白鳥の湖 偽りの愛を勝ち取った時、黒鳥はどんな気持ちだったのだろう――。
どことなく凛とした空気が漂う廊下。かすかにピアノの音が聞こえる。
バレエなんて縁遠い世界だった。それなのに今、プレストンは劇場の中、関係者しか歩かない廊下を歩いている──今日からここが職場になるのだ。
バレエ団の裏方で働いていた叔父が体調を崩して仕事をやめることになり、ちょうど職がなくフラフラしていたプレストンにその仕事の話がやってきたのがほんの数週間前。すんなりと話が決まり、そしていまこうして木の廊下を歩いている。時折すれ違うダンサー達は、同じ人間とは思えないほど颯爽とした雰囲気を纏っていて、プレストンはいつも以上に猫背になってしまう。
「ここが事務所ね」
前を歩いていたら初老の職員がドアを開けた先は、見たところ普通の事務室といった雰囲気で、少しばかり拍子抜けした。
バレエ団の事務員という仕事の話を聞いて、少し期待したのも事実だ。可愛いバレリーナの女の子達、悩める彼女たちに寄り添ってあげて優しい言葉などかけてサポートすれば、あわよくばお近づきになれるかもしれない、という下心。自分で言うのもなんだが、そんなふうに相手を落とすのは得意だった。
だがそんな幻想は、いとも簡単に打ち砕かれた。
「えーっと、シューズですね」
新しいトゥシューズを受け取りに来た可愛い顔の女性ダンサーに、しっかり微笑みを投げてから、奥にシューズを取りに行く。薄桃色のシューズがずらりと並んだ棚から一足を取ってきて手渡したが、彼女は腕組みをしたまま眉を上げた。
「これじゃない。私の棚にあるやつ」
そう言って彼女は名前を言った。棚に戻ると、確かに名前の札が貼ってある。彼女の棚を見つけ出し、山と積まれた一番上の一足を取り出して戻ったが、彼女は一瞥してため息をついた。
「違うってば。今使ってるのは──」続けて言った言葉は聞き慣れず、メーカーか何かだろうと思ったがわからない。プレストンは冗談めかして呟いた。
「贅沢だな。靴なんてどれも一緒だろう?」
彼女が驚いたように目を見開き、そして目の前に置かれたトゥシューズをさっと取った。
次の瞬間プレストンは、トゥシューズというものがいかに硬いかということを、身をもって実感したのである。
彼女がたまたま気の強い女性だったのかと思ったが、どうも違うらしいと落胆するまでにそれほどかからなかった。
「厳しい世界だからねぇ」
休憩時間に思わず職員仲間に漏らすと苦笑いが返ってきた。
「トップになれるのは一握り。誰がどの役をもらうか、皆んないつもピリピリしてるのさ。シーズンごとにクビだってあるし」
そんな世界なのかとプレストンは目を丸くした。
女の子達との蜜月を諦め、それでも仕方なく仕事を続けてしばらくした頃、事務室のカウンターに長身の男性が現れた。
「入館証をくれ」
新しい入館証の交換のためにダンサーたちがやって来る時期だった。プレストンは座ったまま彼を見上げた。焦茶色の髪に色白の肌。すっと整った顔立ちだが、その目はどこか鋭い光を秘めている。
「えっと、名前は?」
プレストンが尋ねると、彼は片方の眉を上げた。「は?」
「だから名前を」プレストンが繰り返すと、彼はまじまじと見つめたあと、フンと鼻を鳴らし、ぐいとプレストンの背後へ顎をしゃくった。プレストンが振り返ると壁に貼ってあるポスターが見えた。次の公演のポスターだ。
「そこにデカデカと書いてあるが?」
何度かポスターと目の前の不機嫌そうな顔を見比べたのち、プレストンはようやく察した。プリンシパルダンサー、このバレエ団のダンサーの最上位に位置する男性ダンサーの一人。
「あー、マンデル、マンデル…えっと、これですね」
カードを渡すと、彼は芝居がかった仕草でカードをクルリと回し、ふっと小馬鹿にしたように笑った。
「面白い冗談をどうも」
次の瞬間には彼の姿は消えており、微かな香水の匂いだけが残っていた。
それなりに名の知れた大きなバレエ団だが、事務員は少なく、その仕事は毎日雑多だった。
レッスン場のバーのネジが壊れていると言われれば、道具を持って駆けつける。ドアを開けると中から音楽が聞こえた。ダンサーたちが練習している。出ていこうかと思ったが、隅で指導していた人が頷いて入って来いと合図する。プレストンは部屋の隅で道具箱を開け、壁に取り付けられたバーの修理に取り掛かった。
壁は全面鏡になっており、壁に向かって作業していてもダンサーたちが目に入る。
何十人もの女性ダンサー達が等間隔に並び、ぴたりと同じ動きを繰り返す。彼女達は両腕を波打つように動かしている。その動きはあまりに滑らかで、骨が入っていないのかと思うほどだ。
確か、次の公演は「白鳥の湖」だ。ということはあれは白鳥の羽の動きか。
プレストンはまるで白鳥の群れのそばに佇んでいるような気分になった。
しばらくすると、彼女たちは踊りをやめ、壁際へ散っていった。
代わって空いた真ん中に二人のダンサーが進み出た。
一人はプレストンにトゥシューズの硬さを味わせたバレリーナ、そしてその相手役は──そう、確かマンデルだ。
女性の方はトゥシューズで小刻みにステップを踏みながら腕を広げる。その顔には、はかなく悲し気な表情が浮かんでいる。あの気の強い彼女の変貌ぶりにプレストンは思わず目を見張った。
マンデルがすっと彼女のそばに進み出る。セリフはないのに、その表情だけで、白鳥の美しさの虜になっていることがわかる。
部屋の中央で繰り広げられる二人の踊りを、四方の壁際からダンサーたちの目が見つめる。この間同僚が言っていたことを思い出す。その目は、踊る二人の座を虎視眈々と狙っているように見えた。
だがそんな視線をものともせず、二人は物語を紡いでいる。しかしその踊りが素晴らしくても、やはり何が起きているのかわからないのがもどかしい。
名前は聞いたことがあったが、「白鳥の湖」がどんなストーリーか知らないことに気づき、プレストンは劇場の資料室に足を運んだ。有名な演目を網羅していそうな入門書を開くと一番最初に載っていた。
狩に出た王子は森の湖で美しい白鳥に出会い恋に落ちる。彼女は悪魔の呪いで白鳥に変えられたオデットという姫だった。呪いを解くのは永遠の愛の誓い。彼女を忘れられない王子は、翌日舞踏会に現れた、彼女にそっくりのオディールに愛を誓うが、彼女は実は悪魔の手下の黒鳥だった──。
翌日、プレストンが食堂でランチを食べていると、ふいに影がさした。見上げた先に立っていたのは──あのダンサー、マンデルだ。
「ここ、いいか?」
昼の食堂は混んでいる。相席も致し方ないとプレストンは頷いた。正面の席にマンデルが座る。トレーには結構な量が載っていた。マンデルはダンサーらしく細身だが、それでも体力を使うのだろう。よくみれば、その体はがっしりとしている。
沈黙しているのも気まずく、プレストンは、白鳥の湖のあらすじを読んだことを話した。マンデルも聞くともなく聞きながら時折プレストンを見る。
「それにしても」プレストンはどうしても疑問に思ったことを言った。
「いったいなんで、白と黒を見間違えるんだ?」
添えられた写真の白鳥の姫は純白の衣装、片や悪役の黒鳥はいかにも禍々しい黒の衣装だった。いったいどうして王子は、白鳥と黒鳥を間違えて愛を誓ってしまったのだろう。
マンデルの手が止まる。プレストンも固まった。だがマンデルはニヤリと笑って言った。
「やっぱり面白い奴だな。これほど芸術を解さないのに劇場で働くとは」
「別に関係ないだろう? 私はダンサーじゃないんだし」プレストンはそっぽを向く。
「お前がそう思いたいんなら構わないが」マンデルのひんやりとした声が言う。
「お前だってここで働いている以上、この劇団の一部だ。俺と同じようにな」
プレストンは思わずマンデルの方を見た。
「見たことないんだろう?」バレエ、とマンデルが言う。
「夕方6時。第一スタジオ」
マンデルはそう言い残して、空になったトレーを手に去っていった。
仕事を終えて事務室を出たプレストンはしばし立ち止まったのち、出口とは反対のほうに足を向けた。
一番大きな第一スタジオは、大きな窓で囲まれており、廊下から中が見える。プレストンが近づくと、ダンサーたちが窓にもたれて中を覗き込んでいるのが見えた。
少し気おくれしながらも、プレストンも後ろからそっと覗きこむ。
中では、マンデルと、女性ダンサーが踊っていた。今日は二人とも衣装をつけている。マンデルは豪華な王子の衣装、女性のほうは真っ黒なチュチュ。女性ダンサーは、この間の彼女だ。白鳥と黒鳥は同じダンサーが踊るというのは、プレストンも本で知っていた。
だが、彼女はこの間とはまったく違っていた。
呪われた白鳥の悲しみと儚さはどこにもなく、何も知らないプレストンの目にも、まったく別の空気を纏っていることがわかる。
妖艶な笑みを湛えた彼女の動きは、滑らかで優美だ。だがその瞬間には、素早く脚を上げ、くるりとキレのある動きで回転を繰り出す。そのめくるめく誘いに魅入られたように、マンデルは微笑みを浮かべ、彼女を求めるように追いすがる。
気が付くと、プレストンも食い入るように見つめていた。
なんて美しく強く艶やかなのだろう。
息をつく間もなく、今度はマンデルのソロに移る。
華やかな音楽と共に、大きく脚を振り上げたマンデルの長身の体がふわりと高く宙に浮く。
昼間に食堂で見た、彼のがっしりとした体躯とは思えない、まるで重力を感じないジャンプにプレストンは目を丸くした。
高く上げた彼の長い両腕は、優雅な曲線を描き、その指先まで王子の気品が漂っている。冷静に見れば少し気取りすぎているようなその姿も、マンデルの手にかかると夢の世界が現実に置きかわったように素直に引き込まれてしまう。
――かっこいい。
思わずプレストンの胸にそんな思いが宿る。いやいや、とあの不遜な態度を思い出そうとするが、目の前の姿を、瞬きも忘れて見つめてしまう。
少しのブレもなくくるくると回転したマンデルがすっと横にはけると、こんどは黒鳥の彼女が現れる。一瞬の静寂ののち、彼女は真横に上げた脚を鞭のように振りクルクルと鋭く回転を始めた。
一回転、二回転、三回転――。彼女は止まることなく。回り続ける。その足は一回ごとにほんの数センチのつま先で体全体を持ち上げている。プレストンは目を丸くした。自分なんて両脚でつま先立ちしても3秒と立っていられないし、二回も回れば目が回る。なるほど、靴なんてどれも同じとのたまった自分が許されないわけだ。
そんなことを考えているうちにも彼女は回り続け、そして何事もなかったかのように笑みを浮かべながらピタリと止まった。20回、いや30回は回ったのではないだろうか。
だが、プレストンがあんぐりと開けた口を閉じる間もなく、すっとマンデルが現れ、彼も競うように回転技を繰り出す。
そしてまた舞台は二人の世界になり、誘うようにマンデルに腕を伸ばしながら後ずさる彼女にすっかり魅入られたマンデルが、彼女に引かれるようにそれを追う。
ドラマチックな音楽と同時に、うっとりと悦びの表情を湛えたマンデルは、彼女の手に頬を寄せ、そして、彼女は勝ち誇ったように上体を大きくのけ反らせた。
プレストンは思わず小さく息をのんだ。なるほど、そこには白か黒かなんて無粋な考えが忍び込む隙間もないような、濃密でドラマチックな世界しかなかった。
音楽が止まり、二人がポーズを解くと、とたんに魔法がとけたように張り詰めた空気が去っていくのがガラス越しでもわかった。マンデルは髪をかきあげながら、彼女と何か話し込んだあと、二人の踊りを確認している。どうやら、彼女を持ち上げる動きで気になることがあったらしい。
マンデルの長い指が、彼女のほっそりとした腰を支え、そしてぐっと高く持ち上げる。自分とおなじ10本の指なのに、しっかりと信頼感があり、すっと離れて宙に浮かべば、そのラインはうっとりするほど艶めかしい。
自分が触れられているわけでもないのに何故か体が熱くなり、プレストンは思わず腕で体を抱えた。何度も何度も同じ動きを繰り返す二人をしばらく見つめたのち、静かにそこを離れた。
その夜、夢をみた。
まばゆいステージのライトの下、王子姿のマンデルがプレストンを見つめている。美しい顔に恍惚の表情を浮かべながら、自分に向かって腕をのばす。プレストンの胸が高鳴る。
さあ来い。人を惹きつけることには少しばかり自信がある。笑みを浮かべながら、気に入った女性を落とすときのとっておきの顔でマンデルを無言で呼ぶ。
偽りだとわかっている。彼が自分などに興味はないということも。それでも――。
二人の指の間に糸が結ばれているかのようにマンデルが近づく。彼の手が自分に触れる。そしてぐっと抱き寄せる。
言いようもない悦びが体を駆け抜ける。彼の手がプレストンの体を持ち上げ――
「……重っ」
――どすんという衝撃で目が覚めた。
「……いっ……て」
目を開けると部屋の床が目に入った。ベットから落ちて無防備にぶつけた腰をさする。胸はまだドキドキとしていた。間近に迫るマンデルの顔が頭に蘇る。
いったいなんでこんな夢を見ていたんだ――混乱する頭を振る。ダンサーなんて宙がえりを一万回したって到達できない身なのに。だが、その時ふと、この間のマンデルの言葉が頭によぎった。
お前だってこの劇団の一部だ。
床に尻をついたまま、プレストンは口に手をあててじっと考え込んだ。
そうだ、マンデルも自分も、いまや同じ入口を通って同じ建物で働いている身なのだ。
プレストンはすっと立ち上がった。心もち、いつもより背筋が伸びる気がした。
いつの間にか腰の痛みは消え失せ、宙を舞うかのように軽やかな心でプレストンはシャワーを浴びに行った。