協力しないと出られない部屋「喜べ、プレストン」
その声にプレストンはめんどくさそうに振り向いた。マンデルが笑みを浮かべて立っている。
「例の部屋がとれたぞ」
「ほんとうか?」プレストンも思わず目を丸くした。
ファッションウィーク中は、文字通り目が回るほど忙しい。
ショーの前日の準備を終えたマンデルとプレストンは、足を引きずるようにホテルの部屋へ転がり込んだ。
街でもトップクラスの高級ホテルのスイート。それに相応しい地位を築いたことへの誇らしさを感じる余裕すらないほどだ。だが、荷物を置いて一息ついたプレストンは部屋を見回して溜息をついた。
「すごいな」
ドアを開ければ、少しばかり廊下などがあってから、広々としたリビングが二人を迎える。テーブルには、花が生けられた大きな花瓶。床には現代彫刻のようなオブジェ、洒落たランプ。部屋を横切ってドアを開けると、これまた広々としたベッドルームと、五人くらいは寝られそうなサイズのベッド。ふわりと清潔感のある香りが漂う。ベッドルームを横切るとバスルームの白い扉。その中もこれまた広々としていて、蛇口とボウルは二セットだ。さらにバスルームとは別にシャワーブースもある。奥の扉を開けるともう一つベッドルーム。今日のベッドは別々だろうか、という疑問がプレストンの胸によぎる。
「そうはしゃぐなよ」
ドアというドアを開けて回るプレストンをマンデルが欠伸をしながら見つめる。だが、その顔もまんざらではない表情だった。
なぜなら、この部屋はこのホテルに一つしかない特別な部屋だからだ。
「しかしほんとにあの伝説の”パートナールーム”に泊まれるとはなあ」
プレストンが溜息をつく。
この部屋にパートナーと一緒に泊まると、固い絆で結ばれる――。
そんな噂がまことしやかにささやかれるこの部屋は、夫婦だけでなく、業界のビジネスオーナーたちにも有名な部屋だ。
「運を使い果たしたんじゃないか?」プレストンが笑う。
「馬鹿を言うな。運はショーに使うんだ。まったく今回は奇跡でもなんでも頼りたいくらいだ」
マンデルがグシャグシャと髪を掻く。ファッションウィークのような大きな仕事も前はいつもそうだ。いつもは自信に溢れているくせに、急にイライラとネガティブな発想をし始める――そんな姿にもプレストンはもう慣れていた。
プレストンはばたんとベッドに身を投げた。マンデルもリビングのソファにだらしなく体を預ける。「夕食、どうする?」
「はあ、もう一歩も出たくない」
「そうだな」
部屋と部屋で二人の溜息が重なった。
「おい、プレストン早くしろ! 遅れるぞ!」
泥のように眠ったのも束の間、次の日も朝から予定が詰まっていた。
プレストンがバスルームから飛び出し、出口へ走る。マンデルがドアのレバーを押す。
「ん?」「どうした」
マンデルがガタガタとドアのレバーを揺らす。だが重厚感のあるドアはびくともしない。
「オートロックだろ。カギは……」
ドアにはそれらしいものが何もついていない。見回すと、横の壁にボタンが一つついた白いパネルがあった。
「これ、か?」プレストンがボタンを押すと、横のランプが赤からオレンジに変わり、ピピッと電子音が鳴った。マンデルがもう一度レバーを押す。だがドアは開かない。少しすると、ピッと音がしてまたランプは赤に戻った。
「くそっ急いでるのに! どうなってるんだ?」マンデルがイライラと毒づく。
「なんか書いてある」プレストンが、パネルの横に書かれた説明を読もうと眉を寄せた。
「開錠の仕方。えーっと、まず……バスルームおよびシャワーブースと洗面の蛇口を締める」
「は?」思い切り顔をしかめたマンデルも覗き込む。
「2番目が……ミニバーと冷蔵庫の扉を閉める」
「……なんでそんなことせにゃならん」
「私に聞くなよ」プレストンが返す。
「そんで、金庫をロックし、窓をすべて施錠する。……まあ、それは必要かもしれないが」
マンデルは無表情だ。
「で、室内の電気を全て消す、と」
「だからなんで、部屋のドアの鍵を開けるのにいちいち……!」
「知らないって」そう言いながら、プレストンは、そういえばこのホテルはエコな取り組みで有名なんだったか、と思い出す。だが、それにしても、だ。
もう一度説明に目を戻したプレストンは最後の一文で固まった。
『右のボタンを押してから十秒以内に上記の全てを行ってください』
「はあ?!」
マンデルが目を剥く。だが、プレストンも同じ気持ちだった。だが、わけのわからない仕様に怒っている暇はない。部屋に戻って、ついていた電灯を消す。
「窓は開けていないし、これで大丈夫のはず」そう言ってボタンを押す。
だが、さっきと同じだった。
「何か閉め忘れてるか?」ひとまわり室内を全部チェックするが問題ない。
「こう書いてある以上は、あれじゃないのか?」
マンデルが死んだ魚のような目で言った。
「ボタンを押してからこれを全部やらないといけないんじゃないか?」
「はい??」今度はプレストンが目を剥く番だった。
「全部繋がってるって? そんな配線ありか?」
「くそッ、面倒だ。バルコニーに非常階段かなんかあるだろ」
マンデルが部屋を突っ切る。プレストンも後に続く。バルコニーのドアを開け、外に出る。確かに申し訳程度の鉄の階段がある。だが、下を見て二人は気づいた。
「いや、無しだな」
ファッションウィーク中は、ホテルの前にもカメラマンたちが張っている。二人がガタガタの非常階段から降りてきたら、ブランドの顔としてまずいだろう。
「しょうがない、やるしかない」
意を決した表情でマンデルが袖をまくる。そしてバスルームとシャワーブースに行き、栓をひねって湯を出し、洗面の蛇口も二つとも回す。リビングの端にある冷蔵庫とミニバーの扉を開けっ放しにする。プレストンも廊下の金庫の扉を開け、電気をすべてつけた。
煌々と明るい室内には冷蔵庫の冷気が流れ込み、じゃあじゃあと水が流れる音がする。どう見てもエコとはほど遠い状態が完成した。
「よし、じゃあ、お前はスイッチを押して、金庫とミニバーと冷蔵庫、いいな?」
プレストンも頷く。マンデルは奥のほうへ消えた。
「準備いいか?」プレストンが叫ぶと、「ああ!」と遠くから返事が返ってくる。
「いくぞ、3・2・1、ゴー!」
プレストンがボタンを押す。廊下の金庫を閉じてダイヤルを掌で適当に回す。リビングへ走り込み、冷蔵庫とミニバーを閉めると、目の端でマンデルが走り込んで来るのが見えた。バルコニーの扉を閉める。ご丁寧に扉には上下に二つ鍵がついていた。マンデルの体が目にも止まらない速さで上下する。
「戻れプレストン!」
その声にプレストンは扉の方へ振り返って走る。だがその時足が思い切りテーブルにぶつかった。
「あっ……」
大きな花瓶がぐらりと傾く。飛び出したマンデルが危機一髪のところでそれを掴む。はあ、と二人で息をついたところで、ピッと嘲笑うような音が聞こえた。
「……クソっ!!」二人の声が重なる。
マンデルがちらりと腕時計を見る。
「もういっぺんだ!」
もう一度繰り返す。今度も、扉まであと数センチというところでランプは赤に変わった。豪華で広々とした部屋が忌々しくなってくる。何度か繰り返すと、なんとか扉に辿り着いたがドアが開かない。鬼の形相で戻ったマンデルが、部屋のすみの上品な背の高いランプは部屋のスイッチでは消えないことに気づく。
ぜいぜいと息をつく二人の中で、強大な敵に立ち向かっているような闘争心が芽生えだしていた。
「……ランプ、頼めるか、プレストン」「ああ」
プレストンはハンカチで汗を拭き、ランプを引きずって、冷蔵庫のほうに引き寄せる。それを見てマンデルが「なるほど」と小さく呟く。
「よし、今度こそ……!」二人で視線を交わし、頷き合う。二人はもはや運命共同体だった。
プレストンの叫び声とともに、ショーの準備で疲労困憊しているとは思えない俊敏さで二人の姿が室内を飛び回る。ドアの前に置いたカバンをひっつかみ、二人は同時にドアノブに手をかけ――。
ついに開いたドアの隙間から、二人はホテルの廊下の絨毯に倒れ込んだ。
「……やった! 奇跡だ。やったぞマンデル……!」
マンデルも両腕でささえた上体をのけぞらせながら、ああ、と呟いた。二人は立ち上がり、そしてぐっと互いを抱き合った。ホテルの部屋から出ただけとは思えない達成感が満ち溢れていた。
だが、感動に浸る余裕はない。二人はエレベーターへ走った。
「そんな変な部屋あるんですか?」
アシスタントが怪訝な顔で聞き返す。
「ああ。嘘じゃない」「そう。私も一緒だったんだ」
いつになく息のあった会話を見せる二人を見比べると、アシスタントの彼は首を傾げ、言った。
「でもなんで、私かフロントに電話しなかったんです? 開けに行ったのに」
マンデルとプレストンは、無言で顔を見合わせた。