訂正版_20220625ワンライ「緊張」 いつも笑顔のあの人は、いつでも、だれに対してもにこにこしている。
だから、きっと自分とは別世界の人間なのだろうと思っていた。
食堂の閉店時間の後。夕飯をシナモンで取った後、バイトをあがるまで待っていてほしいとニキに言われてからしばらく。のんびりと紅茶を飲んだり、外を眺めたりして時間を潰してから閉店時間と共に一旦外に出て、スマホにニキから連絡が来るのを待って、またシナモンの前に戻って来た。
何の用事だろうか、と疑問に思いつつもニキが何を言いだすのかと待っていると、ニキは珍しく、少しの間言うべきかどうか、迷っている様子を見せた。
珍しい、と思って見ている内に、ようやくニキが口を開く。
「今週末って空いてます?」
「今週末ですか? 空いていたと思いますけど……ええ、はい、空いてますよぉ」
鞄の中からスケジュール帳を取り出して確認する。スケジュール帳の今週末の予定の部分は真っ白で、まだ何も記入されていなかった。
「じゃあ、土曜でも日曜でもどっちでもいいんすけど、僕の家に遊びに来ないっすか。僕の家というか、お父さんとお母さんの家というか……まあ、そんな感じっすけど」
「遊びに……ええと、今ここに私しかいませんけれど」
まさか自分が家に誘われたとは思わず、思わず辺りを見渡すが、閉店時間もしばらく過ぎたシナモンの前には、マヨイとニキの他の誰もいない。
「マヨちゃんに言ってるんすけど」
一通り辺りを見渡した後、正面に視線を戻すと、ニキの縹色の目と視線が合った。
「わ、私ですかぁ?」
「そうっすよ! 他に誰がいるんすか?」
当たり前という風に言われて、マヨイはしばらく考える。
正直、自分とニキとはそこまで仲が良い訳ではない。だから、行かなくても良いとは思う。けれど、何かと人懐っこく自分に声をかけてくるニキが嫌いな訳でもない。
ニキをがっかりさせてまで、行かないという選択肢を取る理由はない。しばらく考えて、やがて判断した。
「わ、分かりましたぁ……それでは、土曜の方でお邪魔しますね」
「良かった~。じゃあ最寄り駅はここなんで、着いたら連絡してほしいっす」
軽快な通知音がして、マヨイのスマホにニキの実家の最寄り駅の情報が送られてくる。
「それじゃあまた、土曜に会いましょう!」
またね、とひらひらと手を振って、ニキが寮の方向に歩いていく。しばらく遠ざかっていく背を見送ってから、自分も寮に戻らねばと、大分遅れて、ニキと同じ寮へと続く道を歩き始めた。
「そんな広くもないし、綺麗でもないけどあがってあがって」
ガチャ、という鍵が開く音と共に、重い玄関の扉が開いた。言葉通り、ニキの実家は特に広くもなく、そして、築年数がそこそこ経っていそうな家の造りゆえ、そこここに見える経年劣化が原因で綺麗という印象こそなかったが、きちんと清潔に手入れしている様子はうかがえた。
「お昼ご飯、オムライスでもいいっすかね」
「はい、大丈夫ですよぉ」
「ん、じゃあ用意するっすね」
手洗い場に案内され、マヨイ用に出された真新しい印象の少しごわつくタオルで手を拭き、食卓につくと、すぐにサラダが出された。
「それ食べながら、ちょっと待っててね」
サラダも早々に食べ終わり、いけないと思いつつ、部屋の様子をきょろきょろと眺めている内に、良い匂いがキッチンから漂ってきた。じゅうじゅうと、卵の焼ける良い音もする。
「お待たせ!」
ニキがマヨイの前に置いた皿を見て、マヨイは思わず感嘆の声をあげた。
黄金色の卵に、赤いケチャップで、器用にクマの顔が書いてある。どこかニキにも雰囲気が似た、陽気に笑うくまは、とても楽しそうだ。
「ケチャップで絵を描く練習して、上手く描けるようになってきたんで、マヨちゃんに見て欲しくて」
それで今日誘ったんすよ、とニキはどこか照れたように笑う。
「共同キッチンでやると、いろんな居合わせた子たちがお願いしてきそうで……正直頼まれれば作るんすけど、まだ上手くいかないことも多いんで、まずはマヨちゃんだけ。特別っすよ!」
「そんな……おそれ多いですう」
これだけ可愛いと、どこから手をつけて良いか分からない。端の方を、用意されたスプーンですくって口に含めば、卵の香ばしい風味が口いっぱいに広がった後、追いかけるように、中のチキンライスの酸味が広がって混ざりあう。
「美味しいです」
「良かった~、可愛くても、美味しくないと意味ないっすよね」
ほっとしたように笑うニキは、まだ自分の皿に手をつけていない。手を付けていないはずなのに、ニキの分のオムライスは、少し形が崩れて、中のチキンライスがこぼれ出している。
「……あ」
マヨイがじっと自分のオムライスを見つめているのに気が付いたのか、ニキが気まずそうな顔をした。
「気付いちゃったっすかね」
「ええと……誰だって失敗することはありますよ。ね? 弘法にも筆の誤りというか」
「コーボー?」
「その、上手い人でも失敗することがあるという意味です」
「なるほど。そうなんすよ、いつもなら、目をつむってても上手く作れるんじゃないかってくらい、オムライス作りには自信があったんすけどね。弟さんにもよく作ってって頼まれるし。なのに、マヨちゃんのこと考えてたら、つい力が入って失敗しちゃったんすよ」
もしかして。
もしかして目の前のこの人も、緊張することがあるのだろうか。
初めて誘われた時はどうなることかと思ったが、こうやって見れば、ニキも全く別世界の人間――というほど、かけ離れた人ではないのかもしれないと思えた。
「ふふ」
「あっ人の失敗を笑うのは失礼なんすよ!」
「ああ、いえ、すみませぇん。椎名さんでも、緊張することがあるのだなと思って」
「緊張? ……そうっすね、緊張……緊張してたのかもしれないっすね」
「私なんかのために……」
「なんかって言っちゃダメっすよ、僕にとってはマヨちゃんなんかじゃ全然ないっす。マヨちゃんに喜んでほしくて、クマの顔上手く描けるように練習したんすからね」
むっとしたような顔をしているが、それもマヨイのためを思ってのことだろう。そう思うと、落ち着かないような、踊り出したくなるような、不思議な気持ちになる。
マヨイにとって緊張感とは、いつも共にあるものだった。広い世界に出てからというもの、緊張しない日など、ただの一日だってなかった気がする。
それは未知のものに対する恐れ。嫌われるかもしれないという不安感。そういうネガティブな感情と、これから見られるかもしれない景色に対する希望や期待がいつだって共ににあった。
もしもニキが、自分のことを考えてする調理に緊張を感じていたのだとしたら、少なくとも、ニキは自分が思うよりもずっと、自分と仲良くしたがっているのではないかと、マヨイには思えて仕方がなかった。
「ありがとうございます、大切にいただきますねぇ」
「食べ物なんで、気にしなくていいっすよ。顔の真ん中から思いっきりいっちゃってください!」
「え、ええと……真ん中からはちょっと、抵抗がありますぅ……」
ケチャップで描かれたクマは、楽しそうにこちらを見上げている。こちらを楽しげに見上げるクマに小さく笑みを返して、マヨイはまた、オムライスの端をスプーンで切り崩して、口に運んだ。
先程と全く同じ味のはずのオムライスが、先程よりもずっと美味しく感じられた。