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    nanashiyrmt

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    nanashiyrmt

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    イベントに合わせて出すつもりだった小説の一部です。これから頑張って書き上げます。イベント本当にありがとうございました!
    #縁巌ロンリーイベント

    「追憶のリーベ」

    夢を見る。真っ暗な空間に一人、取り残される夢。周りは一切見えないのに、『いらない子』『忌み子』だと蔑む声だけが響いている。それが己に向けられたものであることは十分に理解できた。夢の中の俺はいつも何もできずただ一人、うずくまってじっと耐える。自分が悪いのだ。全てすべて、自分が生まれてきてしまったから。染みついた罪の意識がこの身を苛む。
    ――いっそ何も知覚できなければいいのに。
    いくら願えども生来の―以外に不具を持たないこの体は、持ち主に構わず轟轟と呼吸を続ける。
    ――誰か、ああ誰か俺を―――てくれないか。
    『縁壱』
    どうしようもない寂しさの中、ふと顔を上げると美しい光が己を照らしていた。穢れのない小さな光が呼ぶ俺の名は、何よりも心強くて暖かい。
    『縁壱』
     光は俺にそっと寄り添ってくれた。あらゆる陰口から俺を守り、空間の外を見せてくれた。光が見せてくれる世界はなんとも美しく柔らかいものであった。この光が、一等自分の中で大切なのだと感じた。光はまるで闇夜を照らす月のようで、それに気づいて俺はいつも目が覚めるのだ。

    今年の冬は、温かかった去年に比べて気温の低い日が多いという。このあたりでは雪などめったに降らないが、地方では既に積もっているところもあるらしい。一年の終わりが迫る12月のことだ。コートを着てもいいと言われているとはいえ、冷え切った体育館はうすら寒い。今日は終業式だ。壇上では校長が何か話をしているが、周りを見ても眠っている人や喋っている人、はたまた単語帳を持ち込む人――誰もかれもまともに聞いている方が馬鹿馬鹿しいくらい自由に過ごしている。
    外に遊びに行きたいな、と継国縁壱は思いを馳せた。

    「終わったな!!」
    LHR後に勢いよく声を上げたのは友人の煉獄である。「休みとはいえ節度を持って、来年また元気な姿で会いましょう」という担任の言葉を皮切りに、にわかに騒がしくなった教室は開放感に溢れている。高校二年生ともなると勝手が分かってくるもので、今日のような日は少しはっちゃけていても先生が怒鳴り込みに来ることはないのは周知の事実である。リュックの中に荷物を積めながら、明日から何をしようかと話すクラスメイトの会話を聞き流す。
    「縁壱、このあと空いているだろうか?何か食べて帰らないか?」
    「ああ、そうしよう」
    煉獄は「いい人間」だ。中学からの付き合いということもあったが、反応に乏しく入学当初クラスで浮いていた縁壱に何かと付き合ってくれる。今だって、無表情な縁壱を共に遊びに誘ってくれている。縁壱も煉獄のことは気に入っていて煉獄のいうことは何でも聞いていた。その従順さは大型犬を連想させ、それ故に今では縁壱はクラスのマスコットのような扱いを受けていた。

     「冬だなあ」
    はあ、と息が白く染まる。寒さゆえに赤く染まった鼻は商店街の街並みのようなクリスマスの様相を呈していた。煉獄の闊達な声が冬の寒さを吹き飛ばすように響く。
    「縁壱、21日は空いているか?時間があれば他の人を誘ってボーリングでも行こうかと話をしていたんだが」
    「…午前中なら、構わない」
    縁壱の家は基本的に親の帰りが遅かった。仕事が忙しい両親であるゆえに友人の家への泊りなどざらにあったし、ガタイもいいので夜遊びをしても補導されることはほぼない。そんな縁壱が夜まで遊ばないなど珍しい。煉獄は素直に驚いて聞き返した。
    「承知した。珍しいな、何か用事でもあるのか?」
    「…明日から、家庭教師が来るんだ」
    その声は、いつもよりも心持ち暗いものであった。

     「家庭教師…?」
    「そう。今回の成績があんまりひどいから、つてを使って頼んじゃった」
    終業式の前々日。帰宅するなり、母親から宣告が告げられた。確かに自分の成績は散々なものであった。ここは仮にも進学校だ、来年は受験生だぞ。大丈夫か?と真剣な表情で担任に問われたくらいである。赤が並んだ成績表を見た母の視点の痛さは、中々堪えるものがあった。
    「こうでもしないとしないでしょう。10日間だし、年の近い男の子だから大丈夫よきっと」
    聞けば、年の離れた友人の従兄弟とのことだ。大学2年生で大層優秀な人らしい。空いている時間であればいつでも良いと言われたそうだ。日程調節の無茶苦茶さに、冬休みに、しかもこんな年の瀬までバイトに費やすなんてそれでいいのか大学生、なんて頓珍漢な方向に心配をする。
    「受験生になるんでしょう。大学に通うなら、自覚を持って勉強しなさい。次の試験で点数取れなかったらお小遣い減らすよ」
    母にそう言われれば口が下手な自分は逆らえない。「はい」と泣く泣く了承した次第である。
    「はあーーー……」
    憂鬱だ。さらば自由な冬休み。寒さが厳しい12月18日。かくして縁壱の冬休みは始まったのだ。

     さて、その初日である12月19日。ココアを作り、課題にも手を付けずぼうっと暇を潰す。テーブルに置いていた携帯からピロン、とLINEの通知が鳴った。隣のクラスの炭吉からである。
    『12月24日にどこか遊びに行きませんか?ほかにも何人か呼ぶ予定です!』
    …大方、ずっと懸想している女性に二人きりでと言って誘うのが恥ずかしいのだろう。コミュニケーション能力は高いのにいじらしい彼の姿を思って、『OK』のスタンプをすぐに返した。冬の時期には駅前にイルミネーションが灯る。友人の狙いはそれを見に行くことだろう。家庭教師の契約は15時からの2時間。親が帰ってくるのはいつも遅い時間なので、夜は少し遅くなっても何の問題もなかった。早く外に出て、遊びに行きたかった。
    この世界は美しい。しかし自分がそれに関わることは決して許されていない。生まれてきた時から、縁壱はそう考えていた。なぜそう考えるのかはいつもわからなかった。この世が美しいものであることを、素晴らしいものであることを自分は確かに知っているはずなのに。自分は周りから一歩引いたところで人の幸せを眺めているくらいがちょうどいい。なにせ自分は―――だから。…家族も、友人も大切だ。共にいると温かな気持ちになる。だからこそ自分は手放さなければならないのだ。彼らから幸せを取り上げてはならない。
    それではきっと恋愛をすれば変わるのではないか、と周りから言われた。縁壱は欲求が希薄だ、安直かもしれないが恋人の一人でもできればきっと見方は変わるだろうと。実際、恋をしている炭吉は毎日楽しそうにしている。
    そうか、恋か。ちょうどその時告白してきた同級生がいたので、これ幸いと付き合ってみた。小さな背丈も高い声も女性らしく、世間的に見れば可愛い彼女というものに当たるのだろう。気立ても悪くないし、表情に乏しい縁壱に対する言動も健気なものだった。周りからもできた彼女だとほめそやされたものである。
    しかし彼女の柔い肌に触れたところで、縁壱の疎外感が満たされることはなかった。手を繋いでも、キスをしてもふと人ごとのように彼女が幸せになりますように、と思うのだ。
    「私のこと、恋愛的な意味で好きじゃないんでしょ」
    その言葉を最後に彼女とは一週間と経たず別れた。それ以来、いろいろなタイプの人と出会い、付き合い、体を交わしたが、心動く出会いはなくただただ平穏な幸せを願うだけだった。
    恋とはどんなものだろう。平穏な幸せ以上の感情とはなんだろう。皆が感じる執心とは、なんなのだろう。スプーンをくるくると回す。どろりとしたココアの甘さはひどく心地よかった。

     その人が現れたのは、その日のちょうど15時だった。
    「初めまして、今日から家庭教師を務める時透巌勝と言います」
    艶やかな長い黒髪に目を奪われた。長く結い上げた腰ほどまであるポニーテール。次に伸びた背筋にハッとした。雰囲気のある人だ。立ち居振る舞いに威厳を感じるような。大学生と聞いていたが、社会人と言われても納得する威容だった。
    「あ、あのどうぞおあがりください」
    「ありがとうございます、お邪魔します」
    そう言って礼をする姿は、現実では見たことのない武士を連想させられた。こちらの背筋まで正されるような態度に、なんとなく身が引き締まった。
    「…名前、継国縁壱くんだったか」
    「はい、継国縁壱です。時透先生、今日からよろしくお願いします」
     お茶とお菓子を持ってくるので、俺の部屋で少し待っていてください。
    時透巌勝さん。時透巌勝さん。自室へ案内し階段を1段1段降りるとともに忘れないよう名前を何度も反芻させる。どことなく違和感のある名だと思った。この人と会うのは初めて会うはずなのにとても親しみのある気がする。友人と同じ名字であることを差し引いてもなんとなく気になったので、後で調べてみようかなと頭の片隅に書き留めた。

    今日は顔合わせも兼ねているからお茶とお菓子くらい出しなさいね。年の瀬が迫っているため休日出勤に駆り出された母の伝言を今はありがたく思った。
    そういえば、自発的にもてなしたいと思うなど初めての経験だ。台所で湯を沸かしながらふと、そんなことを考えた。茶菓子は冷蔵庫にチョコレートケーキが用意してあったので、それを持っていこう。母が用意してくれたのだろう、口に合うといいなと考えながら案内した自室に向かう。
    「お待たせしました」
    「お気遣いありがとう、いただきます」
    縁壱の部屋は、5畳ほどだ。このくらいがちょうどいい、何ならもっと狭くてもいい。家具の関係で大人二人が入れば少し窮屈に感じる広さのこの部屋は、縁壱のお気に入りであった。
    「いえ、こちらこそお気になさらず」
    「…しっかりしているな」
    所狭しと棚に並べられたトロフィーに、彼は目を細めた。その瞬間、先ほど感じた威厳や威容といったものがふっと綻ぶ。慈しむような目線はどことなくむず痒いが、居心地が悪いものではない。心から嬉しいと思った。自分に兄がいたのならこのような感じだったのだろうか。所作の一つ一つにそう思わずにはいられない柔らかさがあった。
    「…今日は顔合わせだ。はじめから成績の話をするのもなんだから、少し趣味の話でもしようか。」
    先生のこの対応に、縁壱は表情をあまり変えることはなかったがひどく安心した。初対面で、しかも出会ってすぐに先生から失望されるのは嫌だった。家庭教師と生徒という関係上、自分の成績を見せることはいずれしなければならないことだが、この人から母のような冷たい視線を送られたら堪えられない気がしたのだ。
    「好きなことは何だ?部活は何か入っているか?」
    「好きなこと…アウトドアは好きです、キャンプとか。部活は中学まで陸上をやっていましたが、今は入っていません」
     縁壱は生粋のアウトドア派であった。旅行に行くと非日常感に触れられるからか心が弾んだ。特に校外実習で行ったキャンプには、懐かしさすら感じた。月光に照らされた森の中、狭いテントで友人と過ごすということが大層好ましいと思った。
    「登山部などならば高校にあるだろう。せっかくいい体格をしているのに入らないのか?」
    そう言われてはたと思うところがあった。
    山は好きだ。中学校の時やっていた陸上だって、嫌いではなかった。それでも、それが本当にやりたかったかと言われると、素直にうなずくことはできなかった。陸上では成績を残していたので、高校では入らないと告げると、教師や陸上関係者からあからさまにがっかりされたものだ。
    「やりたいことが、わからないのです」
    「…山登りが好きなのだろう。陸上も才能があったのだろう。ここに並んだトロフィーの数を見れば分かる。究めればよかったじゃないか」
    如何にも不思議だ、という表情でこちらを見つめる。返す言葉が見つからなくて、少し間を開けて白状した。
    「…何の目標も、意味も感じられなくて。走ることしかできなかったので続けていましたが、記録の更新ばかり周りに期待されるのが嫌になりまして」
    なぜだか、この人には本音が話せると直感した。
    中学の頃、表彰台の天辺にはいつも縁壱が立っていた。練習も大会も、人並みには努力した。駆けることが好きだったから、楽しいと思って取り組んでいた。走ればその分成果が上がった。楽しかったから続けていたのだ。それが周りに与える影響など、自分にはわからぬ問題であった。
    「『お前がいると、走る理由を見失う』と、友人に言われました。」
    自分が陸上を続けることで、苦しむ人間の存在を知った。誰もが皆、楽しんでばかりでスポーツをしていないのだと、そこでようやく気が付いた。それならば自分は人のために競技の世界から身を置くことこそが好いことなのだと知った。それが世界から忌まれた自分がとるべき最善策なのだ、と。
     はああーー、という正面からの深いため息に、思わずびくりと跳ね上がる。
    「あの、時透先生」
    「なんとも耳が痛い話だ…いいか、その才は誰かが喉から手が出るほど欲する能力だ。お前には不要でも周りが欲し、周りに望まれる才だ。」
    「…そう、でしょうか」
     「ああ。…お前が続けたくないのであればそれでいい。だが、憐れみという名目で無為に才能を擲つことは相手への最大の侮蔑だ」
    「…」
     「…すまない、初対面でこんな話をして悪かった。気分を害したら申し訳ない」
     「いえ、そうではないのです」
    正直驚きを隠せなかった。それは初対面で人生指導されたからではなく、彼の高潔な人間性を垣間見たためである。
     「…ありがとう、ございます。そんな風に言われたことがなかったので、新鮮でした」
    周りは才能だけを見て、縁壱本人と友人の心中なんて何も気にかけてなどくれなかった。だれも友人を追い詰めた縁壱を正してくれなかった。本当に欲しかった言葉を、この人は与えてくれた。顔が緩むのが分かる。なんて素敵な人だろう。縁壱の感情は大きく動いていた。
    「…ところで成績を見たいのだが、直近のテストを見せてもらえるか?」
    「…はい、こちらです」
    おお、これは中々…と先生が唸るのを聞いて、縁壱はこの人のために勉強を頑張ろうと決心した。

     とりあえず課題が最優先だ、数学からやっていこうか。わからないところがあるなら聞きなさいと言われ、ペンを握る。縁壱が問題を解いている間、先生は本を読んでいた。今読んでいるのは小説の類らしい。傍目に見た本の背表紙からきっとそうだろうと判断した。
    縁壱には小説の良さがわからない。人が何を考えているのか、全く見当がつかないためである。「行間を読む」ことが必要とされる小説は縁壱が特に忌むジャンルであった。おかげで現代文の成績はいつだって赤点だ。
    本から先生に目を移す。血もつながっていないというのに隣に座る先生の横顔はどことなく自分と似ている。しかし自分よりもずっと美しい人だ。高く結われた黒髪は艶やかで、涼し気な目元とすっと通った鼻梁、薄く小さな口からなる理知的な顔立ちも、伸びた背筋も何もかもが綺麗だ。思わずぼうっとしてしまう。
    「…私の顔に、何かついているのか」
    声をかけられる。心配しているような声色だ。思っていたよりも夢中で顔を見つめていたらしい。
    「い、いえ、そんなことは…」
    緊張のあまり声が裏返る。しくじってしまった。顔に熱が集まるのが、ありありと感じられる。恥ずかしさを隠すように少しうつむいた。何とか話の糸口を見つけようと、先生が読んでいる本に目をつける。
    「…先生は、本がお好きなんですか」
    「ああ。…ちょうどいい。休憩がてら、ちょっとその話をしようか」
    そう言って語り始めた彼の言葉は滔々と流れるようで、本嫌いな自分にもその面白さが伝わってきた。古今東西問わず読書を嗜む彼の知識は広くて深い。
    「個人的な好みだったら、川端康成の『古都』だ」
    「最近映画化もされたので、知っているかもしれないな。」なんて言われるが、縁壱は映画には詳しくないので正直に「そうなんですか」と返す。
    「…双子の姉妹の話だ。赤子の頃に呉服屋に預けられた姉と、村娘の妹。二人は二十歳の頃、祇園祭で再会するのだ。」
    身分違いから姉に対し引け目を感じる天涯孤独な村娘の妹と、双子の妹を素直に可愛がる商人の娘の姉。ある日、経営が傾き危機に陥った姉の呉服屋を幼馴染の兄が救い、姉はその男と結婚することになる。姉のことを好きで、妹にも惹かれ始めていた西陣織屋の息子は妹に求婚する。妹は西陣織屋の息子が自分を姉の代わりに愛しているのだと理解しており、自分の存在が明らかになると姉の家族にも迷惑が掛かると思ってプロポ―ズを断るつもりだった。しかし姉の家族は妹を快く受け入れ、引き取ってもいいと考えていると妹に告げた。
    そうして姉妹は一泊、幸福な時を過ごしたという。
    「結末を言ってしまうと面白くないから、続きは自分で確認するといい」
    川端康成の中でも評価の高い作品で、京都の四季を美しく描いた名作だ。ノーベル文学賞候補にもなった。それから…
     話をしている巌勝の顔は明るい。本の話題は縁壱にはわからない。それでもこの人が楽しい、面白いと思うことはどんなことでも知りたかった。
    「…すまない長くなったな、面白くなかったか?」
    「いいえ、先生の話はとても興味深くて面白いです」
    「それならよかった。…さて、いい時間だな。再開しよう」
    分からないところはなかったか?とりあえず採点からだ。赤ペンを滑らせ、どうか先生のお眼鏡にかなうようにと今さらながら願を掛ける。
    「あ…」
    正答率は3割程度だ。瞬間顔がさあっと青ざめる。これはさすがに酷すぎる。こんな状態なのに先生にお話を振ったりして、俺はなんと情けない。時透先生に見放されないだろうか。ちらり、と先生の様子をうかがう。
    「…これで問題が無かったら私の出番がない。大丈夫、次できるようになればいい」
    だからそんな顔をするな。そう言って頭をなでられたら、もう落ちるしかなかった。
    そこからは褒め殺しといっても過言ではなかった。ここまで解けたのは偉いな、じゃあこれは解けるか?微笑みを湛えてそう言われると照れて思わずうつむいてしまうのは自分の癖であったが、俄然やる気になる。すごい、初日なのにとても勉強ができるようになった気がする。なんだか、小さな子供の時のような万能感を感じた。
     「…っ!できました!」
     「どれ、見せてみろ」
     先生が顔にかかるサイドの髪を耳にかける。言い知れぬ色気に思わず胸を高まらせる。サラリと怜悧な音がするような黒髪だ。癖のついた自分の短髪とは違う。…触ってみたい。そう思って腕をばれないようにそうっと伸ばす。
    「…うん、よくできている。やればできるじゃないか」
    「は、はい」
    先生の顔がふっと上げられる。褒められるのはとてもうれしい。しかし行き場のない己の腕と感情はただ、宙を掴むばかり。先生が気付かなくてよかった。心の底からそう思った。
     
    苦痛でしかないと思っていた2時間も、相手が時透先生だからかあっという間に過ぎてしまった。今日の授業はあと5分。学校では長いとすら感じる時間が永遠に続けばいいのに、とすら思えた。
     「継国くんは基本が大体できているからあとは応用を熟していこうか。とりあえずは学校の課題をやって、それが終わったら参考書を解いていこう。きっとすぐにできるようになる」
    「先生の教え方が上手だからです」
     「何を言う、お前の努力の賜物だ。指導初日でこんなに進んだのはすごいな」
    …先生は、卑屈ともいえるくらい謙虚なところがあるのかもしれない。確かに今日の二時間で数学に関しては三分の一くらい終わらせた。しかし学校の授業ではこんなに集中も理解もできない自分がこんなに問題が解けたのは先生のおかげなのに。なぜか面白くないと思った。
     「…明日までに今日やったところを復習しておくこと。いいな?」
     「はい、わかりました」
     5分が過ぎた。嗚呼、もう終わってしまう。口下手な自分がつくづく嫌になる。
    「一応これで今日は終わりだ。また明日よろしく頼む」
    「あ、玄関までお見送りします!」
    椅子から飛び上がるように立ち上がる。少しでも長く先生と一緒にいたいので、コートを羽織る先生に置いて行かれてはたまらない。玄関まで引っ付くようについていく。夜は危ないから気を付けてくださいというと、「生娘じゃあるまいし」と一笑に付されてしまった。
    「では、また明日」
    「…はい、明日またよろしくお願いします」
    明日。明日になればあの人はまた来てくれる。がちゃんと鳴るドアの音は冷たかったが、先生の「また明日」という約束の前には何もかも無力だ。早く明日にならないかな。胸を弾ませて部屋に戻った。

    次の授業は翌日である20日だった。時間通りにチャイムが鳴る。
    「母さん、俺が出るから出なくていいよ」
    「そういうわけにもいかないでしょう。巌勝くん、初めまして。縁壱をよろしくね」
    「ん?…なんだ家庭教師の子か。初めまして、縁壱をよろしく」
     絶対に自分が出迎えると決心して待っていたが、ちょうど家にいた母が出てしまった。何なら手が空いていたらしい父まで出てくる始末であった。俺が迎えたかったのに。臍を少し曲げながら出迎えると、その人はうっすら笑いを浮かべていた。
    「いえ、仲がよろしいようでなによりです」
    お邪魔しますと丁寧に礼をする姿はやはり武士のようだ。
    「若いのにしっかりしてるわねえ、後でお茶とお菓子持っていっていいかな?」
    友人の甥ということもあって母の先生への対応はフランクだ。お節介ともいえる。はい、ありがとうございますと先生が言うが早いが、話したいことだけまくし立てて嵐のように去って行ってしまった。
    「…両親がすみません」
    「いいや、気にしていない。ご両親と仲がいいんだな」
    階段をのぼりながらかけられた言葉である。それが否定のしようもないものであるので、縁壱は素直にはい、と答えた。母は一人息子である自分に対して暴走する嫌いがあれども(今回の無断の家庭教師だってその一つだ)、自分を尊重してくれる人であった。縁壱が本当にやりたくないことはやらせず、好きなようにさせてくれている。縁壱も母のことは嫌いではなかった。
    「家族が円満なのは、幸せなことだ」
    部屋に入るや否やかけられた言葉に驚いて振り返る。先生の顔が翳っている。おや、と思った。こちらを向いているはずなのにどこか遠い目をしている。まるで、眩しいものを見るような。
    「…暗夜行路は読んだことがあるか?」
    首を振る。
    「…志賀直哉は、なぜかたまに読みたくなるんだ。お前も読んでみるといい」
    さて、昨日の復習から始めるぞと語る先生は、打って変わって昨日と同じく明るい様子だった。何かを隠している。先生の家庭環境を聞くなんてことができるわけがない。それに先生が何気ない風にふるまうものだから、きっと何かの本で感じたものの受け売りなのだろうと思うことにした。
    先生の授業はやはりわかりやすい。思わず照れてうつむく癖はもう直しようがないのでどうしようもなかったが、指導の末たった二日で俺は例年あれほど苦労していた数学の課題を完全に理解して終わらせることができたのである。
    「すごい、全部わかる…!」
    「よくやったな、次は何をしようか」
    課題はまだ山のように残っていた。古典のテキストを選択するとまたも先生はサクサクと見ることができた。理系と聞いていたが古典はまるで得意分野ともいわんばかりに読み解くのだから、この人はなんて多才なのだろうと思ったほどである。
    「言語はまず、単語を覚えることが大事だ」
    お前ならきっとすぐにできるようになる。そう言って微笑みかけてくれることが何よりうれしかった。

    21日。友人と遊びに行くと決めていた日だった。ボーリング場は9時からやっていたのでその時間からやろうということになった。身に染みる寒さの中、しかし厚着をするとあとで後悔することになるのでマフラーに顔をうずめて待ち合わせ場所に向かう。友人はすでに集まっていたようで、自分以外は揃っていた。
     「縁壱、カテキョはどうだ?」
    友人がそう茶化してくる。此奴は家庭教師が来るから夜まで遊べないと言ったらからかってきていたな。LINEグループのことを思い返して言葉を返す。
     「とても分かりやすくて、いい先生だ」
    「始まる前はあんなに気が重そうだったのに、元気そうで何よりだ!よかったな!」
     煉獄の闊達さが少し憎い。確かにかなり気を落として始まった冬休みではあったが、あの人が先生であるということは縁壱にとって何よりの喜びであった。
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    nanashiyrmt

    PROGRESSイベントに合わせて出すつもりだった小説の一部です。これから頑張って書き上げます。イベント本当にありがとうございました!
    #縁巌ロンリーイベント
    「追憶のリーベ」

    夢を見る。真っ暗な空間に一人、取り残される夢。周りは一切見えないのに、『いらない子』『忌み子』だと蔑む声だけが響いている。それが己に向けられたものであることは十分に理解できた。夢の中の俺はいつも何もできずただ一人、うずくまってじっと耐える。自分が悪いのだ。全てすべて、自分が生まれてきてしまったから。染みついた罪の意識がこの身を苛む。
    ――いっそ何も知覚できなければいいのに。
    いくら願えども生来の―以外に不具を持たないこの体は、持ち主に構わず轟轟と呼吸を続ける。
    ――誰か、ああ誰か俺を―――てくれないか。
    『縁壱』
    どうしようもない寂しさの中、ふと顔を上げると美しい光が己を照らしていた。穢れのない小さな光が呼ぶ俺の名は、何よりも心強くて暖かい。
    『縁壱』
     光は俺にそっと寄り添ってくれた。あらゆる陰口から俺を守り、空間の外を見せてくれた。光が見せてくれる世界はなんとも美しく柔らかいものであった。この光が、一等自分の中で大切なのだと感じた。光はまるで闇夜を照らす月のようで、それに気づいて俺はいつも目が覚めるのだ。

    今年の冬は、温かかった去年に比べて気温の低い日が多いと 9998

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    ――いっそ何も知覚できなければいいのに。
    いくら願えども生来の―以外に不具を持たないこの体は、持ち主に構わず轟轟と呼吸を続ける。
    ――誰か、ああ誰か俺を―――てくれないか。
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    どうしようもない寂しさの中、ふと顔を上げると美しい光が己を照らしていた。穢れのない小さな光が呼ぶ俺の名は、何よりも心強くて暖かい。
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     光は俺にそっと寄り添ってくれた。あらゆる陰口から俺を守り、空間の外を見せてくれた。光が見せてくれる世界はなんとも美しく柔らかいものであった。この光が、一等自分の中で大切なのだと感じた。光はまるで闇夜を照らす月のようで、それに気づいて俺はいつも目が覚めるのだ。

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    ――いっそ何も知覚できなければいいのに。
    いくら願えども生来の―以外に不具を持たないこの体は、持ち主に構わず轟轟と呼吸を続ける。
    ――誰か、ああ誰か俺を―――てくれないか。
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    どうしようもない寂しさの中、ふと顔を上げると美しい光が己を照らしていた。穢れのない小さな光が呼ぶ俺の名は、何よりも心強くて暖かい。
    『縁壱』
     光は俺にそっと寄り添ってくれた。あらゆる陰口から俺を守り、空間の外を見せてくれた。光が見せてくれる世界はなんとも美しく柔らかいものであった。この光が、一等自分の中で大切なのだと感じた。光はまるで闇夜を照らす月のようで、それに気づいて俺はいつも目が覚めるのだ。

    今年の冬は、温かかった去年に比べて気温の低い日が多いと 9998