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    じゅん

    落書き、小説、進捗、ちょっとディープな創作など乗せたりします。

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    じゅん

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    目つきも性格も悪い諜報員が美人年下上司とデートする話

    #創作BL
    creationOfBl

    犬も喰わない 二『マクスウェル議員失脚!麻薬組織との密接な関わり』『賄賂疑惑も』『地方女性議員との不倫か』
     摘発から数日、かの貴族院議員の醜聞で世間は持ち切りだ。そこにライブラの文字はひとつもなく、警察の手柄と大々的に発表されている。それもそのはず。陰ながら安寧秩序の天秤を司るライブラの活躍が公にされることは少ない。政を憂う新聞紙を片手にセオドアは朝食という名の昼食を摂っていた。皿に並ぶはトーストとカリカリに焼いたベーコンに目玉焼き、コーヒーと実にシンプルだ。ここに野菜のひとつでもあれば彩り豊かな食卓となるのだが、生憎と野菜を受け付けぬ胃なので冷蔵庫に緑黄色が無いのだ。そのため完全菜食主義の君から助走をつけて殴られそうなメニューとなっている。
     さて、何故こうも悠長に食事をしているのかというと、昨晩突然告げられた休暇の知らせである。
     
     「休んで下さい」
     
     ミハイルは提出された報告書に目を通しながらセオドアにそう告げた。理由は明白。この男、働きすぎなのである。ここのところ異動や任務と忙しなかったが十分に休日は設けていた。しかし仕事中毒者の部下は無視に無視を重ね知ったことかと出勤していたのだ。その勤労の精神は素晴らしいものだが、過労は賞賛されるべきでは無い。スズキの先祖の国ではそれが横行し、なおかつ美徳とされていた時代があったと聞いた時はさすがのミハイルもあまりのカルチャーショックに耳を疑った。
     
     「今日の仕事は終わったんですから、とっとと帰って寝てくださいよ」
     
     気遣いつつも投げやりな言葉からミハイルの疲れも垣間見える。その疲れの元凶は眼前にいるのだが。セオドアは書類とにらめっこするミハイルに、はぁ、まぁ、と肯定とも否定とも言い難い返事をするばかり。早く帰れ。
     
     「不眠症なんでしょう」
     「えっ!?そうだったんですか!?」
     
     先程まで文書を見つめていた金の瞳がセオドアを映す。目を丸くしたスズキがミハイルとセオドアの顔を交互に見やる。さながら名探偵のように目掛けを掛け直すと、ミハイルは事の整理をつけはじめた。
     
     「その隈を見れば一目瞭然です。治療している様子も伺えませんし、大方どうせ眠れないからと仕事を詰め込んでいるのでは?」
     
     セオドアは弁解する素振りも見せず、代わりに仰る通りと肩を竦めた。
     
     「悪循環極まりないですね。あとはそう、避けられないお家事情とか。貴方の年齢なら縁談なんかはしょっちゅうでしょうし──」
     「中尉殿のご配慮、痛み入ります。お言葉に甘えるとしよう」
     
     あからさまにミハイルの話をぶつ切り、じろりと不機嫌そうに見つめた。この挑発的な視線と交わると、腹の底まで見透かされそうになる。それがどうも居心地悪い。セオドアは早々に部屋を後にする。
     
     「ええ存分に」
     
     にこりと人形のような笑みが視界の端に映り込んだ。事情を知らぬものがこの光景を見ていれば、まるで聖母かなにかの笑みにでも見えていたことだろう。
     
     
     ──冒頭に戻る。外食で済ませた方が面倒はないが、他に用もないので久方ぶりに自炊に勤しんだのだった。可もなく不可もなくといった出来で腹を満たす。仕事の連絡もなく静かな昼過ぎ。セオドアは一応、指摘された不眠症を多少なりとも、微力ながら、改善しょうと考えた。少々癪ではあったが。昼寝でもするかとソファに腰掛けた時だった。閑静な高級住宅地に似つかわしくない機械の駆動音が響く。近くの老朽化が進んだ鉄橋からだろうか。トンテンカンテンと作業員たちの労働が伝わってくる。この騒音の中横臥することが出来るだろうか。出来るものならとっくに不眠症は治っている。そもそも患わない。余儀なく散歩、というセオドアにしては比較的健全で珍奇な結論に至った。適当にシャツとスラックス、そして薄手のコートを見繕い、セオドアは街へと繰り出した。
     
     
     本日も花の都カルカルザは好日。燦々と降り注ぐ春の光をいっぱいに浴びる花々は、瑞々しく風に揺らめいている。高級住宅地ともなればその美しさは一層のことだが、そのなかでもセオドアの邸は異彩を放っていた。祖父の趣味で元々の品種が優れていたのもあるがセオドアの野生主義、もとい放任主義のせいで無節操に蔦が伸びているのにその品行を失わせない。セオドアには植物が分からぬ。近いうちに業者に任せるとしよう。
     住宅地を抜け街へ歩を向けると、週に一度の露天市で人がごったがえしていた。雑貨店で眠りこけている老店主、ソウルフード片手に練り歩く若人、ミニゲームを楽しむ子供たち、皆思い思いに市を満喫している。二十年前の惨状を微塵も感じさせない街の佇まいは、平和の象徴であると同時に戦争の恐怖を、後悔を、損失を曖昧にさせる。ぬるま湯に浸かっている感覚を麻痺させないためにも、ライブラは影の中に在り続けるのだろう。
     
     「旦那!このフルーツ買っていきなよ!ジュースもおすすめだよ!」
     「希少な麻と絹で作られた特別な反物だよ。どうぞ見てって〜」
     「その茶器は東の島国で作られたものでな、かの国では王に献上されたという歴史が……」
     
     八百屋、呉服屋、蚤の市と異文化交わる商店街を歩く。道の両端に露店が連なり、そこかしこから呼び込みが絶えない。人の波をかき分けて歩くのも疲れる。なにせセオドアの巨躯は立てば障壁座れば石像を体現しているので。因縁でもつけられたら面倒だ。勿論この険しい容貌を睨みつける輩などそうそういないのだが。足早に人の少ない路地へ向かう。
     隘路を抜けた先には静寂が広がっていた。町人たちの賑わいを感じさせない、写真のような静けさだ。ふと先を見やると小さな看板が立っている。近ずいて読んでみれば映画館の文字。こんなに古ぼけた、いや歴史漂う映画館が小規模ながらも残っているとは。しばし石造りの店先に立ち止まっていると店主と思われる老人がセオドアに気づく。よたよたと曲がった腰を支えながら扉を開けた。
     
     「あんれまぁ、随分と大きい伊達男だぁな。顔上げたって届かないねぇ」
     「ご老体、無理はなさらず」
     
     はっはっはと矮躯とは裏腹に健やかなしわがれ声が響く。蓄えた髭を撫でながら主人はちっと待ってなさい、と思い出したように受付窓に向かう。
     
     「それは?」
     「今日やる映画のチケットさね。あげるよ」
     
     タイプライターで刷られたであろう古風なチケットを渡された。タイトルに聞き覚えはないが、恐らく恋愛映画だと思われる。セオドアが一番馴染みのないジャンルだ。
     
     「興味無いなら誰かに渡しとくれ。客が来なくて暇なんだ」
     「わかった。代金は?」
     「いらんいらん。趣味でやってんだから」
     「豪放だな」
     
     主人と短い挨拶を交し、店を後にする。上映時間まではあと三時間ほど。このまま帰宅したところで工事は未だ続いているだろうし、他に予定もない。たまには無縁の映画を観るのも悪くない。適当に露天市を眺めて暇を潰そうと決めた。が、チケットをよく見ればペアチケットと書いてある。主人にはセオドアが誰かと共に映画を鑑賞する人間に見えたのだろうか。それとも下世話からの手立てか。
     セオドアは再び商店街へと戻り行く宛てもなく散策する。そのうち街の中央に位置する噴水広場が見えてきた。老舗のレストランや異国情緒溢れるカフェなどが軒を連ねている。セオドアが朱塗りの格子と提灯が目立つカフェに入ろうとしたその時、何かが背にぶつかった。
     
     「っ、すみません。余所見をしてて……」
     「いや、こちらこそすまない」
     
     謝罪とともにセオドアが振り返ると、生活雑貨が積み込まれた紙袋を抱えた細身の青年が立っているではないか。この国では珍しい艶のある黒髪がいやに際立つ。周囲の人間もその髪に目を惹かれ視線が自然と集中してきた。
     
     「って、あれ、こんなところで会うなんて、奇遇ですねぇ」
     
     はて、セオドアにこのような知人はいただろうか。脳内で当てはまる人物を探すがさっぱりだ。人違いでは、と思ったが声だけは一人心あたりがある。
     
     「ん?おれの事わかりませんか?こうしたらわかるかな……」
     
     青年は右手で前髪を少し搔き上げた。黒髪で隠れていた金の瞳が顕になる。途端に小さな歓声が周囲から湧いた。
     
     「こんにちはセオドアさん」
     「……ミハイル中尉。お疲れ様です」
     
     山吹色のシャツに七分丈ほどの黒地のパンツ、裾から覗く深い蒼の靴下が差し色となってよく映える。遊び盛りの若者を感じさせつつも黒のレザーシューズが上品さと落ち着きを演出する出で立ちだ。普段のきっちりと隙を見せないミハイルからは想像出来もしない、カジュアルな印象がセオドアに衝撃を与える。
     
     「中尉殿がまさかこんな往来にいるとは」
     「彼女の付き添いです」

     彼女。その言葉に思わずセオドアの身が固まる。いや、何も不思議なことは無いだろう。彼は才色兼備の麗人なのだから、恋人の一人二人、三人四人いたっておかしくない。現に道行く老若男女がミハイルに釘付けになり、見とれていたマダムは躓き、同じく見とれていた若い男とぶつかった。当の本人はそんなこといざ知らずとセオドアの視線を他所へ促す。見れば赤い公衆電話ボックスの中、不慣れな動作で電話をかける女性がいる。モノトーンのワンピースに栗色の髪をしており、顔のパーツはスズキと近いようだ。絵に書いたような美男美女の組み合わせである。
     
     「セオドアさんは?休みなのにスーツ着て……まさか勝手に任務行ってたりしないでしょうね?」
     「いや、散歩を」
     「散歩?スーツで?」
     「持ち合わせがこれしかないもので」
     「ふぅん、ならいいですけど」
     
     ミハイルの砕けた柔らかな口調が、セオドアの鼓膜を撫でる度動揺を産む。言葉遣いだけでなく、豊かな表情や素振りなど、あまりにも普段の冷静な雰囲気と結びつかないのだ。セオドアは詳しくないが世間ではこれをギャップ萌え、という。

     「なんというか、中尉殿。普段と様子が違うようで」
     「ああ、だって休日ですもの。おれ公私はちゃんと分けたいんです。セオドアさんも遠慮なく呼んでくださって構いませんよ」
     
     構う、大いに構う。
     なんと滑稽な光景だろうか。三十路手前の大の男が、たかがギャップ萌えでこうも狼狽えるとは。しかしセオドアにも矜恃というものがある。ここはミハイルの言葉に従うとしよう。
     
     「では遠慮なく。映画は好きか」
     「映画?好きですよ」
     「ならこれを」
     
     先程主人から貰ったチケットを渡す。
     
     「これ何十年も前の作品じゃないですか!よくフィルムが残ってましたね」
     「有名なものなのか?」
     「この作品に名脇役の俳優さんが出てるらしくて、本人は亡くなってるんですけど息子さんの演技も素晴らしいんです。どこで買ったんですか?」
     
     ぺらぺらと饒舌に話すミハイルに若干気圧されながらも話を続ける。
     
     「たまたま貰ったんだ。生憎俺には縁の無いジャンルだし二人で見るのに丁度いいだろう」
     「二人?誰と?」
     「そこの御仁と」
     
     主人には悪い気がしたが、二席の飽きを一人で埋める方がより申し訳なくなる。ならいっそ彼らに埋めてもらった方が主人もいいだろう。独り身の男にペアチケットを渡してくるような老人だ。さぞかし満悦になるに違いない。
     
     「……っあはは!彼女はおれの恋人じゃないですよ。兄嫁です」
     「……兄君がいたのか」
     「最近結婚して、引っ越してきたばかりで土地勘がないからって、兄が来るまでのエスコートを頼まれたんです」
     「そうか」
     
     安堵の息が漏れた。なぜかは分からない。ただセオドアの勘違いに吹き出して笑むミハイルの顔が、眩しいくらいに美しいと思った。いつもなら口元を押えた慎ましやかな微笑みが、大人びていない年相応の青年の顔になっている。往来で躓く人間が増えそうだ。
     
     「ミハイル!」
     
     どこからか彼を呼ぶ声が届いたかと思うと、シルバーの男が近ずいてきた。
     
     「フレッド兄さん。久しぶり」
     「ああ。急に頼んで悪かったな」
     「大丈夫ですよ」
     
     フレッドと呼ばれた、いかにも堅物といった男はミハイルから荷物を受け取るなりセオドアを見やる。
     
     「これはこれは騎士のセオドア殿。新しい職場には慣れたか」
     「それなりに」
     
     フレッドは以前セオドアに今後の身の振り方を訪ね、その無関心さに呆れたかの人事である。見るからに仕事人間といった印象だったが、彼が結婚していたとは微塵も感じられなかった。セオドアが他人に興味が無さすぎたがゆえ、というのもある。
     
     「弟が世話になって、いや弟がよく世話をしていると聞いているが」
     「もう、兄さんったら。仕事の話は仕事の時にすればいいでしょう」
     
     む、とミハイルは不満げな表情を浮かべる。堅物も弟には弱いのか直ぐに悪かったと話を切り上げ電話ボックスへと足を向けた。四苦八苦しながら電話をかけ、漸く繋がったと顔を明るくさせる婦人。繋がった相手は既に扉の向こうにいるというのに、嬉しそうに受話器に語りかける様子がなんとも微笑ましい。フレッドも同様なことを考えているのだろう。暫し見守ってからコンコンと扉を叩く。
     
     「仲睦まじいですねぇ」
     「ああ」
     「おれ兄弟のデートに立ち会うなんて初めてで、今すっごくそわそわしてるんですけど」
     「普通身内の逢瀬なんて見たくもないだろう……」
     「そうなんです?」
     
     顔を真っ赤にした婦人とその夫が、こちらに手を振って往来に飲まれていった。残ったのはお忍び芸能人の如く好奇の眼差しを向けられる青年が一人と、出没した熊を見たかのような視線を向けられる男が一人。そしてペアチケット。
     
     「折角だから二人で行きません?」
     「誰と、誰が」
     「おれと貴方が」
     
     何が悲しくて上司と休日に映画を観なければならないのか。これがセオドアじゃなくスズキやミハイルを慕うその他大勢の人間ならばよろこんで馳せ参じていたことだろう。もしこの場に奴らがいたならばこの機会を逃すというのかと出会い頭に引っぱたかれそうな勢いで迫ってくるに違いない。
     
     「……やっぱり職場の人と一緒に観るのは嫌?」
     
     しゅんと眉を下げ肩を竦ませてお伺いの表情を浮かべる。まさか断るのかこのヤロウ、こんな顔をさせるなバカヤロウと引っぱたかれる姿が容易に想像できた。返り討ちにしてやろうか。
     
     「……嫌じゃない。どうせ予定もないからな」
     「やった。おれ人と映画観るの好きなんです」
     
     いままでで一番の笑みがこぼれた。ここに車道がなくてよかった。見とれたドライバーが事故を引き起こしていたに違いない。
      
      
      
     「おんやぁ、伊達男が色男連れてきてら」
     「達者な口だな」
      
     セオドアはミハイルを連れ先程の映画館に訪れた。他に客はいるのかと見回すがその様子は無い。主人は慣れた手つきでチケットを受け取り半分切り離し、残りの半分をまたセオドアたちに戻す。
      
     「そこのカーテンの向こうだよ。おまえさんらが着いたら始めるからね」
      
     言われた通りカーテンへ。
      
     「セオドアさん端末の電源落としました?他にも音が出るものとかあったら切っておいてください」
     「ああ」
     「あ、それと上映中にトイレとか行ったらひっぱたきますよ」
     「済ませてある。安心しろ」
      
     普段の無駄のない指示からは想像もつかない物言いが、またもセオドアを驚かせる。どうやらミハイルの映画好きとはひとしおらしく、火力の高い言動になっている。だが、自然と口角が上がっているところを見ると、純粋に映画を楽しみにしているということがひしひしと伝わってきた。
     やはり客席には二人以外の姿は無い。三十人程が入れるような小さな劇場が広く見える。堂々と後方真ん中の席へ掛けられるのはいいものだ。
      
     「そいじゃ、はじめるよ」
      
      主人から声がかかり、目を慣らすため場内がゆっくりと暗くなっていく。二人のためだけの映画が始まった。
      
     上映開始から三十分ほど。セオドアは飽きていた。正確に言うならば飽きてはいないのだが、登場人物たちのまだるっこしいやり取りに辟易していたのだ。だがそれが恋愛映画というもの。
     あらすじとしては、産業革命が起こった時代、王室生活に嫌気がさした王女が街へ抜け出しうだつの上がらない新聞記者の男と出会い、恋に落ちていくといったものだ。現在は王女が新聞記者にやきもきしている真っ最中。まだ互いに己の恋愛感情を踏み定めかねている。これをあと六十分も眺めるのかとセオドアは気が遠くなる。加えて当時の階級制度を盾にした諸貴族たちの振る舞い、反抗心はあるものの従うしかない平民たちの態度がセオドアに追い打ちをかける。やれ横の繋がりを持てだの、貴族様とは渡り合えないだの、セオドアが蹴散らしてきたものが生々しく描かれていた。だからこそ俗人には身分差の恋というものに焦がれそれが映えるのだと頭では分かっていても、素直に受け入れるほど広量ではなかった。ふと気分直しにミハイルの方を見てみた。一心にモニターを見つめ、作品以外の情報を入れないようにしている。邪魔をするのも忍びなく、大人しくまた画面に向き直った。
      
     あれから数十分後、事態はクライマックスを迎えていた。王女の現実逃避とそれに付き合う記者、時に笑い合い、喧嘩し、からかってまた笑い合う。二人の距離はぐっと縮まり、このまま誰も知らない所へと望みを抱くようになる。しかし二人には互いの道があった。
     あれほど不貞腐れて観ていたセオドアも、今では静かに受け入れていた。役者の演技もさることながら、言葉のひとつひとつが重く残る。
     すん、とセオドアの隣から、鼻水をすするような音がした。ちらりと見れば今までじっと画面を見つめていたミハイルが涙を浮かべている。まさか、あの人形のような人物が。セオドアは思わず目を見開いた。
      
     『どうか元気で。ずっと』
     『ああ、あなたも』
      
     あれほど長い時間を過ごしていた二人が、最後は笑顔で短い言葉を交わして別れていく。互いの顔が見えなくなったところで、王女の涙が決壊した。しかし迎えに来た召使いたちにその涙を見せることはなく、王女は一人の女性として立っていた。その姿を見届けた記者は、静かに元の暮らしへ帰っていく。またすんとミハイルが鼻を鳴らす。
      
     『この記憶は永く残ることでしょう』
      
     一人前の王族の振る舞いをする王女、それに見とれる観衆たち。その中にくたびれたシャツをまといカメラを携える男を見つけ、最上の笑みで幕を閉じた。
     エンドロールが流れる。それまでずっと堪えてきたであろうミハイルの涙がぽろりとこぼれた。止めようもなく、次から次へと静かに流れ出ていく。ミハイルがハンカチでそれを拭うも、やはり溢れ出てきてしまっていた。ミハイルの瞳には、不思議な引力がある。先日の飛び降りてきた時のように、瞳に入って来た光が、人々を魅了するために作用するような錯覚さえ覚えるほどに。その光景が、どうしようもなく美しくて、セオドアは目を離せずにいた。
      
      
     「は〜……おもしろかった」
      
     すんすんと啜りながら目元を拭い、ミハイルとセオドアは席を後にする。瑞々しく潤んだ瞳は、蕩けてこぼれ落ちてしまうんじゃないかと不安になる。
      
     「若い人に観てもらえて嬉しいねぇ」
     「ありがとうございました、館長さん。とっても素敵な作品でした」
     「はっはっは!また来な」
     「はい」
      
     店を出る頃には外は暮れていた。街灯がぽつぽつと並び帰路を照らしている。露天商たちも店仕舞いをし、商店街は歩きやすくなった。
      
     「どうでした、縁のない映画は」
     「そうだな、たまに観る分には悪くない」
     「最初の方ちょっと飽きてたでしょう。ちらちらおれのこと見てたし」
     「……すまん」
     「いいですよ。おれも久しぶりに誰かと一緒に観れて楽しかったので」
     「兄弟たちと行かないのか」
     「映画好きの親友が居て、彼とよく行ってたんですけど、今は遠方に暮らしてるんです」
     「そうか」
      
     今日一日、驚きの連続だった。たまには外に出てみるものだ。それに何より、ミハイルのころころと変わる表情が印象に残っている。普段の、まるでそういう仮面をつけているような、お手本通りの笑顔とはまるで違う、素の表情。間延びした声や、好きな物のことになると捲し立てるようになる口調、包み隠さない笑い声を聞くと、不思議と悪い感じは抱かない。むしろ心が安らぐような感覚にすらなる。健全でいとけなくて、なぜ軍人になっているのか疑問が湧く。駅前のカフェにでも並ぶべきだ。などと考えているとあっという間に駅へ着く。二人の家は反対方向にあるためここで別れることになる。
      
     「今日はとっても楽しかったです」
     「それは良かった」
     「……その、良かったら、なんですけと」
     「なんだ」
     「また、たまにでいいので、一緒に映画見に行きませんか」
      
     思わぬ言葉に本日の驚きが更新される。
      
     「……構わないが、俺でいいのか。歳の近い友人の方が」
     「おれ彼以外に友達いないので」
     「そうか。わかった、好きな時に呼んでくれ」
     「……!ありがとうございます!」
      
     最初はあれほど騎士の勤めを嫌っていたにもかかわらず、二つ返事で承るとは。ミハイルの笑顔に随分と絆されたらしい。
      
     「それじゃあ、また今度」
     「ああ、また」
       
      久方ぶりに心穏やかな時間を過ごしていたのだと気づく。セオドアは今日一本も煙草に火をつけていない。
       
     「″記憶は永く残る″か……」
       
     王女の言葉を思い出し独りごちる。セオドアはまだ知らないが、この言葉は真になる。ひとまず今日ところは酒のあてになる程だが。何度も何度も今日の記憶を反芻して、笑い合う日が、そう遠くない日訪れる。
      
      
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    Replies from the creator

    じゅん

    DONE創作BLです
    年上部下×年下上司
    おつむが弱いので階級とか役職とかはいい感じに考えました。
    軍が公に諜報機関って言わなさそうなので多分表向きは外交官みたいな感じです
    犬も喰わない 一 世界地図を書き換えた戦争──シャッフルから二十年の月日が経つ。戦場となったイグルニスタ連合王国は、かつての惨状を忘れ去るほどの再建と成長を遂げた。そして、二度とあの惨禍を呼び起こすことのないようにと、王国軍は国防に何より力を注いだ。全ては、他国との協和を、民衆の営みを愛した女王の思し召しだ。と、ここまでは誰もが幼少期より学ぶ。しかし、いつの時代にも史実には載らない者たちが居るものだ。載ったところで傍から見れば誰も気にも留めないようなインクの染み。王国軍諜報機関ライブラもそのひとつである。
    王都からほど近い古都カルサルザ。古風な街並みを見下ろす丘に、ライブラは位置している。ライブラは、初代国防長官の屋敷を改築し最新設備を携えた王国軍諜報機関である。三つ首の犬がトレードマークになっており、旗や記章に刻まれている。三つ首の犬はライブラを組織した御三家の象徴だ。御三家は、王家貴族と長い信頼を築くエスメラルダ家、隣国との関係を取り持ったカグラ家、そして歴史は浅いが多人種渦巻く混乱を収めてきたモンスティ家から成る。現在ライブラの長を務めるはピンク・モンスティ氏。家の名声は少なかれど先の戦中、戦後処理において常に前線に立ちその大いな貢献を認められ、新進気鋭ながらも多大な信用と信頼を獲ていた。
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