YELLOW 気がつくと、おれは何もない道を歩いていた。何もないというのは些か大袈裟な表現で、実際には家も街路樹もあった。
これが夢であると気が付いていた。おれは平常通り金のない大学生で、指だって両手に五本ずつしっかりと生えていた。それでも、おれは知っていた。これは夢である。
最近はひたすら懊悩の日々だ。大学の卒業と入隊を目前にして、果たして本当にこれで良いのかと今更のように思ったりもしている。自分の名前の綴りすらもあやしいような頃から持ち続けていた目標をようやく達成しようとしている。そのことに精神が戸惑っているのかも知れなかった。もしくは、自分のこれは目標や夢などという崇高なものではなく、もはや意地なのではないかと考えてしまうことがあった。
少し遅めのアイデンティティの拡散か、早すぎるミッドライフクライシスかなにかのように、この先の道について考える日々だった。せっかく意識のはっきりとした夢なのだったら、エリクソンかジャックが現れて最近のおれの鬱屈とした気持ちについてもっともらしい解説でもして欲しかった。
それでも、結局のところおれはROTC奨学生なのだから、自分の意思に関わらず最低でも四年は国のために従事しなければならない。そのため、今になって思い悩むのは全く見当違いでもあった。
そんなことを考えているうちに、ふと道路沿いにレモネードスタンドがあるのが見えた。ちゃちな飾り付けの小さな屋台に、いかにも子どもらしい文字でメニューを掲げている。レモネードスタンドがあるような季節ではない。しかし小さな作業台の上に鮮やかな黄色が並べられているのを見ると、急に日差しが強くなり、青空も幾分か明るくなったような気がするのだった。確かにこれは夢であった。
スタンドでは、ブロンドの少年が懸命にレモンを二つ切りにしている。横に立つ黒髪の男性がその様子を見守っていた。
そのレモンが欲しかった。
喉の渇きなどはなかったが、その爽やかな色合いが不思議なほどに目をひいた。
夢であっても人のものを勝手に取ってはいけないだろうという倫理観はあった。ポケットから適当に紙幣を引っ張り出し、そのレモンをくれないかと少年に言った。少年は大人に確認したのち、快くレモンを差し出した。渡されたレモンは見た目に反してずしりと重く、手に心地よく収まった。
彼らの顔は見なかった。
さらに歩いて行くと、日差しはどんどん強くなった。先ほどまで住宅街にいたはずなのに、気がつくと眼前にはひたすらに砂と空が広がるのみだった。今度は文字通り、何もない道を歩いた。
おれはこの砂漠を知っている。
幼い頃に写真で見たのだ。長期の不在ののちに決まってわが家を訪ねるあの人に、あなたの家はどこかと尋ねたことがある。そうして見せられたのが、砂漠の中に無骨な格納庫がぽつんと建っている写真だった。
おれはこの砂漠が嫌いだった。実際には来たこともないこの場所が、幼い頃からずっとおそろしかった。
しかし、おれは確かにこの砂漠にいるのだった。
照りつける太陽の下で徐々に体温が上がり、手の中のレモンだけが涼やかだった。その紡錘形をふと頬に当てればじんわりと冷たく、爽やかな香りが鼻腔を掠めた。
生温い風だけがのっそりとそばを通り過ぎていく。
目的もわからないまま、ただ足を動かした。しかしおれは、自分がどこに向かっているのかを正しく理解していた。
このまま目が覚めてくれないかと願うが、一向にその気配はない。汗をかいた背中にシャツがべたりと張り付いていて不快だった。
思えば、ここ最近の憂鬱もこのような不快感を伴っていた。
おれは夢に近づいている。そのことは確かであるはずなのに、ではお前の夢は何かと尋ねられると答えに窮するだろうと思った。海軍のアビエイターになることがおれの目標だった。では、その先は?
つまりはそれがこの夢なのだった。
おれはきっと、おれが目指すものに気が付いている。それでも、そのことから目を逸らそうとしている。
砂をけるように歩いている。ふと顔を上げると、目の前に巨大な格納庫が現れていた。入り口の前に、一人の男が立っている。
あれほど思い出したくないと思っていた人間のはずなのに、そこに思い通りの人間が立っていたことにおれはほっとした。男は何も言わずただこちらを見つめ、穏やかな笑みを浮かべている。
夢に出てきたら殴ってやろうと思っていた。実際、殴った夢もあった。
しかしおれの右手には今、ちょうどすっぽりとレモンが収まっているのだった。
ゆっくりと男に近づいてレモンを差し出すと、彼はそれを受け取った。鼻に近づけて匂いを嗅ぎ、こちらをまっすぐに見た。相変わらず、腹が立つくらい綺麗な顔だった。
おれはその場で踵を返し、来た道を戻った。背後から、あの格納庫ごと木っ端微塵んに吹き飛んでしまう爆発音が聞こえないだろうかと耳をすませた。