「お風呂」 泊まりに来ませんか、と誘われた。
何でもないことのように、まるで、明日は晴れるらしいとでもいうような気軽さで。
後々から考えれば、それは本当に彼にとっては天気の話と同じような気軽さだったのだと思う。美味しいお米をたくさんいただいたのだと言っていた。高級なお米だから、マヨちゃんにもぜひ食べてほしいのだと。
だからその誘いの言葉に、勝手に色々な意味を付け足して、勝手に緊張して、勝手に落ち込んでいるのは全部自分のせいだ。
自己嫌悪に陥りながら、寮の各部屋にしつらえられた湯船よりもかなり小さい、銀色をした湯船につかって、マヨイはひとつため息をついた。
建ってからしばらく経っていると思われる広くはないアパートが、ニキの家だった。広くはないと言っても、それはあくまでも一人で暮らすならという前提の話になる。はじめの頃はニキと、ニキの両親が暮らしていたことを考えると、三人で住むにはかなり狭いと言える。
前はもっと広い家に住んでたけど、お父さんが仕事干されちゃったから仕方ないっすよね、と玄関で靴を脱ぎながら、ニキはさらりと口にした。古いせいで家賃も安いから、解約しなくてもそれほど家計に負担はないのだと軽い口調で言う彼の横顔を盗み見ても、そこに悲愴感はなかった。彼にとっては、マヨイからすれば痛ましい話でも、すっかり慣れっこになってしまったことなのかもしれない。
知らない家の、知らない部屋の、知らない匂いに包まれて緊張しっぱなしのマヨイの緊張をわずかにでもほぐしたのは、今となっては嗅ぎ慣れたニキが作る料理の匂いだった。
和食が好きだというニキの手料理は、どこか懐かしい匂いと味がする。それは、日本人の魂に刷り込まれた本能のようなものかもしれない。匂いに誘われるようにして並んで台所に立つと、ニキが嬉しそうに笑った。
「ほら見てこのご飯! ひとつひとつのお米の粒が、キラキラして見えるっすよね。高いお米だって聞いたんすけど、高いお米って光って見えるんすねぇ」
炊飯器の蓋を開いて、ニキが中身を覗き込むなり歓声をあげた。
「確かに、綺麗ですね。昔白米が銀シャリと呼ばれたのも理解出来る気がします」
品種はマヨイが聞いたことがない名前だったけれど、味見用、とニキがしゃもじに載せてくれたひとくち分を口に含むと、じんわりと優しい甘さが口いっぱいに広がる。
お米が今日は主役だからと、添えられた味噌汁や焼き魚、おひたしや豆腐はどれもお米によく合ういつもよりは多少濃いめの味付けになっており、普段は少食なマヨイの箸もよく進んだ。
お腹いっぱいになって、のんびりテレビを見ながら美味しい余韻にひたっている内に、ニキがお風呂入れてくるっすね、と言ったひとことで現実に引き戻される。
「お、お風呂……」
「どうしたんすか、マヨちゃん」
「もしかして、一緒に入ったり……」
「マヨちゃんがそうしたいなら、僕ぁそれでもいいっすよ」
どうする? と首を傾げるニキに、マヨイは随分と長いこと考えてから、首を横に振った。自分で断っておきながら、ニキの表情を見るのが怖くてうつむく。
首を横に振ってしまったことを、それからずっと、後悔している。
「うちのお風呂、追い炊き機能とかないんで、先に入っちゃってください」
ニキがそう言ってくれたので、恐縮しながらも先にお風呂に入ったのはマヨイの方だった。初めて使う風呂場の使い勝手に多少手間取りながらも、髪を洗い、顔、体と洗っていく。
このシャンプーの匂いも、ボディソープの匂いも、普段自分が使ったことがないメーカーのものなのに、どこか嗅ぎ慣れた匂いに感じるのは、ニキがそばにいる時に感じていた匂いに近いからかもしれない。
もしかして、と自分の匂いを嗅ぐと、自分からニキの匂いがする気がして、頬が熱くなるのが分かった。
一通り体を洗い終えて顔を上げれば、大きな鏡に自分が写っているのが見える。マヨイは自分の裸があまり好きではなかったから、湯気で曇ってよく見えないことに安堵した。
安堵しつつも、ボディソープの泡が残っていないかの確認のために改めて自分の体を見下ろせば、わずかにあばらが浮いた、日に焼けていない真っ白い肌が見える。
「……貧相だって、思われるでしょうか」
決して筋肉がついていない訳ではないのに、痩せているせいで、引き締まっているというよりは筋張っているように見える体。ずっと地下で暮らしていたからか、太陽の光にすぐ負けてしまう肌は、透き通るような美しい白というより、不健康そうな青みがかった白に見える。
きっと、こんな体を抱いたって、硬いばかりで何も心地良くないだろうというところまで考えて、首を振って邪念を追い払う。
「お湯加減どうっすか?」
「は、はいぃ! とても良い心地ですよぉ!」
湯船に入るなり、ニキが脱衣所に入って来て声をかけたので、驚いて必要以上に大きな声が出てしまった。おかしそうに吹き出すニキの声が聞こえて、羞恥心で消えたくなる。
「気にしなくていいっすからね」
少し逡巡するような間が空いて、それからニキの声がした。
「何のことですか」
「一緒にお風呂に入らなかったこと。さっきのマヨちゃんは美味しそうな匂いじゃなかったから、もしかして気にしてるんじゃないかと思って」
「……すみません」
ニキは、マヨイが自己嫌悪に陥っていることに、とっくに気が付いていたらしい。
「本当に今日は、一緒に美味しいご飯を食べて、楽しく夜中まで、布団に入っておしゃべり出来たらいいなって思っただけっすよ。誤解させてごめんっす。だから、何も気にせず、ゆっくりあたたまってきてください」
ぱたん、と脱衣所の扉が閉まる音がした。
恥ずかしい。自分たちはお付き合いしているから、お泊まりということは、きっとそういうことなのだと思い込んでしまった。
ニキがマヨイに許可を得ずに何かすることは今までにたくさんあった。いつだったか、誕生日に自分の形を模したマジパンを作られた時なんかはびっくりしてしまったけれど、彼が勝手にやった行為のどれもが、ニキがマヨイに喜んでほしくてやったことだと頭では分かっている。
空腹時の彼はマヨイの都合もおかまいなしに抱きついてくるものの、空腹ではない時の彼は、マヨイの言いたいことをそれとなくくみ取って、本当に嫌がっていることはしないように努めてくれていると感じる。そのことを本当の意味では理解せずに、勝手に思い込んで、勝手に予防線を張って、ニキを遠ざけてしまった自分のことが嫌になる。
湯船に体を沈めて、ぼんやりと色々なことを考えている内に、大分時間が経ってしまった。心なしか、湯の温度も冷めてきた気がする。
「いけない、急いであがらない……と……?」
すっと、頭から血の気が引いていくような感覚があった。あれ、と思う間に、マヨイの意識は遠のいていった。
「マヨちゃん!」
誰かに呼ばれた気がして目を開けると、心配そうなニキと目が合った。
「……椎名さん?」
「そう、ニキくんっすよ。びっくりしたっすよ、すごい音がしたと思ったら、マヨちゃんが風呂場で倒れてるから」
そうか、自分は風呂場で倒れてしまったのか、というところまで考えて、青ざめる。
「もしかして、私、裸……」
「まあ……そうっすね。見ちゃいました。あ、でも出来るだけまじまじとは見ないように気を付けたっすよ。服も、僕の服の中で着せやすい服選んで着せました。マヨちゃんの趣味じゃないかもしれないっすけど、そこは許してほしいっす」
なはは、と笑いながらも困ったようにニキが眉を下げた。
いつの間にか、布団に寝かされていた。確かに見覚えのない服に着替えている。風呂場で倒れた上、着替えまでさせてしまったらしい。
「何て馬鹿なんでしょう。私は結局我が身可愛さに保身に走って、椎名さんを傷つけてしまったんですね」
「保身に走ったなんて思ってないっすよ」
「……いいえ、保身に走りました。椎名さんに嫌われたらと思うと、私……」
「マヨちゃん」
「はい」
「抱きしめてもいいっすか?」
「……どうぞ」
ゆっくりと上体を起こすと、打ちつけた背中が痛む。そのことをマヨイの動作で悟ったらしいニキが、痛めた部分には触れないように遠慮がちに抱きついてきた。
「ごめんっす。ちゃんと最初から、一緒にご飯食べるだけって言うべきだったっす。マヨちゃんに負担かけちゃったっすね。今日はこれ以上、なんにもしないっすよ」
「……嘘つきな椎名さん。本当は、したかったんでしょう。一緒にお風呂に入ることも、それより先のことも」
ニキは、しばらく考えているようだった。
「……そうっすね。正直に言えば、もしもマヨちゃんが許してくれるなら、僕がマヨちゃんとしたかったこと、全部出来たらいいなって思ってました」
「私も、そのつもりでした。でも、急に怖くなってしまって」
「何が?」
「だって……貧相で抱き心地も悪い男だって分かったら、醒めてしまうんじゃないかと思って。でも本当は、裸になった体を見られるのが怖いんじゃなくて、こんなに醜い心の奥底を見透かされるのが怖かったんだって、今分かりました」
ごめんなさい、と謝る声は、自分で思った以上に頼りなく震えていた。ニキは何も答えずにしばらくそのまま、それでも優しくマヨイのことを抱きしめていた。
「マヨちゃん、布団はここでいいっすか」
しばらく抱き合ったまま過ごして、やがてニキの方から、お風呂に入ってくるからと体を離した。ニキが風呂に入っている間も、風呂からあがってきて髪を乾かしている間も、二人ともずっと黙っていた。
次にニキが口を開いたのは、布団の場所確認のためだった。律儀にふたつ、布団が並べてある。布団と布団の間の距離が思ったよりも遠くて、マヨイはまた、泣きそうな気持ちになる。
「もう少しくらい椎名さんの布団との距離は狭めても大丈夫ですよ」
「そうっすか? じゃあ、これくらい?」
「もっとくっつけても大丈夫です」
「こんなにくっつけてもいいんすか?」
ぴったりと布団と布団がくっついたのを見て、ニキの声に嬉しそうな色が混ざる。
「椎名さん」
「んぃ、どうしました?」
布団の方から振り向いて、ニキが首を傾げる。
「これくらいの距離なら、出来る気がするんです。その……一緒の布団で寝ることはまだ、私の心の準備が出来ていなくて難しいんですけど。ええと……手を、繋いで寝ませんか」
今日は、これで精一杯。
呟くように言うと、ニキは小さく笑って頷いた。