自分は死ぬのだと思っていた。
応急処置はしたものの、腹に巻いた包帯にはうっすらと血がにじんでいる。体温は雪に奪われて、もう一歩も歩けそうにない。
あと少し、あと少しだけ歩ければ、街に着いたのに。街に着けば、人がいる。人がいるなら、助けを求められる。でも、歩けない以上はどうしようもない。
最近は塀の外は物騒だからと、何か用事がない限り、それぞれの街の人たちは可能な限り塀の中に閉じこもるようになっていた。塀の外には盗賊や、獣がいる。確かに戦う術を知らない一般市民は、塀の中にいた方が安全だ。
「あれ、おに~さん?」
だから、こんな能天気な声が聞こえるはずがない。これは、助けを求めることさえ出来れば、きっと助かるという自分の願いが生んだ幻想だ。
そう思っていたのに。
「おに~さん、やっと起きたっすね!」
目を覚ますとそこは知らない場所で、意識を失う直前に聞いた能天気な声の持ち主が、こちらを覗き込んで、自分が目覚めたのを無邪気に喜んでいるのが聞こえた。
「……ここは?」
「僕んちっす」
「……」
「なはは、すっごい眉間にシワ寄ってるっすよ。分かってます、僕んちだけじゃどこか分からないって言うんすよね。ここは他の街の人たちからはビーハイブって呼ばれてるっす。他の街の言葉で蜂の巣って意味らしいんすけど……ま、あんまり治安は良くないっすね」
「……助けてくださったのは、あなたですか?」
「そうっすよ。僕ぁ椎名ニキ、気軽にニキくんって呼んでほしいっす。おに~さんの名前は?」
「マヨイ」
「名字は?」
「……ないです」
「そっかそっか、他の街だと高貴な人しか名字はもらえないって聞いたことあります。マヨちゃんの街もそういう街なんすね~」
「マヨちゃんではなくマヨイです」
「いいじゃないっすか、マヨって名前の響きが美味しそうだな~と思ってたら、そう呼びたくなっちゃったんすよ」
ここまでほぼ、静かな時間はマヨイが返答するのにかかった数秒の間しかなかった。ぽんぽんと明るく元気な声で、ニキと名乗った青年はしゃべる。かなりおしゃべりな人間らしい。縹色の瞳、灰色の髪。その灰色の髪は横の方でひとつにくくられていて、彼が動くたびにしっぽのようにご機嫌に揺れていた。
ビーハイブという名前はよく知っている。酒場や飲食店が多いネオンの煌めくこの街は、安価で美味しいものがたくさん食べられるという。しかし、この街に観光に来る人間はそれほど多くはない。
この街は、ならず者たちの街だという噂が遠くの街でもまことしやかにささやかれているからだ。領地がやたらと広いが、その領地の内の一部は、その昔近隣の街を襲って得た土地だ。
目に余る傍若無人な振る舞いのせいで近隣の街から睨まれているというものあるが、今君主として君臨している人間がこの街の人間にしてはかなり理性的で、不要な争いは可能な限り控えるよう呼びかけているおかげで、昔よりもかなり治安は良くなったと聞く。それでも、可能な限り近付かないでおこうというのが、一般的な意見だった。
「マヨちゃんお腹空いてないっすか?」
「……少しだけ」
「ん、じゃあ何か作るっすね。リクエストは?」
「なんでもいいです」
「なはは、そっけないっすねぇ。いいっすよ、何か適当にちゃちゃっと作っちゃうっす」
ニキはどこかに立ち去った。彼が離れてから掛布団をめくると、腹のあたりにあった傷には、丁寧に新しい包帯が巻かれていた。まだ痛むが、耐えられないほどではない。そっと包帯をめくってみると、傷がふさがりかけているのが見えた。大雑把そうな青年に見えたが、案外丁寧なタイプなのかもしれない。適切な処置を施してくれたと見えて、傷の治りも綺麗だった。薄く痕は残るかもしれないが、この分だと想定よりも早く治りそうだ。
「マヨちゃんは何しにこんな街まで来たんすか? この辺はこの街しかないんで、あんな場所に倒れてたってことはこの街が目的地っすよね」
「この街に、会いたい人がいるんです」
「会いたい人? お友達っすか?」
「まあ、似たようなものです。古くから私の一族に縁のある人間が、この街にいるんですよ」
「ふ~ん? 珍しいっすね。この街が他の街と関わりを持っていたのなんて、ずぅっと昔の話って聞くっすよ。それも、貿易とかそういう平和な理由じゃなくて、略奪とか侵略とか、そういうろくでもない理由だったって聞くっす。お友達が外にいるような人間が、この街にいたんすねぇ」
手際良く素材を刻む音がして、しばらくすると何かを炒める音と共に、香ばしい良い匂いが部屋に満ちてきた。
「それにしてもびっくりしたっすよ。この辺を巡回している商人じゃないと売ってくれない食材が欲しくて、久しぶりに頑張ってあの雪の中歩いて出かけたら、なんかおいしそうないい匂いがして。見れば人が倒れてるじゃないっすか」
「美味しそうないい匂い……?」
「最初は香水か何かかと思ったんすけど、違うっすね。マヨちゃんの匂いっす」
「……あいにく香水はつけていませんし、食べ物だって持ってません。それに、私は食べても美味しくないと思いますぅ」
食べ物を持っていないからこそ飢えたのだ。むしろ、食べ物さえ持っていれば、こんなことにはならなかった。計算を誤って道中食料が尽きたところを、盗賊に襲われた。空腹で力が入らない状態で抵抗したのが良くなかった。普段なら相手にもならないような雑魚を相手に腹に一撃を受けてしまい、なすすべもなくわずかな路銀と、コートを奪われた。
「マヨちゃんのことは食べないっすよ。それにしても、そんな寒そうなお腹丸出しの服でよく無事だったっすねぇ。この辺は盗賊も多いって聞くし、マヨちゃんみたいな子がひとりで出歩くのは危ないっしょ」
「私が弱そうだとでも言いたいんですか? 確かにこの傷は襲われてついたものですけれど……私が万全の状態であれば、あんな雑魚相手にかすり傷ひとつだって負いませんでした。椎名さんの方こそ無防備でしょう。私に襲われるとは思わなったんですか?」
「こんないい匂いがする可愛い子が、僕のこと襲うはずないじゃないっすか」
「……可愛いはずがないでしょう。こんな、醜い男のことを捕まえて、何を言うかと思えば」
「僕がそう思うってだけの話っすよ」
ニキは心底そう思っているらしい。ふと見れば、料理の手をとめてニキがこちらをまっすぐに見つめていた。にこり、と笑った顔がまぶしくて、マヨイはふいと視線を逸らした。
「あんかけ炒飯作ってるんすけど、マヨちゃん固形物とか食べられそう? 難しかったらスープだけ出しますけど」
そのまま、うとうととまどろんでいたらしい。ニキの声ではっと目を覚ます。しばらく悩んで、マヨイはその問いかけに答えた。
「スープだけにしておきますぅ」
「は~い、んじゃ、スープは大盛にしておくっすね。たくさん食べて、早く傷治すんすよ。体の健康は、まず食事からっす」
食器の触れ合う音がする。見える範囲で部屋の様子を見渡してみた。赤を基調とした部屋は、この街によくある伝統的な造りだ。透かし彫りの施された装飾的な枠のついた窓や、窓から見えるいくつもの座席、本格的な調理場があることから考えて、ニキは飲食店を営んでいるようだ。それなら、先ほどからの料理の手つきが非常に手慣れているのもうなずける。
「はい、お待たせ。お野菜メインの卵とじスープっすよ。マヨちゃんのお口に合うといいんすけど。他の街のひとに僕の手料理食べてもらうのは初めてなんて、何だか緊張するっす」
盆に載せて出されたのは、なみなみとそそがれた黄金色のスープだった。雲がたなびくように、卵がふんわりと野菜に絡んでいるのが見える。ひとくちすくって口に含めば、卵の自然な甘みと、野菜の素材を活かした塩の効いたスープの香りが口いっぱいに広がる。
「……美味しい」
「なはは、それは良かったっす。僕ぁ料理人やってるんで、そう言ってもらえるのが一番嬉しいっすよ」
そう言って笑うニキの表情は、無邪気そのもの。ろくでなしが集まると言われるこの街の中でも、もしかしたらニキは、いい人なのかもしれない。マヨイの中で小さな確信が生まれかけていた。
それからもニキは、ことあるごとにマヨイの世話を焼いてくれた。元々面倒見が良い性格であるらしい。
三食全てニキの手作りで、時折マヨイのリクエストも聞いてくれた。栄養たっぷりの食事を得た体はあっという間に回復へと向かい、ベッドから起き上がって動き回れるようになってからも、彼は出ていけとは言わなかった。逆に、いつまで残ってくれるのかと訊くようになった。
「マヨちゃんいつまでこの街にいてくれるんすか?」
「……傷が治るまでです」
何度か繰り返された会話は、いつの間にか変化していった。
「マヨちゃんいつまでこの街にいてくれるんすか?」
「失った体力が戻るまで」
「マヨちゃんいつまでこの街にいてくれるんすか?」
「あと少しでしょうか」
「マヨちゃんいつまでこの街にいてくれるんすか?」
「そうですね……冬が終わるまではここにいますよぉ」
この街に来たのは、雪が積もる冬のさなかだった。もうあれから何日、何か月が過ぎただろう。毎日一緒に過ごしている内に、マヨイの方にも情がわいてきてしまった。それはニキの方も同じであるらしく、いつまでこの街にいるのかという問いかけは、次第に返答を恐れるような、こちらの反応をうかがうような色を含んでいった。
マヨイは、ニキに乞われて自分の故郷の料理を教えるようになっていた。この街にない食材に関しては特徴を伝えて、ニキが似たような食材を調達してきた。食べたことのない味にニキはとても喜び、マヨイの方も、この街に来た理由を時折忘れてしまうくらいには、ニキにほだされていた。
ニキの家に住まわせてもらう代わりにニキの料理店を手伝うようになってしばらく。常連客たちはみんな粗暴なところはあっても根は良い人ばかりで、マヨイのことも快く受け入れてくれた。
穏やかな日常に変化があったのは、突然のことだった。邪魔するぜ、という大きな声と共に、誰かがニキの営む料理店に入って来た。
その真っ赤に燃えるような髪の色と、鋭く光る青い瞳を見た瞬間、全身の血の気が引くのが自分でも分かった。
「うわ燐音くん!?」
「久しぶりだなァニキきゅんよォ。最近可愛い子が出入りしてるって聞いて、とうとうニキにも春が来たかと思って、燐音くんが直々に、そのかわいこちゃんの顔を見に来てやったって訳よ」
「マヨちゃんは恋人じゃないっすよ! ご飯と、寝る場所提供する代わりに、お店を手伝ってくれてるだけっす。今忙しいんじゃなかったんすか?」
やって来たのは燐音だった。ずっと昔、街で行き倒れていたところを拾ってからの付き合いだが、実は彼が今の君主に連なる血筋であったと知ったのはずっと後になってのことだった。お忍びで街の様子を見に出かけていたんだと本人は言い張っていたが、お忍びで出かけた先で人だかりが出来るほどの大喧嘩をするのは、果たしてお忍びと言えるのだろうかと今でもニキは思っている。