悪魔と堕天使(その5)「マンデル、実は……お前に、言わないといけないことがある」
まだ、情事の余韻でとろりと熱を持ったマンデルと目が合う。こんなタイミングで言うことではないだろうとプレストンの頭の片隅で声がするが、しかし今を逃したら言えないのではないかという声がそれを打ち消す。高揚感とふわふわ漂うような頭の時でなければ。プレストンはゴクリと唾を飲み込む。
「この、石……」
マンデルの胸に埋まった暗赤色の石。指先で撫でるとひんやりと冷たい。
「これの場所を……その……」
「なんだ」気だるげにマンデルが目を細める。
「言ってしまったんだ……」
誰に、と問うマンデルの眼差しは、その先を知っているように見えた。耐えきれず目を逸らし、プレストンは言った。
「その、つまり、天国の奴らに」
沈黙が流れる。だが、ほどなくして、ふっと息を漏らすのが聞こえた。
「なるほど、天使に戻る見返りに差し出した、か?」
プレストンは腕をついて体を起こした。
「知らなかったんだ! まさか、お前が王になっていて……しかも、その胸に持っているなんて!」
「……待て、じゃあ、石はいったいどこにあると言ったんだ?」
「伝え聞いたとおりに……『地獄の頂きの胸に抱かれて』。その、地獄の一番高い山の奥深くに埋まっているとかだと思ってたんだ!」
マンデルの眉が下がり、力が抜けた口の端が面白そうに上がる。
「阿保か、お前は。だが、天国の上の奴らはそんなに阿保ではないと思うぞ」
プレストンは頬を赤らめ唇を噛んだ。
「まあ、だが、奴らが知っていようがいまいが、どうでも――」
「どうでもよくない!」
プレストンが遮った。「だって――」
天が裂け、大地が揺れる。
常に薄暗い地獄の空が、明るく煌々と照らされている。
雲の裂け目から太陽の光が差し込んでいるのかと錯覚するが、ここに太陽はささない。
裂けているのは雲ではなく、天だった。
「そんな……」
バルコニーから目の前の光景を見下ろすマンデルの背はじっと動かない。その後ろで、色を失ったプレストンの口からかすれ声が漏れる。
「こんな、早くくるなんて……」
プレストンの足から力が抜け、がくりと床に膝をつく。
俯いた視線の先で、マンデルのブーツが一歩近づくのが見えてプレストンは体を強張らせた。
「わ、私は反対したんだ!」
プレストンはキッとマンデルを見上げた。見上げた先のその顔は無表情だった。
「いくら天国の奴らでも、地獄を殲滅するなんて、そんなの間違っていると……! でも……」
「でも奴らはお前の言葉など歯牙にもかけない、だろう?」
腕組みをしたマンデルが、滑らかな声で言った。
「で、楯突いたお前は堕とされた、と?」
コクコクとプレストンは無言で頷いた。
マンデルは片手を上げてゆっくりと髪をかき上げ、そして、何も言わずに出ていった。
地獄の暗い空を引き裂いたその割れ目から、幾百、いや幾千もの、光を纏った者たちが舞い降りる。彼らの放つ光線の先で、黄金色の光が弾け、轟音と共に地上から赤黒い煙が上がる。
地獄の淀んだ空気をやわやわと揺らす騒めきは、悪魔達のまさに断末魔の叫びなのか、濁った地面の揺れなのか。
「まあ、いつかはこんなことになると思っていたさ」
目の前の状況とはおよそそぐわない、どこかのんびりした調子でマンデルは眼前の光景を見つめていた。だが、組んだ腕のその指先は、強くその二の腕を握っている。
王宮の外に出てみれば、そこは破壊と殺戮で満ちていた。
殺すことなど厭わず、悪に染まった悪魔達でも、統率をとって襲い掛かる天使たちにはかなわない。
「そんな……」プレストンは思わず目を瞑る。その途端、肩に衝撃を感じ、よろめいた。
目を開けると、左胸の少し上に矢が深々と刺さっていた。その途端、前に立っていたマンデルがくるりと振り向いた。
「……いっ……!」
無言でマンデルは矢を引き抜き、そしてそのままくるりと返すと目にも止まらぬ速さでそれを相手へ投げ返した。勢いよくその矢を顔面に受けた天使が地面へ落ちていく。
マンデルはプレストンの首を掴み、むんずと引き寄せた。
「え……」
血が流れるその傷口に、マンデルの口が押し当てられる。強く吸いついたのち、柔らかい舌がすっと撫でていく。口を離したマンデルは、赤く濡れた唇を小さく舌なめずりをした。
「わかっている、プレストン。お前が俺の世界を差し出したんじゃないことくらい」
そんな勇気はないだろうからな、と付け足す。
その見下すような視線とは裏腹に、プレストンは傷口が癒えていくのを感じた。
「だが、今お前は使い物にはならない。下がってろ」
マンデルはそう言うとプレストンを後ろへ突き飛ばした。
剣を持った天使がマンデルに襲い掛かる。マンデルは、それをいとも簡単に腕で跳ね返し、そしてブーツから短剣を抜くと、その喉元を切り裂いた。その鮮やかな戦い方を見ながら、プレストンは、そういえばあいつは生前は軍人だったな、と思い出す。
尻もちをついたまま、プレストンは目の前の光景を見つめた。
少しずつ、地獄の暗く悪に満ちた空気を、正義の光が埋め尽くしていく。
それは神々しいはずなのに、プレストンの目には、酷く禍々しく陰惨に見えた。
自分も含めて、ここに堕ちてきた者たちは罪人たちだ。裁かれるべき者たちだ。それは否定しようがなかった。
だが、天国の奴らに、それを裁き抹殺する権利があるのか?
確かに、天国にはまさに聖人君主たる者たちも沢山いた。だが、地上で大罪をおかすことこそなかったが、天国に昇っても、噂話に精を出しながらのうのうと過ごすだけの天使たちだってその何倍もいた。
彼らがいま、マンデルのこの世界を勝手に浄化しようとしている。
ふいに、プレストンは、自分の中で今までに感じたことがないほど、強く黒い感情が渦巻くのを感じた。「怒り」という名の感情が。
気が付くと、勢いよく立ち上がり、マンデルを取り囲んで攻撃している天使の一人の首をむんずと掴んでいた。プレストンの手から黒い怒気が立ち昇る。それまでに感じたことのないような力が腕を走り、その手の中で天使の体から力が抜けていくのを感じた。
最後の一人を始末したマンデルが振り返り、ふっと笑う。
「プレストン、さすが俺の堕天使、いや、もう立派な悪魔だな」
その途端、マンデルの体がぐらりと傾いた。プレストンが思わず腕を伸ばす。その体を受け止めた途端、ぐっとマンデルの顔が近づいた。
唇がプレストンの唇に重なる。さらに求めるように強く押し付けられ、思わず口を開いたプレストンの口内にぬるりと舌が滑り込む。
プレストンも体が一気に燃え上がるのを感じながら、その舌に自らの舌を絡ませた。時折鼻から漏れる荒い息遣いと共に、二人の口づけも速く深くなっていく。競い合うように、お互いの黒い感情を貪り合う。
マンデルの腕がプレストンの背に回され、その体を強く引き寄せたかと思うと、プレストンは、肩甲骨のあたりをその爪が引き裂くのを感じた。そして次の瞬間、マンデルが強く口を吸い寄せるのと同時に、その皮膚の裂けめから何かが伸びるのを感じた。
それは羽だった。天使の頃の白い羽ではなく、闇夜のように黒く光る羽だった。
どれほどの間、お互いを貪り合っていたのだろう。どちらともなく、二人は口を離した。濡れそぼった二人の唇の間に細い銀糸が糸を引く。プレストンはそっと自分の背の方を振り返った。ゆっくりと、生えたての翼を揺らす。
「俺ほどじゃないが、まあまあだな」
マンデルも見せつけるように自分の翼を広げ、そして言った。
「お前に頼みたいことがある」
右往左往する下級悪魔達の間を縫って王の間に戻ると、そこは外とは打って変わって静かでひんやりとしていた。
「頼みたいこととは何だ?」
マンデルは腕を軽く組んだまま虚空を見つめていたが、決心したようにプレストンの目を見つめ、そしてゆっくりと服の前を開けた。
「俺の胸から、この石を取り出せ」
「え……?」プレストンは思わず瞬きした。
「取り出すって……取り出しても大丈夫なのか?」我ながら間抜けな質問だと思いながらもプレストンは聞いた。
「天国の奴らの手でこの石を取り出されたら、石は力を失い砕け散る。そうなれば本当にこの世界は終わる。だが、悪魔の手ならそうはならない。俺が前の王を倒した時のようにな」
「でも……」
「取り出して、お前しかわからない場所へ隠せ。そうだな、お前の言ったみたいに山の奥深くでもどこでもいい。あとはまあ、地獄の沙汰も悪魔次第といったところか――」
「でも、それを取り出したら……」
マンデルの心臓の位置で脈打っていた石をプレストンは見つめた。
「お前は……どうなる」
マンデルは、短剣をプレストンに差し出した。
「お前の手でされるなら悪くない」
プレストンは強く首を振り後ずさった。
遠くで悪魔たちの叫び声がする。
「早くしろ!」
マンデルがプレストンの腕を掴んで引き、プレストンが強くそれを振り払おうとした途端、床が揺れた。二人でもつれるように倒れこむ。
床の上から見上げるマンデルの視線と、そのうえに倒れ込んだプレストンの視線が絡み合う。マンデルは短剣の柄をプレストンに握らせた。
「俺のことなんて嫌いだろう? プレストン」
マンデルの口が嗤う。プレストンは目を背けた。
「駄目だ、できない」
マンデルの目に怒りの色が宿る。
「お前はやっぱり使い物にならない意気地なしなのか?!」
「煽っても無駄だ」プレストンの頬にも色が差す。
叫び声が近づいてくる。
「俺は……お前に頼みたいんだ! プレストン」
マンデルはそう言うとぐっと首を上げ、そしてプレストンの耳元で囁いた。
プレストンの目が見開かれる。思わず手の力が緩んだその途端、短剣を握ったプレストンの手の上からマンデルの手が強く握り込んだ。
「……!」
短剣がマンデルの胸に深々と突き刺さる。一瞬、マンデルの体が小さく跳ね、喉から声が漏れた。だがその口はすぐに、ふっと笑った。
「いいぞ……プレストン、そのまま、抜け……」
操られるように、プレストンは顔の色を失ったまま、握った手をぐっと引いた。
手の中の短剣の先に突き刺さった石が、マンデルの胸から抜け出る。それを確認するように見つめたマンデルの目は、ゆっくりと瞼を下ろした。
「マンデル……!」
プレストンが思わず叫ぶ。だが、その途端、石が強く震え出した。手を離そうにも力を抜くことも出来ず、そのまま突然重みを増した石に負けるようにプレストンの手が下に落ちた。
固い床にぶつかった途端、石は真っ二つに割れた。血のような赤く黒い液体が流れ出す。
床が大きく揺れる。いや床ではない。地面が、空気が全て揺れている。
世界が身もだえするかのように揺れる。
プレストンの手から短剣が滑り落ちた。なんとかその手で体を支える。
そんな馬鹿な。悪魔なら大丈夫なはずなのに――。自分は、まだ「天使」だったのか?
揺れる空気に押しつぶされそうになりながらプレストンは頭を抱えた。
崩れだした天井の破片が降ってきて、プレストンは頭を上げた。窓から外が見える。
空が赤く燃えるように光っている。轟音が天を引き裂く。
その赤に焼かれるように、空を舞っていた天使達が灰のように散っていく。
振動はさらに激しく地獄の全てを揺らしていた。
あの石と同じように、今にも真っ二つに裂けようとしていた。
悪魔は死んだらどこに行くのだろう。
マンデルもそれは知らなかった。いや、考えたこともなかった。
マンデルはぼんやりと目を開けた。
静寂に包まれたその場所は、どんよりと薄暗い。そして体が重い。
ゆっくりと腕で体を支えながら上体を持ち上げると、体の上から何かがずり落ちた。
「う……」
「……プレストン?」
埃にまみれた顔がうっすらと目を開く。「……マンデル?」
マンデルはさらに体を起こし、そして何かに気づいたように恐る恐る胸に手をやった。
その指先が冷たく固いものに触れた。
「どうして……」呟いたマンデルの目は、衣がはだけたプレストンの胸元で止まった。
マンデルは、そこにもう片方の手を伸ばした。両手の指先が同じものに触れた。
プレストンの胸にも、赤黒く光る石が嵌め込まれていた。
プレストンもゆっくりと体を起こすと、マンデルの胸元に手を伸ばし、そこに嵌っている石をそっと撫でた。
「お前と……二人で分かち合いたかったから」
二人は向き合ったまま、無言で互いの胸の冷たい輝きを見つめた。
マンデルがすっと上体を前に傾ける。二人の額が静かに触れ合った。
「マンデル……」目を閉じたまま、プレストンが掠れた声で言った。
「私も、同じだ――」
――好きだ。大嫌いなところも含めて――。
囁くようなその声に、マンデルの頬が僅かに動く。
どちらともなく顔を離す。
次第に少しずつ、この呪われた世界の騒めきが息を吹き返す。二人は外を見た。
「悪魔たちは……」
「ああ、悪魔は地下に潜るのは得意だからな」
悪魔はけっこうしぶといんだ、とマンデルが呟く。
「俺もお前も、相当しぶとい。そうだろう?」
にやりと嗤うマンデルのその言葉に、プレストンもフンと笑って返す。
二人を暗く重く陰鬱な空気が包み込む。だが、それは二人にとって、天の恵が如き至福の甘美さを持っていた。
二人の漆黒の翼の先が、手を取り合うかのように触れ合った。