「うん、そっか。……それは、……大変だったね」
玄関扉を閉めて鍵を回す。廊下の突き当たり、扉の向こうから微かに聞こえるその会話に、新堂はそっと耳を澄ました。確か今日は今この時間、自宅ににいるのは招いた恋人の風間だけであるはずだった。そのつもりで帰宅したし、それを証明するように玄関には風間と自分のスニーカーしか転がっていない。
思ったより部活が終わる時間が遅くなってしまったし、暇つぶしに何をしようと構わないが、玄関を開けた音にも気付かないなんてことあるだろうか。風間の声はいまだ続いている。
おおよそ実家に電話でもしているのだろうと思いながらリビングへ繋がるドアノブに手をかけたところで、ただ電話する中無遠慮に飛び込むのも気が引けて、何の気なしに磨りガラスを覗き込んで様子を伺った。
その瞬間、新堂の指先はピクリとも動かなくなった。
じわりと爪先にむかって血が降り体温が下がっていく感覚と、だというのにこめかみにぬるい汗が浮き上がる不快感に、眉を顰める。ゆっくりとドアノブから手を離し、しかし目線だけはそこに釘付けになったまま外せなかった。
普段、新堂家の人々が食事などに使う、大きなダイニングテーブルの椅子の一つに腰掛けた風間が熱心に話す目線の先。
その、なにもない虚空から。
風間の両手には携帯など握られておらず、その代わりに強く握りこまれた拳からこちらにも緊張感が伝わってくるほどだった。爪が食い込んで痛いだろうに、血管が浮くほど力を入れたまま指は折り畳まれている。
風間の対面、なにもないその空席は不自然に椅子が引かれており、冷めかけのコーヒーがフレッシュミルクを添えられて鎮座しているだけだった。
「コーヒーが好きなんだと思ったけど、違ったかい?」
新堂はなんとなく泣きたい気持ちになって、でも音を立てるのさえ憚られて、その場に立ち尽くすことしかできないまま。帰り道、交差点に添えられていた缶コーヒーの存在をぼんやりと思い出していた。