どこでもきっと、変わらない(前編) ニューミリオンの郊外にある廃屋敷でドッペルゲンガーが出るという噂が、最近SNSで密かに話題になっていた。
「ねえ、これってオイラたちB&Gの出番じゃない?」
グレイに寄り添うようにソファーに座っていたビリーが、”ハニー”をグレイに向けながらそう言った。その画面には、朽ちた屋敷の写真と、その家で起こったという怪奇現象の数々が記載されている。
「ここ、最近ドッペルゲンガーが出るって噂されてるお屋敷……?」
「YES! このお屋敷の噂、実はドッペルゲンガーだけじゃないんだヨ。
他にも子供の笑い声が聞こえるとか、不気味な女の人に追いかけられるとか、異世界に繋がる扉があるとか、異世界転生できるとか。とにかくバラエティー豊かな噂がいっぱいあるみたい」
「ちょっとバラエティー豊かすぎない……?」
後半に近づくにつれて、どんどん胡散臭くなっていく噂の数々にグレイは困惑する。異世界に繋がる扉がある、まではまだ何となく理解できるけれど。異世界転生はちょっと、いや、かなりわからない。オカルト話というより、もうアニメやコミックの設定のようになってきている気がする。
「でもこれだけたくさん噂があるってコトは、その噂の元になる何かがある可能性は割と高いと思うんだよね。ひとつくらいは本物があってもよさそうじゃない?」
「確かに、それはそうかも……」
火のない所に煙は立たないともいうし、確かにビリーの言う通りかもしれない。噂の元凶がサブスタンスだという可能性も無くはない話だ。
「……ってコトで、どう? オイラたちB&Gで、このお屋敷の噂の真相を確かめにいってみない?」
楽しそうに話すビリーに、グレイの好奇心がくすぐられる。B&Gの活動はときどき大変な目に合うこともあるけれど、それでも楽しいことの方がずっと多い。きっと、お屋敷探検も良い思い出のひとつになるに違いない。
しかし、グレイにはひとつ気がかりなことがあった。
「うん……僕も行きたい。でも、ビリーくん、大丈夫なの……?」
「何が?」
「ちょっと前、セイジさんに不思議体験の話を聞きに行ったとき、すごく怖がってたみたいだったから……その、平気なのかなって……」
グレイは、先日セイジに不思議な体験をしたことがないかを二人でインタビューをしに行った日のことを思い浮かべる。
あの時は、本当に大変だった。セイジに”ちょっとしたアドバイス”をされたビリーが、自分に何か悪いものが憑いているのだと思い込み、リビングでパーティーソングとコメディー映画を流し続けてちょっとした騒ぎになったのだ。最終的にはビリーに泣きつかれたアッシュが怒りつつも大きめのパーティーを開いたことによって、その場は収まったのだが。
その時にビリーは、もう面白半分にオカルトに首を突っ込んだりしない、と何度も口にしていたので、てっきりもうこういった類のものには手を出さないものだと思っていたのだけれど。屋敷探検になんて行って大丈夫なのだろうか。
しかし、そんなグレイの心配をよそに、ビリーはからりと笑った。
「HAHAHA、平気平気! あの時はオイラとしたコトがちょ~~~~~~っとだけ取り乱しちゃったケド、もう大丈夫だから!」
「ほ、本当に大丈夫……? あのときのビリーくん、ちょっと取り乱すってレベルじゃなかったと思うんだけど……」
「大丈夫だって! もうホントに、全然、ちっとも怖くないから!」
「そ、そう……?」
そんなに念押しされると、逆に心配になってくる。まあ、本人が大丈夫というのだから、それ以上深く突っ込まない方がいいだろう。なんとなく、ビリーがこれ以上この話に触れてほしく無さそうな気配も感じるし。
若干の不安は残りつつも、そう結論付けたグレイは、ビリーに向かって軽く微笑みかけた。
「じゃあ、その……僕たちB&Gで、お屋敷の謎を解き明かしに行こう……!」
「イェ~イ☆ そう来なくっちゃ!」
グレイの言葉に、ビリーがぱちんと指を鳴らす。
こうして、ビリーとグレイは、噂の絶えない奇妙な屋敷へ向かうことになった。
次の週のオフの日、ビリーとグレイは件の屋敷へ調査に向かった。
ニューミリオンの郊外にあるその屋敷は、小さな林を抜けた先にあるらしい。
事前に調べた地図を頼りに、鬱蒼とした木々の間に見えるかすかな土の道を、車で慎重に進んでいく。枝葉によって日差しが遮られた道は薄暗く、不気味な雰囲気を漂わせていた。
しばらく道なりに車を走らせていると、視界がぱっと明るくなった。そうして林を抜けたところで、その屋敷は姿を現した。
「ここみたいだね」
グレイは屋敷の外門の傍に車を停め、エンジンを切る。そして助手席に座っていたビリーと共に、ゆっくりと外へ出た。
手入れのされていない庭は荒れ果てており、枯れ木がカサカサと侘しい音を立てていた。本来家を守る為にある筈の金属製の外門は茶色く錆びつき、鍵が壊れたまま放置されている。
かつては豪華な屋敷だったであろう建物は、家の主がいなくなって相当長い年月が経過したのか、かつての姿など想像できないほどに朽ち果ててしまっていた。
外壁は灰色にくすみ、蛇のような蔦がびっしりと張り付いている。壁に嵌めこまれた大きな窓はあちこちが割れ、中で古びたカーテンが物悲しげに揺れているのが見えた。
「お、思ってたより雰囲気あるネ~……」
「うん……。ドッペルゲンガーっていうより、幽霊でも出てきそうな感じ……」
「あ、はは~……まさか、そんなの出るわけ、」
ビリーが引きつった笑みでそう言った瞬間、その言葉を遮るように木に留まっていた黒い鳥がバサバサと音を立てて飛び去って行った。
鳥の羽音に大きく肩を震わせたビリーの顔色は、いつの間にか青くなっている。
「……ビリーくん、大丈夫?」
「大丈夫……じゃない! 普通に怖いヨ~~~~!」
そう叫んだビリーは、タックルでもするかの勢いでグレイに抱きついた。突然のことにグレイは驚きつつ、ビリーの背中を優しく撫でる。
「うわぁん! オイラ、今までオバケとか超常現象とか全然信じてなかったし、心霊スポットだってへっちゃらだったのにぃ~!」
ぎゅうっとグレイの身体にしがみつきながら情けない声をあげるビリーに、グレイはおろおろと眉を下げる。B&Gの活動でこういった廃屋には二人で何度も来ているけれど、ビリーがこんなに取り乱す姿を見るのは初めてだった。どうやらセイジのちょっとしたアドバイスは、ビリーの心に大きな傷を残してしまったらしい。
「ご、ごめんね、ビリーくんがそんなに怖がってるのに、気づいてあげられなくて……」
「いやいやいやいやグレイは謝らなくていいんだよ、そもそも、ここに来ようって言ったのオイラだし! オイラの方がよっぽどゴメンだよ!」
しゅんと肩を落とすグレイに、ビリーが慌てた様子で顔をあげた。でもその顔色はやっぱり青いままだ。
「もし怖いなら、僕ひとりで中の様子見てこようか……?」
幽霊屋敷のような建物を一人で探索するのは心細いけれど、ビリーに無理をさせるよりはずっといい。屋敷を調べないでこのまま二人で帰るという選択もあるにはあるけれど、せっかくここまで来たのだから噂の真相を確かめたいという気持ちもある。
しかし、ビリーはグレイの提案にとんでもないという顔をして首を横に振った。
「それはダメ! そりゃこのお屋敷は見るからに何か出そうで怖いけど、そんなところにグレイ一人で行かせることの方がよっぽど怖いよ! オイラも行く!」
「でも、無理しない方が……」
「大丈夫! セイジパイセンも、本物の不思議に出会うことはそうそう無いって言ってたし……それに、もしも本当にオバケとかドッペルゲンガーが出たとしても、オイラたちが二人一緒なら、どうにかできそうな気がするから」
そう言ってビリーは笑った。その顔はまだ少し青かったけれど、瞳には屋敷への好奇心と、グレイへの信頼が宿っている。それが嬉しくて、グレイはふっと表情を緩めた。
「そうだね……僕たち二人一緒なら、何があっても大丈夫だよ」
そう言葉を交わして、ふたりでくすりと笑い合う。
「よーし……それじゃ、気を取り直してレッツゴー!」
「うん……!」
そうして、二人は屋敷の中へと足を踏み入れた。
屋敷の中に入ると、大きな玄関ホールが広がっていた。奥には二階へと続く階段があり、高い天井からは豪華なシャンデリアが垂れ下がっている。もう光ることのないだろうそれには蜘蛛の巣が張られ、大量の埃が積もっていた。ずっと手入れのされていない室内は埃っぽく、一歩足を踏み出すごとに色あせた絨毯から塵が舞う。全体的にあまり長居したくない雰囲気だ。潔癖の気があるビリーは、屋敷の様相に分かりやすく顔を歪めていた。
「……とりあえず、一階から見て回ってみる?」
「うん、そうだネ」
グレイの言葉にビリーが頷き、二人は部屋をひとつずつ調べていく。
リビングルーム、応接間、食堂──どこの部屋も長い間使われたような形跡はなく、ひっそりとした静けさが漂っているだけだった。たまに比較的最近のものと思われる空のペットボトルや空き缶がそこかしこに転がっていたが、恐らく屋敷の噂を聞きつけて肝試しにきた若者たちが捨てていったものだろう。
一階に目を引くようなものはなく、二人は続けて二階の部屋を調べていく。しかし、一階と同じく古く朽ち果てた部屋が並んでいるだけで、それ以上特別なものは何もなかった。
「うーん……予想以上に何にもないネ」
屋敷を探索するうちに緊張も解けたのか、いつの間にかビリーの表情は元の明るいものに戻っていた。そのことにほっとしつつ、グレイは答える。
「サブスタンスの反応もないし……やっぱり、ただの噂だったってことかな……?」
「そうかもネ~。……まあこんな雰囲気のあるお屋敷なら、色々噂されても仕方ないって感じはするケド」
そう肩を竦めたビリーは、廊下の奥にあるドアを指さした。
「あと調べてないのはあの奥の部屋だけだね。ちゃちゃっと調べて帰ろ~!」
すっかりいつもの調子を取り戻したビリーは、ギシギシと鳴る床を早足で進んでいく。そしてビリーは廊下の一番奥にある扉を勢いよく開け──
「……うわっ!」
大声をあげて、開けたばかりのドアをバタンと閉めた。
「ど、どうしたのビリーくん⁉」
グレイは慌ててビリーに駆け寄る。ブリキ人形のようにぎこちない動きで振り返ったビリーの顔は、青を通り越して白く染まっていた。
「み、見ちゃった……」
「見たって、何を……?」
「ド、ドッペルゲンガー……!」
「えっ?」
ビリーの口から飛び出した言葉に、グレイは目を丸くする。
ドッペルゲンガー? 本当に?
ビリーは震える手でグレイの肩を掴むと、尋常じゃない様子で捲し立てた。
「うわ~~~~ん、どうしようグレイ、オイラ自分のドッペルゲンガーをばっちり見ちゃったヨ! ドッペルゲンガーって見ると死ぬって言うよね⁉ もしかしてオイラ死んじゃうの⁉ ていうかもう死んじゃってたりする⁉」
「お、落ち着いてビリーくん……! 生きてる、生きてるから……!」
グレイはパニックに陥っているビリーを必死に宥めながら、閉じられた扉をじっと見る。まさか、本当にドッペルゲンガーがこの部屋にいるのだろうか。ごくりと唾を飲み込んだグレイは、意を決してゆっくりと扉に手を掛けた。そして、ゆっくりと重厚な造りの扉を押し開ける。
そこには確かに、自分たちと同じ姿の人物が立っていた。
そのことに一瞬ぎくりとしたグレイだったが、すぐにその人物の正体に気が付いて、ほっと胸を撫でおろす。
「ビリーくん、大丈夫だよ。ドッペルゲンガーじゃなくて、ただの鏡みたいだから」
「か、鏡……?」
不安げに聞き返すビリーに、グレイは安心させるように深く頷く。
扉を開けて真正面の壁には、大きな全身鏡が嵌められていた。一点の曇りも見当たらないその鏡面には、グレイの姿が映っている。おそらく、ビリーは鏡に映った自分をドッペルゲンガーだと勘違いしたのだろう。
「な、何だ~……ビックリした……」
恐る恐ると言った様子で部屋の中を覗き込んだビリーは、安堵の息を吐いた。そんなビリーの様子を見て、グレイの頭にある想像が浮かぶ。
「もしかしてドッペルゲンガーの正体って、この鏡……?」
「あ」
グレイの言葉に、ビリーも声をあげる。
「オイラみたいに、鏡をドッペルゲンガーと見間違えた人が、噂を広げたってコト……?」
「うん、多分そうだと思う……」
「ひ、人騒がせ~……」
自分のことを棚に上げてがっくりと肩を落とすビリーに、グレイは苦笑した。
ドッペルゲンガーの正体も分かったところで、二人は部屋に異常がないかを調べて回る。しかし、たくさんの本が詰め込まれたこの部屋が書庫だということが分かった位で、収穫はゼロに終わった。
結局、この屋敷も不気味な雰囲気を漂わせていただけで、噂がひとり歩きしていただけの数ある廃屋のひとつに過ぎなかったらしい。
「あーあ……。何か一人で大騒ぎしてたオイラが馬鹿みたいだヨ~」
「あはは……まあ、危険なサブスタンスがいなくて良かったんじゃないかな……?」
「それもそうだネ。それじゃ、これ以上何にもなさそうだし、そろそろ帰ろっか」
そうして、部屋を出ていくビリーに続いてグレイも部屋を出ようとしたときだった。
ふと視界の端で何かが動いた気がした。反射的に振り向くと、そこにはドッペルゲンガーが出るという噂の元凶となった鏡がある。
ただ、先程までと違ったのは、その鏡に映っているのが自分の姿ではなく、見知らぬ街の風景だったということだ。
信じられない光景を目の当たりにしたグレイは、思わず鏡へと手を伸ばす。
その瞬間、伸ばした手が鏡の向こう側へと吸い込まれるように消えた。
「えっ……⁉」
そう短い叫びをあげたのも束の間、グレイの身体は強い力で引っ張られてずるずると鏡の中へと吸い込まれていく。
「グレイ⁉」
鏡の中に全身が飲み込まれる直前、異変に気が付いたビリーが焦った顔でこちらに手を伸ばすのが見えた。
しかしその手は届くことはなく、鏡の中へと姿を消したグレイはそのままぷつりと意識を失ったのだった。
次に目を覚ましたグレイが最初に感じたのは、冷たい石畳の感触と、食べ物と石炭が入り混じったような嗅ぎなれない匂いだった。どうやら自分はいつの間にか気を失って倒れていたらしい。
一体、何がどうなったんだっけ。確か、ビリーと屋敷探索をして、帰ろうとしたときに鏡の中に街が見えて──と、そこまで考えたところで、グレイは自分が鏡の中に吸い込まれたことを思い出した。
ぼんやりした頭を何とか働かせながら上体を起こす。すぐ傍に落ちていた自分のショルダーバッグを引き寄せつつ、きょろきょろと周囲を見渡した。
「ここは……?」
煉瓦造りの壁に囲まれた薄暗いそこは、どこかの路地裏のように見えた。マッドネスミストを使った訳でも無いというのに辺りには薄い霧が立ち込めており、少し肌寒い。遠くからは僅かに街の喧騒のようなものが聴こえる。
何にせよ、先程までいた屋敷とかけ離れた場所であることだけは確かだった。
「そ、そうだ! ビリーくん! ビリーくんは……⁉」
鏡に吸い込まれる瞬間、自分に向かって手を伸ばしていたビリーのことを思い出して一気に頭の中がクリアになる。慌てて立ち上がったグレイは、もう一度よく周囲を見回してみたが、ビリーの姿はなかった。連絡を取ろうとコートのポケットに入れていたスマートフォンを取り出すが、何故か電源が入らない。屋敷にいたときは、まだバッテリーが残っていたはずなのに。
違和感を覚えながらも、グレイはバッグの中にしまっていたモバイルバッテリーを取り出してスマートフォンの充電口にコードを差し込む。けれど、スマートフォンはまるで壊れてしまったかのように何の反応も示さなかった。
「誰かに連絡を……!」
何があっても対応できるように持ってきていたインカムを身に着け、ヒーロースーツ姿になったグレイは、通信機能をONにする。しかし、インカムから聴こえるのは砂嵐のような雑音だけだ。
明らかな異常事態に焦りと不安ばかりが募っていく。どくどくと嫌な音を立てる胸をぎゅっと抑えて、どうにか冷静になろうと今の状況を整理する。
鏡に吸い込まれた自分は、恐らく通信が届かない場所へと飛ばされてしまった──のだと思う。そしてビリーが傍にいないということは、鏡に吸い込まれたのは自分だけの筈。ビリーも鏡に吸い込まれ、別の場所に飛ばされている、という可能性も無くはないけれど、今は確かめようがない。それなら、良い方向に考えたほうがずっといい。
「ポジティブポジティブ……」
自分に言い聞かせるようにそう呟いたグレイは、きゅっと唇を引き結ぶ。
とにかく、ここでじっとしていても仕方がない。まずは自分がどこにいるのかを把握する必要がある。それと、元の場所に戻る方法もなるべく早く見つけなければ。きっと、ビリーが心配しているだろうから。
グレイはひとまず、人の声が聞こえる方へと向かうことにした。そこで誰かの話を聞くことが出来れば、少なくとも自分がどこにいるのかは分かる筈だ。
霧に包まれた人気のない路地裏を、周囲を警戒しながらゆっくりと歩いていく。何度か曲がり角を曲がって路地を進んでいくと、街の喧騒が少しずつ大きくなるのが分かった。活気づいた人々の気配に淡い期待が込み上げ、歩くスピードが速くなる。
そして、グレイはようやく薄暗い路地裏から大通りらしき場所へと辿りついた。
辿りついたまでは、良かったのだけれど。
グレイの目の前に広がる街並みは、予想していたものとはかけ離れたものだった。
大通りには美しい煉瓦造りの建物が立ち並び、行き交う人々のほとんどが何故か優雅なドレスや紳士服を身に纏っている。幅広い石畳の道路には自動車ではなく馬車が走り、軽やかな馬の足音と車輪の音が響いていた。大通りの先には、遠目から見ても分かるくらいに繊細な装飾が施された時計塔がそびえ立っている。
古めかしくも華やかな街の景色は、まるで映画や本でよく見る昔のロンドンの街のようだった。
「ど、どういうこと……?」
明らかに現代とはかけ離れた街の景色を眺めながら、グレイは必死に混乱する頭を働かせる。一瞬、タイムスリップでもしてしまったのかと思ったけれど、街を行く人々にはスマートフォンを手にしている者もいた。あまりにもチグハグな光景に混乱は深まるばかりだ。
──そういえば。あの屋敷の噂の中に、異世界に繋がる扉があるとビリーが言っていた。正直、それだけは無いだろうと思っていたのだけれど、もしあの噂が真実だったとしたら。あの鏡が、異世界へと繋がる扉だったとしたら。
「い、異世界に来ちゃったってこと……⁉」
思わず大きな声を出すと、通りを歩いていた老紳士にじろりと睨まれた。グレイの身に着けているヒーロースーツが物珍しいのか、いくつもの視線が自分に向けられている気配も感じる。
慌ててグレイは路地の物陰に隠れて気配を消す。ヒーロースーツよりは目立たないだろうと私服姿に戻ったグレイは、そのままずるずると壁伝いにしゃがみ込んで頭を抱えた。
「ど、どうしよう……」
今までもたくさんの困難を乗り越えてきたが、流石にこれは質が違う気がする。異世界転生もののアニメはよく見ていたけれど、まさか自分が体験する羽目になるなんて。自分の場合は転生ではなさそうだが。
アニメや小説だったらこんな時、都合よくアドバイスをくれる人物が現れるのだろうけれど、生憎これは現実だ。そんな都合のいいことなんて起こる訳がない。
知らない街の片隅で膝を抱えてひたすら途方に暮れる。そんな時だった。
コツ、と自分のすぐそばで靴底が鳴る音が聞こえた。そして、とても聞き馴染みのある声が頭上から降ってくる。
「……あれ? もしかして、リヴァースさん?」
グレイは目を見開いて、ぱっと顔をあげる。そこには、不思議そうな顔で見下ろすビリーの姿があった。
「ビ……ビリー、くん……?」
ほっとしたのも束の間、ビリーを呼ぶ声は思わず戸惑いを含んだものになってしまう。”リヴァースさん”と呼ばれたこともそうだけれど、それよりも目の前にいるビリーの雰囲気──というか服装が、普段と大分かけ離れていたから。
短いケープのついた茶色いチェック柄のコートに身を包み、頭にはコートと同系色の短いツバがついた帽子を被っている。目元につけているゴーグルも、見たことのないものだった。まるで本の中に出てくる探偵のようなビリーの姿に目を白黒とさせていると、目の前のビリーは、グレイの前にしゃがみこんで、まじまじとグレイの顔を覗き込んできた。
「あの……ビリーくん、で、いいんだよね……?」
確認の意味を込めて、もう一度名前を呼ぶ。すると、ビリーはこれ以上ないというくらい、大きく目を見開いた。
「リヴァースさんがオイラのコトを名前で呼んでくれるなんて、どうしちゃったの⁉ 今までいくら『オイラのコト名前で呼んで♡』ってお願いしても絶対に呼んでくれなかったのに! ていうか、なんかいつもと雰囲気すっごく違くナイ⁉ 前髪もおろしてるし!」
「え、えっと……」
ひどく狼狽えた様子で捲し立てられる。その内容は身に覚えのないことばかりだった。グレイはビリーのことを最初からずっと名前で呼んでいるから、ビリーに名前で呼んでほしいと言われたことなんて一度もない。雰囲気も変えた覚えはないし、前髪だっていつもほとんど下ろしっぱなしだ。どちらかといえば、雰囲気が違うのはビリーの方だというのに。
混乱するグレイに、ビリーはさらに言葉を続ける。
「それに、今日は『お掃除』で忙しい日じゃなかった? 何でこんなところにいるの?」
「お、お掃除……?」
お掃除って、何のことだろう。何を言われているのかが本当にわからない。どうにも会話が噛み合っていないような気がする。
目の前にいるビリーは、きっと『本物』のビリーだ。根拠はないけれど、そんな確信があった。
でも、多分──目の前のビリーは、グレイの知っているビリーとは、違う人物だ。
それを確かめる為に、グレイはひとつ、ビリーに質問を投げかけてみることにした。
「あの……質問に答えてないのに、申し訳ないんだけど……僕からも、質問してもいいかな……?」
「ん? なあに?」
「『君』は……【HELIOS】のヒーローで、僕のルームメイトで、友だちで…………あ、相棒の、ビリーくん……?」
グレイの言葉に、ビリーは一瞬戸惑った表情をした後、きゅっと眉間に皺を寄せた。
「……ごめんネ、リヴァースさんが何を言ってるか、オイラにはサッパリわかんないや。俺っちは【HELIOS】なんて知らないし、ヒーローでもないし、リヴァースさんのルームメイトでも友だちでもない。──『相棒』なんて言えるような関係じゃない」
少し低い声色で告げたビリーの言葉に、グレイは、ああやっぱり、と思った。
多分、この世界はパラレルワールドのようなもので、目の前にいるビリーは自分とは別の世界に住んでいるビリーなのだろう。それなら、話が合わない辻褄も合う、と思う。先ほどビリーが口にしていた『リヴァースさん』という言葉はきっと、この世界におけるグレイのことを指しているのだろう。
──そして。この世界では、ビリーとグレイは『友だち』でも『相棒』でもないらしい。それは何だかとても寂しいことのように思えた。
「それで……オイラのコトを『相棒』って呼んでくれるリヴァースさんは、どこのリヴァースさん?」
ビリーも目の前のグレイが自分の知っている『リヴァースさん』ではないと気が付いたのだろう。そう問いかける瞳には、戸惑いの色が含まれている。しかし、不思議と警戒だけはされていないようだったので、それだけは少しほっとした。
「あ、あの……信じてもらえるか、わからないんだけど──僕は多分、別の世界から来たグレイ・リヴァースなんだと……思います……」
自分でも状況が正確に把握できているかがわからない為、最後の方は口の中で言葉をもごもごと転がすようになってしまった。こんな風では信じてもらえるものを信じてもらえないのでは、と不安が募る。しかし、そんなグレイの不安とは裏腹に、ビリーは本当に驚いたような声色で「ワオ……」と漏らすと、納得したようにうんうんと頷いた。
「ナルホド……オイラのコトをビリーくんって呼んだり、雰囲気が違ったりしたのは、ほかの世界から来たリヴァースさんだからだったんだネ。納得納得」
「し、信じてくれるの……?」
「モチロン! 嘘を吐いてるようには見えないし……何より、オイラの探偵のカンがキミは絶対にリヴァースさんだって言ってるんだヨネ」
だから、キミのことを信じるヨ、とビリーは笑う。その笑顔は、グレイが知っているビリーと同じものだった。別の世界であっても、ビリーはビリーだ。
──この世界では、ビリーとグレイは『友だち』でも『相棒』でもないらしい。けれど、それとはまた違った信頼関係を築いているようだ。
「どうしてリヴァースさんがこの世界に来ちゃったのかとか、そっちのリヴァースさんとオイラがどんな関係なのかとか、聞きたいことは山ほどあるんだケド……こんなところで話すのもなんだし、落ち着いて話せるところに移動しよっか」
すっと立ち上がったビリーは、しゃがみこんだままのグレイに手を差し伸べる。その手を借りてグレイが立ち上がると、ビリーはグレイの手を取ったまま大通りのほうにすたすたと歩きだした。
「ど、どこに行くの……?」
ビリーの後を追いながら慌ててそう尋ねると、ビリーはグレイの方に振り返り、にっと笑った。
「若き天才名探偵、ビリー・ワイズの『ワイズ探偵事務所』!」