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私が三毛縞に出会ったのは、夙に夏らしさを見せ始めた五月の中頃だった。その日の夜は、雨続きで冷え込んだ数日前とはうって変わってひどい暑さで、まだ残る梅雨の湿気も混じり合いとにかく、全く不愉快な夜だったと記憶している。ゲオスミンの黴たような空気のかおりが蒸れる夜風に溶け出し、雨嫌い、そして夏嫌いの私にはとにかく、最悪と評するに足るような、最悪の夜だった。いや、それだけならまだ、私はあの日あんなにも苛立ちに行き先を委ねることはなかったかもしれない。
大きな文学賞を逃した。黒柳誠はもはや過去のものとなったのだと囃し立てる世間の声、意味を含ませすり寄ってくる編集の態度に腹も立ったが、何より腹立たしいのは――その結果を、妥当なものだとどこかで納得してしまう自分に、だろうか。入賞しただけでもいい方だ、黒柳誠はもう〝中堅作家〟ではないのだからキャリアの重みで選ばれなかったのではないか、そんな慰めの言葉さえ自分の神経をめちゃくちゃに掻き乱すような気がした。別に狙った賞だったわけではない。気づいたらノミネートされていたのだと知ったくらいだから、そも関与もしていなかった。無関心のままいればよかったのかもしれない。ただここ最近の――まるで虚の闇を飲み下したような退屈と無気力は、大賞を逃すという、私にとっては新鮮な〝敗北〟により命の灯火まで悪戯に吹き消したような。少し、休みを取られてはどうか。そんなことを言う担当に対しいっそ首でも締めてやりたいほどの怒りも湧いたが、その激情に飲まれるような稚拙ささえみっともなく感じて、結局、何一つ言い返せぬまま暫くの休みをとる羽目になったのだ。
小学生の頃、夏休みの課題で書いた物語がコンクールで大賞を取った。なんとなくその頃に、自分がそういった執筆をすることに娯楽性を見出したのかもしれない。父は私にものを書くなとはけして言わなかったが、司法資格は取得して欲しかったらしい。法科大学への入学、司法資格は黒柳家の人間であるために必要な素養のようだったし、私にはそも、執筆を仕事にする気は当時なかった。娯楽の一環――とはいえ夏休みの課題から毎年、一年ほどかけて書き上げたものを父はコンクールに提出することを快く許してきた。課外活動、のようなものだと思われていたのだろう。ペンさえ握らせておけば、この扱い辛い子供を御するに易いと思ったのかもしれない。事実、私は毎年ひとつに絞った文学賞の、一年のスパンで作品を作り続けた。コンクールの対象年齢から外れれば別のコンクールへ、そうして参加年齢が上がるたびに、コンクールの規模は大きくなっていった。相応に鎬を削る作家たちとも交流ができ、大学に入学して二年目にして、出版社から声がかかった。思ってもない誘いにすぐ返事をできなかった私に、声をかけてきた編集者は急かすこともなく、しかし彼の中では確実に私をこちらの世界へ引き込んでやるのだと言う意志が見え隠れしていた。
ところで、この国の司法試験に受験するためには大学院の卒業資格が必要である。私の人生設計に――それがたとえ、親の期待に大きく左右されたものであったとしても――大学を途中で切り上げ作家になるという予定はなく、また法曹資格も取得しないという選択肢はなかった。作家、それは執筆業に関わらず、たとえば画家であるとか作曲家であるとか、所謂アーティストと呼ばれる職業というものに、当時の私は偏見として甚だ、不確実性を見出していた。で、あるならばせめて確実な法曹資格はなおのこと手に入れたいものだ、という私に、当時私の担当は何と言うことはない顔をして〝だったらどちらもやればいい〟と宣った。手っ取り早く資格を取るならば予備試験をとっとと受験すればいいし、大学卒業という経歴が必要ならその上で卒業まで執筆と学生を続ければいい、と。父は何も言わなかった。あの男は、私が黒柳の名に恥じぬ証明さえすれば何をしようが構わなかったのだろう。そうして、私は全く不可思議なことに在学中に予備試験を受験し、大学の三年目で司法試験に合格しながらなお、学生生活を続けることとなった。担当はどうせなら気になる授業に目一杯出るといい、と私に進言した。たとえば外国語、たとえば司法以外のこと。そういった教養は必ず文字に表れると言う。事実、資格取得という――当時は感じていなかったがいざ取得してしまえば意外と心が穏やかになったので相応に感じていたらしい重圧から解放された私は、それ以前より些か、大学生活を楽しむ余裕ができた。並行し求められる執筆活動は、一年のスパンで製作していたよりずっと効率とより高い質を求められたが、その頃にはそんな期待や、書けば書くだけ出る結果に自分でも驚くほどの達成感を得ていた。担当は私に対し無茶を要求するどころか――いや、執筆に関しては前回よりも質の高い物語をいつまでも求められてきたが、たとえばわたしが顔を晒したくないと我儘を捏ねれば、それを叶えるような男だった。どれほど短編の、どれほど小さい仕事も私にやらせ、気がつけばもう両手足でも足りないような年月を、作家・黒柳誠として生きてきた。そんな二十年余りの歳月で、はじめて感じる〝不調〟は私を大いに戸惑わせ、狂わせている。当時の担当も変わり、今は一回り以上若い男が私の担当になっている。生意気であったり、未熟であれば突き返してやったものを、どうしてかこの若い担当は私を操るのがうまい。十人が見れば十人が好青年だと頷くような若造に、私もまた絆されているのだろう。勤勉で、若さゆえの大胆さと、未熟さを悟らせないだけの賢さがある。そんなだから、この若造に〝二ヶ月頭を休めろ〟と言われながら、こうして大人しく従っているのだ。
その二ヶ月、何をしろと言われたことといえばただ一つ〝仕事のことは忘れろ〟というそれだけだった。最初の三日はといえば今の出版社と契約してから初めてノートパソコンを開かなかったが、三日目の夜には悶々とした、一種のフラストレーションのようなもので寝付けなくなった。仕事のことは忘れろと言われたが、文字を書くなとは言われなかった。担当の若造――吉川輝明がうまく調整してくれているのか仕事関係の連絡は来ないようになっているため、パソコンを開くことはしなかったがその代わり久々にペンを取った。大学の入学祝いに父から贈られた万年筆は当時まだ未成年だった自分が持つにはあまりにも高価なものだったが、今でも定期的にメンテナンスに出すからか問題なく使用できるのだから余程素晴らしいものだったのだろう。むしろ、その書き心地といえばもらった当初よりずっと指に馴染み、私に従順な態度を見せるようになっている。おそらく、同じ万年筆を新しく手に入れたとしても、きっとこれほどまで私に馴染んだペンも無いだろう。久しく使っていなかった四百字詰めの原稿用紙を引っ張り出すと、引き出しの奥へ仕舞われていたためか特に変色もなく、ただその白さだけが学生の頃のまま慎ましく私の前に身を差し出していた。賞だとか、評価だとか、ビジネスだとか。そんなことは捨てて仕舞えばいい。これは誰かのために、金のために編むのも語りでは無いのだから。
――と、ここまで順調に進んだまではよかった。
まるで気に入らない――……
もう幾度となく書いては捨てているはずなのに、ここまで順調に紡がれてきた物語は突如ぴたりとその進みを止めてしまった。この先に道があることはわかっているのに、手を伸ばしたほんのすぐ先が濃い、濃い霧に隠され、同じ場所でずっと足踏みをさせられているようなもどかしさ。地図(プロット)はあるのに、その足取り(びょうしゃ)が気に入らない。その結果、私はもう何度も何度も同じ道筋をずっとなぞり続けている。気分は最悪だった。今までこんなにも自分の思い通りにいかないもどかしい気持ちは初めてで、一向に進まぬ物語にただ苛々とした感情だけが胸を焼く。もはや、どうしようもなかった。筆を置き――目頭をきつく揉み込む。長時間にわたる紙面との対峙に加え、思い通りにならぬ筆に顰めた眉がじくじくと熱を持ったように痛む。つい先ほど昼食を取ったと思っていたが、気づけば日はどっぷりと落ち込み、時計はいよいよ二十時になろうとしている。六時間、自分は脇目も振らず生理現象さえ感じぬままずっと机に向かい続けていたらしい。久々の感覚だった。作家という職を得てからというものの、仕事であるのだからといつも計画に従順に筆を進めてきた。こんなにも自分の拘り――いや、執着、とでもいうのだろうか、そういったものを突き詰めたことはなかったせいか、ここまで書くということにのめり込んだのは久々だった。ぐ、っと伸びをすれば背骨や肩、腰の骨が軽重とりどりにバキバキと鈍い音を立てる。凝り固まった筋肉を引き伸ばせば、理性に忘れられた生理現象が一気に体を支配して。急足でトイレへ向かう最中でさえ、私の脳は未だ霧の中を探り続けていた。
気分転換が必要だ、と感じたのは、書斎からトイレまでのたった十数歩にさえ満たない間を往復しただけで、わずか、モヤの中に何か触れるものがあったように感じたからだった。昼食から六時間、碌に糖分さえ与えられなかった脳が一気に空腹を主張する。が、今更台所へ立つ気にもなれず、かといってデリを頼むというのも味気がない。軽く身なりを整え、ジャケットを羽織る。扉を開けるだけでむ、っと部屋へ流れ込んでくる生暖かい湿気に思わず扉の奥へ引き返してしまいそうになるが――今はとにかく、何か外的刺激が必要だった。せめて、靄の中にある何かにもう一度触れて仕舞えば、少なくとも今日、夢の中でさえ机に向かう必要はなくなるはずだ。適当に足を伸ばす。行き先など、特に決めはしなかった。何となく、気色の悪い空気をかき分け、この不快感さえ刺激にしてしまえばいいのだと、同じように苛々とまとわりつく水気に足速になる人間の波に逆らって歩く。思えば、こうして外を出歩くのはいつぶりだろうか。この前外に出た時はまだひどい寒さに上着とマフラーをしていたから、多分そう近い記憶ではないはずだ。すぎる人並みの中にはまだ記憶にある厚手の上着を纏う姿もちらほらとあるが、薄手の上着姿や、半袖の姿もあった。行き交う人並みは私の、書斎の中で凝り固まった感性をまるでぶつかり合うように刺激し、ほぐしていく。雨の匂いがした。暫く、足の行きたがる方へと歩き続けた。腹は減っていたが、それ以上に久々の〝営み〟を感じていたかった。金曜の午後だとか、休日であればまた様相は変わっただろうが、それでも気づけば辿り着く駅近くの飲み屋街は、週半ばにもかかわらず相応の繁盛ぐあいを見せている。しかし、生存本能とでも言うのだろうか――辿り着く先にある飲食店の群れに、私は一層の空腹を自覚したのだった。
腹は減った、が、騒がしい店に入るつもりはなかった。今、いくらか刺激を受けた脳に余計な、そして過剰な刺激を与えたくはなかったからだ。酒はあってもなくてもいい、でも酔っ払いの騒がしい喋り声は欲しくない。と、なれば選ぶ店も相応に穏やかな場所であってもいい。できれば何か、酒の肴のような小料理ではなく、しっかりと腹持ちのするものを食いたい気もある。脳は未だ貪欲に栄養素を欲しがっているし、飢えた内臓がむかむかとヒリついているのもいただけない。店までの道のりでは忘れていられた空腹も――いざ、軒を連ねる店々を前に、少しばかり我儘に主張するようになってきた。とはいえ、目の前にある店はどれも外に漏れ聞こえそうなほど騒がしい酔っ払いで満たされており――まるで喧騒から逃げるように、私はひとつ物静かな店へと滑り込んだ。
それは、たまたま見つけた小さい看板が導いた縁だった。雑居ビルのこじんまりとしたエントランスから、スーツ姿の男が一人ふらりと繁華街の方へと向かっていく。そんな男をただぼんやりと眺めていた、その背後に見つけた看板だった。客寄せのため絢爛に飾り立てた看板の中で、その店は慎ましくひっそりと、その店名だけを晒している。ビルの地下にあるというその店は、この喧騒から逃れようと彷徨う私を呼んでいるような、そんな気がしたのだ。シックな様相で最低限の飾り気しか持たないそこに、小さく獣のロゴが組み込まれていた。見慣れぬ人間には、それは例えば盲導犬同伴可能のロゴか、その類のものに見えるだろう。――therianthropy(セリアンスロピー) 半獣に対して開かれた場所であるという証明であるそのマークは、人間の教育に組み込まれることはないだろう。久しぶりに、このマークを見た気がした。ここ最近半獣も社会進出に積極的で、故に生活圏が都会に移りつつある。少しずつ過疎化の進む畠中は、少子化の歯止めとして都会化を進めているところだ。しかし、人の出入りが多くなると必然半獣の割合は減ってくる。半獣もまた、擬態の精度をより高め、半獣専用という現代においてハイリスクな選択を取る若者が減りつつある。その方がいい、と私は考える。下手に人間の世界に介入し厄介扱いされるのは困る。だが――自分ももう、古い人間になってしまった、ということだろうか。わずかばかり、足が向く。こういった店を利用するのは初めてだったから、静かな扉に手を伸ばす時、自分がひどい手汗をかいていたと知った。
「いらっしゃい」
そう決まり文句を投げかけられた以外、穏やかな店は今までの喧騒をどこか高みから見下ろすような気高さや、上品さがあった。見た感じそう大きい店内と言うわけでもなく、しかし用意された三つのテーブル席はすでに客で埋まっていた。残り一つのカウンター席に、和装の店員はラッキーね、と私のために準備をはじめた。平日であるにもかかわらず最後のひと席に預かったこの店は、しかしやはり穏やかな時の流れに満たされている。静かすぎるわけではないが、耳障りなほど騒がしいわけでもない。濡れたタオルを受け取ると、よく冷えている。湿気が纏わりついた不快感が、すうっと消えていくような冷たさだった。マスターであろう男が差し出すメニューには、それなりの酒が一覧になって記されており、ビールからウイスキー、ワイン、焼酎・日本酒、そしてずらりと並んだカクテルメニューに加え、中国酒や変わった酒もいくらか連なっている。ノンアルコールのカクテルと、ソフトドリンクまで充実のラインナップをまずは舐めながら、今度は食事のメニューへと変わった。いわゆるスピードメニューという簡易なものから、サラダ、焼き物、煮物、揚げ物、〆の料理と続く。
「いらっしゃいませ、うちは初めて――ですよね」
和装の店員から引き継ぐように、マスターだろう人がこちらに向かってにこりと人好きのする笑みを浮かべた。おそらく、性急にメニューをめくる私に気を利かせてくれたのだろう。
「すまないが、夕飯がまだで。腹持ちのするものが欲しくて」
「ああ、そうでしたか。食事系ですと、メニューの後半にございます。もしご希望のものがございましたら、メニュー外でも食材次第ではお作りできますから」
なんなりと仰ってください、と微笑むマスターはそれからすぐ他の客に呼ばれると、また人懐こい笑みを浮かべ一礼してさがっていった。腹は減ったし、何よりじっとりとした湿気に纏わりつかれた体が途端に水分を欲し始めた。冷めたコーヒーだけで満たされていたのだから仕方もないだろう。店の中に仄か漂うアルコールと、コーヒーの香りが、欲したつもりもなかったはずの体を一層渇かせた。半獣コミュニティを謳うだけあってか、それとも時代がそういった思想を尊重するようになったのか、メニューの末にはヴィーガン用のメニューがいくつか展開されていた。普段ならば出先の店でサラダやスープ――それも大抵は野菜か、豆類のものしか頼むことがなかったが、それでは今の腹は満足してくれそうになかった。だから余計、並ぶ文字に目が泳ぐ。
レンズ豆のカレーや、ファラフェル、ソイミート製のガパオライスやビリヤニ。まさに選択の自由のパラドクスというにふさわしい経験である。云々とメニューを睨みつける私に向かって、その声は突然投げかけられた。
「カレーがオススメ」
は、っと顔を上げまず見たのはカウンターの方だった。だがマスターも、和装の店員も他の対応に忙しそうで私に向かって何かを言った様子はない。次いで、振り向いた私のちょうど横の席――カウンターの角席に座った私の、ちょうど左側。それはまるで私を待っていたようにかちりと瞳が噛み合ったその瞬間――そこは、私と彼だけが存在したこの男の支配領域の下にあった。
かちあった瞳はまるで蜂蜜を固めて作った飴玉みたいに蕩けた黄色にこっくりと染まり、垂れがちな目尻でありながら、どこか獣のような鋭ささえ含んでいる。眉は太く、男らしさを示していたが、眠たげな瞳はそんな性別さえ超越した色気――それはけして健全なものではなくもっと重く、もっと姦らしい雰囲気をこれでもかと孕んでいた。ラフなジーンズと、某有名アパレル量産店のシャツが一枚。たったそれだけを纏ったその男は、人並み以上に背の高い私とそう変わらぬ背丈に思えた。加えて、薄い生地のシャツが張り付くような上半身はかなり恰幅が良い、引き締まった肉付きをしている。刈り上げの襟足から覗く褐色の首筋は太く、そこから広がる背は猫背に丸められていたが、それでもなお筋骨隆々な凹凸がシャツ越しに透けているのがわかる。けして明るいとは言えないバーカウンタの照明に照らされながら、その筋肉の陰影を芸術家が目にすれば、この男を欲さずにはいられないだろう肢体。
「腹、減ってんだろ? だったらカレーにしな」
それは、私に突如投げかけられた声と同じ深みのある響きを孕んでおり、そうして目を細めた男は、厚くぽってりした唇を楽しそうにニ、っと吊り上げて笑って見せた。
「――あ、ああ、ではそうしよう」
宣言しておくと、私は誰かにアレをしろだとか、これをしろだとか指図されることが嫌いだ。仕事、それもクライアントや編集担当という立場からの指示であれば耐えられるが、例えば私生活で何をしろと私の行動を勝手に決められ指示されることはとても耐えられない性格である。しかし、今の私は一体どうしてしまったと言うのだろうか。名も、素性さえ知らぬ男から、突然挨拶も、名乗りもなしに投げかけられた言葉に逆らう意志すら浮かばなかった。
「美味いぜ、ここのは」
男はそれだけ言うと、頷いた私に対し満足そうにニシシ、と笑って、連れなのだろう相手へと再び向き直った。メッシュの散った、ちぐはぐな髪をした男の言うことにこうもすんなりと従ってしまう自分が信じられないというのに、私は気がつけば、注文を受けにきたマスターにただ、操られたようにレンズ豆のカレーを注文していたのだった。
それからと言うものの、私は此処へ来た本来の目的も、今まで脳を締め上げていた悩みの霧のことさえまるで考える暇もなく、ただつい先ほど自分におこった嘘のような出来事にただ呆然とカウンターを眺めるしかなかった。差し出されたブラッディ・メアリーを受け取りながら、私の思考はもはやふわふわと空を舞い、あの、隣席の男が支配する孤高の空間に取り残されている。今、男は私のことなど忘れてしまったように連れの女性と楽しげに話し込んでいる。どうやら聞き上手なのか、女性は随分と話に熱が入っているようだった。時折、マニキュアの輝く鋭い爪先が戯れつくように男の体をそろり、と這い回っている。細い女性の指先は、大胆にも男のシャツでは飽き足らず、開ききっった首筋や鎖骨の辺りを撫で下ろし、やがて張った胸筋の膨らみをじりじりともどかしい動きで降っていく。太ましい腰をつめ先で悪戯に引っ掻きながら、カウンターチェアに投げ出されたジーンズの、引き締まった腿をねっとりと撫でる。普段の私ならば憤慨していただろう。こんなにも厭らしく下品な女は私が最も嫌う人種である。それがどうだ、まるで私は初めて性欲にあてられた子供のように、二人の男女が密やかに、しかして大胆に絡み合うさまに夢中になっている。男は、女の下品な手つきを嫌がる様子もなく、かと言ってその誘いに乗る様子もなく、例えるなら〝好きにさせてやっている〟ようだった。私はと言えば――その、若さ故なのか激るような性の戯れに、長年感じることさえなかった衝動をめちゃくちゃに踏み荒らされたも同然だった。
食前酒とはいえ、すぐ横から立ち込める芳しい性の熱に当てられた私は普段よりずっと早いペースで赤い酒を流し込んでいく。アルコールのせいなのか、無性に喉が渇いて仕方なかった。けして弱いわけではない空調にもかかわらず、汗が止まらなかった。いっそ、差し出されたカレーが救いのようにも思える。緊張の中で、その味もほとんどわからなくなってしまったが、それでも普段外食する中でまず頼むことのないメニューに少しばかりの知的好奇心が呼び覚まされ、同時に茹だりそうだった脳みそが冷静さを取り戻し始める。スパイスの独特な香りと刺激に、野菜の甘みが濃厚なルウは確かに、男が薦めるのも納得の味だった。レンズ豆がほっくりと煮えとろけている上、仄かに味付けされているあたり手間がかかっていることは明白。米はといえば五穀米になっており、いかにも私好みの味になっているのも良かった。大きくカットされた具材はないが、ミンチ状になった野菜は柔らかく甘みもある。空腹だった体が辛抱たまらず次の一口を欲してしまう、そんな味だった。たしかに、美味い。
「な、美味いだろ?」
その声はやはり唐突で、しかしどこか楽しげに私へと投げかけられる。どうやら、声にでていたらしい。あまり食事を人と共にすることがないため、がっつくように食べてしまったことが今更ながら恥ずかしくなった。ましてや、自分が飯を食っている場面を見られていたのかと思うだけで顔から火が出そうだった。
「ああ―― たしかに、美味い」
照れを隠すようにそう返せば、男はニャハハ、と楽しげに笑ってまるで自分の手柄のように喜んでいる。気がつけば、似たような笑顔を和服の店員が浮かべて前に立っていた。
「っふふ、いい食べっぷりだね」
「あ、その、腹が減っていて……」
「いや、ありがたいよ。お客さんに釣られて、ほら」
こっちも、と背後でテーブル席の男が二人マスターを呼びつけていた。どうやら酒のシメにするようだ。卵乗せていい? 客の一人がマスターと話し合う声が聞こえてくる。男はその応酬さえ楽しげに見守っている――どころか、そんな二人組に〝ついでにチーズ乗せてみろよ〟なんて話に入り込んでさえいた。私はつい、見た。それは楽しげに話す男の表情でも、カレーを豪華にする案を出し合うマスターたちでも、ましてやシメのカレーに腹をすかせる二人組でもなかった。ただ――男の横で、黙ってその足を撫でる、女の顔だった。それはまるで能面のごとき、無表情であった。正も負も、一滴の混じりも無いその表情を見た時、私の胎の中には未だ嘗て体験したことのない〝恐怖〟が、震え上がるほど巨大な〝怯え〟が、確かに生まれたのを感じた、感じてしまった。ゾクゾクと、全身の産毛が逆立っていく。その恐怖は私に抗い難いほどの興奮を覚えさせた。それはまるで、女だけがこの店の中で透明になってしまったようだった。私という読者が、彼女という人生を読んでいるが故に気づいた、そんな景色は私の感性を大きく揺さぶったのだ。女はただ、私の横に座る男の視線から外れたに過ぎない。彼女は男よりは年上のように見えたがそこらを歩けば随分目を引くだろう整った容姿である。豊満な肉体を惜しみなく雄の前に曝け出し、甘い香りにくらりと蹌踉めく男どもを小馬鹿にするように撥ね除ける気まぐれさもあった。彼女は、いわば〝そうとうにいい女〟だというわけだ。それが、どうだ。私の横に座る男の、琥珀色の瞳が与える視線からほんの僅か外れただけで、彼女はもはや存在しないも同然だった。彼女は今、自分の人生で築き上げた彼女の高いプライドを粉々に砕かれ、踏み躙られ、汚されたも同然だった。彼女は常にスポットライトを浴びて生きてきた主演女優だった。だが、今彼女を照らすべきライトは気まぐれに他の客へと向けられている。暗闇で佇む彼女は女優としての仮面さえ剥ぎ取られ――感情さえ奪われていた。人間の、こんなにも濃厚な〝闇〟に触れたのは初めてのことだった。彼女の闇が欲しい、焼けるように凍えるような絶望に触れていたい。手の内でその悍ましいほど美しい形をじっくりと観察しつくし、歪に醜い凹凸に触れていたい。作家としての性が、好奇心が、知的欲求が、彼女を求めさせた。
だが、それは私が手を伸ばしいざ触れんとしたすぐ側を、まるで弄ぶようにするりと通り抜けていく。彼女は再び、にっこりと蠱惑に微笑んだ。男の目が、彼女を再び写したからだ。彼女はスポットライトの下では完璧な女優だった。赤く塗った肉厚な唇をニンマリと吊り上げ、男を惑わせ悦ばせる。ジーンズを撫でつけていた手がふらふらと彷徨い、若い男の頬を、首へと撫で下ろした。男は再び彼女を好きにさせている。彼女の手を振り払うでもなく、煩わしそうにするでもなく、そうあることが当たり前であるかのような振る舞いである。
「ねえ、虎。もう少し飲む?」
彼女の声はねっとりとした熱を孕んでいた。男の刈り上げられた後頭部をざりざりと撫でつけながら甘ったるい声で囁く女は、毒を飲ませる魔女のようにも見えた。
「ン、もう一杯だけ……」
虎、と呼ばれた男はさほど酔ったようには見えなかった。彼はロックグラスに薄く残った酒を飲み干すと、女が酌をする新しい酒を待つ。猫の絵が描かれただけの、名前のないキープボトルからはこの男の、または女の名前を伺うこともできない。彼女のコリンズ・グラスにはまだ半分ほど酒が残っている。淡いグラデーションを作り出している酒は氷が溶け出したせいだ。おそらく、彼女はもうかなりこの店にいるらしい。
私ははじめこの女が、虎と呼ばれたこの男が買った女だと思っていた。彼女はこの店にも、この空間にも、この時間にもいっさいの娯楽を見出していなかったからだ。いや、多少は楽しんだのだろう。マスターも、和服の店員もバーカウンタに立つ人間として十二分の対話スキルがあったから、退屈そうに、いたずらに煙草を灰にしながら、酒を薄めていながらもいくらか楽しげに笑う姿は見ていた。それでも彼女の目的は、この店でおしゃべりや飲食を楽しむ事でないことくらい、誰が見ても明らかだ。彼女はいわば、男が酒と一緒に頼むナッツや、オリーブなんかと変わらない存在なのだと。美しい腕時計をすることや、最新の高級車に乗ることと変わらない存在なのだと。――いや、だが待て。もしこの女がホステスのような商売人であるならば、つい先ほど見せたあの恐ろしいまでの嫉妬を湛えたあれは、なんだ。もう一度見たい、その呪いの力さえ孕むほどの嫉妬の念を理解したい。彼女の激情は、私が今までどうしても手に入れられなかった、与えられる可能性さえなかったもの。作家としての、貪欲なまでの好奇心がひどく疼く。あの感情を理解したい、私のものにしてしまえたなら、あれほどまでゾクゾクと人間の恐怖という感情を激らせたものが手に入れば――私の目の前におちたこの濃霧も晴れるはずなのだ。だが、現実は非情である。虎、と呼ばれた男は注がれた酒を早いペースで傾けた。女はそんな男の態度に擦り寄ると、嬉々としてその小さな鞄の中からカードを取り出し、マスターに手渡した。どうやら、勘定は彼女が持つらしい。ますます不思議な組み合わせである。男は、支払いを待つ女に向けてめいっぱいの笑顔で〝ごちそうさん〟と無邪気に投げかけるだけで、その手は鞄ひとつ持っていない。たとえば男が派手に着飾っていたとすれば、商売中なのは男の方だったのだと――ホスト、とやらなのだと理解できた。が、目の前の男はどうにもそんな様子はない。もちろんホストという職に詳しいわけではなかったが、男は女を口で態度で喜ばせようだとか、媚び諂って自分に金を使わせよう、という態度は私が見てから一度もとった様子はなかった。そういった媚びぬ態度が好まれているのかもしれないが、しかし男のカジュアルな――と、いうよりいっそだらしのない格好が、男の正体をますますわからなくさせている。女はカードとレシートを受け取ると、男の太ましい腕に蛇の如く絡みつきぴたりと寄り添い店を出た。まるで嵐のようなはやさである。そして取り残された私には、ただからっぽのカレー皿だけが残っていたのである。
――私が男と再会したのは、それから五日と経たないころであった。
「あっ、アンタ」
また会ったな、とにっかり歯を見せ笑う男に背を叩かれた。男の、寸分変わらぬ服装はまるであの五日前から時間が止まってしまったのかと錯覚させる。ここ、いいか? そんな気軽さで男は私の隣の席――数少ないカウンター席の一つへ腰掛け、差し出されたタオルで雑に手を拭った。あの日の鬱陶しい湿気はここ数日形を潜め、からりと乾いた風に少しずつ熱が孕んでいく、そんな夜に。この男は再び、私の前に現れたのだ。私はつい、男の側に女の影を探した。私の興味を表情一つで狂わせた、あの強烈な女の姿を、だ。しかし男は一人らしい、そのことを少しばかり残念に思う自分はどこまでも知的欲求の僕である。
「みっちゃん、今日琥珀は?」
男は和装の店員と親しいらしく、私がこの店に来てからまだ聞いたことのない愛称で彼女を呼んだ。彼女もまたそんな男を気にする様子もなく〝酒屋までお使い中〟と返す。その間にも、彼女は慣れた手つきでキープボトルやグラスの用意をはじめる。氷の入ったロックグラスと共に差し出されるウイスキーは、国産の大手飲料メーカーが少し前に発売した高級ブランドの最新作である。残りはボトルに半分ほどで、男はそれをツーフィンガー氷に回しかけると、舐めるように飲み始めた。ミッチャン、と呼ばれた彼女はそんな男を困った顔で眺めながら――しかし、その表情はどこか母親のような慈愛の色が滲んでいるように見えるのは、彼女が接客を商いとするからだろうか。はい、とカウンター越しに差し出される通しの小皿には、こんもりと緩やかな山を形成した煮干しの群れである。乾いた魚の胡乱な目の軍勢に、男はニャハハとご機嫌に笑って、その小さい一匹をひょいと口へ放り込んだ。たとえば、他の客に出された小鉢の通しには、イワシが南瓜とともに甘辛く煮付けにされたものだとか、私にはよく味の染みた切り干しの大根が、上品に盛り付けられていたはずだ。
「あ、そういえば今日、お魚あるのよ。虎、どう?」
「ニャハハ、だとおもった。鯖か?」
「鯖大根、食べる?」
もちろん、と返す男は途端目に見えて機嫌が良くなった。店員はちょっと待ってな、とカウンターの奥を探ると、シンプルなタッパーに詰められたそれを今度こそ、美しい手つきで小鉢へ盛り付けた。
「あなたもどう?」
店員の柔い目つきが私を見た。私が草食の半獣であることか、またはヴィーガンである、ということを彼女は記憶しているのだろう。こっくりと醤油に染まった大根は甘やかに照りを帯び食欲をそそる。確かにこれは、抗い難い光景だった。ふと、隣を見れば男が私をじ、っと見ていた。男の視線は真っ直ぐに私を居抜き、かつて初めて男が私の世界に現れた時のように〝美味いぜ、これは〟と口外に、雄弁に語るのである。どう抗えただろうか。
「是非、いただきます」
私の返事に彼女は僅かに微笑んで、じゃあサービスね、とまた菜箸を美しく捌き、小鉢へ丁寧に盛り付けた。料理人というのは、たとえば完成した料理の出来栄えやその技術を評価されるものであるが、しかしその所作の美しさといえば、私は花を生け、茶を立てる手つきと変わらぬ優美さがある、と思う。彼女は箸の先まで彼女の指先であるようにスウ、と丁寧に踊らせる。私には大根を、男には鯖を少し多い割合で盛り付けながら、小鉢を軽く拭って差し出された。これは、たしかに食欲を暴力的に刺激する見た目である。大根へ僅かに箸先をやれば、それはまるで沈むようにすうっと果肉へ沈んでいく。煮出汁の染み込んだ瑞々しいそれは脂の乗った肉のようにさえ見える。厚切りになったそれは切り捌いてみると、その中までこっくりと味が染み込んでいるのがわかった。一口、頬張れば料亭の上品な味付けというより、家庭的な、どこかノスタルジイをくすぐったく刺激するような優しい味が口いっぱいに広がっていく。しかし、それは決して二流であるという意味ではなく、むしろ日常で提供される家庭料理の範疇を逸脱した、手間暇の掛けられた逸品である。
「――美味い……」
メニューにその名を連ねることもなく、ましてや〝サービス〟という名目で無償提供されるような品でないことは明らかである。思わず、漏れるようにそう言った私に店員は至極満足そうに笑って私たちを眺めた。アンタたちは食わせ甲斐があるわ、とどこか母のように微笑むのだから、久々に他人からそんな笑顔を向けられた私は少しのもどかしさと――温もりを感じた。
今日は連れがいない日らしく、私は暫く男と飲むことになった。とびきりの話し上手で、あの日連れていた女の表情には及ばずとも私の知らない世界を面白おかしく語って聞かせる。判ったことは、男は私とまるで違う世界を生きていたのだということ。昨日の連れは友人だということ。今は大学の二年生で、実家と折り合い悪く友人の家に転がり込んでいるということ。この前の女は、その友人の一人だということ。このボトルは友人が自分の飲酒解禁記念に奢ってくれたもので、いつもだいたいこのボトルを開けながら、この店の飯を食いにくること。この男の生きた道は、まるで私の歩んだ道の真裏にあるような人生である。中でも私が最も興味を惹かれたのが――
「俺も本は好きだぜ」
その、たった一言は、私に自らの正体を偽らせた。
「そういや、まだ名前も知らなかったな」
そう言って男――三毛縞清虎は柔かに手を差し出す。なぜそんな馬鹿な真似をしたのかわからない。いずれ――いや、今日にでも暴露てしまうような嘘でしかなかったが、私は咄嗟に自分を〝吉川誠〟と名乗った。理由など、冷静に考えればいくらでも浮かんだ。そも、作家の黒柳誠はその正体を明かしていない。メディア露出も、授賞式にもコメントでのみ回答し徹底的に顔出しすることを拒否してきたのだから、万が一にも本好きだと自称する男を前に迂闊に名前を出せなかったのは正当な理由である。私がそれでも、らしくない動揺にその心臓を冷ややかに打ち付けたのは、そんな屁理屈が浮かぶよりずっと早く、自分でもなぜそんなことをしたのかわからないうちに、三毛縞に正体を偽ってしまったことだ。
私は今、人生で初めて嘘を吐いた。嘘を吐くというのは子供が叱責から逃れるために辿り着く浅はかな行為だと思っていたが、いざ嘘を吐いてみるととてつもなく頭を使うことだと知った。私は自分を、畠中出版で編集者をしていると三毛縞に説明した。ベースに使ったのはもちろんあの若造の担当だったが、お陰でどのような仕事ぶりかは嘘を重ねずとも真実を脚色するだけで応えられた。暴露るかもしれない、という恐怖が、私をひどく興奮させた。嫌な汗が滲むのがわかる。体毛が逆立ち、心臓がひっきりなしに暴れ回っている。必死で冷静を保とうと努めたからだろうか、三毛縞は私の嘘をまるで疑うようなことはしなかった。
「畠中出版ねえ…… 白に、田のハタか?」
「そうだ」
「ああ、だったら朝日奈らむの映画をこの前見てきた」
ただ、冷静になってしまえば嘘を吐いてよかった、とさえ思えるほど、三毛縞の知識の深さは書籍にも及んでいた。畠中出版といえばけして大手とはいえない出版社である。が、大きな賞を受賞した実力派の作家とのパイプが強く、とくに文芸書籍に関しては作家と専属契約を交わすことで十二分売上を維持しているのだという。その一角である朝日奈らむは新進気鋭の女流作家だ。百合文学、という女性同性愛をテーマとした恋愛文学を得意としており、ここ最近では彼女の小説が話題の女優をキャストに迎え映画化されたこともあった。私も同業であり、同じ事務所に所属する同僚として、彼女の映画化に際し祝辞を送った。が、それでも、だ。三毛縞という二十二の子供が、そこらの大人顔負けの知識でこちらの正体に腕を伸ばしてくるという事実は、私を大いに焦らせた。じっとりとした手汗をそっと誤魔化し拭う私に気づくこともなく、三毛縞は朝日奈先生の原作小説と映画化に際しての変更点や描写について嬉々として語っている。
「きっと――彼女も喜ぶだろう」
私はそう答えるのが精一杯で、ただ自分は編集者の吉川誠であって、けして作家の黒柳誠ではないのだと必死で言い聞かせた。三毛縞はまだ気付いていないらしい。編集者ってのはいくらでも読み放題なんだろ、とか。会社には読みきれないくらいの本が集められた書庫があるのか、とか。三毛縞はつい先ほどした川釣りの話より何十倍も、何百倍も楽しげに話してみせた。それはつい先ほどまで酒を舐めながら子供離れした知識を見せ隠ししていた男とは思えぬほど無邪気で、純粋で、三毛縞という男を歳不相応に幼くみせる。三毛縞の読んだという本は、まさに〝手当たり次第〟といった具合だった。純文学から古典文学、海外の作家も国内の作家も、若手も、重鎮も、本があればなんだって読むのだという。ビジネス書や辞典、エッセイなどもあれば読むが、やはり一番は文芸書なのだそうだ。
「もし将来家出て自分の家持つなら、絶対書庫作る」
あとは日当たりのいい庭がありゃ狭くてもいいな、なんて笑う三毛縞はまるで私に悟らせないよう、気付けばこの胸のうちに入り込んでくるような、そんな男だった。
「えっ!? じゃあアンタ――!」
黒柳誠の顔も、伊勢由美の顔も見たことあんのか? 咄嗟に、自分の声量を思い出したように三毛縞はその巨体を丸めてヒソヒソと私に耳打ちした。少なくとも、お前は今その黒柳誠の前にいるが、とは言えず、そうだ、とだけ返す。伊勢由美といえば私以上にメディア露出を嫌う出不精の作家だと記憶しているが、過去一度だけ顔を合わせたことがあった。まさか男だとは思わなかったが、それ以上に随分と不健康そうだと不安になるような出立ちだった。私の担当をする吉川君は、新人の頃はこの伊勢先生についていたのだという。よく聞くような手のかかる作家、というわけでもないらしい伊勢先生だけの担当でいるには惜しい優秀さであったから、ついでちょうど担当が退職する私の面倒も見るようになったらしいが、伊勢先生はたしかに、随分吉川君に懐いていたように思う。と、いうより、それ以外の人間とはほぼ一言挨拶を交わしている姿しか見なかったが。きっと、三毛縞も伊勢先生を女流作家と思っているのだろう。
「――どんな顔か、やはり気になるものなのか?」
口をついた言葉はまるで自分らしくない、情けない言葉だった。正体を明かさないと決めたのは自分のはず。事実、作家の先入観に捉われることなく自由に執筆ができているとあの日の決断を後悔したことなど一度もないが――それでも、たとえば朝日奈先生のようなメディアなどに出演することは、ビジネスとしては非常に有利であることも理解はしている。その上で、かつての担当が私の主張を尊重してくれたのだから、悩む必要などないというのに。それでも、今まで私が作家として対話するのはいつだって出版社の人間だったから、気になったのかもしれない。一読者である、三毛縞の言葉が。三毛縞だったから、だろうか。自分が納得できる本好きであり、気付けば私の懐に入り込んだこの男だからこそ、意見を求めてしまうのだろうか。
「んー…… まァ気になる、っちゃ気になるけど」
別に、わざわざ暴いてまで見る気はねえな。もし、三毛縞がもちろん気になる、と答えていたら私は、自分を包んだ嘘のヴェールを惜しげもなく脱ぎ捨てていたのだろうか。二十年も隠し続けた自らの正体を、たった数時間を共にしただけの素性も知れぬ読書家の男に、明かしてしまったのだろうか。否、仮定の恐怖に怯えるなど馬鹿らしい。だが、もし三毛縞の答えが違っていたものだった時、私は自分が何をしでかすかわからなかった。
「何故、かは聞いてもいいのか?」
「何故、ねぇ…… 顔出ししないってんだから、理由があんだろ。俺はいいと思うぜ。作家に対する先入観もない、まっさらな状態でその物語と向かい合えるだろ? それって今の作家じゃ貴重じゃねえかな。人間、どうやったって顔のあるモンを感情から切り離せねえだろ」
「そう、か」
「ハハ、俺が欲しがったらアンタ、困ってたろ」
嘘、下手そうだしな。そう笑う三毛縞に私は何を言えただろうか。この男は危険な男やもしれない。そう気がついた時にはもう遅い、手遅れにも程がある。私の欲しい言葉を言った。私の知らない世界を見せた。私の興味を巧みに惹きつけ、私が気づく間も無くその内側へ滑り込み、私が誰にも許すつもりのなかった胎の柔らかい場所で、この男はもう寝転がって寛いでさえいる。
「――確かに、そうだ。フフ、君がお利口で助かった」
内臓が、疼く。まるで落ち着けないむず痒さが私を居心地悪くさせるくせに、その感覚がどうにも捨て難くなっている。気付けば、随分長い間話し込んでいたようだ。店に来た時に軽く見渡した客の顔ぶれはいくらか気付かぬうちに変わっており、時計は店に来てからもう四時間も経っているぞと私にいう。そろそろ、家に帰るべきだ。徒歩圏内の店とは言え、例えばわかりやすい指標である終電の時間までにはどうにか帰宅すべきである。と、理解しているのに席を立てなかった。それは酔いが回ったとか、面倒だからとか、そんな理由であればどれほどよかっただろう。――私は、惜しいと思っているのだ。この男とここで別れてしまうことが。それでも時間とはどれほど願えど止まることのない絶対である。マスター――環君はこちらの会話がひと段落したのを見計らうと〝そろそろラストオーダーのお時間です〟と丁寧に声をかける。この店の居心地の良さは、巧みな店員たちのこういった些細な繊細さにより織りなされているのだろう。
「あー…… いや、結構だ。長い時間居座ってしまった」
環君はにっこりと微笑むと〝喜ばしいことです〟と頭を下げ、他の客へも声をかけに行く。この時間も、もう終いである。胸を引き裂かれるような寂寥とともに、どこか安堵する自分もいた。これ以上、この男の前でいることで私という人間が、なにか、たとえば根底から作り替えられてしまうような恐怖から逃れられるのならば、それは確かに安堵であろう。だが、その恐怖さえ今の私は欲していないだろうか。それが――私の悪癖である好奇心からくるものなのか、はたまたまるで違う感情から生み出されるものなのか、私にはわからなかった。三毛縞も、時間の流れを忘れていたようだった。店の、カウンターの奥に備えられた小さい時計をぐい、と覗き込むとエエッ、と素っ頓狂な声を上げている。どうやら思わず長居したらしい、参ったな、と小さく溢す声に何故か溜飲下がる心地がした。自分だけが、乱されているのではないと判ったからだろうか。三毛縞はグラスに薄く残った酒をぐ、っと煽ると、がしがしと髪をかき混ぜ――私をじ、っと見た。
「あー…… なあ、その、さっき言ったんだが……」
伊勢先生の過去作品の話をした時とはまるで別人のように、三毛縞はずいぶんと言葉に詰まっているようだった。言い難そうに喉まで出た言葉を必死で整えているような素振りである。じ、っとこちらを見る目つきはどこか弱々しく、三毛縞をまるで迷子の子供のようにさえ錯覚させた。
「今日、その、泊めてもらうはずだったダチってのが、この時間だともう寝ちまってて……」
「それで、なんだ……」
三毛縞という男は、格好はだらしがなく、振る舞いは無邪気さ故の粗暴さが目立つ男ではあるが、しかし言葉の端々にこの男は随分と利口なのだと感じさせる知性があった。だが、今の三毛縞はまるで悪戯が見つかった子供、お菓子を買ってもらおうと不慣れに親に縋り付く子供のようではないか。
「他のダチに連絡してもいいんだが、アンタさえ良ければ―― 飲み直さないか?」
懇願にもにた言葉だった。だがじ、っと私を見る三毛縞の目が私を逃すつもりなどまるでないのだと物語っている。鋭い目つきだった、その瞳孔はまるで虎のように細く窄み、男がただの人間ではないのだと証明していた。これは、危険な誘いだと。私はその瞬間はっきりと理解した。遠慮しておこう、今日はもう遅い、君には悪いが明日も仕事があるから―― 誘いを跳ね除ける言葉ならいくらでも浮かんだはずなのに。
「――君にはもしかしたら、読んだことのある本ばかりかもしれないが」
うちにも書庫はある。これがもし小説だったならば、最悪の台詞回しだと冷静な自分がひややかに嗤った。
*
「これは……」
三毛縞は眼前に広がる夥しい数の背表紙がまるで滝か、城壁のように迫り来る光景を前に、浮かんでは消える言葉のどれをも掴み取ることなく、ただ呆然と口を開けて立ち尽くした。
「お気に召したかな」
黒柳はある種の確信を持って、なお三毛縞にそう問いかける。立ち尽くす男の、僅か興奮に戦慄く背中を見ると、一体なんて馬鹿なことをしているのだろうと冷静に非難する自分さえ凪ぐような心地がした。ばッ、と振り返り、まだ言葉につまる三毛縞はしばらくぱくぱくと唇を震わせながら、ただ一言〝コレだよ!〟と無邪気に表情を綻ばせたのだった。
あの瞬間、三毛縞は自分がまるで勝ち目のない賭けに出たことを確かに後悔していた。見るからに堅物そうな身なり、オープンを売りにしたオプスキュールの中でもセリアンスロウプが目当てだろう振る舞いは、三毛縞の、そして三毛縞を求める人材ではなかったはずだ。そういった観察眼は嫌でも身につけるしかなかった。元々、他人の機微には聡い方だが、理解しておいてなお、声をかけたのは黒柳――三毛縞にとってはヨシカワがはじめてのことだった。自ら提案しておいて、と黒柳は腹を立てるかもしれないが、それでもこの家に来たことを三毛縞はほんの少し、爪の先ほどは後悔していた。
すぐ近くだ、という男の言葉に誤りはなかった。折角の縁だとオプスキュールでの食事代を奢られ、気まずさに三毛縞は道中何の話題も口には出せなかった。一歩、また一歩足を進めるたびに、じわじわと内側に後悔が滲み出すのだ。ここだ、と黒柳が指す彼の自宅は、畠中でも有数の高級マンションで、築年数はそれなりに経ってはいるが今なおそのブランドが衰えぬだけの品質を保っている。三毛縞にはこういった集合住宅は縁がなかったが、今まで世話になったどの女も、こんなマンションに住んでいる女はいなかった。指紋にカードキー、守衛に広々と美しいエントランス。ホテルを思わせるような高級感のある装飾と、すぐさま用意されたエレベーター。三毛縞は久々に〝汗の滲む緊張〟を強く感じていた。身なりから、相応裕福な男なのだろうことは予想できた、がその想像をはるかに超える住まいである。ずらりと並ぶボタンの中から、黒柳は上から三つ目のボタンを迷いなく押した。なんてことはないはずの薄弱な重力と浮遊感だが、今、極度の緊張下にある三毛縞にはわずかに不快を覚えさせた。脳によぎる数多の可能性は、三毛縞にとってどれもが不都合で、どれもが恐怖でしかない。けして、自分が平穏な暮らしをしているとは思わないが、こんなにも愚かなミスをしたのは初めてだと、長い長いエレベーターの庫内で三毛縞は細い息をした。
ポォン、と間抜けなほど軽やかな音と共に、エレベーターは静かに扉を開いた。長い廊下の先には、扉がたった一つ、ある。黒柳は再び、迷いなくその扉に向かって歩き出した。三毛縞の体はまるで、そんな黒柳に目には見えぬ糸で操られたかのようにただ、従順にその背を追う。再び、カードキーが扉にかざされた時――三毛縞は、信じたこともない神に〝どうか何も起こりませんように〟とらしくなく祈りさえ捧げた。だが、そんな心配はいよいよ、黒柳に手招きされ導かれた最後の扉の奥・書斎の中であっけなく霧散していったのである。
まさに、称するならば本好きの楽園。三毛縞は縮み上がっていた心臓が強く脈打ち熱い血が全身をぐんぐん駆け回る感覚に身を震わせた。これは、まさに自分が夢見た景色である。
「ッ、これ、これだよ! 俺、こんな部屋が欲しいんだ!」
興奮のままに、三毛縞はその本棚へかじり付きになった。古典文学から、現代のライトノベルの類まで、それは国も言語も問わずあらゆる〝文芸書〟が列を成している。書庫は黒柳の広いマンションの部屋の中でも二番目に小さい部屋ではあったが、壁をぐるりと取り囲み、さらに追加で配置された棚の中にも、それは隙間なくぎっしりと詰め込まれている。書庫特有の紙とインクの香りを、三毛縞は胸にいっぱい吸い込んだ。この本が好きだ、こっちの本を読んでみたかった、これは特に面白かった。三毛縞は本棚にへばりついたまま、まるで子供がはじめておもちゃ屋に連れてこられた時のように夢中になってその棚を追っていく。
「へえ、辞書まであるんだな…… それもすげえ数」
「仕事柄な。それより、随分気に入ってもらえたようで」
黒柳は自分の口角がにやにやと吊り上がるのを堪えるだけで必死だった。この部屋に越してからと言うものの、編集担当の二人以外は誰も上げたことのなかった家だ。確かに、黒柳には私的に部屋へ招こうと思う相手がいない。四十五になって独身貴族を謳歌する黒柳だが、そのことに今まで不満や不安や寂寥を覚えたことなど一度もなかった。むしろ、少々潔癖な気のある黒柳にとってもっともプライベートの確立された、いわば彼の精神の宮殿であるこの家に、招こうと思う相手などそうそういるはずがなかった。――だと、いうのに。
(酒に酔ったか―― 全く、らしくない……)
意外だったのは、自分でも三毛縞を家に招いたことに一縷の後悔もなかったことだ。どころか、この冷え切った心をじくじくと溶かすこの気持ちは一体なんだ。黒柳はその柔らかく温かい感情のひと匙に、好奇心というタグをつけてやった。三毛縞は、いわば黒柳の知らぬ世界に人の形と言葉を与えてやったものだ。黒柳は今まで自らが持ち得なかった世界を、まだ読んだことも見たこともない本を、自らの手中に収めているのだ。この男を、自分のテリトリーであるこの書庫で暴き、隅々まで読み解き、暴きたいと願っているのだ。
「何か飲むかね」
黒柳はその表紙に手を伸ばしながら、滲み出る好奇心をぐっと飲み込み極めて平然とそう問いかけた。三毛縞はそんな男の内に沸き起こる欲求などまるで知らぬ顔で無邪気に本棚へ齧り付いている。何でもいい、飲めりゃ毒でも。三毛縞は冗談めかしてそう答えたが、そのタイガーアイは整然と並ぶ本に夢中だった。
「――ッフフ。気に入った本は持って来ればいい。どれでもかまわんよ」
夜は長い、好きなだけ楽しむといい。黒柳の言葉を待ち侘びていたのだろう。三毛縞はすぐさま二冊、三冊と本を選んで抱え始めた。好きなお菓子を好きなだけ買ってやると言われた子供のようなその振る舞いも、今の黒柳には愉快でならなかったのだ。
三毛縞が選んだ本に、黒柳は改めてこの男に興味を引かれた。発行部数の少なかった時代小説に、可愛らしい漫画絵が表紙の恋愛小説、そして過去に映画化もされたミステリー小説が二冊。ミステリー小説の一つはわずかに開き癖の付いてしまったものだった。百を超える本があろうと、読み返す本はそう多くはない。この消費社会は読み終えるより早いペースで新たな物語が生まれる世界である。黒柳の〝積読〟はいくらハイペースに解消しようと溜まる一方であり、その中でも二度、三度読み返す本は特に気に入ったものであったから、その一冊を三毛縞が選んだことに僅かばかり、喜びを感じた。黒柳にとって読書とは大勢で嗜むようなものではなかったが、その時ばかりは、このミステリーの度肝抜く結末を三毛縞も気に入ればいい、と願わずにはいられなかった。
「ウイスキー? それともコーヒーか、紅茶にしようか。ワインもあるが」
黒柳は自分でも、少し舞い上がっている自分を恥ずかしく感じながら、そわそわと落ち着きをなくさずにはいられなかった。全く、自分らしくないと思う。黒柳は担当の吉川にさえしたことがないような給餌を率先し、三毛縞に自分が読書時に好んで使う特注性のカウチを譲った。
「あー…… コーヒー、いいか?」
少し照れくさそうに言う三毛縞は、自ら〝飲み直さないか〟と誘いかけておいてすっかりその気をなくしてしまった自分に逆らえなかった。黒柳の書庫は三毛縞にとっては夢に描いた宝物庫であり、案内された席は三毛縞にとっては想像さえ及ばなかった完璧な楽園であったからだ。長身ゆえにどんなソファも足を身を持て余す三毛縞の体をゆったりと受け止めてくるカウチ。慣れた手つきで擦られたマッチが木製芯のキャンドルを灯すと、ジリジリと木の燃える耳心地の良い音が空気のわずかな緊張や興奮を弛緩させていく。それは三毛縞が知り得なかった、贅の形をしている。もし、いつか夢が叶うなら、三毛縞は書庫とは別にこのカウチを揃えようと心に留めた。この座り心地の良い椅子と、暖炉―― そして叶わぬのであればこの木が炎にぱちぱちと爆ぜる変わった蝋燭を買おう。この空間はまさに―― 本読みのために誂えられた、物語を統べる王の座である。マグカップを持ってやってきた黒柳は、三毛縞の知らぬ間にタイも、ジャケットもすっかり脱いでいた。捲られた袖に、この男が自らこのコーヒーを淹れたのかとおもうと、三毛縞は些か気分がよかった。この見るからに完璧な男に、自分は給餌をさせたのだ。堅物そうだと思った、三毛縞の――それは三毛縞が男であったためだが、他にも三毛縞は自分自身がけしてフォーマルな男ではないと理解していたし、黒柳の場合三毛縞が知的で清潔な女性であったとしても、誘いに乗るようなタイプには見えなかったからだ。三毛縞の勘は鋭い。研ぎ澄まさねば、三毛縞はこうして今ものうのうと読書を楽しむ生活ができるはずもなかった。それでも、多少焦りはしたが三毛縞はこの状況を楽しんでいた。むしろ、この居心地の良さは危険だなと僅かに心をささくれ立てながら。
「へへ、どーも。――うまい」
三毛縞はへらりと笑って、黒柳が手ずから淹れたコーヒーをひとくち啜った。酸味よりも渋みや深みを感じ、けしてライトな口当たりではないがゆえに感じるフルーティーさはどこか芳醇なワインにも似た旨味になる。
「これ、ダリアのコーヒーだろ」
よく行くのか? そう問うた三毛縞に、黒柳はまたも意表をつかれた。確かに、このコーヒーは黒柳がよく行く喫茶店が販売するオリジナルブレンドである。いつかの懇親会で作家の朝日奈から教えてもらった喫茶店で、黒柳も気に入っている店の一つだった。懐かしき佇まいのいわゆる純喫茶で、初老のマスターが息子らと切り盛りしているダリアは程よい騒がしさとゆったりとした時間の流れに包まれており、朝日奈も、そして噂を聞き訪れた黒柳にも、仕事の気分転換をするにはうってつけの店であった。ただ仕事を忘れて飯を食いに行く時もあれば、締め切り日までの追い上げに、場所と気分を変えるために向かうこともあるような、そんな店のコーヒーは黒柳の好みによく合った。言えば、豆を売ってくれると知ってからは、黒柳は家で飲むコーヒーはいつもダリアで購入している。
「よくわかったな」 黒柳は素直に感心した。
「いや、俺もよく行くんだ。あんたとは味の好みが合うのかもよ?」
そう無邪気に笑った三毛縞は、自分がこの男を前に随分気を抜いていると自覚した。このリラックスを誘う空間のせいだろうか、この座り心地の良いカウチのせいか。普段の三毛縞ならば、きっとそんな言葉と共にねだるような目で相手を見つめ返しただろう。無論、そんな振る舞いをして見せるのは大抵が寂しがり屋の女相手であり、けして金持ちで年上の男相手ではなかったが。だからだろうか、と三毛縞は僅か感じた気まずさに姿勢を正す。だがそんな三毛縞の気まずげな振る舞いにも、黒柳はまるで気にするそぶりを見せなかった。
「なら、好む本も同じなのかもしれないな」
どこか楽しげに笑う黒柳の表情に、今度は三毛縞が大いに戸惑う番だった。唐突に、体の内に絡みついた未体験の胸騒ぎに、逃げるように本を開く。前書きの口上を二度、目で撫でながら〝そうかもな〟とどこかぶっきらぼうに返すだけで、精一杯だった。
*
名うての検事がいよいよ反撃に出ようとした頃、黒柳はそっと活字から目を上げた。親指を器用に本の間に挟ませたまま、三毛縞はカウチの上で静かに寝息を立てている。あれからしばらくは、三毛縞はわざと本に夢中になるような態度を見せていたが、次第に姿勢を崩し、カウチを存分に堪能するようゆったりと崩れながら、夢中になって頁をめくっていた。時折、手探りにコーヒーで唇を濡らしながらも、その目が、意識が、物語から離れることはない。一冊、また一冊と三毛縞はどっぷりとその世界に身を沈めながら物語を泳ぎ継いでいく。しばらくは黒柳もそんな三毛縞を時折気にしながら、久々の積読消化に夢中になり、今はちょうど深夜の一時になろうとした頃合い。この青年は、本名さえ知らぬ男の部屋で、無防備にもくうくうと眠りこけていた。重い前髪の隙間から覗いていたぎらぎらとした瞳は今、薄い瞼の下に潜り、長いまつ毛で錠をする。彫りの深い、と言うよりも骨格が男らしい顔立ちだった。力強く通る鼻筋から、厚みのある唇へ。僅かに乾いた肌のそれは、たしかに女が夢中になるのも理解できる造形美であると、盗み見る黒柳に妙な納得をさせた。太い首筋や、上下する胸を覆う筋肉の厚みは同じ男でありながら惚れ惚れするような仕上がり具合である。しばらく、黒柳はじっと眠る三毛縞を眺めていた。それは単純に興味と視線を奪われただけでなく、なんだか三毛縞が、黒柳がほんの僅かでも身じろげば目を覚ましてしまいそうだったからだ。規則正しい呼吸のリズムは、かなり燃えた木製芯仕様のキャンドルよりもずっと、黒柳の心を穏やかにさせた。じっくりと男の寝顔を堪能した後、黒柳は静かにソファを立った。質の良いソファは黒柳の意図を汲むように軋む音一つ立てることはない。足音を極限まで消し、一歩、また一歩を慎重に繰り出しながら三毛縞に這い寄るのは、黒柳に背徳的な興奮を滲ませた。疾しいことをするわけではない、黒柳には男に欲情する性もなく、眠りこける年若い男に悪戯をするような趣味もなかった。それでも、この眠れる獅子を起こしてしまうことが、黒柳にはなんだか惜しかったのだ。目が覚めた時あるいは、この男が帰ってしまうような気がした。それが、黒柳には面白くなかった。だからこそ、広い掌に包まれ小振りに見える文庫本を静かに、丁寧にその内側から抜き取る時、黒柳は自分が興奮にじっとりと汗ばんでいるのを確かに感じた。親指が示す頁を閉じてしまわぬよう、しかし男を起こさぬよう、ゆっくりと抜けていく本をなんとか回収すると、黒柳はそこへ栞を挟みサイドデスクへこれまた静かに横たえた。ソファにかけたままのブランケットを広げてやり、せめてもの腰から長い足へとかけてやる。きっとこの男のことだから、胸までかけてやれば暑くて寝苦しかろう、という黒柳なりの配慮であった。それから空になったマグカップを回収し、暫く迷ってから二人分を静かに洗う。それでも、三毛縞が目を覚ます様子はない。いよいよ手持ち無沙汰になった黒柳は眠る前に一杯、酒をやることにした。このまま就寝してもよかったが、三毛縞が朝起きた時にいなくなっている気がしたからだ。自分でも、何をこんなに焦っているのかわからなかった。ただ、この男はきっと音もなく消えてしまうだろうし、そうしたらきっと二度と出会うことはないだろう、という根拠もない予感が黒柳の胸に生まれて消えようとしなかった。黒柳が三毛縞を――正確には本来、三毛縞のそばにいた女の方が目当てではあったが――求めて五日と店に通ったように、明日からまたオプスキュールへ足繁く通おうと、きっと三毛縞はもう黒柳の前には現れないだろう、そんな予感だった。
黒柳はそうして、寝酒用のコニャックを片手に再び三毛縞の前へと腰を下ろした。こういう夜を、黒柳はいつもなら気に入った音楽と共に過ごす。だが今は、今夜は、ただキャンドルの木芯がカチカチと仄かに燃える音と規則正しい静かな寝息が部屋を揺蕩っている。それでよかった、それがよかったのだ。
*
卵の焼いた匂いに目を覚ました三毛縞が、はじめに覚えたのは未だかつて感じたことのないようなすっきりとした目覚めだった。もともと、三毛縞は眠りの浅い方である。物音がすると必ず目を覚ましたし、人の気配がある場所では眠るというよりも〝目を閉じ脳を休めているだけ〟といった風が多かっただろう。家を出て多少なりとも改善された不眠症だったが、物音にも、人の気配にも気づかず夢さえ見ないまますっきりと目覚めたのは少なくともここ十年で初めての出来事だった。ただ心地よい微睡からそっと目を開けた時、自分が壁と屋根のある場所で、硬さとは無縁のふかふかとしたものの上にいると理解した。足にかけられたブランケットに覚えはない。寝起きのぼんやりとした頭とはここまで碌に働かないものだっただろうか。ゆっくりと身を起こし眺めた部屋は、普段三毛縞が目を覚ますどの部屋よりも広く、しかしその空間はただの一室にしかすぎないと理解した。
「起きたか」
その声に三毛縞は勢いよく振り返った。ここ数年、三毛縞は起き抜けにテレビ以外から男の声を聞いていなかったからだ。自分に投げかけられた声の低さに三毛縞はひどく動揺しながらも、カウンターキッチンから顔を覗かせるエプロン姿の男の姿にようやく合点が入った。
「あー…… ヨシカワ……」
その衝撃のせいか、漸く動き始めた脳が昨夜の記憶を三毛縞に思い出させた。吉川誠、この男は昨夜帰る家のない三毛縞が頼ったはじめての男だった。畠中出版の編集者で、家の書庫を見せてもらった相手。三毛縞は思わず、安堵から溢れるため息を飲み込んだ。――俺は、こんな得体の知れない男の前で呑気に眠っちまったってのか? 自分の体に想定できる最悪の違和感はなく、さらに言えば眠りこけてしまう前に男をどうこうした記憶はない。思い出せるのは、たしか三冊目の半ばの物語だけだ。服は乱れておらず、案内されたカウチは確かに三毛縞や黒柳の高身長を受け止めるものだが二人の大男が事を為すには少々頼りないものである。何もなかったのだろう、という深い安堵と――何もなかった夜を過ごした自分に、三毛縞は顔に出さず驚いた。
「卵を焼くが、希望はあるか」
「卵…… あ、じゃあ、サニーサイドで……」
「パンは? 何枚焼く?」
一枚でいい、と答えながら、三毛縞はひどく据わりの悪い思いに翻弄された。卵白が厚い油に弾かれパチパチと軽い音を立て、香ばしいにおいが部屋に漂っている。男は手際がいいらしく、カウンター越しに手元が見えるわけではなかったがずいぶんとテキパキ動いていることだけは三毛縞にも理解できた。座り心地の良いカウチを惜しみながら立ち上がり、ふらふらと黒柳のほうへと向かう。真っ黒なエプロンは皺一つ、汚れひとつなく。その下で生真面目に着られたシャツもまたしっかりと糊が効いている。神経質なまでに整えられた服装は男の性格を如実に表していた。覗き込んだキッチンは真新しくさえ見えるほど整い、磨き抜かれている。シンクには今現在の作業でできたであろう水跳ね以外は水垢ひとつない。食器用洗剤だとか、スポンジ、そして調味料に至るまで、一見キッチンの上は一切のものが排除されたように広々としている。なんと言うか、徹底的に〝生活感〟を排除した部屋だ、と三毛縞は病的なまでに整頓されたキッチンを小さく笑う。そんな家主の男が、本来ならば汚すために着るエプロンさえしみひとつ許さないこの黒柳が、寝ぼける自分のために卵を焼いている。それも、焼き方までこちらの好みに合わせてくれるらしく場所も場所だけに、なんだか高級なホテルにでもきたような心地である。好みのコーヒーがひた、ひたと落ちていくたびに深みのある香りが三毛縞の寝ぼけた脳をクリアーにしていく。黒柳はそんな見物人を特に気にする様子もなく、やはり慣れた手つきでパンを二枚トースターに乗せた。三毛縞は家電に明るい方ではないが、洗練されたブラックとシルバーのデザインはどこか近未来的で、きっとこの家にあるものは全て質のいいもので揃えられ妥協を許さないのだろうな、と予感した。
「顔を洗ってきなさい、歯ブラシも用意してある」
「ん、悪いな」
構わんよ、と返す黒柳は作業の片手間、三毛縞を見た。その柔和な目つきにさらされながら、三毛縞は突如胸に込み上げたひどく騒がしい感情に対し、曖昧に笑って誤魔化すと逃げるように洗面所へと駆け込んだ。
――本当に、何もなかったのだろうか。
正体がなくなるまで飲んだ覚えはない、そもそも記憶にある限りでは少なくとも、この男の家に招かれてから三毛縞はコーヒーしか口にしていなかった。店では黒柳との会話に夢中になった挙句酒を飲むことさえ忘れていたように思う。だから、まさか一服盛られでもしなければ三毛縞は記憶を飛ばすようなことはない。それでも、ふとそんな不安がよぎるのは三毛縞にとって――初めて、他人のテリトリーである家の中で、感じたことのない〝居心地の良さ〟を知ってしまったからだ。好意――それは例えば甘やかな恋愛感情ではない、と思う。今、台所に立つ黒柳に対し後ろからそっと抱きしめ、あの長い髪に鼻先を埋め、黒柳の香りを覚え込むまで堪能したいかと言われれば、否。そうはっきりと断言できる自分に安堵しながら、であればこのそわそわとむず痒いような、据わりが悪くなるような落ち着かなさは一体どこから生まれるものだと言うのか。三毛縞は冷たい水を顔におもいきり浴びせた。ネコ科の習性だろうが、普段はあまり気乗りしないシャワーだが今なら冷静になるため浴びてもいいとさえ思えた。昨日一度訪れた洗面所だが、こちらもまた驚くほどに生活感がなかった。水回りだというのにやはり垢一つなく、鏡にはくすみひとつない。黒が好きなのか、と三毛縞は黒柳の目を盗んで不躾だと自覚しながらも軽く辺りを見渡した。ハンドソープであろうボトル――これまた随分目立たない場所に配置されている――に始まり、用意されたフェイスタオルや、歯ブラシ、グラスに至るまで、全てが黒か、そうでなければシルバーか白のみである。三毛縞は幼少期に何度か訪ねたことのある自らの親族・一織家の邸宅を思い出した。あの家も黒と白のみで構成された徹底ぶりであったが、黒柳の家もまた随分色味が少ないと感じた。三毛縞がよく寝泊まりするような女の家というのはとにかく物が多く、色数が多く、散らかっていなくとも騒がしい部屋であることが多い。一泊や二泊ならば高級感のある室内だ、と楽しめるかも知れないが、色のない部屋でひとり暮らす黒柳を思うと、孤独を感じたりしないのだろうか、と三毛縞はらしくなく男の、それも年上の生真面目そうな男の心配などしてみた。余計な世話だ、というだろうことは十分に予想できたためそれをわざわざ口にすることはないが――封を切った歯ブラシを咥えながら、これも黒なのか、と三毛縞はひとつ、頭をかいた。
絵の一つも花の一輪も飾られていない黒と大理石調の廊下を戻った三毛縞を、黒柳はエプロンを外しながら迎えた。テーブルにはとても、予定外の客をもてなすためとは思えぬ上品な朝食が二人分、向かい合わせに用意されていた。黒く加工されたウォルナットのテーブルはそれが木材である事を忘れさせるほどに磨き抜かれており、艶めく机上はまるで石のようにさえ見えた。重厚感という意味ではこれに勝るものはないだろう黒が、これまた几帳面に磨かれた白い皿をめいっぱいに輝かせてみせている。いっそ、皿が暗闇に浮かんでいるようであった。そして何より、このモノクロの部屋の中で鮮やかに輝くサニーサイドアップの、言葉通り太陽を思わせる半熟の黄身がいっそう食欲を掻き立てた。三毛縞がよく見るパステルイエローのものではなく、少しでも乱暴に扱えばとろりと滴らせそうな半熟の黄身は濃い橙色をしており、食に興味のない三毛縞にもこれが普段食うものとは比べるに烏滸がましい上質なものだと理解できた。付け合わせに用意された青々しい葉野菜のサラダには、きらきらと宝石のようなドレッシングが回しかけられている。黒柳にとっては卵より食の進むものであるため手のかけようはひとしおであったが、野菜嫌いの三毛縞にはそれでも、まあ文句は言わず食ってやろう、という気にさせるので精一杯だった。添えられたバスケットには焼いたトーストが、しっかりと塗られたバターをじんわりと染み込ませているし、クルトンが泳ぐコーンポタージュはパセリが散らされ、ひと匙クリームが回しかけられたものだった。だが何より、その二人前並んだ皿の大きな違いといえば、三毛縞の皿にだけ盛られた二枚のベーコンだろうか。たっぷりと厚みのある切り口に、端が少しかりっとするまでしっかりと焼き目をつけたそれは三毛縞の食欲を乱暴に掻き立ててくる。油の一滴さえ美味そうだと理解できるその肉を、黒柳は〝客人用だ〟と少し肩を窄めて笑う。
「めちゃくちゃ美味そう……」
「お気に召したなら光栄だ、食べているといい、コーヒーを入れてくる」
「あー…… いや、アンタが来るまで、待ってる」
三毛縞は、今にも飛び付きたい気持ちをごくりと飲み込み手を膝に押し付けた。まるで子供のような三毛縞の仕草に、黒柳は不意をつかれながらもそれならば、と少しせいた足で再びキッチンへと向かう。どうにも落ち着けない、と三毛縞は目の前で湯気を立てる朝食に加速する空腹を必死で宥めようとした。たとえばこの朝食を例えるなら、ホテルのモーニングというに相応しいだろう。上質な食材が惜しみなく使用されているあたり、そこらのカフェで出されるものよりずっとバリュアブルなメニューである。三毛縞が他人と朝食を共にする回数はけして多くはなかったが、それでもこんなに豪奢な食事を提供されたことは一度となかった。だが、そんな格式張ってしまいそうなメニューを前に三毛縞が感じた正体はといえば、どこか家庭的な――三毛縞にとって、豪華な朝食よりずっと縁のなかった暖かさだった。生産者の顔が見えるからだろうか、と三毛縞はカウンター越しに黒柳を盗み見た。だがそれだけが理由だとは思えなかった。数少ない記憶だが、近しいものだとどうしようもなくなって転がり込んだ秋月家で出された朝食に近い。あれは和食で、けして悪い意味ではなく家庭的な――一汁三菜の徹底した食事であるためけして手抜きではなかったが――ものだった。三毛縞は食べ盛りなのだから、と崇彦が気を遣って魚まで焼いてやったし、その好意に三毛縞もずうずうしく甘えて、佳輔のぶんの米まで食った。秋月の家での食事は三毛縞が忘れず大切に閉じ込めた記憶のひとつだ。今、目の前にある食事と、その状況はけして秋月家の記憶とは異なる――言ってしまえば真逆に位置するものであることに違いはない。家庭的な秋月家と、モノクロで生活感のない黒柳の家。それでも、三毛縞にはこのコーヒーいっぱいを待つあいだ、よだれが滲むような空腹に耐えてでも、共に食事をしてみたいと思わせる何かがあった。
「どうぞ」「――ありがと」
黒柳がマグを二つ持ってくる。受け取り、男が丁寧な所作でテーブルに着くのを見届けると、三毛縞はぎこちない動作で胸前で手を合わせた。
「イタダキマス」「どうぞ」
もうこれ以上は我慢などできそうになかった。三毛縞は決まった時間にきっちりと食事をする習慣がなかったが、それでも寝起きに飯が食えないタイプでもなかった。今、自分が絆された男の作った食事が湯気を立て三毛縞の食指を誘っているのだ、合わせた手は即座にナイフとフォークをつかんでいた。
「あ、あー、なあ、ちょっと相談」
「なんだ」
三毛縞はもううずうずしたまま、普段ならば絶対にしないような断りを黒柳に入れた。
「これを、パンの上に乗せて食うのは、あり?」
黒柳はその言葉に刹那固まったが、すぐに拍子抜けしたように小さく笑みを噛み殺した。かまわんよ、と返した黒柳に、三毛縞は意外にも慣れた所作で豪快に、こんがりと焼いたトーストの上に厚いベーコンを二枚、そしてその上に難なく目玉焼きを乗せてみせる。黒柳は肉食を好まないが、それでも目の前の若者がそうやって豪快に飯を食う姿は意外にも、黒柳を楽しませている。体に見合った口腔の広さゆえか、三毛縞の一口は黒柳の倍はありそうだったが、それでも黒柳が不愉快でなかったのはおそらく、細やかな所作のせいだろう。ばくり、と厚みの増したパンにもものともせずかぶり付くと、その豪快な一口を丁寧に咀嚼していく。口いっぱいに頬張るトーストに、三毛縞はただ至高の喜びを噛み締めた。程よく塩胡椒のきいたサニーサイド、塩味と甘い油が香ばしいベーコン。そしてじゅわりと染み込むバターさえ極上のトーストは表面をざっくりと、内側はふうわりと焼き上げられており、これはそんじょそこらで食えるような代物ではないな、とじっくり味わう。ひとくち、またひとくちと進めれば、つぷ、と膜切れた黄身がどろりと溶け出し、濃厚なそれが絡んだベーコンはいっそう味にコクを生み出している。うまい、の一言さえ忘れてしまうほどその朝食は三毛縞を夢中にさせる。だがそれでよかった、黒柳にとっては千の言葉を吟味するよりも、三毛縞がもくもくとパンを頬張っている姿の方がずっと雄弁だと思った。黒柳の人生に未だかつて存在しなかったたぐいの男である三毛縞は、黒柳の興味をひどく唆ったのだ。変わらぬ味を守ったコーヒーを一口、舌の上で味わいながら、黒柳は暫く、三毛縞が飯を食う姿を堪能した。
食後、片付けくらいはと立った三毛縞を〝客にさせられない〟と言いくるめながら、黒柳はささやかな違和感を自覚した。確かに、三毛縞は黒柳のそばに存在しなかった類の男だ。それは服装ひとつとってもわかる。高級志向、というわけではないが黒柳の生活水準は幼少期より一般家庭より高く、今現在作家として大成しそれ一本で食い繋いでいけるようになった黒柳にとって金とは常に余りあるもの、であった。だが三毛縞はどうだ。大量生産ブランドのジーンズとシャツに、安物の整髪剤――一度目に会ったときは女物さえ使用していた――で整えた髪。財布も家も持たず、時間が過ぎると眠りに帰る場所さえないという。実家と折り合い悪く家を出るというのは今時ない話でもない、が定住さえしていないという事実は黒柳の人生では考えられぬものだった。どのようにして生きてきたのだろうか。など、作家の黒柳には想像に易いものだ。おそらく――はじめて三毛縞と会ったときのように、女の家を転々としているのだろう。いわゆる典型的な――家出少年、というわけだ。であれば黒柳は、なぜそんな訳ありの青年をわざわざ家に呼び、こうして朝食まで作ってやったのだろうかと自分がとても信じられなかった。言ってしまえば、こういった類の子供は黒柳が苦手とする部類に入るのではないだろうか。路端のホームレスをわざわざ保護しないように、ふらふらと夜に彷徨う子供を捕まえて説教をしないように。三毛縞を家に招く理由などなかったはずだ。ただひとつ、それを許した理由は――三毛縞の振る舞いが、いつだってどこかに滲ませるからだ。その、育ちの良さを。ガサツに振る舞ってみせながら、鯖大根を食う箸の運びは黒柳がいちいち気にするまでもない丁寧なものだったからだ。咄嗟に掴んだカトラリーをずいぶんと丁寧に使ってトーストの上に目玉焼きを乗せてみせたからだ。ジャンクな食べ方を許したのは、豪快に食らいながらもテーブルを汚すこともなく食べきってみせたからだ。家に上がるときにふと靴を揃えたこと、手を洗った後ハンドタオルの整え方。それは例えば見よう見まね、一朝一夕に習得できるものではなかった。黒柳は、いちど取材として非行少年と話をしたことがある。その子供は――彼は確かにまだ未成年だったが――教養もなく躾といった躾を態度に感じたこともなく、なぜ小中の義務教育を終えてなおこうも学のない人間が出来上がるのか純粋に疑問だったが、三毛縞にはそんな仕草を感じられなかったのだ。染み付いているのだ、どれだけ粗暴に振舞って見せようと隠し切れないほどに。
黒柳は、自身の興味が〝三毛縞に連れ添った女〟から〝三毛縞自身〟へと移ろっている事実に気づかないでいた。だがその内はもはや後戻りなど許されぬほどに、目の前で昨夜の続きを読み耽る青年へと強く惹きつけられ、囚われていた。男の一挙一動に目を光らせ、まるでこの世のなにからも縛られず自由に踊り歩く三毛縞という存在を自分の内側に何度も何度も刻み込む。黒柳は、ここ数日まるで進まなかった筆を執りたくてたまらなかった。この男を、書きたい。ただ、作家としての溢れ込み上げる炎に身を熱らせた。衝動のまま、筆を執ってもよかったが黒柳は今、三毛縞を前に身分を偽りここにいる。迂闊なことをして男の信頼を失い、その縁まで失うわけにはいかなかった。
三毛縞が最後の一行まで存分に堪能したタイミングで、黒柳が代わりのコーヒーを持ってきた。その一杯は密かに、三毛縞を戸惑わせる――そろそろ帰る、という言葉ごと、三毛縞はそんな戸惑いをおくびにも出さずコーヒーをひとくち飲み込んだ。この座り心地の良いカウチも、穏やかな時間も、なによりまだ気になる本をごまんと揃えたあの書庫も――三毛縞にはすっぱりと捨て切れるものではなかったからだ。そして何より吉川誠――黒柳の存在を、どうしてだかもっと良く知りたいと、それはいわゆる、別れを惜しむ寂しさ、のような感情が、三毛縞の腰を重くしている。この部屋に招かれた時と同じように、向かいに腰掛けた黒柳はそれで、と三毛縞を見つめた。その瞳がわずかに揺れる意味を、三毛縞は理解できなかった。
「――三毛縞君、きみは、これからいく当てはあるのかね」
それは三毛縞が今不相応にも求めてしまい、そして同時に最も聴きたくなかった言葉だった。
「あー…… まあ、あるよ」
「そうか」
嘘、ではない。事実三毛縞との一夜を求める相手はいつだってそれなりにいた。それにもし、その全員と都合が合わず、よく夜を過ごす公園も雨で使えず、屋根のある神社からも追い出されてしまえば、最悪秋月のところへ転がり込めばいい。世話をかけていることは三毛縞も重々理解しているが、最後には崇彦が呆れた顔でその扉を開いてくれることも知っている。三毛縞は、何故黒柳が改まって自分にそう尋ねたのかなんとなくわかっていた。引き留めているのだ、この男は。三毛縞には――黒柳に名乗った時この男が何か、自分に対して後ろめたいことをしたことを理解していた。三毛縞は猫の半獣である。その嗅覚は微量な汗のにおいも嗅ぎ分けることを叶えてきたし、その嗅覚に何度と救われてきた。わずかに滲んだ汗の香りは、確かに黒柳が自分に対して何かを隠したか、偽ったか、はたまた企んだために滲んだかおりだ。だがその事実を見ないふりをしてまで、黒柳と話していたかった。そして不本意だったがこの男と朝食を摂って――三毛縞の中に一つの答えが導き出されていた。
黒柳は自分と、よもや女たちと同じような関係を求めているのではなかろうか。であるならば、三毛縞はこの座り心地の良いカウチから泣く泣く去るほかなかった。三毛縞の自意識過剰な思い過ごしであれば、いい。だが事実、オプスキュールにはあらゆる客がやってくる。三毛縞がその日帰る家を探すのと同じように――三毛縞と眠らない夜を過ごしたがる男はけして少なくはなかった。そういったことに詳しいらしい佳輔からは、お前の体型はそういう質に好かれ易いだろうから気をつけろ、と言われたこともある。三毛縞は今まで、細腕に招かれれば必ず応じてきた。だが男を相手にしたことは未だ一度もない。そりゃ、酒を飲みかわす分には問題はなかった。むしろ女を相手にするよりずっと気楽で話も弾んだし、奢ってくれるのならばそこに性別も人種も、人間も半獣も関係ない。だがベッドでの会話だけは話が別だ。三毛縞は自分が、どちら側であっても男を相手にするつもりなどなかった。だからこそ――黒柳が求めているだろうものを悟った時、ただ漫然とした悔しさ、のようなものに怒りさえ感じた。そうだ、これは怒りだ、と三毛縞はまだ暖かいマグを密かに強く握りしめた。親しくしたいと思った、誰か個人に執着したのは初めてで、だからきっと黒柳とはいい友人になれると思った。ふと、感じた温もりは三毛縞が教えられなかった家族のような、友人のような温度であると思ったのに。もし、理性がなければ泣き喚いてしまいたかった、叫んで、黒柳を責めてしまいたかった。それでも、三毛縞は曖昧に笑ってその衝動を誤魔化している。
「――なあ、アンタ。もう、わかってると思うが……」
三毛縞はカウチの上で改めて背を正した。その並ならぬ真剣な表情はこの家に来てから三毛縞が初めて見せる表情だったため黒柳もまた無意識に、佇まいを正す。
「俺、男とは寝ないって決めてんだ、だから――」
もう帰るよ、と続けるはずだった言葉はギョッとした黒柳の表情にかき消えた。わずかな焦りの香り――だが、不意をつかれたのは三毛縞も同じだった。
「あ、え、俺、勘違いしてるか?」
「一体何を言い出すかと思えば……」
三毛縞が感じた焦りが、たとえば黒柳が隠して近づいた疾しい気持ちを暴かれたものであれば、三毛縞はもしかすると男を相手に嫌味の一つでも吐き捨てて出ていっただろう。野郎と寝るなんざ死んでもごめんだ、と言って男をつっぱねたことは何度かある。それと同じようにするだけだった、だが。きょとん、とした三毛縞に黒柳は漸く冷静さを取り戻したらしい。はあ、と深々しいため息を吐きながらこめかみをきつく抑え込んだ。
「なんとなく、君がどういった生活をしているのか想像はできる、が、私はそういった相手を持つつもりなどないぞ。君がどんな勘違いをしたのかわからないが、勘違いをさせる態度をとっていたならそれは誤解だ」
黒柳は持たずにいたかった確信を突きつけられ痛む頭を軽く抑え揉み込みながら、再びじ、っと三毛縞を見た。不愉快な勘違いをされておきながら――なのに、一層この男を暴いてみたいと思うのは何故だ。
「こちらこそ、もうお察しの通りだろうが」
私には、読書家の友人が少ない。黒柳の言葉に三毛縞は、それこそ想像なぞできるもんかと叫びそうになった。が、考えてみればこうも広々とした部屋に、客人用のものは少ない。いや、生活感さえないのだから考え過ぎかもしれないが。言葉に詰まった三毛縞に、黒柳はだから、と続ける。
「君の都合が付くまで、うちで好きに、読んでいけばいい」