キスの日のニキマヨ 礼瀬マヨイは混乱していた。
「ど、どうしましょう、あれ、絶対、その……キス……しちゃいましたよねぇ……!」
置き去りにしてしまったニキの顔を、今更振り返って見る勇気はなかった。マヨちゃん、と呼ぶ声が聞こえた気がするものの、そんな呼びかけすら振り切るようにして天井裏にもぐりこんで、出来るだけ遠くへと這うようにして逃げた。
これは、ニキとマヨイがうっかりキスのような、そうではないような、一瞬の触れ合いをしてしまってからはじまるお話。
いつものように天井裏から降りようとした時のこと。降りようとした場所にニキが立っていて、とっさによけようとしてよけきれずにぶつかった。それでも最初から唇が触れた訳ではなくて、額をぶつけたらしいニキが額をさすりつつ顔をあげた瞬間と、ぶつけたところを確認しようとマヨイがニキの顔を覗き込んだ瞬間、そして二人の顔の角度が、奇跡のように合わさって、そうとは分からないほど一瞬だけ唇が触れた――ような気がしただけのこと。
もしかしたら勘違いかもしれない、と思い込もうともしたのだが、マヨイの唇に何かが触れた感触があったのは確かで、ニキの方も呆然としたように縹色の目を見開いていたから、きっと勘違いではないのだろう。
どうしよう、どう詫びれば良いのだろう。
ずっと埃っぽい天井裏で悶々と考え込んでいる内に、マヨちゃん、と呼ぶ声がすぐ真下から聞こえてきた。
「マヨちゃん! いるんすよね、顔出してほしいっす!」
「嫌ですぅ!」
悲しくもないのに、感情がたかぶってじわりと涙がにじんできた。ぐすぐすと鼻を鳴らしていると、マヨちゃん、とまた下から呼ぶ声がする。
「ごめんっす、さっきキスしちゃったっすよね」
「してないです!」
さらりと、キス、なんてマヨイにとっては刺激的過ぎる単語を出されて、反射的に天井の一部を外してしまった。やっと顔出してくれたっすね、なんてニキが能天気に笑う。仕方なく、今度こそぶつからないように気を付けてニキの前に降り立った。
「やっぱり、キスでしたか……」
「マヨちゃんの唇に当たったなら」
「……当たりました。ええ、当たりましたとも。でも、どうにかしてキスではなかったことにならないでしょうかぁ。人工呼吸をキスと呼ぶひとはいないでしょう? だから……そうですね、唇と唇の接触事故、みたいな感じで呼ぶのはどうでしょう。そうすればキスとしてはノーカウントですぅ」
「え~、せっかくのマヨちゃんとのキスを事故って言われるの、なんか落ち込むっす」
しゅん、と見るからに落ち込んだ様子を見せるニキを前にすると、何も言えなくなってしまう。言葉に詰まって、ニキがうなだれるのを見ているうちに、ひとつの疑問が頭に浮かんだ。
「何故そんなに落ち込むんですか? ……ああ、分かりました。卑しい私とキスなんてしたからでしょう。どうせなら好きな女の子としたいですよねぇ」
自問自答しながら、うんうんと納得して頷くマヨイに、ニキは即答した。
「好きな女の子いないっす」
「……いないんですか?」
「いたことないっす」
意外だった。ニキのように明るくて社交的なひとなら、きっと今までに彼女のひとりやふたりいたのだろうと、勝手に思い込んでいた。
「今まで本当に、誰も好きになったことないんですか? 椎名さんなら、好きになった子はみんな彼女に出来てしまいそうです……明るくて、いい人だから」
「え~、全然モテないっすよ~? いい人どまりってやつなんじゃないっすかね。告白されて一瞬だけ付き合った子もいたけど、好きになる前にフラれちゃったっす」
「好きでもないのに付き合ったんですか?」
「断る理由がなかったんで。でも、そうやって何でもお願いごとを聞いてくれるところが気に入らないってフラれました。私にだけ優しいんだと思ってた、とも言われたっすね」
「ああ……」
ニキの説明は、すとんとマヨイの腑に落ちた。ニキの彼女だったという子の言うこともよく分かる。基本的にニキは誰にでも優しい。燐音にだって、なんだかんだと口では言いながらも、結局は甘い対応をしているのを何度だって見てきた。
「椎名さんは、みんなに優しいから」
「……みんなに優しくしちゃダメなんすか?」
「いいえ、ダメな訳ないじゃないですか。でも、よく言うでしょう。不良が猫を拾えばみんな褒めるけれど、優等生が猫を拾ったとしても、不良の時ほど褒めてはもらえないって。ずっと優しい人でい続けることは難しいでしょう。でも、いずれみんな慣れてしまうんです、椎名さんの優しさに」
「マヨちゃんも?」
「私、ですかぁ?」
まさかこのタイミングで自分の意見を訊かれるとは思ってもみなくて、間の抜けた声が出てしまった。
「そうっす。マヨちゃんも、僕は誰にでも優しくて、マヨちゃんにも同じように優しくしてると思うんすか?」
「同じ……とは、言えませんねぇ。そんな目で見られてしまったら」
同じ、と言った瞬間、ほんの一瞬だけニキが傷ついたような目をしたのが分かってしまい、マヨイは動揺した。それは本当に一瞬だけのことで、すぐにいつもの、明るくて元気な色に隠されてしまい、見間違えではないかと思ったくらいだった。
何故、そんな目をするのだろう。
「マヨちゃんは、特別優しくされたら嬉しいっすか?」
「え? ええ、まあ……優しくされて嬉しくないひとなんていないでしょう」
「良かった~」
安堵したように胸をなでおろすニキに対して、マヨイは疑問ばかりが膨れ上がって、頭が爆発してしまいそうになる。
「ええと……話が見えないので、整理させてくださいね」
「いいっすよ」
「今の話の流れで言うと、椎名さんは、私に優しくしてくださっているんですよね。それも、きっと他のひとよりも特別に優しく接している、と」
「そうっすよ」
「そして、私が優しくされて嬉しいと、椎名さんも嬉しい」
「もちろん」
「……まるで、私のことが好きなのかと疑ってしまうような反応ですねぇ」
「まるでもなにも、そうだって言いたいんすけど」
「はい?」
簡単な、小学生でも解けるような足し算の答えを間違っていると言われたら、きっとこんな気持ちになるのだろうな、とマヨイはどことなく他人事のように考える。
「椎名さんは、私が好き」
「そうです」
「……私とキス出来たら嬉しい」
「嬉しいっす。マヨちゃんは接触事故にしたいみたいっすけど」
「私が事故扱いにしたの、まだ引きずってますね?」
「めちゃくちゃ引きずってます」
あう、とマヨイが困った顔をしたのを見て、ニキがおかしそうに笑う。
「ええと、そのぉ……もしかして、事故じゃなくて、ちゃんと私とキスしたい……とお考えですかぁ?」
「いいんすか?」
「駄目です」
「この話の流れでそれはないっすよ。期待しちゃったっす」
即答されて、む、とニキが頬を膨らませる。意外と子どもっぽい表情もするらしい。
「急なことでまだ頭が追い付いていないんです」
「なはは、そうっすよねぇ。迷惑っすよね」
「それが、迷惑と感じていないことに、自分が一番困惑しています」
ぱちぱちと、ニキが目を瞬かせた。
「……期待していいんすかね」
「分からないです。でも、もし時間がもらえたら……もう少し、この気持ちに整理がつけられたら、その、キス……ちゃんとしてもいいって、思えるかもしれません」
マヨイがつっかえつっかえ話すのを黙って聞いて、ニキがにっこりと笑った。
「待つっすよ。ちゃんとじっくり時が来るまで待てば、お料理だってもっと美味しくなるんです。そうやって考えると、僕って結構待つのは好きだし、得意な方だと思うんすよね」
「……じゃあ待ってください。時間を、ください」
「はい」
「待たせすぎて、嫌いになったらそう言ってくださいねぇ」
「嫌いになんてならないっすよ。ちゃんと、おりこうさんにして待ってるっす」
それじゃあお返事待ってるっすね、とニキは元気よく手を振って去っていく。後には、まだ混乱のさなかにいるマヨイだけが残された。
薄い自分の唇を指でなぞれば、一瞬だけ触れた感触を思い出す。
「……存外、悪くなかったですね」
ぽつりと呟いたひとことは、他の誰に聞かれることもなく溶けて消えていった。