わたしの法典/寛解 愛には愛を返さなくてはならないし、愛されたのならそれ相応にならなくてはならない。愛とは尊いものであり、すべからく尊重すべきものなのだから。
「だからと言って、他人からの愛も希望も願いも、何もかも全て背負おうとする必要は無いはずだ。はっきり言うが、おまえは馬鹿だ」
じとりと彼の目がこちらを見ている。極力露出を避けた彼の格好はどこか自分に似ているような気がした。
彷徨海、カルデアの医務室。白の天井が眩しい中で黒点のように黒く白い医師、アスクレピオスがアルジュナを見下ろしている。
「ええ。ですが、これは変えられないのです。私が『アルジュナ』であるために」
ゆるゆると自分に見えるように腕を上げる。見慣れた自分の手が見え、仮初であっても生きているのだと確信する。
負傷、とは違う。かの異聞帯に向かった時──既にデータとなってしまった贋作の世界だが──何らかの介入があり、自分の体が思うように動かなかった。異変を察知したマスターがすぐにカルデアに帰還することを選択したおかげで、今もこうして存在している。自分の体が自分のものでなくなったようなあの感覚はもう二度と味わいたくはない。
アルジュナはゆっくりと体を起こしながら「マスターは今どこへ」と聞けば、ぶっきらぼうな声で「インド異聞帯へ向かった」と返ってきた。
「心配し過ぎるほどだったが、僕が看ると言えばマスターも諦めた。アレは適材適所が分かっている。自分がおまえに対して何も出来ないことも、何をしてしまったのかも」
溜息をつきながら、アスクレピオスは両膝に肘をついた。ベッド横の椅子は何も言わず、彼の重さを受け止めている。口元を隠していたマスクをおもむろに取り、アスクレピオスはまた冷めた目でこちらを見ていた。
「愛だなんだと神々が必要の無い手を出してくるのはどこも変わらない。重すぎる愛は人を殺すというのに」
「ですが、貴方は愛で人を救ったのでは」
「僕はできることをやったまでだ。それに、僕は『神として』やったわけではない」
彼も彼で、父神アポロンに愛されていたがために神になったのでは、というのは口に出さないでおいた。誰にでも言われたくはないことはあるし、それを言うのは私ではないはず。きっとイアソンのような、上手く話が出来るような人が適役でしょう、とアルジュナは視線をアスクレピオスの後ろにずらした。
書類や本が乱雑に積まれた机には一輪の花が生けられていた。小さな花瓶と相まって、赤い薔薇は愛らしい色をしていた。誰かに与えられたものを素直に飾れるのは彼らしくないというか、神らしいというべきか。
「母の愛ではなく、父の愛が必要な場合もある。逆も然りだが。そして、愛はそれだけではない」
「私は全ての愛を『愛』と受け取りましたから」
そこまで言うと、アスクレピオスは「馬鹿馬鹿しい」と鼻で笑い立ち上がった。強く握りしめられていた拳は開かれ、人差し指は鋭くアルジュナを指差している。
「いいか。おまえがどういう経緯で英雄となったのか、おまえが僕のことを知っている程度には知っているつもりだ。ああ、おまえと僕は似ている! 父親がいらない手助けをし、自分の意志をねじ曲げられた!」
アルジュナは無言を返した。深く踏み込まないでくれ、と願ったが、それが叶うことはなかった。
「神の愛を否定することは死に値する。だが、その愛は歪なものだと自覚しろ、インドの英雄アルジュナ」
他でもない、神に言われてしまっては何も言うことができない。じっと睨みつけられた後、彼はカーテンを閉めてアルジュナの視界から出ていった。ゆらりゆらりとそれが揺れているのをアルジュナはただ見ていた。
「……私はそれが正しいのだと、正しくあれと」
呟きは鈍い白のカーテンが吸い込んだきり、何も返さなかった。
✳✳✳
医務室の外が騒がしい。マスターの帰還だろうか、と身体を起こした。
先程の口論もあり、これ以上アスクレピオスの機嫌を損ねるのは得策ではないと立ち去ろうとしたが「おまえが大丈夫でも僕が大丈夫じゃない」とまたカーテンの奥に押し込められてしまった。どうすることもできなくなったアルジュナは不貞寝というやつをしていたのだった。
足音がして、カーテンの向こう側まで彼が来たのが分かる。その後、椅子に座る音が聞こえた。
「じきに静かになるから安心しろ」
「マスターですか」
「ただの亡霊だ」
白のカーテンがゆらりと蠢く。冷えた空気がまとわりついてきたように感じた。ごうごうと控えめなはずの空調機の音がうるさい。
「神々に望まれた英雄、というのは僕の国にもいた。いや、望まれたというより利用されたと言うべきか。……僕はおまえに怒りたかったわけじゃない。おまえをそうした環境と、周りのひとびとに怒りたかった。さっきはすまなかった」
「いえ、貴方の言いたいことも分かりますから」
アスクレピオスが誰のことを言っているのか、なんとなく分かる気がした。アルジュナはそれと同時に、アスクレピオスがいかに『人』を愛したかを知った。
アスクレピオスの在り方ははっきり言えば歪だった。神として人々に信仰されそのようにありながら、神を憎む。ただアスクレピオスは後天的な神であるから、同族嫌悪とも言える在り方が許されるのだろう。ならばとアルジュナはあの地に君臨した神を夢想する。「彼」はあの在り方を否定された。「彼」とアスクレピオスの、何が違ったのだろう。「彼」も結局は「アルジュナ」だから不毛な疑問を抱いてしまうのかもしれない。
私は、ただ「彼」を肯定したかったのだ。アルジュナははたと気がついた。アスクレピオスがこちらを見ている気がする。カーテンに遮られ彼の影しか見えない今、他者の感情を察するためにいかに視覚情報に依存していたかを自覚した。言葉にしなくては、本心は伝わらない。アスクレピオスの「周りに怒りたかった」という言葉に少しだけ気持ちが軽くなった。
さて、とアスクレピオスが立ち上がる音がした。軽い足音と、こぽこぽと何かを注ぐ音。少しすると、またこちらにやってくる音がした。
「おまえには悪いが、おまえにはこれが必要だと判断した。誰にも邪魔をされず、僕はおまえと話がしたい」
記憶にあるアスクレピオスは『医者の言うことは第一、聞かない患者はどんな手段を使ってでも』とどこか血の気の多い医者なはず。アルジュナの思考は数秒停止した。
「……どうしてです」
「外がうるさいからな。それに、当分ここには誰も来ない」
不思議な回答が返ってきて、アルジュナは首を傾げながらアスクレピオスの提案を飲んだ。彼は人の内部をずかずか踏み込むタイプではないだろう。……先程のことがあるから少し警戒はするが、隠し通してしまえば問題は無い。
ああ、そういえば。私はあの目が嫌いだっただけで、人間を嫌った覚えはなかった。アルジュナは手のひらをぐっと握りしめ、また開く。
「話、というのは何を」
「特別なことは何も無い。ただの雑談だ」
カーテンの隙間からマグカップを持った手が伸びてきた。意図せず震えてしまった手でそれを受け取る。一瞬触れたアスクレピオスの手は色も体温も分からなかった。
「さて、先程の話だが」
アスクレピオスが足を組みかえたのがわかった。
「神の愛を否定すればどうなるか、オリオンを見ていれば分かるだろう? あれは最早与太話のようなものだが」
声色だけでウンザリした表情が見える。そういえば彼は月女神とは近縁だった、とアルジュナは嫋やかなウェーブを描く銀髪を思い出した。その周りにいる、小さく可愛らしい姿をした狩人も。
私は彼のようにはなれない。自由奔放で、軟派で、それでもあの女神を愛しているのだと言える彼には。真っ当な愛とは一体何なのだろうか、とアルジュナはマグカップの中の液体を啜った。甘ったるいホットミルクだった。
「うちにはそういう英雄ばかりだ。神の力によって、人の力を凌駕する。かくいう僕もそうだった。蘇生薬を作る際に神の力を利用した。あんなもの、愛とは名ばかりのものだ。神からもたらされるものを全て『愛』と呼ぶには、あまりにも体温が無さすぎる」
アルジュナはコップの中を覗き込む。色を失ったそれはただ揺らぐだけで、何も返してくれない。
「人間は子どもらしく生きるべきだ。信じるものに甘えて過ごすことを知らない子どもは、いずれ大人になっても腹の中に子どもが居座る。聞き分けのいい子どもを保護者は有難がるが、そのことが全てにおいて良い方向へ作用するわけではない」
アスクレピオスの、体温のないように聞こえる言葉が響く。
「辛ければ辛いと言え。どこが痛いのか、どういう痛みなのか、患者の主観がなくてはどんな医者でも治療のしようがない」
がた、とアスクレピオスの立ち上がる音がした。思わず肩を揺らしたアルジュナは、細く細く呼吸する。
「何が辛い? 何が怖い? 僕はメンタルは専門外なんだがな、聞くだけ聞いてやる」
アルジュナはぎこちなく首を横に振った。アスクレピオスに見えるはずもない。彼は医神であっても、全てを見渡す千里眼を持っていない。
話さなければ、彼に分かるわけがない。それはそうだ。誰しもが他者の心を見透かすような、酷く危険な目を持っているわけではない。アルジュナは震えながら呼吸を続ける。アスクレピオスが小さく溜息をついて、椅子に座ったのが影で分かった。
「壁やカーテン、衣服、皮膚。それらは隔てるものだ。僕とおまえとを、認知できる世界とそうでない世界とを」
アスクレピオスの手がカーテンに伸ばされる。アルジュナは薄皮のように脆いそれが開けられるのが怖かった。唇が震える。どうして怖いのか分からなかった。己にすら見えないものが開かれていくような気がした。
「このカーテンを僕が開けるのは容易い。だが、これはおまえに開けてもらわなくてはならない」
アスクレピオスがカーテンに触れた。薄布のそれは影だけを映し、本当の彼を隠している。……いや、隠されているのは私だったか、とアルジュナは深くゆっくりと呼吸する。
「なぜならここは僕の神殿だからだ。おまえだって、マスターと繋がったことはあるだろう」
ここはまだ浅いがな、とアスクレピオスが得意げに言った。すう、と彼が呼吸をする音が聞こえ、場の雰囲気が変わった。
「エレシュキガルが言っていたんだが、死後の世界や冥界と呼ばれるところは、太陽神の加護のない冷たく寂しい場所らしい。また──これも受け売りだが──罪深きものが行き罰を受ける、というのはただの創作であり、世を生きる人々に対して教訓としたもの。これらはひとつの『死後の世界』の答えでしかないがな。死ねば皆天国へと至る、とするものだってある。──人は、日々生と死を繰り返している。連続する意識を持たない『眠り』の中で、僕たちは地獄を見る」
ふっとアスクレピオスが笑った気がした。
「さあ、地獄はどこにある? おまえの地獄は何だ、アルジュナ」
頭の中に音が鳴り響く。戦場の音。誰かの叫び声が、悲鳴が、苦痛が、わあわあとアルジュナを責め立てる。勝ってしまった私たちを。アルジュナはあの白の中でずっとうずくまっている。
ならば、私はどうすれば良かったのです。
視界が回り、暗転する。今すぐここから逃げ出してしまいたかった。
「地獄が、私の頭の中にあるのなら、天国はどこにあるのです。皆が救われる、幸いなる国はどこに」
アルジュナは小さく叫ぶように言った。気管がきゅっと縮こまったような感覚。呼吸の仕方が分からない。かひゅ、と生真面目な肺はそれでも新しい空気を求める。少しタイミングを見誤ったのかむせてしまった。
音がして、アスクレピオスが立ち上がったのが分かった。カーテン越しの影は歪み、端に手がかけられていた。カーテンが少し開かれた気がしたが、やがて向こう側に消えた。また椅子に座る音。
「……幸いなる国、か。現実に、皆が救われる国が存在することはできない。それに向かって行動することはできても、個を獲得した人間がそれを得るためには個を捨てなくてはならない。要は、見方の問題だ。現実にないものを渇望し続けながら、天を仰ぐか地を睨むか」
それだけの違いだ、と白のカーテンが揺れる。花が上から降ってくるような気がした。
「さあ、カーテンを開けてくれ。おまえが、その進むべき道が地獄だろうと天国だろうと歩むと決めたのなら」
低く聞こえた言葉は、雷鳴のような響きだった。アルジュナは一度大きく呼吸して背筋を伸ばす。もう手は震えない。ゆっくりと、音を立ててカーテンを引いた。
誰もいない医務室、そこに柔らかな声だけが響く。
「よくやった、アルジュナ」
視界が歪み、はっとして瞼を開けた。実に不思議な感覚だった。さっきまでカーテンを開けた向こう側を見ていたはずなのに、眼前には最早見慣れた天井と伸ばされた自分の手。はて、とアルジュナの頭の中に疑問ばかりが浮かぶ。悪夢か白昼夢だったのだろうか。
勢いよくカーテンを開けられ、アルジュナがそちらを向けばアスクレピオスがほっとした顔でこちらを見ていた。
「あの、カーテンを、開けたつもり、だったんですが」
「ああ。開けたとも。おまえはちゃんと開けた。開けてくれた。……ここまで上手くいくとはな」
疲れきった顔をして、アスクレピオスはタブレット端末を操作する。どこか見慣れないのは、あの重たそうなコートを着ていないからか。インナー姿の彼の腕は、やはり少し筋肉質だ。
アスクレピオスが端末に向かって「マスター、上手くいったぞ」と言えば、「良かった。ありがとうございます先生」とマスターの声が聞こえる。
「僕にそういう逸話があるのは否定しないが、このやり方は非常にコストパフォーマンスが悪い。言われても二度とやらないからな、マスター」
二度と、と強調して言われたマスターは乾いた笑いを返すだけだった。マスターの困ったような笑顔が目に見える。マスターは「アルジュナさんによろしく伝えておいてください」と一言残し、通話は切れた。アスクレピオスは端末を机に置き、ベッド横の椅子に座った。アルジュナもゆっくりと身体を起こす。身体は少しだけ重かった。
「マスターは今、どこへ」
「まだ異聞帯だ」
どこかで繰り返したような会話。少し頭が痛い。眉をひそめていると、アスクレピオスが「素材が足りないらしい。そういった理由で世界を壊すのは、パトロンとはいえどうかと思うが……世界を壊す理由なんて、どこもそんなものだろう」と返してきた。あれからあまり時間は経っていないと考えていいのだろうか。
「おまえが眠っていたのは半日程度だ。こちらに帰ってきたことは覚えているな?」
問診のような言葉にアルジュナは頷いた。どこまでが夢で、どこまでが現実だったのか分からない。だが、そのどれもが実際に経験したことだという実感だけはある。
「夢、でしたか。あれは」
「正確には、夢を模したシミュレーションのようなものだ。仮想現実に意識だけを飛ばした、とでも思ってくれ」
僕にもよく分からないんだ、とアスクレピオスは手をひらひらさせた。「貴方がやったことではないので?」とアルジュナが聞くと「ダ・ヴィンチだ。発案はマスターだが」と少々呆れた声で返ってきた。
ところで、とアスクレピオスが立ち上がった。ぱたぱた足音を鳴らし、机の上にマグカップを二つ用意している。邪魔にならないように端に置かれていたポットにアスクレピオスの手がかけられた。
「おまえが倒れた原因は、端的に言えば状態異常だ。外部ないし内部からもたらされたもの。フィールドによるものなのか、エネミーによるものなのか、はたまたおまえの中の何かが警鐘を鳴らしたのか。あの場にいなかった僕には判断不可能だ。この点についてはダ・ヴィンチとマスターの見解を待つしかないな」
マグカップに珈琲が注がれる。ふんわりと湯気が漂い、独特の香りが広がる。「ミルクと砂糖は?」の問いに「どちらも入れてください。できれば、多めに」と言えば、アスクレピオスは目を細めながら角砂糖とミルクを入れた。差し出されたマグカップは白い。両手で抱え、温もりを享受する。
「倒れた原因と、眠り込んでしまった原因は違う。前者はこれから解明していくとして、後者は寛解くらいはできただろう。それは一生付き合わねばならない問題だ。だからといって考え続けるのも毒。ならば一度『眠り込んでしまうほど』深く考え、それからなら放っておいてもいいだろうと僕が判断した」
アスクレピオスが珈琲を啜ったのを見て、アルジュナもゆっくりとマグカップを傾けた。ブラックで飲めるのは少し大人だと思う。黒とも白ともつかない、甘さも苦さもある液体が身体の真ん中をすっと通り抜けていく。きっと人生もこんなものなのだろう。それでも、温かいものはそれだけで幸福のような気がする。
「心の中に蟠るそれは、おまえにとって重要なものなのだろう。『大切』なのではなく『重要』。それを思い出せと、おまえの外か中が宣う」
アルジュナの心の中に花弁が降ってきた。開け放たれた底のカーテンは爽やかに揺らいでいる。背中から抱きしめられているような気がした。右手で左肩に触れる。
「神の祝ぎ、おまえのそれが何であるのか。すんなりと幸せになれないのは、僕でも流石に気の毒に思うが」
もう少し安静にしておけ、とアスクレピオスは立ち上がって白のカーテンを閉めていった。
アルジュナは白のマグカップを両手できゅっと握りしめた。
「地獄が迫ってくるならば。前を向いて走り続けるしかないのでしょう、ねえ、私」
ここにいない誰かに語りかけるようにアルジュナは呟いた。返事をするようにマグカップの中が揺らいだ。