襟足とタートルネック【オル相】 鏡の前で年季の入ったブラシで自分の髪を梳りながら、髪を切りに行こうかな、と俊典さんが言った。
「髪ってどこで切ってるんですか」
少なくとも時短と低価格が売りの店ではないだろう。行儀良く長椅子に並んで順番を待つ姿が想像できない。
「おじいさんが一人でやってる床屋さん」
「美容院じゃないんですか?」
「うん。根津校長に教えて頂いたお店でね。古いけれどとても素敵なお店だよ」
予約取れるかな、と言いながらスマホで連絡先を検索し始めた姿を見て俺も自分のもっさりと伸びた髪を手で掴む。
「……切ろうかな」
「じゃあ一緒に行く?」
「あなたの店に?」
「君は行きつけあるの?」
「自分で切ってました」
「んん……時々不思議な毛先だったのはそのせいか……うん、自分で切るのはやめようか」
俊典さんは俺の予定を確認すると、おじいさんが一人でやっているらしい店に電話をかけて二人分のカットの予約を入れてしまった。
「よし。これで君とデートができる」
デートがしたいならそう言えばいいのに、と思った。俊典さんはいつでも卒なくエスコートをこなしてしまう。あまりにもいつも通りなので俺にはデートだった自覚がないことすらあって、後からデート楽しかったね!なんて言われて、そうですね、と動揺を隠しながら答えるのが心苦しい。
すみませんデートだと思いませんでしたと答えればしょんぼりするのが目に見える。これは合理的虚偽だと自分に言い聞かせていたから、事前にこうして告知されるのは助かった。
結い上げるのにも慣れた髪に手を突っ込む。
さて。どうしたものか。
俊典さんの馴染みの床屋は商店街から外れた住宅街の一角に在った。古いけれど素敵なお店という形容は間違ってはいないが、ぱっと見木造の二階建ての洋館風の一軒家で、床屋を示すあの三色のポールは見当たらない。隠れ家的完全予約制の店舗の中は天井が高く磨かれて艶めいた床にひとつきりの黒い皮の椅子の前には大きな鏡。
「お待ちしておりました、八木様」
丁寧に頭を下げる老紳士は俊典さんの手から上着を受け取りコートハンガーに掛ける。俊典さんは視線で俺にも脱ぐように示した。
「どうする?君からしてもらう?」
「あなたからで」
俺が指定したことで珍しそうな顔をしたけれど、俊典さんは素直に椅子に腰掛けていつも通りと口にする。俺は大きな窓辺のソファに座って恋人の髪が整えられるのを眺めた。鋏が入り床に落ちる髪の短さに、あの長さで毎回整えていたのならそりゃ伸びた感じすらさせないわけだ、と納得する。
「終わったよ」
交代ね、と朗らかに告げて俊典さんは俺と席をチェンジする。
「どうなさいますか?」
俺の髪に触れて何かを確かめながら老紳士が尋ねた。俺はちらりと俊典さんの方を見遣り、彼がご機嫌な様子で雑誌に視線を落としたのを確認してから小さな声で希望を告げる。よろしいのですか、と視線でだけ老紳士は一度目を丸くしたが、俺はそれにただ頷いた。
「ごめん、電話だ。ちょっと出て来るね」
そう言って俊典さんはドアから外に出て行った。丁度良いと鏡に向き直る。
手入れされた鋏は心地良い音で髪を切って行く。
「長くなっちゃった、ごめんね」
電話を終えた俊典さんが息急き切ってドアベルを鳴らしながら入って来た。
「おかえりなさい。終わりましたよ」
「…………」
「何か?」
席を立った俺が既にコートを着込んでいたのを無言で見つめる顔に、俺は敢えて首を傾げた。
「いや、えっ、だって、どうしたの」
「……もう夜警もほぼありませんし、ものぐさで伸ばしてただけなんで気分転換に。短ければあなたにドライヤー掛けてもらう手間も減りますし」
こんなに短くしたのは子供の時以来だ。高校生だってもう少し長かった。長さだけを指定してあとは適当に、と頼んだけれど、俊典さんは長い手で口元を隠しながら俺を見ては視線を逸らし、また見ては逸らしている。
「似合いませんか?」
「……ううん。すごくかっこいいよ」
上着に袖を通しながら、すごくかっこいいと小さな声でうわごとのように繰り返すので、多分気に入ってくれたのだろう。
ありがとうございました、と頭を下げる店主に会釈をして店の外に出る。
強い風が吹いて、街路樹から黄色い銀杏の葉が舞う。
「わ」
「デート、これで終わりですか?」
「君がかっこよくて計画が頭から飛んじゃったよ」
「ならかっこいい俺を堪能したら良いのでは?」
「それはいいね。そうしよう」
俊典さんは良くできましたとまるで小さな子供にやるみたいに俺の額にキスをして軽くチュッと音を立てた。
ムッとした俺は、休みの日まできっちり締めている俊典さんのネクタイを引っ張って、往来でがっつり唇で唇に触れてやる。
「ガキじゃねえんですよ」
「……髪型が変わったら大胆だね、君」
そうかもしれませんね、と俺は言って、すり寄せた肩の先で俊典さんの冷たい指に自分の指を絡めた。
それをどう捉えたか俺は知らない。
秋の終わり舞い散る銀杏の葉の間を縫って強く掴まれた手に、俺は俊典さんから見えない位置で笑いスースーするうなじを撫で上げた。