フォラクレ④ Washed away バスタブの水面に細かく盛り上がっていく泡。そこからふわふわと室内を満たしていく湯気に包まれながら、俺は浴室の隅で立ち尽くしていた。
「このくらいか……。クレーバー、入りたまえ」
バスタブに注いでいたシャワーを止めて、フォラーが振り返る。腕を振り水を払うと、彼はバスタブから離れてズボンの裾を丁寧に折り上げ始めた。俺に背を向けている。俺が服を脱ぐところを見ないようにという配慮だろう。そんな慣れない配慮にもどぎまぎしてしまうのだが。
怪我をして帰ってきた俺の手当をしたあと、包帯を巻いた手で頭を搔く俺を見て、彼が静かに尋ねた。
「クレーバー、ところで最後にシャワーを浴びたのはいつだ」
「え? えっと昨日」
すかさず答えた俺の顔を見て彼はフッと笑みを漏らした。
「ほんとに君は嘘が下手過ぎる。スパイやエージェントになるのが夢だったら今すぐ諦めるよう忠告しよう」
「別にそんなのになりたくは……」
「当ててみようか、だいたい4日前といったところだろう」「はい」
ほんとは6日前だが。汗をかく季節じゃないんで、と大人しく顔を伏せると彼は何も言わなかった。スパイになるのも悪くないかもしれない。
「今すぐシャワーを浴びなさい」
「でも、ほらこの手……」と言いかけた俺を彼が遮った。
「手伝ってやるから」
一瞬意味を考えてから、俺は急いで頭を振った。
「いやいいです自分で……」
「せっかく私が綺麗に仕上げた包帯をぐちゃぐちゃにされるのは許せないのでね」
そう言われては断る術がない。かくして、彼と二人の浴室で、服と下着をのろのろと脱いでいるというわけだ。
バスタブにゆっくり入り、身を沈める。表面をこんもりと覆う白い泡が体を隠してくれる。バスタブの短い縁に軽く背を預けると。彼が振り向いてやってきた。袖口を丁寧に折る様は外科医のようだ。これから手術される患者のように緊張する。
「髪を濡らすぞ」
シャワーの温かい湯が俺の髪を濡らす。
包帯の巻かれた手にシャワーがかからないよう、両腕を伸ばし、バスタブに渡してあるワイヤーのバスケットに軽く置く。
彼も慣れないのか、その指は遠慮がちに緩やかに俺の髪をかき分ける。こそばゆいような感覚にわずかに肩が上がる。少しするとシャワーが止まり、後ろから伸びてきた彼の手がバスケットに置かれた黒いボトルを取った。彼の家に転がり込んでから、もう何ヶ月もたっていたが、いくつも並ぶそれらに触れたことはなかった。
「それ、髪の毛洗うやつだったのか」
「何だと思ってたんだ?」
「なんか沢山あるからどれを使ったらいいかわからなくて」
「では今まで何も使っていなかったのか?」
あれを、と端に置かれた四角い石鹸を指さすと彼のため息が聞こえた。笑ったのかもしれないが。
深みのある良い香りが鼻をくすぐる。モールでいかにも高級そうな店の前を通った時みたいな匂いに、俺はクンクンと鼻を動かした。
「まあどれを使っても良いのだが」ゴシゴシとさっきよりも強い指先が俺の頭を揉む。
「──あれを使わなければ」
彼の指が指す先を見る。緑に黄色のキャップがついたボトルが床に置かれている。
「あれは?」
「排水溝に溜まった髪の毛を溶かすやつさ」
「さすがに、そんなよく出来た馬鹿じゃないんで」
「それは良かった。君のこの綺麗な髪が無くなるのは残念だからな」彼の声が笑う。
そんなことを言われたのは初めてだった。急に耳が熱く感じる。湯のせいだと思ってほしかった。
静かな浴室。泡の微かな音。俺は目の前の包帯に巻かれた両手を見つめた。
彼の懐刀のつもりだったのに、なんて惨めな様だろう。懐刀というよりは切れ味の悪いナイフだ。
「……馬鹿な奴は嫌いですか?」
気がつくとぽろりと口から言葉がこぼれていた。
「そうだな」彼はあっさりと言った。
だが彼は続けて言った。「自分が馬鹿だと気づかない馬鹿は」
彼の指がうなじの辺りを揉む。
「確かに君は賢くはないかもしれない」
「ええ」
「だが狡賢くもない。研究者には賢い奴は沢山いるが、狡賢く立ち回る奴も沢山いる。だが、君は小賢しく立ち回ったりしないだろう?」
それは悪知恵を働かせるほどの頭もないという一種の皮肉だろうか、そんなことを考えながらも、胸の中には、目の前の泡のように白くふわふわとした感情が広がる。そして彼は言った。
「半端に賢しく生きようとする奴よりも、馬鹿みたいにまっすぐ走り出す君のほうが私は好きだ」
シャワーの湯が入った訳でもないのに、突然鼻の奥がツンとした。
「流すから目を閉じなさい」
ギュッと目を閉じると、まだシャワーの水音もしないのに、頬を何かが伝った。シャンプーかもしれないと思いながら、そうでないことはわかっていた。
誰に馬鹿にされようが、罵られようが、泣きそうになったことなんて、ただの一度もなかった。だが、優しい言葉で人は泣くのだと、俺はその時初めて知った。
頭のてっぺんから、雨のように雨よりも暖かな湯が降り注ぐ。彼が前髪を流すと、湯も涙も一緒になって顔の表面を流れ落ちていく。鼻水まで参加しようとしたので思い切りすすり上げると、今度こそ湯が鼻に入って軽く咽せた。馬鹿だ。
彼の指が俺の髪を満遍なく揺らす。リズムよく適度な力で頭皮を揉まれる心地よさ。こんな気持ちよさは人生で初めてだった。だがその快感を体の違う部分が快感に捉え始め、もぞもぞとさりげなく肘で体の前に泡を集める。だがその熱も、じきに中心からゆっくり全身に広がって体を解していった。
永遠に続いて欲しい気持ちになり始めたところでシャワーが止まった。
「さてと」彼の手がスポンジを取り、さっと湯に通してまた違うボトルからワンプッシュ垂らす。さっきぼんやり見つめていたそのボトルにはボディソープと書いてあった。それくらいなら俺でもわかる。わかるはずなのに、今まで見ようともしなかった。
「ついでに首と背中も洗ってやろう」
スポンジが俺の首の後ろを擦る。少し体を前に傾けるとそのままゴシゴシと肩、背中と移動していった。いつも背中は適当に流すだけだ。こんなふうにしっかり洗われたのは生まれて初めてかもしれない。汚れと一緒に、自分を覆っていた何かが流れ落ちていくような気がした。
「綺麗にするのは気持ちがいいだろう? 邪険にされるのが嫌なら、自分を邪険にしないことだ」
肩甲骨の間を強く擦られる。
「毎日じゃなくてもいいがもう少しシャワーを浴びなさい」彼は言った。「その傷が治るまでは手伝ってやってもいい」
こんな傷すぐに治ると思っていたが、急に治ってほしくなくなってきた。そう言うと、彼はスポンジで俺の頭を後ろから小突いた。
「若いからすぐ治る。残念だったな」
浴室にあったバスローブの一つを自分用にしていいと言われて袖を通してみたが、どう着るのが正しいのかわからない。前の部分をいじりながら浴室から出ると、彼はテーブルの横に立っていた。俺がとってきたファイルをめくっている。
「やっぱりそれじゃなかったですか?」
彼が俺に気づいて顔を上げた。
「まあな」
やっぱり俺は間抜けだ。だが落胆の気持ちが足元の床まで沈み込むより先に、彼がニヤリと笑った。
「だが、これがないと奴ら、ざっと一年は無駄にするだろう」
恐ろしいほど静かにファイルを閉じた彼のその目は、冷酷で、赦しを認めない者の目をしていた。それは、目的のためなら悪に手を染めることも厭わない者の目だった。
彼は単なる優秀な学者ではないのかもしれない。俺はその時、彼の闇を覗き込んでしまった気がした。だがそれは俺を怯ませるどころか、ある種の悦びを与えた。
彼の冷たい瞳が俺の目を見つめ、そして言った。
「よくやった、クレーバー」
その時、俺は心を決めたのだと思う。
彼についていきたい。彼が行くのなら、地獄の果てまでだってついて行こう、と。
俺はあのとき道を間違えたのかもしれない。間違った人物を選んでしまったのかもしれない。
だが、それがなんだっていうんだ?
それまでの自分に未練などなかった。
バスタブの排水口は、湯と石鹸と汚れと、目に見えない何かを吸い込んでいった。