フォラクレ③ care 夕闇につつまれ始めた室内。ダイニングテーブルにそっとファイルを置く。
「クレーバー」
うしろから声がして、思わずびくっと肩が跳ねた。
「どこに行っていた」
後ろからまわりこむようにゆっくり入ってきたフォラーを目で追う。
「あなたのファイルを……取りに」
言葉が尻すぼみになる。もっと、堂々と報告できれば良かったのに。
数日前、フォラーは怒りに顔を歪めて帰って来た。
長く関わってきた研究チームから、突然外されたという。新しく統括役になった奴が、元ナチのドイツ人なんかを関わらせる訳にはいかないと主張したらしい。口を歪める彼を見て、俺の拳もいつの間にか固く握りしめられていた。
「そんな……! なんて奴らだ」
しばらくの沈黙の後、せめてデータだけでも持ち出したかった、そう彼が呟いた。
迷う理由はなかった。元より迷うより前に動くタイプだが。俺はフォラーの番犬だ。奴らから彼のデータを取り返す。研究者なんて俺の敵じゃない。そう思って意気揚々と乗り込んだはずなのに。
フォラーはテーブルからファイルを手に取ってゆっくり開いた。
「でも、その……それじゃなかったかも……」
締め上げた奴から奪ったファイルがそれほど分厚くないことに、なぜそこで気づかなかったのだろう。ページをめくる彼の前から逃げ出したくて俺は後ずさった。
「じゃあ俺は……これで」
頭を掻きながら呟くとフォラーはゆっくり顔を上げた。その視線がクレーバーの顔から横に動くのを見て、しまったと思った。
「クレーバー、待て。その手はどうした」
頭にやっていた手をさっと下ろしたが、もう遅い。
「来なさい」
部屋の明かりをつけ、俺を椅子に座らせた彼は、木箱を持ってきて蓋を開けた。中には薬瓶や包帯が整然と並んでいる。
「いったいこれは何だ」
俺の左手に巻かれた白いものを、彼は指先で嫌そうに摘んだ。
抵抗してきた奴にペンで思い切り手の甲を刺された。血が出ていたから、とりあえずその辺の公衆トイレでトイレットペーパーを巻いて帰ってきたと言うと、フォラーは沈痛な面持ちでため息をついた。すでに表面までたっぷり血が滲んだそれを彼が剥がすと、抉れて赤黒い血が固まりだした傷が現れた。ちょっと穴があいただけだと思っていたが、案外派手にやられていたらしい。研究者の割にガタイがいい奴だったからな、などと考えていた俺は次の瞬間悲鳴を上げた。
ガッチリと掴まれた手の甲の傷口を開き、フォラーがピンセットで消毒液のたっぷり染み込んだ脱脂綿を押し当てている。
「これくらいでキャンキャン喚くな」
傷口に深く染み入る消毒液の痛みに俺はグッと下唇を噛んで耐える。これは罰なのだろうか。
「まったく。私が気づかなかったらどうするつもりだったんだ?」
「別に……ほっとけば治るだろうと。ほら、自然治癒力? とかいうやつ」
「舐めておけば治るというもではない」
彼は呆れ顔でガーゼと包帯を取り出した。傷に重ねたガーゼを当て、包帯を一重二重ときつく巻く。
「傷はちゃんと手当しないと化膿する。覚えておきなさい。まったく、もっと自分の──」
「自分の体を大事にしろって?」
先手を封じるように俺は言った。彼からそんな聞き飽きた言葉を聞きたくなかった。
「俺は別にどうなったっていいし」
「そうだな、私は父親でもなんでもない。説教するつもりはない」
あっさりとそう言われて、俺は黙った。フォラーは包帯の巻き終わりをきっちりととめた。さっきまで情けない状態だった俺の左手は、彼に美しく巻かれた包帯で、何やらグレードが上がったようにすら感じた。
「ところでクレーバー。もう片方はどうした」
「もう片方?」
「君には手は二つしかないだろう」
俺はテーブルの下から、ジンジンと存在感を主張しだしている右手をのろのろと出した。
「ワォ」
最後に見た時より腫れ上がっている中指に驚く俺を見て、彼はさっきより深いため息をついた。俺の腕を立て、指を目の前に持ってくる。彼が指に触れた途端に鈍い痛みがはしった。
「折れているかはわからんな。とりあえず固定しておこう」
彼は、デリについていた薄い木のフォークを持ってきて柄の部分を折り、俺の指に当てた。
「その指だけ出しなさい」
肘をついて指を出そうとした俺は躊躇した。
「どうした。早くしなさい」
俺は観念して他の指を畳んだ。彼に対して中指を立てたのは、後にも先にもこの時だけだ。
彼は丁寧に包帯で巻いていく。
「君を見ていると、たまに学生時代の仲間を思い出す。ギムナジウムの頃はみな若くて無鉄砲だった」
不意にフォラーが言った。
「私はたくさんの仲間を、部下を失った。みな優秀だったのに」
先の戦争のことだろう。だがアメリカの片田舎にいた自分には縁遠い話だった。もぞもぞ腰を動かす俺を彼はちらりと見た。
「心配するな。私は君に、命を粗末にするなだの、彼らの分も生きろだの言うつもりはない」
俺の指を見つめる彼の目は無機質な色を湛えている。
「私はもう負けたくないのだ。大切なものを失うのはもう二度と御免だ」
俺は彼の顔を見つめた。
「それは、俺を大切に思ってくれているっていうーー」
俺が冗談めかして言うと彼は一瞬動きを止めた。
「いいや、まだだ」
下にさがってきていた手をぐっと戻され、俺は顔をしかめた。
「私とお前は似ているかもしれんな。負けることが我慢ならない負け犬」
歪めるように上げた彼の口元から歯が覗く。
「だが私は負け犬でいるつもりはない」
彼はそう言って、ジャキっと勢いよく包帯の端を切った。その目は、中に溶岩を抱えた氷のようだった。
あれから、何度あの救急箱の世話になっただろう。だが俺はずっと手当の方法を覚えなかった。
俺は好きだったのだ。彼に「来なさいクレーバー」と言われるのが。すぐ近くの距離で彼の手を感じる時間が。彼の手当はいつも容赦なかった。だが、その痛みすら俺に安心感を与えた。
手当する彼を見ながら俺は考えた。自分は彼が気にかけるに値する奴になっただろうか、と。だがそれを彼に聞く勇気はなかった。