その名を知れば 朝一番に淹れるコーヒーは最高だ。
そんな洒落たことを自分が思うようになるとは──。クレーバーはカップに口をつけて大きく息を吸い込みながら思った。
そう、去年の自分なら思いもしなかっただろう。故郷の田舎町の炭鉱で働いていた時の自分なら。
炭鉱の仲間とちょっとした揉め事を起こしたのが発端だった。小さな田舎町だ。些細なことでも居づらくなる。家族もいないクレーバーは、さっさと町を去ることにした。そして所持金で来られるそれなりに大きな町として辿り着いたのがここだったのだ。
偶然やってきたその町は、大きな大学のある町で若者も多く、居心地は悪くなかった。安い店も多いし、なんなら大学に潜り込んで、空調の効いた部屋で少しばかり時間を過ごしたり、運がよければ食堂でタダ飯を頂いたりなんてことも出来た。
だが、やはり少しは稼がなければと仕事を探したが、なまじ若者が多いだけあって、体力しか取柄のないクレーバーに出来るような仕事には空きはなかなかないらしい。
ある日、通りを歩いていると、偶然一つの貼り紙が目に入った。
『体力と根性のある若者、求む。※ただし学生以外』
うってつけの働き口だ。だが、クレーバーは怪訝に思った。
なぜなら、それが貼られていたのは、メインストリートの洒落たカフェだったからだ。ガラス越しに見える店内では、蝶ネクタイと黒のエプロンをつけた店員と上品な客。およそ「体力と根性」などという泥臭い文句には似ても似つかない。
好奇心も手伝い、気づくと手が入口のドアを押していた。
見るからに場違いな若者に店員が驚いた顔をする。だが、求人の張り紙を見て、というと店の奥に通された。
店のオーナーは、快活な初老の紳士だった。クレーバーの風貌をしばし見つめたが、その腕を叩くとにこりと笑った。
「君、体力はありそうだね。いやあ、こう見えてここの仕事はコーヒー豆の大袋を運んだり、けっこう力仕事なんだが、私も最近きつくてね。若い者はすぐにやめてしまうし」
そのあたりは大丈夫かね、と聞かれ、ええまあと頷くとそれ以上細かいことは聞かれなかった。そして、三十分もせず店から出た時には、次の日から働くことになっていた。
モーニングもやっているらしく、店の開店は早い。欠伸をしながら次の日クレーバーが店に行くと、もう店員たちは忙しく働いていた。
豆の袋を運んだり皿を洗ったりという雑用要員だろうと思っていたクレーバーは、数週間後にパリッとした服と店員のエプロンを渡されて驚いた。促されるままに、着なれない一式を身に着ける。
「おお、よく似合うな」
オーナーがそう言いながらクレーバーの髪をさっと撫でつける。鏡の向こうには、真っ白なシャツと、体に沿うラインと深いVの切れ込みが美しい黒のベストの制服を身に着けた姿が立っていた。思わずクレーバーも自分に見とれてしまいそうになる。
「さあ、これで君も明日からホールに立ってもらうぞ」
給仕など自分がされたこともなかったクレーバーにとって、覚えることは多かった。だがなんとか慣れてきた頃、いつもやってくる一人の客に気づいた。
彼はきまって木曜の午後にやってきて、コーヒーとケーキを頼む。他の客と同じように、きちんとした身なりで、上品に煙草を咥えて本を読んだりしながら時間を過ごすだけだ。特に変わったところはないのに、やけに雰囲気があった。
このカフェの客には大学教授たちも多い。はじめの頃に、なぜ求人に学生以外と書いてあったのかと聞いたら、嫌いな教授のカップに唾をいれた輩がいたらしい。大学に通うような奴はもっとお上品なのかと思っていたクレーバーは驚いたものだ。
彼も大学教授に違いない。そういうところには鼻がきくクレーバーにはなんとなく確信があった。だが、特にそれ以上意識してはいなかった。
だから、ある日彼のテーブルにコーヒーとケーキを持っていったクレーバーは、突然声をかけられ驚いた。
「きみ」
振り返ると、彼はクレーバーのほうを真っすぐ見ていた。眼鏡ごしの鋭い視線に、思わず動きが止まる。
「そこに座りなさい」
え? と思わず掠れた声が出る。何かやらかしたのだろうかと思ったが、思い当たる節がない。
「え、えと、でもあの、仕事中でして……」言いながらカウンターの方を振り返る。するとそこに立っていたオーナーと目が合った。だが、オーナーは微笑みながら小さく頷き、席のほうへ軽く顎をしゃくる。助け船に見放されたクレーバーは、仕方なく、のろのろと彼の正面の空いた椅子へ腰かけた。なんとも居心地が悪く、軽くまわりに目をやる。
「あの、何でしょうか……」何を言われるのかと身を固くする。
「きみ、なかなかよくやっているらしいじゃないか」
予想外の言葉にクレーバーは思わず目を見開いた。
「ここのオーナーとは知り合いでね」
「はぁ、そうですか……」間抜けな言葉しか出てこないが、何を言っていいのやら見当もつかない。
「頑張りなさい」
そう言うと彼は手元の本を開いてコーヒーを飲み始めた。
「あ、あの……それだけですか?」
思わずクレーバーが言うと、彼は不思議そうに目を上げた。「他に何か?」
いえ何も、とごにょごにょ言いながらクレーバーは急いで席を立った。
だが、その不思議な同席はそれで終わらなかったのだ。
また少したった頃、やってきた彼は、いつも通り一人なのに、なぜかコーヒーだけ二つ注文した。後で連れが来るのだろうかと思いながら席に運んだクレーバーは、ふと嫌な予感がした。
「きみ、そこに座りたまえ」
やっぱり……と心の中で天を仰ぎながらクレーバーは前の席に座る。彼はカップの一つをクレーバーの方へずらした。
「……?」カップを指して無言で聞くと彼は頷いた。「飲みたまえ」
これは飲み方がどうのとか言われるやつだろうか。いつになく緊張しながらカップを上げ、ゴクリと一口飲み干す。
「旨いだろう?」
これほど緊張で味のわからないコーヒーも初めてです、などと言うわけにもいかず、曖昧に返事をする。
「ここ以外は、アメリカのコーヒーなど、泥水のようで飲めたものじゃないからな」
表情ひとつ変えずさらっと言い放った彼をまじまじと見つめる。
「外国からいらっしゃったんですか?」
彼の言葉には僅かに外国の訛りがあった。少し固く、生真面目な感じの音は、彼によく似合っていた。
「ああ、ドイツからだ」と彼はカップの中身を見ながら言った。そういえばオーナーもドイツ出身だと聞いたような、とクレーバーは思い出す。
「今週はグアテマラ産か。香り高いな」
メニューに挟まれている説明を読みながら彼が言う。
「産地で何か違うんですか?」
クレーバーが言うと、彼は虚を突かれたようにクレーバーを見つめ、小さく溜息をついた。
「オーナーに聞いてみたまえ」
「わかりました。後で聞いてみます!」
クレーバーが朗らかに言うと、なぜか彼は少し驚いたような顔をした。
閉店してからオーナーにクレーバーが尋ねると、彼は嬉しそうに説明してくれた。コーヒーなんて一種類だと思っていたが、確かに飲み比べてみるとちょっと味が違う気がする。素直にそう言うとオーナーは笑った。
「なかなか才能があるな」
コーヒーの? と聞くと首を振る。だがそれ以上は教えてくれなかった。
次に彼の前に座ったとき、名前を聞かれたクレーバーは、自分の名前を答えたあと、少し迷ってから彼に尋ねた。
「あなたは? その……もしよければ」
彼は一瞬考えてから言った。「シュミットだ」
「ここの大学の教授ですか?」「そうだ」
もう少し尋ねてもよさそうだ、と感じたクレーバーは続けた。
「そういえば、なぜいつも木曜なんですか?」
彼は静かにカップから一口飲み、美味しそうに溜息をついた。
「木曜の午後は、授業がないからな。学生達が研究室に質問に来る」
なるほど、と言いかけてからクレーバーは首を傾げた。教授は口の端を上げた。
「煩わしいのでここに来ることにしている」
クレーバーは驚いた。教授なんてのは、真面目一筋の奴ばかりだと思っていた。思わずふっと笑うと彼は眉を上げた。
「ここまで追いすがって来るような奴でなければ教えてやるつもりはない」
ケーキを口に運ぶ姿とは裏腹に、どこか高く氷に覆われた山のような空気をクレーバーは感じた。
「このケーキの本当の名前を知っているかね?」
次に会った時、教授は唐突に尋ねた。彼の前に置かれているのは、店でも人気のチョコレート&チェリーケーキだ。
「本当の? いえ、知らないです」
「Schwarzwälder Kirschtorte」
「シュバ……え?」聞きなれない単語に口を半開きにしたクレーバーを面白そうにちらりと見やって、かれはもう一度繰り返した。
「シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ。黒い森のサクランボケーキ。ドイツの有名なケーキだ」
「へぇ」クレーバーはまじまじとそのケーキを見つめた。単なるチョコレートケーキだと思っていたものが、その名前を纏った途端、強大な力を秘めているように見えてきた。
「なんかドイツ語って強そうですね」
クレーバーがそう言うと、彼の目の奥がきらりと光ったような気がした。
「食べてみるかね?」「え、いいんですか?」
「ああ。フォークと皿を持ってきたまえ」
皿とフォークを持っていそいそと戻ってくると、彼はカバンから一冊の本を取り出し、クレーバーの方に寄越した。
「さっき古本屋で見つけて何故か買ってしまったのだが……君にやろう」
「なんですか?」
「ドイツ語の本だ。ごく初級のものだから君にちょうどいいだろう」
ぱらぱらとめくってみる。どうやら旅行会話の本らしい。外国語の勉強など興味はなかったが、ケーキを一口切り分けた皿と一緒に差し出され、仕方なく受け取る。
「ではありがたくいただきます」
本は横に置き、フォークでケーキを口に運ぶ。毎日客に出しながら、自分で食べたことはなかったクレーバーは、口の中に広がった味に目を丸くした。
「美味しい」
両手を顔の前で組み、眺めていた教授はニヤリと笑った。
「だろう? そうだ、ちょうどいい。次までに”美味しい”をドイツ語でなんと言うか調べておきたまえ」
だが、家に帰ってその本をベッドに放ったきりクレーバーはその存在を忘れてしまった。
ある雨の日、店にやってきた教授はいつものように一人ではなかった。学生らしき若者が一緒だ。彼は教授の前、いつもクレーバーが座るところに座り、二人は何時間も話し込んでいた。教授が言っていた、根性のある学生というやつだろうか。なぜかそちらの方が気になって、見るともなくそちらの方を見てしまう。クレーバーは、どことなく落ち着かず、その日はずっと胸のあたりが脂っぽい安い肉を食べたあとのような気分だった。
家に帰りベッドに身を投げたクレーバーは、尻のあたりに何か固いものを感じて手をやった。
このあいだ渡されたあの本だ。クレーバーは寝ころんだままそっと本を開いてみた。
「leckerでしょう?」
クレーバーが言うと教授は、ん? と顔を上げた。
「”美味しい”は、ドイツ語でlecker、ですよね」
一瞬見つめたあと、彼はふっと笑いながら咥えていた煙草を口から離した。
「宿題をちゃんとやっていたようだね」
とんとんと灰皿に灰を落とした彼は、こっちへ来いというように人差し指をくいと曲げた。
「ご褒美に、もう一つ言い方を教えてやろう」
クレーバーは軽く身を乗り出す。
「köstlich」
囁くような少し掠れた彼の言葉はやけに官能的に聞こえた。クレーバーは小さく息を飲む。
「キュストリッヒ?」小声で真似してみる。クレーバーは、なぜか自分が急に、上品な身なりでコーヒーをたしなむ紳士になったような気がした。すっと背筋が伸びる。ふと思い出して尻ポケットから例の本を出した。
「そういえば、なんで単語の横にいくつか違う形の綴りが書いてあるんですか?」
教授はページを覗き込む。
「ああ、これは活用だ。ドイツ語は、形容詞や冠詞も形が変わる。つまり、後に続く単語の性によって変わるのと、その単語の文章内での……」
そこまで言って、目の前であんぐりと口を開けたクレーバーを見て教授は止まった。
「まあ、いい。そんなことは後で覚えればいい」
そう言いながら眼鏡を外すと、彼はクレーバーをしっかりと見つめた。
「心配するな、君は才能がある」
「え?」俺は何をやっても駄目なほうですけど、とクレーバーは頭を掻く。だが彼は首を振った。
「学ぶ才能とでも言おうか。利口ぶって聞こうとしない輩よりも、正直な馬鹿な方が学ぶのは向いている」
褒められたのか馬鹿にされたのかよくわからずクレーバーは、はぁそうですかと曖昧に返す。
「ちょうど、君みたいな……あー、助手を探していたんだが、どうかね?」
思いがけない問いに、クレーバーは目を見開いた。そして彼は言った。
「私はこの世界を変えるようなことをするつもりだ。興味はないかね?」
突然周りから音が消えたような感覚に陥り、胸がドキリと跳ねる。クレーバーは、見入られたように、目の前の試すような瞳を見つめた。気が付くと首がゆっくり上下していた。
彼はテーブルにチップを置いて立ち上がると、すっと腰を屈め、ぼんやりしているクレーバーの耳元で囁いた。
「私の本当の名前は、ユルゲン・フォラーだ」
その単語は、上質なコーヒーのように深いコクと酸味を纏いながらクレーバーの頭の中に染みわたっていった。