子犬の殺害予告 1話1話 『何でも屋』モストロ
リドルは入浴しながら本を読むことを日課にしていた。かつて、母親の管理下では決して許されなかったことのひとつ。NRCを卒業後、魔法医術士としての成果を残し独り立ちを認められてから、初めて破ったルールだった。湯気に囲まれて本を初めて読んだ日は、それが医学書――魔法変身薬を間下垂体治療へ適用することにより起こりうる様々な症例について――だったにも関わらず、感動で涙したものである。
今読み進めている本のタイトルは『子犬の殺害予告』。先日行った古本屋でなんとなく目について購入した、推理小説である。お節介で気弱な主人公が、様々な妖精たちにより巻き起される連続殺人事件を解決に導いていく話だ。
「ただいまぁ」
主人公が犬につまづいてすっ転んだところで、もうもうと立ち込める湯気の向こうから声がした。リドルは文章から目を逸らして、そちらに目を向ける。先客がいる浴室に断りもなく乗り込んでくる人間など、リドルの周りには一人しかいない。
持て余して絡まりそうなほどの長い足が白い水蒸気の壁を蹴り倒すように現れる。その皮膚が、点々と赤く汚れている。湯船に浮かぶ薔薇の花びらが放つ香りの中にほのかに鉄臭さが混じって、リドルは顔を顰めた。
「んも~超疲れたぁ」
「おかえり」
リドルの予想に違わず、湯気を掻き分けて入室してきたのはフロイドだった。足だけでなく、その身のいたるところに赤い汚れは広がっていた。風船に赤い水を詰めて、目前に構えて針でつついて割ったら、きっとこのような模様を身に受けるだろうと思う。実際のところ似たようなことを実践してきたのだろうし。
キュ、と軽い音が響き、途端に冷気が浴室内を満たした。フロイドは冷水のシャワーしか浴びない。冷たい飛沫が当たるのが嫌で、リドルは一つ指を鳴らした。ぱちん、本が弾けて消えて、湯船の水嵩が増す。鼻の下まで体を沈める。花びらが顔に触れてくすぐったい。
「おじゃましまぁす」
「熱いと思うよ」
「知ってる」
体中に擦り付けた泡をすべて流し終わったフロイドは、リドルに向かい合うようにして浴槽に体を沈めて、途端にあっち~と悲鳴をあげた。人魚は熱い湯が苦手だというのに、リドルが入浴していると大抵こうして押し入ってくるのだ。そのたびリドルは猫みたい、と思う。飼ったことはないけれど、きっと似ている。
この猫足バスタブは成人男性が二人入れるよう設計されていないので、ただでさえ大きな体躯のフロイドが入ってしまえば、もう隙間は残らない。先ほど増やしたお湯の大半はフロイドの体積の分きっちり溢れ出して、浴室の床一面は薔薇の海になった。
「今日は……女?」
「なんで?」
「素肌に血がついていた」
「よく見てんね」
えらいから、ご褒美。フロイドはリドルの足を恭しく救い上げて、つま先にキスを落とした。
フロイドの今の仕事は、一言でいうと何でも屋だ。
ご依頼ならばなんでもします!お子様の宿題の代行、買い物代行、ペットシッター、ベビーシッター、人探し。木に登って降りられなくなった猫や、マンホールに落ちた野良犬も助けます。お部屋のクリーニングもなんのその。それから、……邪魔な存在を消し去ります。そういった仕事である。
アズールの飲食店経営の裏でひそかに動いている、お得意様だけのサービスだ。ジェイドと二人で分担して仕事を行っていて、その中でも『邪魔な存在を消し去ります』の文言は、モストロラウンジの中で最も高額なサービスであり、フロイドのためだけにあった。 殺す相手の経済価値をアズールが精査し、金額を提示する。顧客がその金さえ払えば、そこからはフロイドの仕事だ。殺す手順や場所、日付もすべてフロイドの独断が許されている。
「嫉妬してる?」
「別に」
「え~してもいいのにぃ」
「君の仕事のためなら僕は何も言うつもりはない」
女を殺すときの手段として、フロイドが最もよく使うのが色仕掛けだった。誰かから殺したいほど憎まれるような女は大抵、愚かで阿呆だ。ねぇ、アンタ、今暇?フロイドがそう言いながら頬を撫でるだけで、腕を絡ませてくる。
人魚が産まれながらにして得ている魔性のおかげか、目的達成にかかる費用を極限まで減らし、なおかつ自分の管轄するゴミ溜めですべてを遂行するために選んだ最低なシチュエーション――潰れたポテトフライと注射器の破片がそこかしこに散らばるダイナーでの食事とか、色が変わるほど湿気を吸ったマットレスしかインテリアがないモーテルとか――そのすべてがセックスのためのスパイスになった。女たちは埃に塗れながら、呆気ないほど簡単に無防備な姿になる。
行為が始まってしまえば、あとは女の唇に塗られた派手な油脂とポテトの塩を舐めとりながら、心臓にトン、とナイフを刺すだけ。女は白目を剥いて痙攣し、胸の裂け目から血を吹いて沈黙する。その瞬間の締まりを利用させていただいて、ついでに射精して終わりだ。フロイドが素肌に血を浴びるのは、この殺し方をしたときだけ。魔力を使わずに済む、もっともエコな殺害方法だった。
「まだ血がついているよ」
「どこ?」
「ここ」
こめかみを拭ってやる。フロイドがその手を掴み、口に含む。
「おやめ、汚い」
「今更でしょ」
そのまま腕を引かれ、キスをされた。フロイドは、リドルが嫌がることをするのが好きだ。だって、全てを受け入れられることより、嫌われながら共に生きる方がよっぽどスリリングで、愛じゃない?と、そう思うので。
嫌がらせのつもりでしたキスに、案の定リドルは押し込まれた舌に噛みつき抵抗した。両手足を使ってフロイドを突き放し浴槽に押し付け、新しく混じったフロイドの血と共に見知らぬ女の血をタイルの上に吐き出す。フロイドはその様子を楽しそうに見ながらクククと笑った。
「フロイド、君……」
「なあに」
「今回も、ちゃんと、……証拠を」
「だ~いじょうぶ。ジェイドの仕事は引いちゃうほど丁寧だよ。知ってんでしょ」
「……そう」
リドルは口内に残った血の味をお湯でゆすぎながら震えていた。
フロイドが全身のパーツを揃えて帰宅し、見知らぬ女がまたひとり死んだことに、心の底から安堵していた。もし、フロイドが帰ってこなかったら……きっとかわりに女を殺すのは自分だったかもしれない。
憎悪と内臓にまみれて笑う自分の姿が見える。そのような日は一生来なくていい。
*
死体の処理はジェイドの仕事である。学生時代、あらゆる山を歩いて作ったコミュニティ――自然を生きる物たち――の力を借りていた。味方にさえつければ彼らはとても心強い存在だった。なにより、己が何をしているのか理解しようとしないのがいい。“それ”が元々何だったのか知りもせず、与えられたものを喰らい、さらに信用は深くなる。
「今日も沢山お持ちしましたよ」
薄手のゴム手袋を着けた手でバケツを漁る。すっかり馴染んだ感触をひとつ掴み、引きずりだした。
「いったい何が出るでしょう」
そわそわと落ち着かない様子でこちらを伺うアライグマたちに、少し勿体つけてからパッと手の上の塊を見せる。肝臓だった。人間のかけらを目にして、ひときわ小さな幼体のアライグマが興奮したようにキャンと鳴く。地面にそっと差し出せば、肝臓ひとつ無くなるのに十秒もかからなかった。
「また近々お持ちしますね」
何度かそうして人体くじ引きを繰り返し、バケツの中身が半分ほど減った所でそう告げた。アライグマの親子は立ち上がったジェイドの足元を数回駆け回り、その中でも最も大きな個体が巣穴から何かを加えて持ってくる。
「おや、もう下さるんですか?」
手のひらを皿のようにしてそれを受け取る。エナメル質が黄色く変色した小さな牙だった。
山のひとつひとつには、そのヌシがいる。ヌシは山に足を踏み入れた生き物に山での自由を許してもいいものか、時間をかけて見定める。許されない存在は追い出され、時には殺し、自分たちの糧とする……そうして山の秩序を守っていくのだ。
このアライグマは、小さいながらこの山のヌシだった。そのヌシから、贈り物を賜った。今日をもって、ジェイドはこの山での自由を許されたのだ。ここまで一か月半……寛容なヌシだ。同時進行している大ヘビは、供物を与え続けてもう十か月が経とうとしている。
「誠にありがとうございます」
跪いて胸に手を当て頭を下げる。アライグマたちは、月の光の下で神々しく目を輝かせてその言葉を聞き入れ――尾を揺らして闇に溶けていった。
アライグマが統治する山を出て数時間後、ジェイドは洗い終わった空のバケツを片手に廃ビルの階段を降りていた。ウィングチップの革靴がコンクリートを打つたび作り出される反響が、暗闇の中を揺蕩う塵を揺らしている。
果たして、大ヘビから許しを得ることはまだ出来なかった。好物の心臓と目玉を優先して捧げる程度じゃ心を解きほぐすには至らないようだった。やはりヘビという種族はどこの土地でもひねくれ者が多い。目玉も心臓も、あらゆる生き物たちに人気の部位であるにも関わらず、大ヘビ一匹のために他の生き物をごまかし続けていた。人体くじ方式もその手段の一つだった。この調子だとあと一年はかかりそうだ。長い道のりを考え、ついため息を漏らす。
物思いに耽りながらも、ジェイドは自分が降りた段数を数え続けていた。二百段目を踏みしめる。階段の始まりは、いつの間にか闇に埋もれて見えなくなっている。
手袋を付け替えた。手のひらに魔法陣が施されたそれでコンクリートの壁に触れる。途端、それまで沈黙していた壁が手のひらを中心にしてぐるりとねじれ、吸われ……扉が現れた。廃ビルには似つかわしくない、重厚な扉である。ドアノブはついていない。
扉はひとりでに開き、ジェイドを迎え入れ、溶けるようにして消えた。振り返っても、そこにあるのはただの壁である。アズールが手袋でもって権限を割り与えたものだけが使える、モストロラウンジ本社の裏口だった。
「ただいま戻りました」
「ジェイド。ご苦労様です」
「ふふ、アズールもずいぶんとお疲れですね」
「……いっそ気絶したい」
「コーヒーを淹れ直しましょうか」
「ああ、助かります」
執務室では、アズールが書類に埋もれながら眉間を揉んでいた。月末によく見られる光景である。どうやらすでに一度気絶済みなようで、デスクの上には割れたマグカップが置かれていた。頭突きで弾き飛ばしたのだろう。絨毯にはコーヒーのシミが残ったままだ。
「死体はどうでした」
「ええ。今回もありましたよ。喉にうっすらと……。おそらくフロイドが殺すまでもなくあと数日で死んでいたと思われます」
ジェイドは流れるような作業で割れたマグカップを修理し、床のシミを消し、コーヒーを淹れ直した。アズールは直されたばかりのマグカップに口をつけ、苦々しい顔をする。コーヒーが苦いわけではない。最近来る殺害依頼が――非常にきな臭いのである。
モストロラウンジ本社がある輝石の国は、ツイステッドワンダーランドでも屈指の国土があり、非常に細かく街が区切られている。その上街は日々増えたり、減ったり、合併したり、分離したり……国そのものが生きているかの如く絶え間なく変化し続けている。ひいてはそこに生きる人々も、あらゆる人種であり、種別もまばらだ。モストロに裏依頼をしてくる客も等しく様々である。
だというのに、殺しのターゲットにひとつの共通点があった。体のどこか、外側であったり内側であったりもしたが、必ず『呪い』の痕跡があるのだ。ある程度優秀な魔法士でも、目的をもって探そうと思わなければ見つけられないような小さな痕跡。だが、見るだけで吐き気を催すような、歪でグロテスクで陰湿な呪い。
「これで三人目か……」
「ケイトさんから情報はいただけたんですか?」
「ああ。だがどう調べても繋がりは見つけられないようでした」
「……つまり?」
アズールは頭をかかえた。肺に溜まった不愉快な空気を絞りだす。机上に広げられた3人のターゲットの情報書類がぶわりと浮いた。依頼人同士の繋がりもなく、ターゲット同士も繋がりがない。となると残る繋がりは一つしかなく、それは想定しうる中で最も最悪の結論に辿り着くからだ。
「呪われた人間が殺害の対象になっているのではなく、……殺害の対象を呪っている」
この裏家業に気付いている何者かがいる。依頼された事実のみならず、フロイドが決めた実行日すら把握しているその第三者が、わざと痕跡の残る遅効性の呪いをターゲットに付与しているのだ。こちらに自分の存在を気付かせるために。
浅く息を吸う音と共に、アズールのマグカップが弾け飛んだ。薄い陶器の破片を握りしめる拳から血が滴り、アカシア製のデスクにまだらな模様を作り上げている。
「おやおや」
ジェイドが拳を柔らかく割り開く。刺さった破片を抜き、治療を施す。その間、アズールは微動だにしなかった。中身のない人形になってしまったかのように、真顔で中空を見つめている。ジェイドにはわかる。アズールは、おそらくマグカップを握りつぶしたことも、その破片が皮膚を裂いた事にも気付いていない。気付かないほど――ムカついている。
「大変ご愁傷様です」
アズールに向けた言葉ではない。影から指差しせせら笑い、こちらの手が届かない位置から挑発する……よりにもよってアズールが最も嫌う手口を選んでしまった、何者かに向けた言葉だった。
変身薬の効力すら揺るぐほどの怒りにその瞳孔が細く、横に潰れていくのを見ながら、ジェイドは兄弟のことを思い出していた。今頃は愛しい番いのもとで汚れを落としているだろう。
「教えてあげなくてはなりませんね」
「……ええ。狙われてるのはあいつでしょう。間違いなく」
「ふふふ、楽しくなりそうですねえ、フロイド」