎士のどこかを重ね合わせたのだろう。ゆえに、その言葉は、黒騎士について言っているのではなく、自戒のように聞こえた。
    「……類自身の弱さもか」
    「勿論。悪で、罪で、ひどいことだ。司くんにだって言えない」
     ごめんね、と小さく類が言った、と、思った。あんまりに何でもない顔をしているから、聞き間違いだったかもしれない。少し、風が強い。
     鎖を揺らして立ちあがった類は、紫の花束を司に預けて、数歩歩いた。
     場違いに眩しい電灯の真下、大仰に両手を広げて光を浴びた。
     観客のように類を見るのはいつぶりだろうか。きらびやかな衣装でもない、ただの変哲のないコート。
     しかし、一瞬、ショースターかと見まがった。
    「司くん。今までありがとう。この二年は僕の人生の中で最もドラマティックで、刺激的で、楽しかった。スターの隣に二年も立てたことを、僕は誇りに思うよ」
     類は、先の舞台のように、丁寧に、深く、礼をした。
     司というただ一人の観客のための、この世で一番短いショーだった。

    〈高校三年・夏〉
     じっとしていても汗がふき出す。適当に括った髪がほつれて目にかかっている。
     夏も終わりに差し掛かって、ふと日が長くなったのを実感するほどだが、類の城であるガレージは空調が悪いためいつまでも蒸し暑い。
     汗みずくになりながら、流れるように類が作り出す試作の動作確認に付き合っていた司は、少し休憩しよう、と覇気のない声で言った。
     母屋から取ってきた冷たい飲み物で喉を潤す。全細胞が水分を欲していたようだ。
     ドアを開け放すと爽快な風が吹き込んだ。
    「外の方が涼しいってどういうことだ……」
    「もう日が落ちたからねえ」
    「ここもエアコン付けたほうがいいんじゃないか。いつか本当に倒れるぞ。最近はどんどん夏が厳しいんだから」
     うーん、と類は適当にあしらった。今年の夏はあと少しだけ、冬は着こめばなんとでもなる。来年はきっともう家を出ている。
     けれど、わざわざ司に話すべきことでもない。
     類は未来の話をしたくなかった。自分の未来の話をすれば、必然、司の話も聞くことになる。うっすらと漂う別離の予感を認めたくない。
     司の喉ぼとけが上下するのをじっと見た。出会った頃は少年の余韻を残して華奢だった首は、いつの間にか青年の逞しさをのぞかせている。
     同い年の自分が抱く感想としてはどうもおかしい気はするが、大人になったな、と思う。一抹の感傷がある。
    「なんだ、そんなに見て」
    「なんでもないよ」
     類は残りを一気に飲み干した。冷たさにこめかみのあたりがツキリと痛んだ
     一息ついて作業に戻ろうとする類に司が声をかける。
    「明日、暇か」
    「暇も何も、明日も司くんにつきあってもらうつもりだったから、言ってしまえば、暇ではないけれど、暇にすることもできる」
    「じゃあ出かけよう」
    「どこに?」
    「自転車で行けるところまで」
    「悪いけれど、暇じゃなくなった」
    「嘘つけ。この夏ほとんど部屋にこもりきりだったじゃないか。一日くらいいいだろう」
     なあ、と丸っこいアンバーの瞳が訴えかけた。
    (……ずるい)
     そんな風にされると、類はもう、是と言うほかない。分かっていてここぞというときにするのがずるい。
     類は「何しに?」と小さく言った。
     乗り気じゃないながらも類が承諾したことを察した司は、パッと顔を輝かせた。スイッチで切り替わる電灯みたいだ。
    「目的は……そうだな、死体を見つけに、とか」
     冗談めかして司は言った。
    「とってつけたように言うね。見つけたってネット記事か地方紙の端っこが関の山だよ。悲しいかな、現代だから」
    「いいだろう、それも」
     司はふと笑んだ。
     類は、もう、何となく予感があった。直視したくなかったものが、眼前にある。あとは類が焦点を合わせるのを待っているだけ。
     自分たちの、苦しいほどに青い時代は間もなく終わる。少年はいつまでも少年でいつづけることはできない。
     ありもしない死体を二人で探しに行って、そうして、その後も自分たちは同じでいられるだろうか。
     きっと司も、変化を予感してそんな物言いをしたのだろう。
    「……まあ、いいかもしれないね、それも」
     甘んじて受け入れるしかなかった。
     だって、そうするほかに知らない。

    ***

     日が高くなる前に類を迎えにきた司は、地図もなしにぐんぐん先導した。ルートは頭に入っているらしい。
     なんの屈託もない青空の下、川沿いを行く。
     絵に描いたような青春をなぞろうとするのは、いかにもドラマ地区を好む司らしい。
     類も司も何も言わず、ただ漕いだ。語る言葉を持たなかった。けれどそれで良かった。
     あるいは、この時間が永久に続けば、と願ったりもした。あまりに愚かしい。類はかぶりを振ってくだらない考えを追い出した。何も考えたくない。暑さで馬鹿になってしまいたい。きっとそっちの方が楽だ。Tシャツが汗でじっとりと濡れている。
    「雨だ」
     司が呟く。
     いつの間にか暴力的なまでに眩しい太陽は姿を隠し、代わりに刷いたような入道雲がぐんぐん広がっていた。あっという間に天球はねず色に覆われた。
     ぽつりと一滴、類の頬を濡らしたかと思えば、途端、バケツをひっくり返したように雨が降り出す。
     二人でわーわー言いながら少し先の橋下を目指す。
     100メートルも離れていないそこに入るころには、頭からシャワーを被ったようにびしょ濡れだった。
     前髪からぼたぼた雫を垂らす司を見て、類は思わずふきだす。
    「なんだ、お前だって似たようなものだぞ」
     司は自転車のサイドスタンドを立て、前髪をかき上げた。橋柱に背を預け座り込む。司らしくない粗野な仕草だった。
     類も同じように隣に屈んだ。
     司が類、と小さく名前を呼んだ。澄んだ夜空より透明なそれに、あ、怖い、と思う。聞いてはいけないやつだ。聞いたらもう戻れなくて、でも、いつかは聞かなければいけない。
     震えそうになる声をどうにか誤魔化して、「なに」と言った。
    「オレは、卒業したらアメリカに行くことにした」
     やけに乾いた唇を舐めて、類は「うん」と返した。それきり何も言えなかった。俯いて、ひっきりなしに波紋が広がる水面を見て、わざとらしく司から目を逸らした。
     知っていた、分かっていた。
     司は狭いところで一生を終える人間ではない。その目が海外に向くのは必定だった。
     分かっていたが、覚悟が足りなかった。
     頭の端の方がうっすらと冷えていくのを感じた。足元がぐらぐらするようだ。
    「類は卒業したらどうするか、もう決まっているのか」
    「僕は――」
     類の進路は決まっていた。答えるのは簡単だったが、一瞬考えこむ。
     もし、司に着いていく、と。君と同じだ、と言えば。
     生唾を飲みこむ。
     馬鹿な考えだ。何もかもへの冒涜だ。司の選択に付する覚悟を踏みにじってしまう。類にそんな勇気はない。
     結局、用意した言葉しか言えない。
    「僕は、大学に行くよ」
     司の方は見られなかった。
     悪いことをしているわけではないのに、一度滑り出した舌は、ぺらぺらと言い訳のように言葉を並べ立てる。
    「まだ知りたいことがあるし、大学に行かなきゃできないこともある。それに、僕は、前も言っただろうけど、垣根を越えたいんだ。各々のくだらないラベルなんて剥ぎ取って、僕や僕のショーの前では、どんな人もただ一人の人間としていられるようにしたい。勿論、いずれは海外に行くつもりだよ。言語や人種だって超えていかなきゃ。けれど、僕はまだ、日本でだってすっかりハードルを取っ払えるようなショーができたわけじゃないから。だから、もうしばらく、僕は日本でやる」
    「そうか」
     司は穏やかに微笑んだ。
    「さみしくなるな」
     類は、ああ、とか、うう、とか曖昧に答えた。
     ちっとも責めるようなかんじではないのが、余計につらかった。
     蝉時雨が遠くに聞こえる。
     雨が止んで、じりじりと目を灼く日光が差し込む。濡れたコンクリートが蒸して、夏の終わりのにおいがする。
    (そうか。司くんはアメリカに行ってしまうのか。だから、僕らには、こんな夏はもう二度とないのか)
     根拠もなく信じていた未来への連続性がふつりと途絶えてしまった。それは、たった18年の人生だが、比類なき喪失だった。
     さみしい、と類の中で声がした。
     そうだね、僕もさみしい。できることなら行かないでほしい。
     さみしいと言って、行かないで、と引き留められたら、どんなによかったか。そんな無様を曝せたら幾分楽だったろうに、類の微妙に大人になってしまった部分が邪魔をした。司の足かせになるなんて、そんな自分は看過できない。
    「濡れてしまったし帰ろうか」
     司が言った。
     同意した類は、肌に貼りついて気持ちの悪い服の感触を振り切るように、ぐ、と強く漕ぎ出す。
     西日が、追い立てるように背を押した。
    (ずっと君人ショーをしていたい、なんて、下らないことを考える僕は殺さなくちゃいけない)
     本当は、世界が終わる日まで、四人で身を焦がすようなショーをして、そのまま息絶えてしまいたい。
     けれど、そういうわけにはいかない。
     司には司の、寧々には、えむには、各々の目指すものがある。停滞を望むのは、類のどろどろした醜いエゴだ。愚か者の願いだ。放っておけば、いつか、呪いとなって皆を蝕んでしまう。
     運命的存在だった。
     けれど、道は、悲しくも他叉路だった。
     自分のエゴで縛るわけにはいかない。それに、友人の門出を祝福できるのが、正しく友人というものだろう。
     だから、と。
     類は、夏草の匂いを孕んで肺を犯す蒸し暑い空気を吸って、吐いた。
     ここで死んでくれ、僕。
     愚かな執着。
     どうか、そのとき、司くんの手をちゃんと離せるように。

     〈三月〉
     夏の終わりに類のスマホに「セカイはまだ始まってすらいない」ではない、もうひとつの「Untitled」が追加された。勝手に楽曲が入ったのは二度目なこともあり、驚くことはなかった。
     これは、自分のセカイだ。類は直感した。
     幾度か再生しセカイに足を運んだが、一度もそのセカイのバーチャルシンガーには会わなかった。
     比較対象が司のセカイしかないが、わりあい、自分のセカイは狭いのだと思う。司のセカイは賑やかで、眩しくて、歩いても果てがないほど広く続いていた。
     対して類のセカイは、劇場の内部で完結している。どこか懐かしいような、けれど記憶にはない劇場。臙脂のベルベットの幕と、揃いの色の古めかしいシート。寂れていて、くたびれた印象がある。広い客席にいるのが類一人だからかもしれない。ショーの余韻も人々の熱気もすっかり忘れ去って、死にかけているみたいな劇場だ。うっすらと埃のにおいがして、照明もくすんでいる。
     類は一階席の丁度中央のあたりに腰かけた。くたびれた椅子は、思ったより柔らかに尻が沈んだ。
     舞台は、たった今幕が上がったようだった。
     ワンダーランズ×ショウタイムの面々を模した人形が、若干の機械的なぎこちなさを見せながらも、舞台上を縦横無尽に飛び跳ねる。
     これが、自分のセカイ、自分の望みの具現化だと思うと、想いのグロテスクさにぞっとする。
     いつもは居心地の悪さを感じてすぐに現実世界に帰ってしまうから、腰を落ち着けて舞台を見るのは初めてだ。
     無声映画のようだ。ぼうっと眺めていた類は、ふと気づいた。
     自分たちが昔やった演目を再演している。
     ワイヤーで吊られた司を模した人形が、舞台の端から端まで飛んだ。
     きっと今のところは、現在の類なら違う風にする。
    (司くんは体力がついたし体幹も鍛えられたから、今なら吊られながらだって複雑な動きが可能だ。魔法で飛んだ設定ではなく、彼には羽が生えていることにして……いや、あえて魔法のままでもいいかもしれない。それなら表現を変えよう。魔法の発動は音響だけじゃなくて、客席の足元のヒーターを作動させて……。締めのラスサビ、今の寧々なら転調してもついてこられる。それなら一層盛り上げるために……。えむくんが、このアナザーストーリーをやりたいって言っていたっけ。僕がプロットだけ書いて、結局、それはどこにいったんだっけ……)
     頭をフル回転させて自分の思考に夢中になっている間に終幕していた。乾いた一人分の拍手を送る。
     今思いついたことを忘れる前に書き留めたい。メモは持ってきたっけ、とポケットを探る。しかし、ふと我に返る。
     考えても仕方ない。
     もう自分が司に演出をつけることはないから。
     どっと全てが嫌になってしまって、身体から力が抜けた。
     キュルキュルと巻き取る音が小さく聞こえ、ゆるやかに幕が上がった。
     またいつかの舞台の再演だ。今度は何の感慨もなく、ただ見ていた。時間が無為に過ぎていく。
     終幕。
     一人分の拍手。
     開幕、終幕、一人分の拍手。開幕、終幕、一人分の拍手。開幕――。
     何度繰り返したか分からなくなって、すわ夢かと思うほど輪郭がぼやけてきた。
     この人形劇は、悪いものではなかったが、良いものでもなかった。もう帰ろうか、と腰を浮かせたとき、再び幕が上がった。
     惰性で目をやった類は、息を詰まらせ動けなくなる。
     老婆役の寧々の周囲を、孫役のえむが飛び跳ねている。
     卒業公演だ。まだ台詞を諳んじることができる。
     やがて、白刃が閃き、黒騎士が地に伏す。
    「……やっぱり、弱さは、罪で、悪で、いけないよ」
     類は顔を手で覆って息を吐いた。
    「罪人は、鎖でつながれて、いつか処刑される。それが道理だ」
     不可視の鎖が、足元でじゃらりとなる。もう、動けなくなってしまった。どこにも行けない。どこにも行く気がない。
     類はあの夏に、己の弱いところをすっかり殺した、つもりだった。
     ふと口を衝いて出てしまいそうな言葉。何より、この世界が、失敗の証拠だけれど。
     学校の屋上で、司の手をとって踊ったときを思い出す。あの時、司はどこまでも優しくて、沈んでいたはずの自分の弱さが、息を吹き返したのを悟った。
    「ねえ、司くん。怖かったんだ。もしあの時、僕が——」
     言えていたら、何か変わっていただろうか。その変化が悪しきものである可能性を孕む限り、類は恐ろしくてたまらない。
     黒騎士と一緒くたに、類の弱さも、斬り殺されてしまいたかった。
     そうしたらきっと、嬉しいだろうと。黒騎士の最期は幸福だろうと。
     司には言うことはできないが、そんな意図もあった演技だった。
     舞台上ではまた別の演目が上演されている。
     いい加減音楽を止めてセカイからでなければいけない。心配されてしまう。明日は卒業式で、それから明後日は――。頭は回るのに、身体はちっとも動かなかった。
     天鵞絨のクッション張りのシートにずぶずぶと溺れる。
     舞台上の、別世界の、しかしかつて確かに類のものだった苦くて眩しい青春が、類を強烈に引き留めている。
     混ぜてほしい、と。
     希求すると同時に、泥のような絶望が類を襲う。
     どうしたって混ざれるものか。過去の、もう失われたものだ。
     類はゆっくりと瞳を閉ざした。
     羊水に浸かっているような退廃的な停滞は、誰かも侵し得ない。それが唯一の救いだ。

     司が、類の卒業式の欠席を知ったのは帰る間際だった。
     B組を除きに行って、いつもであれば木漏れ日のような笑顔で司を迎える席の主が不在で、おや、と思った。
     たしかに、あの目立つ長身を式の最中に一度も見かけなかった。
     類の欠席は珍しいし、意外だ。
     学校行事に積極的に参加するタイプではないし、授業態度も教師泣かせだ。けれど、類はきっと学校というものが嫌いではなかったと思う。殊、節目の行事となると「人生における一種のショーじゃないか!」と目を輝かせる。中心にはなろうとはしないが、傍から見ることを全力で楽しんでいた。卒業式ともなれば、例え体調が悪かろうと這ってでも来そうなものなのに。
     よほど体調が悪いか、のっぴきならない事情か。
     連絡しようと携帯を取り出したとき、B組のクラス担任に声をかけられた。
    「天馬、これを神代に渡してもらえるか」
     教師は、つい先ほど司も受け取った卒業証書をかざした。
    「神代、無断欠席なんだよ。連絡もつかないし。どうせ会うだろう」
     だからといってただの友人である司に託してもいいものだろうか。どこまでも緩い校風は少し考えものだ。
     実のところ会う予定はなかった。卒業式が終わったらそのまま一緒にセカイに行くつもりだったから特段約束はしていなかった。しかし欠席で、しかも連絡がつかないとなれば、会いに行くしかない。断る理由もないので、軽い筒を受けとった。
    「あとは……まあ、せめて顔暗い見せに来いって言っといてくれ」
     じゃあ頼んだぞ、と言い残して担任は去る。
     少し拍子抜けした。
     司にとっては不本意極まりないことだが、変人ワンツーの名の通り、司ともども類は問題児だった。成績はさておき、間違っても優等生ではなかった。それなのに、ちゃんと気にかけられている。類は風貌も振る舞いも大人びたところがあるが、ちゃんといち生徒として、まだまだ子供の存在として扱われている。
     困った生徒だが、悪い生徒ではなかったのだろう。
     きっと、いい学校生活だった。

     類にメッセージを送るついでに、在校生として指揮に出席していた寧々にも連絡した。
     教室に顔を出した寧々は、司の制服の胸に飾られた花を見て、照れくさそうに「卒業オメデト」と言った。次いで空っぽの類の席を見て眉を顰めた。
    「休みなの?」
    「ああ。無断欠席らしい。なにか知らないか?」
    「ううん、休むなんて聞いてなかった。……でも、珍しいね」
    「やはり寧々もそう思うか」
     司より随分付き合いの長い寧々が言うのだ。胸の奥の方が落ち着かない。
    「……心配?」
    「まあ、な」
     司は類に送ったメッセージの画面を見せた。十分前の司のメッセージは未読のままだ。気にしすぎだろうか、と言うと、寧々は「そうかも。十分未読でソレとか、ちょっとね」と苦笑いする。
    「でも、気になるよね。私帰ったら類の家行ってみるね。司はセカイ行ってみたら?」

    ***

     瞼の裏に星が散った。
     ゆっくりと目を開けた司を、「司くーん‼」と元気いっぱいのユニゾンが迎えた。
     覚悟するよりも早く、左からミク、右からえむに飛びつかれ、よろめくことも許されず息を詰めた。
    「卒業オメデトー‼」
     ミクの声に連動して、小さな花火がぽんと打ちあがる。摩訶不思議だが、司は二年間ですっかり疑問に思わなくなった。「セカイだから」で大概説明がついてしまう。
     ミクがツインテールを揺らしてキョロキョロと辺りを見回す。
    「あれ~、類くんは? 後から来るのかな?」
    「やはり来てないのか」
     司の呟きに首を傾げる二人に、事情を説明する。
    「ミクたちは誰かがセカイに来ると気付くだろう? 今日は来た感じはなかったんだな」
    「うーん、多分、来てないかな」
    「そうか……。では、普通に家だろうか」
     丁度司のスマホが鳴る。寧々からだ。三人で小さな画面を覗きこむ。『家にはいないみたい。インターホン誰も出なかったから。セカイにはいた?』
    「もしかしたらミクが気づかなかっただけカモー? 司くんのセカイは広いから」
    「じゃあ、ちょっと探してみよ! 心配だもんね」
     言うやいなや、えむが走り出す、見くと司も顔を見合わせ、違う方向に散開した。
     
     司はそこら中に散らばるぬいぐるみに声をかけてみる。ミクの言う通り、司のセカイは広いのだ。目は多い方がいい。
    「類クン?見テナイナア……。誰カ見タ?」
    「ボクモ見テナイ。ゴメンネェ、司クン」
     しゅん、とオッドアイの猫のぬいぐるみが肩を落とす。司はそれを抱き上げた。現実の、咲希の部屋の子らをこの前の晴れ間に干したからだろうか、おひさまのにおいがした。
    「いや、見てないならいいんだ。ここに来てるかも分からないんだから。もし見かけたら、ちょっと叱ってやってくれ」
     ぬいぐるみが首を傾げる。
    「叱ル……? 司クン、怒ッテルノ?」
    「ああ、いや、怒ってはいない。ただ、心配なんだ。ちっとも連絡がつかないから。類のそういうところはいけないな」
    「ワカッタ! ジャア、見ツケタラ、心配シテルヨッテ言ウネ」
    「ああ、頼んだぞ」

    ***

     最初にいた広場に戻ると、ミクだけがポツリと立っていた。ミク、と呼ぶと尻尾のような二つ括りを揺らして振り返る。
    「えむはまだ探しているのか」
    「えむちゃんは、寧々ちゃんと一緒に現実世界の方を探してみるって一旦戻ったよ」
    「そうか。しかし、これほど探してもいないということは、やはり現実世界か……? 多分いるならセカイだろうと思ったんだがな」
     司の送ったメッセージにはまだ既読がつかない。
     もし行くとしたらどこだろうか。劇場、展覧会、ガジェット店……。休日に山に登るようなバイタリティーあふれる人間だから、全く予想がつかない。
     ミクが言う。
    「類くんは見つからなかったけど……。司くん、舞台の裏に、開かない扉があるの知ってるよね」
    「ああ、大道具部屋の隣の、ドアも回らない部屋か。鍵が錆びているのかもしれないっていう」
     セカイに来たばかりの頃、皆でセカイ中を探検した。司が来るずっと前からセカイにいたというミクとカイトが先導した。カイトは「現実世界とセカイは違うから、気持ち次第であったものがなくなったり、なかったものが生まれたりするんだ。だから、今のところは、ってかんじだけど」と言っていた。結局司のセカイは二年間でそう変化は見せなかったが。
     探検の際紹介されたのが、ミクの言う開かずの扉だ。ミクたちも中に何があるのか、あるいはどこにつながっているのかは知らないと言っていた。
    「もしかしてって思ったの」
     ミクは歌うように言う。
    「今日は開いたよ」
    「⁉」
    「でも真っ暗でなにも見えなくてと~っても怖い! 司くんはそれでも行ってみる?」
    「ああ、勿論だ」
    「類くんがいるかは分からないよ?」
    「いないかも分からないだろう」
    「じゃあ、行こうか」
     ところで、とミクは頭上を走る汽車を指す。
    「司くんはあの汽車に乗ったことはある?」
    「? いや、ない」
    「どこから来て、どこへ行くのか知ってる?」
    「いや、ただ、そういうものだ、としか」
     たしか、仕組みについては類が真剣に考察していたが、司はただ〝そう在るもの〟として受け入れていた。
    「じゃあ、乗ってみよー!」
     ミクが司の腕を掴んでぐいぐい引っ張って駅舎まで連れていく。
    「ミク! オレは類を探しに……」
    「明かりが要るよ。本当に真っ暗だったから。それを取りに行くの」
    「明かり? スマホで照らせば……」
    「まあ、いいから、いいから。ね?」
     半ば押し込まれるように乗車した汽車は、ボックスタイプの席が並んでいた。古めかしい作りで、木枠の窓にはガラスがはめられていた。司とミクの他に乗客はいない。
     司とミクは向かい合って座った。いつも飛んだり跳ねたり踊ったり忙しないミクと膝を突き合わせて座るのは、なんだかおかしな気分だ。
     僅かな振動で汽車が動き出す。斜めに上昇しているのか、重力を感じた。
     ミクは足をぶらぶら揺らしながら言う。
    「類くんは〝どうして〟いなくなっちゃったんだろうね?」
    「〝どうして〟……?」
     ミクは眼鏡を押し上げるマイムをした。
    「今日のミクは探偵ミクだからねっ☆ 気になっちゃうんだ。どこへ行ったか、はもちろんだけど、ホワイダニットってやつも」
     レールの継ぎ目で汽車がガタリと跳ねた。
     司は考えこむ。類がいない理由。いや、もしかすると、卒業式をサボるほどの用事があって、しかも偶然スマホの電源が切れているだけで大したことはないのかもしれない。……非現実的だ。何か理由があってこういうことになっているのだとしか思えない。
     卒業式に来たくなかった?
     ——なぜ?
     まだ卒業したくなかった?
     ——なぜ?
     なにか、まだ学生としてやりたいことがあった?
     分からない。司は早々に諦めた。いくら考えたところで類の考えは分からない。類のいつもの行動が常軌を逸していて想像の及ぶ範疇にないことも一因だが、そんな突き放した理由ではなく、単に司と類が独立思考する他人だからだ。二年間密度の濃い時間を共有しはしたが、所詮他人だ。ああだこうだと勝手に思いを巡らせることはできるが、全て司の想像に過ぎないし、ともすれば思考の押し付けだ。ゆえに、分からないとしか言いようがない。
    「……ミクは分かるか?」
    「ミクは、司くんのセカイのミクだから、やっぱり分からない。司くんのことならよく分かるんだけどなあ」
    「そうか」
    「司くんと類くんは別の人だから、分からないのも仕方ないよ」
    「仕方ない、か」
    「うん、仕方ない」
     けど、とミクは微笑む。彼女は時折そういう顔をする。母か、あるいは姉がいればこんな風なのかもしれない、と司は思った。
    「司くんは、そういうときどうすればいいのか、もう知っている。そうだよね」
     類が、いつかの屋上で言いかけてやめたこと、終わりたくないとこぼした涙。
     白騎士に斃されたかった黒騎士は、司に言えない類の弱さは。
     類の真意を司は知り得ない。他人ゆえに分からない。けれど。
    (やはり、弱さを倒すべきだったとは、オレは思わない)
     司の、星の光をいっぱいに抱きこんだ瞳が綺羅めく。
    「なんであれ、オレは、それを抱きしめる覚悟はできているんだ」
    「うん。ならきっと大丈夫だよ。……あ、司くん、もう星に届くよ」
     ミクが車窓を開ける。
     目の前に広がる星空の光の残滓が車内に舞った。
    「下の街灯もね、ここから取ってきてるんだ~! 充電も交換も不要! ずっと光ってるの」
     司は下の広場の街灯を思い出す。星型のガス灯か電灯だと思っていたが、まさか真実星だとは。
    「取っていこ~☆ 持ちやすいように小さいのがいいかな。小さくたって十分明るいから」
    「いいのか、勝手に」
    「いくらだってあるもん」
     司は窓枠に手をついて身を乗り出す。風が顔を打った。おそるおそる手を伸ばし、指先を掠めた小さな星を握った。
     星は、白熱灯のようにじんわりあたたかかった。腕の中でぼうっと光を発し続けるそれを、司はなにか大事なもののように抱いた。

     ゆっくりと減速した列車は、若干軋む音を響かせて停止した。
     窓の外は、出発した停車場と変わらない。
    「実は環状線なの」
     ミクが言う。
    「ずっと同じところをくるくる回る。誰ものせていない、どこにも行けない、何も変わらない。遊園地のアトラクションみたい。おもちゃと同じで、本物じゃない。——司くん、いつかミクたちを、本当のどこかに連れて行ってね」
    「オレがどうにかできるのか」
    「分からない。けれど、司くんのセカイだから、もしかしたらって祈ってしまうの」

    ***

     かつては開かなかった扉の前に立つ。古めかしい鉄製の扉。ドアにはうっすらと傷跡がある。あまりに開かないから、類が怪しい機械でこじ開けようとして、めちゃくちゃなことをするなと必死に止めたのだ。
     ノブをひねると、錆びついた甲高い音を立てて、いとも簡単に開いた。
     隙間からのぞくと、ぞっとするほど暗い。夜の一番底を切り取って貼ったようだ。螺旋階段があるが、数段下ったあたりでもう見えなくなっている。少し湿ったような冷たい風がかすかに吹いてくる。司は小さく身震いをした。
     ——それでも行かなければいけない。
     ミクが司に、小さな星を閉じ込めたランタンを手渡す。
    「大丈夫だよ」
     何が、とは言わなかったし、司もあえて聞かなかった。
     ミクの華奢な手が、司の背を少しだけ押した。
     手を振るミクを背に階段を下る。鉄製のそれは、ローファーで硬質な音を立てる。
     踏み台は狭く、ランタンの光があってもともすれば踏み外してしまいそうだった。
     十段、二十段と下り、五十を超えたあたりでもう数えるのをやめた。あまりに変わらない景色、変わらない音に頭がおかしくなりそうだ。目を開けているのか閉じているのか、その境界すら曖昧になったころ、やっとその階段は終わりを見せた。
     円形の、ぽっかりした石造りの空間の壁に、場違いな分厚い扉がついている。既視感がある。劇場の扉だ。
     司は迷わず重い扉を押した。

     拍手の音。
    「これ、前にやったのだな。珍しく類が衣装にリテイク出して……。実は間に合うかハラハラしたんだ」
     目を開けると、隣に司がいた。当然のような顔をしている。
    「司、くん……?」
    「うん」
     はちみつをとろかした目で、そんな優しい声で返事をするから、類はいっそう苦しくなってしまう。
     司は制服だった。そういえば、と思い出す。
    「卒業式は?」
    「もう終わった」
    「そう、ならいっか」
     もしサボってここにいるのだとしたら追い返してやろうと思ったが、そうでないのならば。
     再び目を閉じ、泥のような安寧に溺れようとした類の手に司が触れた。
    「類」
     火傷しそうなほど熱い。司はいつもそうだ。生き様そのものが、ごうごうと魂の炎を燃やし光る恒星のごとく。
     振り払う勇気のない類はそれを享受した。
     司はぐるりと辺りを見回す。
    「これはお前のセカイか?」
    「さあ、分からない」
     半分、嘘だ。
     ここは類のセカイだ。半ば確信めいたなにかがあった。「Untitled」を再生して来て、核となり得る想いにも見当がついていて。
     けれど、いつまでも「Untitled」に本当の名はつかないし、バーチャルシンガーもいない。不完全で、セカイと言い切ってしまっていいものか分からない。
    「僕は自分のスマホの新しい『Untitled』から来たんだけど、司くんはどうやって来たの」
    「後ろの扉から」
    「へえ、扉なんてあったんだ」
    「オレのセカイと繋がっていた」
    「じゃあ、やっぱり僕のセカイとは違うかもね。僕がそうかもしれないって思っていただけで。実のところ司くんのセカイの延長戦、司くんのセカイなのかも。だって誰もいない」
    「オレは類のセカイだと思うが」
    「じゃあそうなのかもしれない」
     司は類にそれ以上なにも問わなかった。
     なぜここにいるのか、とか、どうしてこんなセカイを作ったんだ、とか、聞こうと思えばいくらだってあるだろうし、類も問われるだろうと思っていた。
     司はただ、類の手の形を確かめるようになぞるだけだった。
     星を閉じ込めてりんりんと燃えるのをやめない瞳で、司は類をじいと見つめた。類はあ、と息を漏らした。
    「戻ろう、類」
    「……司くんは、先行っててよ。僕はもう少しここにいる」
    「先生からお前の卒業証書を預かっているんだ」
    「今度渡して」
    「——オレは明日、アメリカに行ってしまうのに?」
     ひゅうと喉が鳴った
     類は俯く。もう司の顔をまっすぐ見るのが怖かった。自分の膝と、ぐと握りしめて震える拳だけを見る。
     行かないで、と、口が勝手に動いた。
     はっとして、慌てて「もう少しだけ、ここ(セカイ)にいて」と付け足す。
     けれど、多分、司にはばれてしまっただろう。類の一番醜くいところだ。遠くに沈めて殺したつもりだった、殺したかった。見せたくも悟られたくもなかったところ。ごめん、と言いたかったし、言ってしまえば不誠実になる気もした。司がどんな顔をしているのか分からない。俯いて震えることしかできない。
     司が類の手を放し立ち上がる。離れる温もりが名残惜しい。
     舞台を背にして類の前に立った司を見上げる。
    (やっぱり君は光の真下が似合うよ)
     逆光で、よく顔が見えない。
    「それでもオレは行かなきゃいけないんだ」
     幼子にかんで含めるような言い方。どこまでも優しくて、それがひどい。心臓がじくじくと膿む。
    「そうだよね、分かってるんだ」
     類は顔を手で覆って自嘲する。
    「……分かってたんだ。こんなこと、ちっとも言うつもりじゃなかった」
     きっとこのままだと謝られてしまう。それは耐え難いほど惨めだ。
     どうせ終わりが一通りに辛いものなら、いっそうもう自分の方から滅茶苦茶にしてやりたい。
     類も立ちあがり、そのまま舞台にあがった。下から見ていたときより舞台はずっと広く、眩しい。
     場違いにも、好きだ、と思った。
     舞台人は皆、舞台の神様に熱烈に片思いをしている。この場が、舞台上という小さな世界が、その温度、空気、見えるもの、何もかもが。
     自分の人生はここにしかないという気にさせる。
     なけなしの役者根性で、引き攣る頬を吊り上げ、無理やり笑みを形作る。どんなピエロより滑稽だ。大仰に手を広げ、一礼。最近はご無沙汰だったが、路上パフォーマンスは一人芝居だったから、子の仕草も慣れたものだ。
     凝視する司が、やけに鮮明に見えた。
     今、司は、自分しか見ていない。その事実だけで、さっきよりずっと自然に笑うことができた。
     ——どうか神様、見守っていて。天馬司の隣に立っていた、立ち続けたかった、神代類のラストダンスを。
     湿度の低い空気を肺いっぱいに吸う。
    「せっかく立派な舞台があるんだ。一つ見ていってくれないか。君に知られたくなくて、見られたくなくて、でも本当は少し見てほしい。そんな僕の醜いところ。錬金術師になれない、ただのつまらない男の、つまらない人生喜劇さ」

    ***

     演じるのは、二年前、司たちが類一人のために見せたショー。ハッピーエンドの、その向こう。
    「……さて、一座に加わった錬金術師は、それまで日の目を見なかった彼の腕を存分に振るうことができました。最初は仲間への手の伸ばし方が分からなかったけれど、仲間たちは、伸ばし方を教えて、待って、受け入れてくれました。……やがて、歌を歌えない歌姫は、再び舞台に立つ楽しさを思い出し、彼女は目指すものも見つけました。話を聞かない道化は、夢を夢のままにせず、ファンタジックな現実を作る未来を描くようになりました。一座の公演を通じ、周りの人だけではなく、一座の皆も新たな輝きを発見していきます。……もちろん、座長も。相変わらず大言壮語の夢想家でしたが、その壮大な夢をかなえるには何が必要か、彼はもう分かっていました。何億光年も向こうにあった荒唐無稽な彼の夢は、実現可能な、彼の進む道の先に確かにある光となりました」
     これは祝福だ。仲間の、遥かなる旅路への祝福。その道はけして穏やかなものではないだろうが、必ず希望があり、光満ち溢れたものでありますようにと。
     もう一歩も動けない類からの手向け花だ。
    「……では、錬金術師はというと、彼はなんでも知っていて、なんでもできました。けれど、だけど、僕は、なんでも知ったふりで、本当は一番、なにも分かっていなかった! 分かろうとしなかったし、知りたくなかった!」
     空っぽの劇場に、類の号哭が虚しく響いた。
     「錬金術師」ではなく、無力な一人の神代類としての言祝ぎを。
    「司くんはどこでだってやっていける。君はなにもかもの中心になって輝く才能がある。君はそういう人だ」
     そして、己には、呪縛を。
    「けれど、僕は無理だ。……今は、まだ。進めない、ごめん。君の眩しさに慣れてしまって、もう一人じゃ暗い道が怖いんだ」
     だから、と類は言う。ひ、と喉が引き攣った。まだだ。まだ泣いてはいけない。
    「ごめんね、司くん、やっぱり先に行ってよ。僕は僕が大丈夫になるまで、ネバーランドにもう少しだけいるから。いつか怖さも忘れて、そうしたらちゃんと進むよ。きっと僕は上手くやる」
     胸に手を添え礼をする。
    「……これで終いさ」
     拍手はない。それでよかった。
    「待て、類! それでもオレは!」
     舞台上に駆けのぼった司が、舞台を降りようとする類の腕を掴んだ。
    「まだ終わらせない!」
    「終わりだよ、もう駄目だ」
    「これはハッピーエンドか⁉ 違うだろう! ワンダーランズ(オレ)×ショウタイム(たち)にこんなエンドはない!」
     ぐ、と司の手に力がこもる。痛いほどだ。離して、と呟くが無視された。
    「言ってくれ、類。本当に言いたいことをまだお前は言っていないだろう。こんなことじゃないはずだ」
    「こんなこともなにも、僕の全てだよ」
    「違う。……類、本心は、口に出さないと分からない。オレはお前を理解したい。今一番望んでいることを言ってくれ」
     コポリと、泡のはじける音が鼓膜のすぐ側でした。あるいは、剣が鞘を滑る音。す、と体温が下がる感覚がする。
     ——やはり、言えない。
    「君に幻滅されたくないんだ。ここまで曝け出して今さらだけれど、そうまでしても言いたくないんだ。僕のひどくて、弱くて、最低なところだ。……いつか司くんは、僕が誰かの弱さで傷つけられたんじゃないかって言ったね。違う、違うんだ。本当は、傷つけるんだよ。僕が、君を」
     あの夏に、沈めて殺したつもりで、それでもしぶとく類の心中で息づいていたそれ。次第に育ってしまったそれが。
    「本当は、君に貫かれて今度こそちゃんと殺せたと思ったんだ。だから笑ったんだよ。感謝したんだ、白(司)騎士(くん)に」
     けれど、類の心臓に病魔のように巣くったそれは駆逐されてはくれなかった。
     望みなんて可愛いものじゃない。粘ついてどろどろしていて、光の真下に晒されようものなら惨めでたまらない。
    「なんで気づいてしまうの。だって、君になにも言わずに、未練なんてない風に別れられたじゃないか! そういう僕でありたかったんだ!」
    「前も言ったが!」
     司のよく通る声が朗々と響く。
    「オレは弱さを悪とは思わない! 倒す以外にも道はあった。 オレは今、全部抱きしめる覚悟で来たんだ」
     ハシバミ色がゆるりと細められる。ひどく緊張した場なのに、場違いなほど柔らかな笑み。
     大丈夫だ、と司の唇が動く。
     なにもかも大丈夫だから。
    「……多分、一番言っちゃいけないことだ。演出家で、仲間で、君の友人の僕が、最も言ってはいけない言葉だ。——ねえ、司くん、行かないで。なんで行く必要があるの? ずっと僕らだけでやっていくことはできないの? 僕は僕ら四人でずっとショーをしていたかった! ……分かってる。だから、何も言わないで。けれど、僕は……」
    「さみしいよな、オレもだよ」
     類は驚いて顔をあげる。
     そんなに意外か、と司は照れたように笑った。
    「さみしいよ、オレも、ちゃんと。自分で選んだ道だけど、さみしいものはさみしい。……でも行かなきゃいけないんだ、ごめん」
    「謝らないで。悪くないのに。悪いのは僕だ」
    「類だって悪くない。お前の弱さだって愛おしいよ。その気持ちはけして迷惑なんかじゃないし、そんなものでオレは傷つけられやしない。むしろ結構! オレたちとの時間が、類の中でそんな大切なものになっていて嬉しかった」
    「なるよ。だって僕のすべてだ」
    「オレだってそうだった。だからさみしいんだ。だが、たしかにオレたちの道は分かれはするが、また再び巡り合うだろう。オレはこれっきりにするつもりなんて全くない。オレが輝いていて、類も輝いていれば見失うわけない! 類の道はけして暗くならない、ちゃんと遠くからでもオレの輝きが見えるようにするから。だから類も、止まらないでくれ。万が一にでもオレが迷わないように。天馬司に一番の演出をつけるのは神代類だと、ピカピカに磨いてそれに掲げてくれ! そうやって、一万キロ離れた隣で歩いていこう!」
     スポットライトに照らされたように、司がキラキラと輝いて見えた。
     いつの間にか客席に行儀よく並んでいた人形たちもまばらに拍手を送る。
    「どうだ! 観客も満足している。ぐうの音も出ないハッピーエンドだな! これにて閉幕!」
     司は高笑いして胸を張る。
    「どうだろう。強引すぎやしないかい」
    「でもさっきよりずっといいだろう? 道の先でオレたちは会える。オレたちには未来があるんだ」
    「そうかな……ううん、そうかもしれないね。そうだといい、そうしようか。じゃあ、司くん、本当の本当にハッピーエンドにしよう」
    「ああ」
    「帰る前に、もうひとつ付き合って。そこで終わりにしよう」

    ***

     司が劇場に入ってきたときに使った、赤い天鵞絨の張られた重厚な扉を類が押す。そちらは帰り道だと言う間もなく、扉は開かれた。
     ぱっと目に飛び込んだのは、抜けるような夕空。天が高く雲一つないが、宵の明星も見えない。星が、ない。日が落ちかけて、すべての輪郭が曖昧になる中、司の手元の星明かりのランタンだけが、淡く、しかし確かに光を放っている。
     雨上がりの蒸れた草いきれ。水量の多い川が涼やかに流れている。夕暮れの風は爽やかだが、立っているだけで汗が滲む。
     司には覚えがあった。時間は違えど、いつか類と行った河原だ。
    「類⁉ なんだこれは!」
     返事はない。先に扉を開けたはずの類の姿はどこにも見えなかった。草むらから、ジーと低く鳴く虫の声がするだけだ。
     類はこのセカイのことをまるで知らない風だったのに、と思う。あるいは類のセカイだからこそ、本人は直感的に分かるのだろうか。司は司のセカイについて、そんなことはないけれども。
     オレはどうしたらいいんだ、と頭を抱える。
     どんどん暗くなっていく中、ほとんど右も左もわからないような場所に突っ立っているわけにもいかない。周辺を見てみようか、と歩き出す。護岸工事のされていない自然のままの河原は、司のローファーではうっかりすると転んでしまいそうなほど足元が悪かった。
     ふと微かに、風が子供の泣き声を運んできた。潮騒のように聞こえたり聞こえなかったりするが、たしかに。こんなところに普通の子供がいるわけがない。きっと類だ。
     風に乗る音を頼りに歩を進める。やや離れた橋の下の方で、泣き声と、水音。
    「類」
     星明りのランタンで照らし出す。
     川べりの浅いところに座り込んで、半身を水に浸けている少年が顔をあげた。どうしてだか頭から水を被ったようで、全身がぐっしょりと濡れている。あどけない頬に幾筋も涙の跡がある。わずかに面影がある。幼い類だった。
     るい、と言って司は川に入る。濡れるのは構わなかった。膝を折って、冷えた小さな体を抱きしめた。
     大人の——大人になろうとしている類は、これを悪しきものだと言う。ひた隠しにして、殺して、なくしてしまいたかったものだと言う。
    「それでもオレは、こうしてあげたかった」
     さみしかったよな、さみしいよな、分かるよ。
     柔らかなすみれ色の髪をかきまぜる。
     類の弱さは、わあ、と堰を切ったように大声で泣いた。司の肩に顔をうずめて、さみしい、さみしい、とわめいた。
     物わかりがいい大人のフリをした類が、ほとんど全部をさらけ出して、それでも自分からは頑として言わなかったことだ。ちゃんと類のセカイの片隅で息をしていて、つられて泣いてしまいそうなほど安心した。
    「見てよ。僕の執着は本当にひどいんだ」
     司は振り返る。
     川岸に立った類が、眉を下げて苦笑した。
    「こんなセカイを作り上げてしまうほどに。だから君に見せたくなかった。……けれど、君が大切にしろって言うから、ちゃんと全部抱えて持って行くよ。僕は僕を置いて行ったりなんかしない」
     おいで、と類が言う。
     司の腕の中の少年は、類の方に駆け寄った。
    「ずっと無視していてごめん。君も僕だ。一緒に行こう」
     片膝をついた類が少年の背に手を回し、抱きしめた。ひとつ頷いた少年は、ゆるやかに光の粒子となり、やがて類に溶けて消えた。
     司は詰めていた息を吐き出した。きっとこれで、万事問題がなくなった。
    「……ズボン、濡れてしまったね」
    「別に大したことない。すぐ乾くから」
    「こちらは夏でも、現実は冬だけど」
    「もう春だ」
     川からあがった司を類は真正面に捉えた。互いにまっすぐ見つめ合うのは随分久しぶりな気がする。
    「司くん、さみしいよ」
     類の瞳は、暮れなずむ藍を溶かして朧げに揺れた。
    「けれど、進むから。光る君は隣にいる。僕も、僕を君に見せ続ける」
    「ああ、期待している」
    「まずはその一環として……」
     類はいたずらっ子のようにニッと笑う。
    「明日の見送り、覚悟してよ。180㎝の男の本気の駄々を見せてあげるからね」
    「待て待て待て‼ そういう話だったか⁉ えむも寧々も困るぞ⁉」
    「彼女たちは許してくれるよ」
    「許すだろうが、それでもなあ⁉」
    「……駄目かい?」
    「い、いや、類がいいならいい、のか?」
    「冗談だよ。ちゃんと見送る。……だから、ちょっとぐらい泣いても許してくれるね?」
     じゃあ行こうか、とどちらともなく言った。
     きっと類のスマホの「Untitled」の再生を止めたらすぐに戻れるのだろうが、司はそれに気づかないふりをしたし、類も何も言わなかった。無言の内の了解があった。
     すっかり日が落ちきった薄明の中を、司の持つ星明りのまろやかに拡散する光のみを頼りに歩く。類のセカイには月も星もないようだった。
     それ、どうしたの、と類がランタンを指した。
    「ミクが教えてくれてな。オレのセカイの星を取ってきたんだ」
    「あれって取れるものだったのかい⁉」
     目を丸くした類は、惜しいことをしたなあ、と心底残念そうに呟く。
    「知っていたら何に使うつもりだったんだ?」
    「さてね。そのときになってみないと分からないかも。ああ、でも、電気じゃないなら水中で光らせたり、砕いて粒子として……。ねえ、それちょっと貸してよ。よく見たいんだ」
     ランタンを受け取った類は躊躇なく中の星を取りだした。
    「ふうん、あったかいんだね」
     類はひっくり返したり翳したり傾けたり、矯めつ眇めつして、ひょいと口に放る。
    「な、お前、馬鹿‼ ぺってしろ‼」
     司が類の胸倉を掴み揺さぶる。
     類は面白いものを見たとばかりに、わざとらしく喉ぼとけを上下させて、ぺろりと真っ赤な舌を出した。
    「もう飲んじゃった」
    「馬鹿ーーッ‼」
     司は真っ青になった。
    「おま、お前、拾い食いはするなとあれほど……!」
    「言われてないし、拾い食いじゃないよ」
    「実質そうだが⁉ 気持ち悪かったり変だったりしないか⁉」
    「食道あたりもあったかかったよ。無味だけど」
    「そういう感想を聞いてるんじゃない!」
     どうするんだこれ、と頭を抱える司の制服の裾を、類がちょいちょいと引っ張り、空見てみて、と言った。
     顔をあげると、電灯が燈るように、星のなかった類のセカイに星が生まれる。息をつく間もなく、ピンクと藍色のグラデーションの空が、宝石箱をひっくり返したように賑やかになった。
    「そういう仕組みなんだねえ。もう一つ食べたら次は花が歌ったりして。予備ないかい?」
    「ない!!!」
    「残念。……でも、さっきより明るくなったね。結果オーライじゃないかい?」
     たしかにたった一つの光源のときよりよく類の顔が見えた。泣きぬれたような赤い目をしている。
     やっぱりさ、と類が言う。
    「本当につらいし、さみしいし、君に行ってほしくない。君に出会ってしまったからこんなに苦しいんだ」
     ああ、と司が言う。
     夕暮れの涼風が二人の頬を柔らかく撫で、過ぎていく。
     すみれ色を風に遊ばせて、類は一等綺麗に微笑んだ。
    「けれど、こんな苦しみさえ愛おしい。君に敢えてよかった。君とショーができてよかった。あのとき、君の手をとってよかった。全部、本当だ。ありがとう、司くん」
     宝石の欠片のように零れた涙をすくいとる。あたたかかった。
     オレだってそうだ、と司は思う。
     言っても言いきれないほどの想いがある。言葉をいくら尽くそうと嘘になってしまうくらい。
     だから。
     司は恭しく一礼し、類の手を取って腰を引き寄せた。
    「キザだね」
     類は空気を揺らして笑う。あの屋上の再演、あるいは幸福な続編だ。
     透明な音に合わせて、くるりくるりと軽やかに舞う。いつまでもこうしていたかったし、できる気がした。
     息が切れて足が縺れ、二人いっせいに地面に崩れ落ちる。胸がひゅうひゅうと鳴って涙が滲むほど苦しかったが、それでもなんだか笑ってしまった。類も涙をぬぐって笑っている。
    「……行こうか、こんどこそ。きっと寧々とえむくんにひどく心配させてしまった」
    「ああ、そうだな。オレのセカイで結構な大ごとになってるぞ」
     さやかな星影のもと、二人は並んで歩いた。
     今はたった50㎝の距離が、明日には一万キロになる。
     それでも隣を歩いていく。
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