春の海【オル相龍神パロ】「着いたよ」
景色を楽しむ余裕なんかないまま、どのくらいの距離を駆けたのか八木様は俺を大きな池の辺りに降ろした。砂浜が広がり、風は強くないのに寄せては返す波が小さくとも収まる気配はない。
鼻につく塩っ辛いような臭いに眉を寄せると、消太は海を見たことがなかったい、と八木様が驚いた。
「ああ、これが海なんですか。池にしちゃ対岸が見えないと思ったところです。書物では読んだことがありますが、実物を見るのは初めてですね」
その大きさに圧倒され、水際に近寄ってしゃがみ込む。押し寄せた波を右手で掬ってみる。
「八木様!」
溌剌な少年の声が聞こえたのはその時だ。
俺が振り返った先で、どこからか爆走して来た緑色の髪の少年が八木様に突進する勢いで詰め寄り、ぎりぎり触れない位置で礼儀正しく腰を直角に折った。
「本日も御指導の程宜しくお願いします!!」
馬鹿でかい声が空気を揺らし、遠くの松林の根元にいた鴉が驚いて集団で飛び立って行く。
「元気だね。前回の宿題は終わったのかな?」
「はい!」
(成程、あれが八木様の後継者)
まだ幼い顔をした少年、とまで考えて神はどうやって産まれるのだろうかとふと思う。
(木の股から?それとも人間みたいに母親の腹から?八木様が交尾できる体を持っているんだから、やっぱ神には神の系譜があるんだろうな)
あの屋敷で暮らした年月は俺にとってもう短いものじゃない。でも思い返してみたら、確かに俺はただ大人になるのを待ち侘びていただけで八木様以外の世界のことを何ひとつ知ろうとはしなかった。
拾ってもらった俺の世界は八木様でできていたも同然だったから、それ以外を見るなんて意識したこともなくて。
「……あの方は?」
少年は俺に気付いて八木様に問い掛けた。
「そうだ。紹介しよう。彼は私の伴侶の消太だよ」
こちらを見る大きな丸い目。そばかすの浮いた頬はやはりまだ幼さを拭い去るに足りず、ぱちぱちと八木様の言葉を理解しようと繰り返される瞬きの回数の多さが彼の理解の範疇を超えているらしいことまで読み取れた。
視線が合ったので頭だけを下げる。
「人間、ですよね」
「うん」
「……」
「私が人間を伴侶にしたらおかしいかい?」
「いえ。そうではなく。意外というか……その、八木様は孤高の神であると思っていたので」
「私の力が弱ったのは私の不徳の致すところであって、彼を伴侶にしたからじゃない。口さがなく言う奴らもいるけれど、君には知っていて貰いたくてね」
「ありがとうございます。ご挨拶をしてもいいでしょうか」
「勿論さ」
こちらに走ってくる少年の姿は見えても、俺の頭は風に乗って飛んで来た声を受け止めるのに精一杯だった。先程の少年と同じ動作を繰り返し、俺は自問自答する。
(八木様の力が弱ったのは、俺を伴侶にしたせいだと言う奴らがいる?)
屋敷に来る八木様の知り合い達は口調の柔らかさや荒さはあれど皆、俺に対して友好的だった。
(八木様が俺を屋敷に留め置いて外に出さなかったのは、ただ単に過保護だったからじゃなくて)
「初めまして!緑谷出久と言います。八木様の後継者として修行中の身です。宜しくお願いします!」
曇りなき目が俺を真っ直ぐに見上げる。きらきらと、期待と未来に満ち溢れた生命体の熱気がある。
「……宜しく」
気圧されるままにそれだけを返した。
少年はまた八木様の方へ駆けて行き、今日の修行について具体的な指示を受けている。
(八木様に悪意や敵意を持つ奴らがいるとは聞いてはいたけれど。俺を悪し様に罵る奴らからも守ろうとしてくれていた、ってことだよな)
緑谷と名乗った少年は八木様に負荷を掛けられた状態で、砂浜を遮るように鎮座する海に突き出た巨大な岩塊を動かそうとしていた。
海辺でぱしゃぱしゃと遊んでいる俺に八木様が近寄って来る。
「楽しい?」
「なんかべたべたします」
「海の水はしょっぱいからね。帰ったらゆっくり湯浴みでもしようか」
「弟子の前であまりいちゃつかん方が良いのでは?」
「会話してるだけじゃないか」
「顔がにやついてますよ」
「それは仕方ないよ。私は君が大好きだからさ」
「……俺もあなたが好きですよ」
八木様はどうしちゃったの?という顔をする。
「視野が狭くてすみません。あなたの伴侶というのはあなたに守られているだけじゃいけませんよね」
俺が何に思い至ったのか察して八木様は目を細めた。
「強くて美しい私の消太。少年は君を人間だと言ったけれど、私の力を注がれ続けた君はもう純粋な人間じゃない。神でもなく人でもない、間を揺蕩う曖昧なものだ」
「刺されてもすぐには死にませんか?」
「うーん、それはどうかな。龍の加護だし、水の中で少し息は長く保つくらいだと思うけど」
「じゃああまり変わりませんね」
軽く笑う俺に八木様は困ったように眉を下げた。
「私は君を伴侶にと誓いを立てた。神の誓いは強力だからね。君以外に浮気しようものなら私は即座に消滅するし、なんなら私の力を分け与えられてる君も結構な確率で道連れになると思う」
「構いませんよ。俺は一度死んだ身です。あなたが俺との愛に殉じてくれるなら、とても魅力的ですし」
「美しい太陽を背にして似合う台詞ではないなあ」
呆れた様子で言いつつ、八木様は弟子への負荷を視線の端で微調整している。
「あなたが浮気しないように、俺はあなたの伴侶に相応しい存在になれるように努力をすることにします」
「……そうか」
俺の決意を茶化さずにただ受け止めて八木様は微笑んだ。
「取り敢えず晩飯に何匹か魚捕まえて来ますね。どのくらい息が保つか試してみたいですし。帰る時声かけてください」
「うんうん……って、え?」
ちょっと待って消太、という声を背に俺はざぶんと春の海に飛び込んだ。