ヨーロッパのおよそ中央に位置するドイツ連邦共和国、その南部にて一大産業圏を形成しているバイエルン州では穏やかな朝を迎えようとしていた。ミュンヘン郊外に広がる住宅地、その隙間では小鳥の家族がちろちろと跳ね回りながら愛らしくも歌を奏でた。路地で、枝の上で、庭で、窓辺で。朝の訪れを喜ぶように囀る彼らに釣られて、住民たちも次第に目を覚ます。薄く開いた目にはきっと、暖かな白の光が差しこむことだろう。それにむずがるのか、または覚醒するかどうかは人によるのだろう。夜が明けたばかりの時間というのは、時刻表期の上ではだいぶ早い。二度寝に耽る者だっているはずだ。
しかしこの家の住人だけは違った。鳥たちの囀りには一切耳を貸さず、それどころか枕で耳を塞いでしまった。頭の後ろに枕を押さえつけながら、むにゃむにゃとまるで意味を成していない言葉を漏らし、そして静かな寝息を立てる。この住人、いつもであれば仏頂面であったり不機嫌そうな顔ばかりを浮かべているのだが、さすがに寝ているときばかりは表情も穏やかになるようだ。表情の険しさは鳴りを潜め、代わりにその寝顔は非常に安らかであった。
一体彼は、どんな夢を見ているのだろうか。その顔を見るに、悪夢を見ているのではないことくらいは誰でも推し測れるのであろうが。零れた言葉はいずれも楽しさを含んでいた。普段の彼を知る者が見たら、カメラを構えるにちがいない。あの仏頂面が、こんなにも笑うだと⁈ 夢というのは、脳内に溜まった過去の記憶や直近の記憶が結びついて、それらが睡眠時に処理され、ストーリーとなって映像化したものと言われている。彼が今見ているのは現実に起こったこと、もしくはそれに近い何かなのだろう。いずれにせよ、ここまで穏やかに夢を見ているというのなら、起こしに来た者だってもう少し寝かせてやろうという気にもなってしまうだろう。もっとも、彼は独り暮らしの身だが。
レース越しの淡い光が、彼の頬を撫でた。光に透けそうな薄い金髪は呼吸に上下する体に合わせて揺れている。寝癖が合ってもなお様になる容姿というのは、夜会においては壁の花となることなど到底許されるわけがない。今は穏やかに眠ってはいるが、生来の凛々しさを宿した端正なマスクは御婦人共の視線を一挙に集めていたにちがいない。時代は変われど、彼の容姿が一般的には好く映るということに変わりはない。寝巻の上からでも見て取れるなだらかな胸も浅く上下に動いている。想像するだけでも絵画に描かれている光景なのかと疑うのも無理はない。
だが、その麗しき光景は、今まさに壊された。
ビ――ッ! 窓を震わせるほどのブザー音。喧しく机を叩く振動。穏やかな朝、その言葉におよそ似つかわしくない爆音が部屋いっぱいを支配した。
「~~~~~っるせえ」
そして、その大音量のアラームに輪をかけた大音声で応えたのは、先ほどまで眠り姫のごとき安らかさを宿していたその顔を、忌々しそうに眉間に皺を寄せた厳めしい男――バイエルンの化身、その国だった。彼の怒声に外を跳ね回っていた小鳥たちもヂッと一声鳴いて、窓辺から飛び立っていくのであった。
「あ”~~~最っ悪の目覚めだったな、ったく」
ドイツ諸邦全員揃って、ではないが、久方ぶりになる首都ベルリンでの会議。午後開始だからと、前入りせずに住み慣れた我が家での健やかな目覚め、それを予定していたバイエルン。だが、その目覚めは彼も述べた通りであり、短い睡眠時間は彼の機嫌を大いに損ねている原因の一端でもある。
なぜ機嫌をそこまで悪くさせるほど彼は眠れなかったのか。夢の質は寝顔を見るにそう悪くはなかったはずだ。
言ってしまえば、単純に時間が短かった、それだけの話だ。朝は早いと分かっていながら、本日の会議について確認せねばならないことに日付が変わってから気づいてしまったという。時間を見て「さすがにこの時間は起きていないよな」とは思ていた。なんなら寝ていてくれたら安心できた。成長期に睡眠時間の確保は大事だ、うん。しかし、ドイツの性格のことを考えるなら、会議の前日は念入りに資料の確認のために起きている可能性もある。起きていたらその場で聞けばいいし、そうでないならメールでも送っておけばいい話だ。そう割り切って電話をかけたはいいものの、結局ドイツが出ることはなかった。それどころか、とんだとばっちりを受けたような気持ちだ。
「は~~、なんで今日顔を合わせると分かっていながら、あんな真似したんだか」
肺から呼出煙を吐き出しながら、背をガラス戸にもたれかける。窓の外は彼の胸中を裏切るように晴れやかで、余計彼の皺が深くなった。
なぜあんな真似をしたのか。
興が乗ったからと言ってしまえばそれまでの話だが、本当にそれだけだったのか。考えても答えは見つけられない。昨晩の行動を振り返るも、どうにも不思議で仕方ない。いや、変に考え込むのはやめておいた方がいい気がしてきた。本日顔を合わす予定の末っ子は、存外独占欲が強いことはよく知られている。ふるふると頭を振り、再び吸い口を付ける。
「……にしても、久しぶりに聞いたな。あいつの、あんな声」
声。バイエルンの関心を引いた、プロイセンの嬌声。思わずと出てしまった音が、いつもの掠れ声とはまた違った甘さをもつものだから、さすがに恥ずかしさを覚えたらしく顔を赤くするのが、愉しかったのを今でも覚えている。くつくつと哂っていると、行儀の悪い足を脇腹へ叩きつけられるのもよくあった。痛いぞ、と文句を垂れれば、今度はあちらがにやにやと人の悪さが滲んだ笑みが。甘ったるい愛の言葉もロマンティックなムードも存在しない、ただの男同士が欲の発散に互いを利用し合っている、それだけの時間だった。
二人は、決してその関係に対して明確な名前を付けることはなかった。だが、意外と最近まで続いていたのだ。さして仲が良いとは周囲の者も、そして互いにも認識してはいなかった。けれどもあの時間だけは、互いに弱みを握り合っているからか、変に片意地を張らず接することができていた。
「だからまあ、俺もあの関係は、」
嫌いじゃなかったよ。
そう口にしようとしたところで、ドン、と。強化ガラス越しに背へ拳が叩きつけられる。すっかり思考の彼方へ意識を追いやっていたバイエルンは、余りにも唐突な衝撃に灰を一摘まみ分靴先に落としてしまった。
振り向いた先には窓から差す正午の光を存分に受け止める髪を後ろへ流し、嵌め込んだ青空を怜悧に細めた青年が拳を振り上げたままの状態で、こちらを見据えている。表情はいつになく剣呑だ。