驟雨【オル相】 そういえば、くらいの気持ちだった。
思い出はあるが恨みはない。神に贄を捧げてまで守りたかった、俺を排除した村が今どうなっているのか見てみようと思って頼まれごとの帰りにほんの少し寄り道をした。
村の入り口は開放的で旅人らしき姿も多く、俺は記憶の中の道を思い出しながら当てもなくふらふらと歩いた。何年も経っている。見知った建物はあったが随分と年季が入っていて、村長の家は建て直したのかえらい立派になっていた。
突っ立ってぼんやりと眺めていると、背後から声が掛かる。
「うちに何かご用……」
振り向いた先にいた婦人に見覚えはなかった。村長の奥さんに似ている気がしたがよく覚えていない。
「いえ。失礼します」
厄介ごとになる前に自分からそう告げて五十は超えているだろう婦人の横を通り過ぎた時、彼女が訝しげに振り返った。
「……消太?」
足が止まる。まさか覚えているものかとタカを括ってのこのこ村の最深部まで来てみたが、名前を出されたのが想定外だった。
「俺はそんな名前ではありませんよ。人違いでは?」
それじゃと頭を下げて女の顔を見ずに俺は逃げるように歩き出す。
「あんた消太でしょ?!なんで生きてるの?!あの日私の代わりに突き落とされたのに、なんで!!」
引き攣った顔と金切り声は恐怖に彩られていた。
瞬時に正解に辿り着いた第六感を切って捨てても寒気がする。
あの女は村長の娘だ。俺と贄の籤引きに最後まで残って、わかりきった結果に守られた娘。
あの見てくれはなんだ。
俺より倍近くも生きていそうで、暮らしが辛いようには見えないのに。背後から「消太?」「消太だって?」と名前を含んだざわめきが追って来る。
俺は無意識に村の出口に向かって走り出していた。
好奇心など抱くのではなかった。
八木様の神力が復活したことで守られたかつての故郷を見ておこうなんて思ったのが失敗だった。
「生きてるわけがないだろう」
「あの日湖に突き落とされて」
「でも死体は上がらなかった」
「だから龍神様に届いたんだと」
「雨も降った」
「……殺されるとわかって逃げ出したのか?」
んな訳ねえだろ。
「おい、あんたちょっと」
俺の前に立ち塞がった男の顔に見覚えがある。俺のことをいじめていた餓鬼大将に良く似ていた。見てくれの年齢はかなり離れているようだが。
「何か」
「いや。昔この村にいた子供に良く似てんなあと」
「人違いだろ」
避けて通ろうとするのを邪魔して来る。
「なんの嫌がらせだ?」
「生きてるわけがねえ。生きてたら、もう五十手前のおっさんのはずだ。なのにあんたは三十路がいいとこだ」
「だからさっきからなんの話を」
「あのクソガキがそのまま大人になった顔して赤の他人ですって流石に通じねえだろ」
これ以上はまずいことになりそうで、俺は自分の判断を誤ったことを後で謝らなけばならないと思いながら喉に手を伸ばし、一ヶ所だけ感触の違う喉仏の下を指先で撫でた。
晴れていた空に雲がかかる。日が翳って急激に辺りは暗くなった。あまりにも突然の天気の変化に目の前の男は俺より空に気を取られ、その隙に俺は走り出す。
「おい待て!」
もう一度喉仏の下を撫でる。
ごろごろと雷神の怒りを思わせる轟音を纏った黒雲から、大きな雷が街のそばの木に落ちた。
衝撃を受けて男は素っ頓狂な悲鳴を上げて道に転ぶ。
それを振り返って確認しながら、まだ追う意思を見せた男に俺は三度目の逆鱗を撫でた。
雨が降る。
全てを覆い隠すような雨だ。
俺を呼ぶ声は雷と雨音に紛れて忽ちに消えた。
「消太」
はっきりと聞こえる声に顔を上げる。激しい雨を纏わせることのない八木様が、驚いた様子で宙を漂っていた。
「どうしたの。鱗に触るなんて」
「……ごめんなさい」
「怒っていないよ。誰かに悪さをされたのかい。帰ろう、もう大丈夫だよ」
こちらに伸ばしてくれる腕に取り込まれ頭を包まれた。雨に打たれ冷えた体は一瞬で不思議な力の内側に入り込み、もうそれ以上濡れることはない。
八木様が来てくれた安心感で急な眠気に襲われた。
多分力の使い過ぎだとわかったけれど、意思で抗えるものでもなく俺はそのまま意識を手放した。
目を開けて体を起こす。
そこはいつもの俺の部屋で、隣では八木様が眼鏡をかけて書物を読んでいた。
「起きたかい。おはよう」
「……おはよう、ございます」
残念ながら気絶する前の失態は全部覚えている。
顔を覆って背を丸める俺に八木様は眼鏡を外して書物を閉じて、畳の上を布団へにじり寄った。
「さて。少し話を聞かせて貰おうかな」
「酉野様へのお遣いは無事終えました」
「うん。先生からお礼の手紙が来ていたよ」
「……鱗の力を使ってしまって、すみません」
俺の喉には八木様の眷属であることを示す鱗が一枚生えている。何年も神力を注がれ続けやっとこの体が八木様のものに作り変わったしるしだ。
「身の危険が迫ったのなら使うことに問題はないよ」
俺は人の身でありながら八木様の寵愛を受け、人ではないものになった。勿論神になることなどできない、半端な位置付けて八木様の伴侶の地位を頂いている。
「で?消太はどうしてあんなところにいたの。先生のところから真っ直ぐうちに帰るには、些か寄り道じゃあ、ないかい?」
全部わかっていて俺に言わせようとする八木様の口調に怒りはない。純粋に俺の不可解な行動の理由を知りたがっているのだと思い、唇を噛んだ。
「……深い意味は、なくて」
「うん」
「たまたま、帰り道の案内板に村の名前を見かけたんです。まだ在るのか、と思ったら今はどうなっているのか少しだけ興味が湧いて」
「君を贄に差し出したとはいえ、故郷だものね」
「……村は俺が居た時より栄えていました。八木様の神力が戻ったからでしょう。立派になった村長の家の前で、俺と同い年だった村長の娘に会いました」
ぎゅ、と布団の上で握った拳に八木様が手を重ねて来る。ひんやりとした手のひら。
俺より体温の低い八木様は、ゆっくりと相槌を打つ。
「俺より、二十は上に見えました。他にも何人か当時の知り合いと思しき人を見ましたが、皆俺の感覚より随分と歳を取っていて」
「……外とここは時の流れが違うからね」
やはりそうか、と納得する。
子供の時に八木様に拾われて以来、ほとんど外に出ることもなく交わる相手は神族ばかりで気にしたこともなかったけれど、神域ならそんなこともあるだろう。
上手く言葉にできない感情を察してくれたのか、八木様は俺の拳をそっと撫でてから手を引いた。
「人の世界に戻りたくなった?」
俺は黙って首を横に振る。
「あそこは故郷かもしれませんが、俺の帰る場所ではありません」
贄として差し出した子供がどこかで生きていて村に戻って来るなんて村人には恐怖でしかない。
悪いことをした、と思う。
怖がらせるために行ったわけではないから。
「それに俺はもう、純粋な人でもありませんし」
八木様は少し困ったように微笑んでいる。
「俺の家はここです。八木様が俺に愛想を尽かして出ていけと仰るのならその通りに致しますが、見限られるまではおそばに置いて頂きたいです」
未練などないと思いながら、心のどこかに村の存在があったからこそ俺は足を伸ばしたはずだ。でももう、俺は本当にあの村にとっては異端であり畏怖の対象になったろう。贄に差し出した子供が成長したような風体の男が、雲と雷と雨を操ったから。龍神に差し出した子供が龍神の力を纏って村を訪れたとまことしやかに囁かれていつか尾鰭がついて、消太という名の龍神の眷属が村に仕返しにやって来たなんて伝説にいつか変わる日が来る。
「私が君に愛想を尽かす?あるわけないだろう、馬鹿なことをいう子だ」
八木様は呆れたように言うと、俺の上半身を抱き寄せて子をあやすように俺の頭を撫でた。
「伴侶という契約はね、そんなに軽いものじゃないよ。君は実感がないのだろうけど」
「……八木様のそばで生きていける、俺はそれだけで充分過ぎるほど幸せなんだって改めて気付いただけです」
「可愛らしいことを言うね。そんな口は褒美に塞いでしまおう」
言葉に反して無理強いはなく。
俺は自分の意思で顔を上げて目を閉じた。八木様の唇が俺に触れ、何度か皮膚を啄んだ後でやはり俺の体温より低めの舌が口の中に差し込まれる。
唾液は甘露のようで、夢中になって吸う俺の様子に八木様はそうか補給が必要なんだね、と独り言を溢した。
くちづけだけで蕩けた俺にその声はひどく遠くて、布団にうつ伏せに横たえられた体に八木様が圧し掛かって来た重みが幸福の具現化だった。