悪魔と堕天使(その3)「ん……」
背後から包み込んでくる満足げな気配。
その微かな息音にプレストンは身を固くすることしかできない。だが
「あっ……」
突然その背に柔らかく湿り気のあるものが触れるのを感じ、びくんと体が跳ねる。
「動くなよ」
感触が離れ、かわりに後ろから聞こえた掠れた声。
動こうにも動くことなど出来ない。その体は後ろから逞しい腕にがっしりと捕まえられているのだから。
「……いっ……」
また柔らかな唇が皮膚に吸いつくのを感じた。
「や……め……」
やめてくれと言わせないと言うかのように、体に回された腕の力が増す。
背に走る一番新しい傷。そこを、じっとりと湿った柔らかい肉がゆっくりとなぞる。悪魔の舌が与えるのは、薄い刃で切り裂くような痛み。だが、それなのに――
それなのに、プレストンの喉から漏れたのは、苦痛の叫びではなく悦楽の溜息だった。
どうして。
渦巻く疑問を遮るように、プレストンは目を瞑った。
遡ること数時間前。
「くそっ……」
肩に手を当て首を思い切り後ろへ回す。与えられた部屋で休もうとしたものの、寝台に横になっても一睡も出来なかった。
原因はただ、この背の忌々しい傷のせいだ。堕ちてきてしばらく経ったのに一向に癒える気配がない。自らの過ちを戒める痛み。プレストンにとって初めてではないのだが。
だが、今回は殊更に酷いのではないだろうか。翼がもがれた原因を思うと、そんな気がして仕方がない。
深く溜息をついたところで部屋に誰か入ってくる足音が聞こえ振り返る。
「王がお呼びです」入口に小柄な悪魔が立っていた。
「そうか、じゃあ後から行……」
「今すぐに」
しばし悪魔と見つめ合ったあと、プレストンはやれやれと首を振った。
いつだってこうだ。マンデルが来いと言えばプレストンには断ることは愚か、遅らせることも出来ない。たとえ何千年経とうとも変わらないのだろう。
しょうがなく、悪魔の後について行く。やってきたのはあの王座の間ではなかった。
「遅い」
開いていた本をバタンと閉じ、マンデルが眉を上げる。
これ以上どう速く来いと、などと言えるはずもなく小さく肩を竦めたところで、突然マンデルの腕が伸びてきた。
プレストンが息をのむ一瞬のうちに、気づくと寝台の上に押し倒されていた。そうか、ここは彼の自室か寝室だったか、などと冷静に考えている自分にプレストンは内心苦笑した。
「なあ、昔よりも速くなってないか? 動きが。力も強……」
「試してみるか?」
プレストンを遮り、見下ろす顔がニンマリと笑う。そして伸びた手が動いたと思えば、気づいた時には上半身を剥かれていた。
「な……」
なにをするんだ、と聞きたかったが、聞いても無駄なことは百も承知だ。
そして、何をされるかなんてわかっている。
だが、マンデルはのしかかっていた体をすっと起こした。そしてプレストンを横向きにし、その後ろに寝ころぶ。そのまま、何かする気配がない。獣が横になったかのように手足を投げ出したプレストンの体にぴったりと沿うように、マンデルの体も弧を描いて横たわっているだけだ。
だが、プレストンが後ろを伺おうとしたところで、がしりとその動きをブロックされてしまったのだった。
「……ぁ……んんっ……」
「ふん、気持ちよさそうに」
耳に注ぎこまれる愉し気な声に、プレストンの体の熱はより一層高まる。
そして僅かな湿った音とともに、また肩甲骨のあたりに鋭い痛みが走る。見えていないのに、マンデルの深紅の唇と艶めかしく動く舌が、肉を割るように動いているのが手に取るようにわかる。
「て……天使の血なんて……悪魔には毒じゃないのか?」
苦し紛れに言ってみるも、フンと鼻で笑われる。
「堕天使、だろうが。それに、俺ほどになると―」
少しひんやりとした彼の指が傷の両岸を分かつようにぐいと押し広げる感覚。
「―真逆の奴のものは俺の力を強くしてくれるだけだ」
「…………!」
ぐち、とひと際深く押し入った舌先から痺れるような感覚が体を貫く。マンデルの手はプレストンの首と脇を掴みその背を一層強く引き寄せる。
自分の血と混ざりあう唾液から注ぎこまれる悪魔の気。
毒が回るよりも速く、それは一瞬でプレストンの髪の先から足先まで流れ込み、火が付いたような熱に蹂躙される。
強すぎる。
昔はここまでじゃなかった。
身もだえすることも許されぬ狂おしさに、プレストンの目が潤む。
だがぼんやりする頭の奥ではっきりとわかっていた。
流れ込んでくるこの力に、自分の体は暗い悦びを感じていることに。
自分はこの悪魔の腕の中に捕らわれることを望んできたのだ。
あの場所を捨てて。光を捨てて。
覚悟を決めたなどと格好よく言える自信はないが、自分なりに腹は括ったつもりだ。もっとも、霞む視線の先でその腹は呑気ななだらかさで波打っていたが。
「お前だってそうだろう?」
だから、後ろからそう聞こえた時、口は勝手に肯定するように動いていた。
首元にふっと笑う息がかかる。そして次の瞬間、その首元に鋭い牙が突き立てられるのを感じた。
声にならない悲鳴とともにプレストンは息を飲んだ。
離れていた時を超えて、この悪魔がいかにその力を蓄えたか、プレストンは文字通り全身で思い知りながら、意識が薄れていくのを感じた。
「う……」
二、三度瞬きをして、ようやくプレストンは自分に与えられた部屋に寝ていることに気づいた。ぐらぐらとする頭を掻きながら体を起こす。
しばらくぼんやりしたところで、ふと気づいて手を背中に回した。
傷の痛みがひいている。いや、まだ疼く感じはあるが、それでも我慢できないような痛みは去っていた。
意識を失う前の記憶が蘇る。
まさか、とは思うがそれしか理由は思い当たらない。悪魔の王の口づけ。それにはそんな力があるのだろうか。
服を身に着け、ぼんやりと外を歩く。
前から下級の悪魔たちが歩いて来るのに気づき、しまったと思った時には遅かった。
「見ろよ、哀れな堕天使だぞ」
獲物を見つけたような笑みを浮かべて近づいてくる。プレストンは身構えた。
だが、あと数歩というところで、悪魔たちは突然固まった。その視線はプレストンの首元を凝視している。そしてプレストンが何か言おうとするよりも早く、彼らは踵を返し一目散に消え去った。
「え、ちょっと……」
なんなんだと、残されたプレストンは首を捻った。何気なく手を首元にやる。
「あ……」
首元にくっきりと残された跡が疼きだすのは、もうしばらく経ってからのことだった。