「七夕」 帰宅すると、部屋は真っ暗だった。
今日はマヨイは一日休みと聞いていた。どこかに出かけるとも聞いていない。律儀なマヨイは、いつも出かける場合は何時くらいに帰ってくるかを教えてくれる。そんなマヨイが何もメッセージを送ってきていないということは、きっと家にいるはずなのに。
「ただいまっす」
「おかえりなさい」
誰もいないと思っていたのに、意外なことに、マヨイの声が返ってきた。靴を脱いで、軽く手洗いうがいをして、リビングの中に足を踏み入れる。リビングの窓が開いて、ゆらゆらと陽炎のように淡い青色のカーテンが揺れているのが見えた。ベランダに、見慣れた後ろ姿を認める。
「何してるんすか、こんな暗い部屋で」
「星が見えないかと思って」
「……ああ、そういえば今日七夕っすね」
そういえば、帰って来る時に、駅前の商店街で笹が飾られているのを見た。色とりどりの短冊が笹の緑に映えて、つい目を惹かれたのを覚えている。
「あいにくのお天気ですねぇ」
「そうっすねぇ」
マヨイと並んでベランダに立ち、空を見上げた。夜空に星など見えそうもなく、しくしくとしめやかに泣き出してさえいた。ニキが家に帰ってくるまでは降っていなかったのに、帰宅してからの一瞬で降りだしたらしい。
「知っていますか。七夕の日に降る雨を、催涙雨と言うのだそうです」
ぽつりと、マヨイが呟くように言った。
「さいるいう?」
「そう、催涙雨。雨が降ると天の川の水が増えて、織姫と彦星が出会えなくなってしまう。だから、一年にたった一度の機会が失われて、悲しくて流した涙が、雨になって地上に降り注ぐのだそうです」
「なるほど~」
「でも、ここしばらくずっと、七夕って雨続きでしょう?」
「そうでしたっけ」
「そうですよ。去年も、おととしも雨でした」
正直ニキは七夕にはあまり興味がない。ハロウィンやクリスマスと違って、七夕には七夕限定のメニューを出すことはないから、食を中心に世界をまわしているニキにとっての七夕は、なんでもない日の延長線上にあった。
でも、マヨイにとっては違うのだろう。物語性のある事柄に興味があるようだから、七夕もマヨイにとっては一大イベントなのだろうな、とニキは理解する。織姫と彦星の年に一度、何百回、もしかすると何千回も広大な空の上で行われてきたロマンスは、言われてみれば確かにマヨイが好きそうな類のお話だ。
「私ね、思うんです。もしかしたらこの雨、織姫か彦星が、相手に会いたくなくて降らせているのではないでしょうか」
「どういうことっすか」
「だって。不安でしょう、一年も会えないんですから」
マヨイが初めてニキの方を向いた。きらきらと、街灯の光を捉えた鮮やかな色の虹彩が輝いて見えて、つい視線を奪われる。
「一年も恋人に会えなかったら、私だったら不安になります。本当に、まだ恋人が私のことを愛してくれているのかどうか。あの時感じた心のときめきも、ただ一瞬の気の迷いだったと思っていないかどうか」
「……マヨちゃんは、そんな風に思うんすね」
「ええ。だから、昨日眠る前に思ったんです。もしも今年も雨だったら、その雨はきっと、織姫と彦星のどちらかが相手に会いたくなくて、不安で、怖くて、流した涙なのではないかって。だって、毎年毎年七夕にばかり雨が降るなんて、おかしいでしょう」
「マヨちゃん」
「はい」
マヨイがニキの視線を捉えているのを確認してから、ニキはにこりと笑って言った。
「大好き」
「……な、ななな、なんですかいきなりそんなこと気軽に言うもんじゃありませ――」
慌てたようにあわあわと手を振るマヨイの腕を捉えて、細い体を引き寄せてキスをした。
「マヨちゃんだ~いすきっすよ。愛してるっす」
「え、あの……あぅ……」
面白いほど真っ赤になった耳が可愛くて、美味しそうで、甘噛みすればふるりと小さくマヨイが体を震わせた。
「そういうこと、ベランダで言うもんじゃないですよぉ。誰かが見ているか、聞いているかもしれないじゃないですかぁ」
「じゃあどこでなら言っていいんすか。ベッドの中?」
「……椎名さん、最近そういうこと言うようになりましたよねぇ」
「だめ?」
「駄目です」
「……マヨちゃん最近駄目駄目ばっかり言ってて、ニキくん悲しいっす」
「あっ、ずるいですよぉ、そういうすがるような目をするの。私が断れないの分かっていてやっているでしょう。やめてください」
「なはは、そう言いつつ、めちゃくちゃいい匂いしてるじゃないっすか。マヨちゃん可愛い~、大好きっす」
「私はそういう、勝手に私の気持ちを理解してしまう椎名さんが大嫌いですぅ」
大嫌いだと言いながらも、どんどん腕の中のマヨイは美味しそうな匂いになっていく。それが可愛くて、ニキは思わずぎゅっと抱きしめる力を強くしてしまった。
「マヨちゃんが愛されてるって自信を持ってくれるまで、僕ぁマヨちゃんに、これからも大好き、愛してるってずっと言いますね」
先ほどの話で理解したことがある。先ほどの織姫と彦星の話は、恐らくはマヨイの考え方をそのまま反映している。
つまり、マヨイはニキとしばらく離れてしまえば、その間に色々と勝手に考えて、迷って、悩んで、そして挙句の果てに、愛されているかどうかすら不安になってしまうタイプなのだ。まだ愛されているという自信がしっかりと育っていないがゆえに、そう思ってしまう。
それなら、自信を持ってくれるまで、愛していると言い続けるだけだ。
「……もう、勝手にしてくださぁい」
「そうするっす」
いつの間にか雨はやみ、わずかながらに雲に切れ間が出来ている。
隙間からのぞく星空に、二人はまだ気が付かないでいた。