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    COTTON_san16246

    @COTTON_san16246

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    COTTON_san16246

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    発表会も終わったし提出してからそろそろ二ヶ月経つので、卒論供養😌
    いつかツイッタで公開しようとは思ってたけど、修正してから…修正終わってから…とか言ってたら一生公開しないのではないかと思ったので出します(真顔)
    ぽいぴくにテキストベタ貼りしました。表記上は六万字ですが、ワード君では四万行ってません。ぽいぴくすごいな……☺

    夕焼色の死体 二年半勤めた会社を辞めた。
     通知書を握りしめてベランダの柵に寄りかかり、昼過ぎの青白い空に向かって鬱憤を晴らすために吸っていた煙草の煙を吹きかけた。生温い陽光に秋風が混じりあい、長い黒髪が乱雑にうねり私の頭を殴る。
     やりたいことがあったとか、大病を患ったとか、そういうはっきりした辞める理由があったわけではない。
     ただ、限界だった。
     私は人の顔を認識できない、という厄介な目を持っていた。盲目とかではなく、人の顔が肌色の絵具で塗りつぶされているみたいに、はっきりと見ることができないのである。人間以外の動物や、絵画や彫刻、イラストといった虚像の顔であれば見えるのだが、生身の顔になると全く見る事が出来ない。眼科や精神科などの医者やカウンセリングにも何度もかかったが、一辺倒の回答ばかりを得るだけで一向に良くなることは無かった。
     そのおかげでいつまで経っても他人の顔を覚えられず、恋人や友人には尽くす価値の無い人として軽蔑され、それ以上に営業として仕事をする上では致命的な欠陥となった。懸命に指導してくれた先輩社員も匙を投げ、上司からの苦言は増えていき、本格的に社内で孤立していた。それでも必死になって働いていたが、夏の暮れに窓際部署へ異動しろと通知が届いた時、張っていた糸が切れ、もがいていた自分が馬鹿馬鹿しいと玄関で泣き崩れた。もはや努力する意思も気力も無くなり、次の日には辞表を書いていた。今日までは不安や後悔にうなされていたが、さっき届いた手続き完了の通知書を見た時、吞み込みきれていなかった現実が嘘のように腹へと落ちていった。
     そうして仕事を辞めた私の前にあるのは、アパートの角部屋で過ごす酷く鈍重な時間だけだった。鬱屈とした現状は項垂れた私の頭を重くさせるばかりだ。積み重なった自己嫌悪が巡る思考を、思わず別の方向へと逸らす。
     ――そういえば、人の顔が見えなくなったのはいつからだっただろう。
     しかしこうして逃げた先に見るものも、ヘドロのようにこびりつく厄介なものである。思考を散らすためやはり強く煙草を吸い、大きな煙を乱暴に吐き出す。小さくなった吸殻を携帯灰皿に入れ、無情な秋風に眉をひそめて部屋の中へと戻っていく。

     件の目のおかげで、大学時代に上京して以降良好な人間関係などというものには一切の無縁であった私は、退職後の有り余る時間を潰す手段に悩まされた。一緒に遊び呆けてくれる友達などはもちろん居らず、旅行に行く金も無く、慣れない読書やゲームも一時間と続かなかった。そんな私に残された暇潰しは、絵を描くことだけだった。小さい頃からよく絵を描く子供であったと母から聞く通り、高校で美術部に入ったことを皮切りに、大学では芸術を専攻するまで絵にのめり込んでいた。就職してからは仕事にばかりで絵を描く機会は無くなっていたが、唯一の趣味だったと言える。そして意外にも絵を描くという行為は、ミュージシャン志望という隣人の煩わしい間欠的なアコースティックギターをベランダで聞き流すのにちょうど良かった。
     とはいえ、学生時代のように立派な絵の具やキャンバスがある訳では無いため、絵を描く道具と言えばB5のメモ帳にボールペンか鉛筆というシンプルな物に限られた。更に言えば、絵のモデルになるのは殺風景な家の外の風景の中だけである。そうして毎日同じようにベランダで煙草を吸いながら絵を描く日々も、描いた絵が十枚を超えたところで少しずつ高揚感が薄れ、手の痺れだけが増すばかりであった。
     この日も朝霧に少し湿ったメモ帳を手に代わり映えのしない街並みを見つめ、絵の構想を練っていた。静かな街中に響いてきた陽気な声に、何気なく目を向ける。アパート下の道を学生が四、五人のグループが高い声で笑い合いながら歩いていた。制服や背格好を見るに、近くの中学校の生徒だろう。このアパートの下の道は大通り沿いの通学路からは外れているが、人や車の交通量が少なく、裏道として通る学生も少なくない。相変わらず顔は見えないが、粗雑に書きなぐる程度なら細部を気にする必要もない。彼女たちをモデルに絵を描き始めようとペンを構えた時、不意に彼らの後ろを独り歩く女子生徒に目が移った。
     制服を見るに、前を行く彼らと同じ学校の生徒のようだ。背中まで長く伸びた黒髪に、規律通り膝丈までの長さのスカートと、リュックを背負ったごく普通の学生である。唯一目を引いたのは半袖のワイシャツだ。
     だいぶ冬っぽくなった今日の気候のためか、前を行く生徒たちはそれぞれが秋っぽいカーディガンやニットを着ている。少なくとも半袖の服を着ている人はもうほとんど見かけず、そのためかその彼女は妙に目立って見えるのだ。時折いまだ半袖で過ごす人もいるだろうが、それにしても何か違和感が拭えない。
     と、彼女が何故かこちらに気が付き、私の方を見上げてきた。その顔は全く見えないものの、何か意識がこもっているように見えた。

     その時、視界が青白く点滅し始めた。目の前に意識外から送られてくる別の映像が重なって見え、脳がかき回される感覚を得た。
     荒く青白い映像には、流れる水面、生い茂る草花、青白くぼやけた腕、そこに絡まる黒い靄が映っていた。そして、底が見えない小さな穴へとアップされていく。
     穴の底では、誰かが笑っていた。
     正確にはおぞましいほどに口角が上がった人間である何かである。それが誰なのかまではわからない。しかし、耐え難い既視感を覚えた。
     そこまで見えた時、映像は砂嵐に呑まれまるで壊れたオーディオを無理やり動かしているような、気味の悪い機械音が頭の中で輪をかけて広がっていく。
     呼吸が荒く、頭が痛い。目の前が白くなり、視界が無理矢理元に戻っていく。

     気が付くと私の体は大きく左に振れており、戻ってきた視界には今にも倒れんばかりに景色が横へ落ちていた。瞬発的な危機感から柵を掴むことで何とか倒れずに済んだ。乱れた呼吸といまだぶれる視界を整え、柵を支えに起き上がる。
    耳の奥で微かに鳴る機械音を、頭を振って散らす。とりあえず落ち着こうと、台所へ水を飲みに行ったとき、二分ほど前に携帯へ着信が入っていたことに気が付いた。
     母からだった。
     こちらから電話をかけると、すぐに母の声が返ってきた。私からの電話に少し驚いた様子だった。母にはまだ退職したことは伝えていない。
    「今年の年末年始はこっちに帰ってくるの? 家を出たきりだし、たまには顔を見て話したいわ」
    「うん。今年は休めそうだし、帰ろうかな」
    「そう、それなら安心だわ」
     母は少し喜んだようで、いつもより饒舌に喋り出した。
    「今年はおせちを頼みましょうか。去年までは二人だけだったから買っていなかったのだけど、麻希が帰ってくるならお父さんも喜んでくれるわ」
    「そうかな」
     お父さんだって麻希に会いたがっているわよ、と母は言った。
    「そう言えば麻希はおせちの中で何が好きだったかしら。長いこと会ってなかったから、忘れちゃったわ」
     特段好きな料理は無いが聞かれた以上答えないわけにもいかず、「うーん」とわざとらしく鼻を鳴らす。
    「栗が好きだな。栗きんとん」そうしてひねり出した答えは、母の好物だった。
    「それなら今年は作ってみようかしら。手芸教室のお友達の西村さんのお家にね、立派な栗の木があるのよ。毎年煮ているらしいし、今度聞いてみるわね」
    「お母さん、私仕事辞めたんだ」
     母との会話を一方的に切る形になってしまったことを少しだけ後悔した。
    母は驚いた様子で電話口から息を吸った音が聞こえた後、少しの間黙り込んでいた。答えを待つ私の口は異様なほどに乾き、しきりに唇を舐める。たった数秒程度の時間ですら、酷く長いように感じてしまう。
    「そう」
     一分ほど空けて返ってきた母の言葉は囁くように小さかったが、存外落ち着いた声だった。
     この後話したことはあまり覚えていない。ただ、母から新しい就職先のことや今後の生活費のことなど、親として最もらしい心配を数分かけて問われたことは理解していた。正直、退職後は先の事を一切考えていなかったため、ほとんどまともな答えは返せなかった。
    「何も決まっていないのなら、家に帰ってきなさい」
     そんな私の不甲斐なさに腹が立ったのか、それを心配に思ったのか、母は諫めるように少し強めの口調だった。
     うん、と私は拗ねた子供のように素っ気なく返した。今にもはち切れんばかりの悔しさと羞恥が熱を持ち、喉をなぞってこめかみまでせり上がってくる。子供の頃の私であれば、泣き崩れていただろう。
     引っ越しの話を短く済ませると、逃げるように電話を切った。額と手のひらには薄く汗が滲んでいて、晩秋の乾いた風がとても冷たく感じる。喉元に滞留する熱さを、水道水と共に無理矢理飲み込んだ。

     引っ越しが決まった後も数日はほとんど手が進まなかった。しかし、やることもなく呆けているだけの日々を過ごすうちに、自己嫌悪が渦巻いて居ても立ってもいられなくなったため、覚悟を決める思いで大家である中井さんの家へ挨拶に行くことにした。
     中井さんの家はアパートの隣の、金木犀の木が大きな庭に立ち並ぶ一軒家だ。入居した際に顔を合わせているが、奥さんの中井佳代は随分な話好きで、玄関口で二時間ほど雑談に付き合わされたのは苦い思い出である。苦手なタイプなだけに顔を合わせることすらあまり気乗りはせず、勝手に緊張してしまう。門の柵の前まで行くと、庭にある金木犀の木の下で飼い犬のゴールデンレトリーバーのコタローがいつものように横になっていた。コタローは私の存在に気が付いたようで、体は動かさずに顔だけを少し傾けてこちらを見てきた。長い黄土色の体毛から黒く覗く目は、相も変わらず困った表情を浮かべている。
     会社に勤めていた二年半の間、この道路をほとんど毎日通っていたが、この犬の存在に気が付いたのは辞める半年前になってからだった。広い庭の中でも家屋寄りに建てられた犬小屋に繋がれた鎖を、伸ばせる範囲のめいっぱいにある木の下で、柵の外をずっと眺めているのである。どんなに天候が荒れている日でも、家にはそっぽを向き、毎日変わらずうつろな目を向けていた。
    私はこの犬が嫌いだった。あの哀れむような、憎むような顔を見ていると、内蔵に直に手を当てて撫でられているような気色悪い気分になる。
     振り払うように首を動かしてインターホンを押すと、洋風な家の中から忙しないスリッパの足音が聞こえてきた。扉に飾られた気の早いクリスマスリースの小さな鐘が鳴り、中井佳代が甲高い声と共に顔を出した。
    「朝早くにすいません。二〇五号室の富木田です」
    「すぐに出られなくてごめんなさいね。この後ちょっと出かける用事があるからバタバタしてたのよ」
     目が眩むほどの鮮やかなワインレッドのベルベットに派手な金の刺繍をあつらえたトップスと、甘ったるい香水の匂いに思わず顔をしかめる。
    「それで、今日は何の用かしら」
     私の表情に気が付いたらしく、先ほどよりトーンが下がった声だ。
    「先日会社を辞めましたので、引っ越そうと思うんです。そのことで挨拶とご相談があったので伺ったのですが、お忙しいようでしたらまた後日伺わせていただきます」
     私が取り繕うように話すと、彼女は少しだけ驚いたようで一瞬動きを止め私のことを凝視した。何かを言いかけたが、咄嗟に口に手を当てて考えるような仕草をして浅くため息を吐く。その数秒にも満たない間が流れた後、私はようやく言葉足らずに話してしまったのではないかと思い至った。しかし、私が言葉を発するより先に中井さんが話し始めたため、短く息を吸うに留まった。
    「ごめんなさいね。少し驚いてしまっただけなの」
     そう言う中井さんの撫でるような声は、随分と言いなれているように聞こえた。その瞬間、彼女の香水の匂いが鼻の奥を強く刺激し、吐き気を覚えた。勤めていた会社の映像がフラッシュバックし、彼女の顔が醜い泥のように濁っていく。たじろぐ私に構わず、気味の悪い微笑みを浮かべたまま手振りが加わり、説教じみた世間話をし始めた彼女に一層強いデジャヴを感じた。本格的に鼻の奥から香水と化粧品の匂いがぶり返し、耐え切れずに適当に相槌をしながら踵を返す。
     すると、コタローと目が合った。
     コタローは立ち上がり、見たこともない鋭い眼差しでこちらを凝視している。そのただならぬ気迫に気圧され、思わず足を止める。だが、同時に腹の底から渦を巻くような怒りが湧き上がり、向き直ってコタローに焦点を合わせる。視界が点滅するほど大きな鼓動と浅くなっていく呼吸を抑え、言葉を絞り出した。
    「お前よりはマシだよ」
     すぐに顔を伏せ、小走りで門を抜けた。少しだけ振り返ると、コタローはいつも通りの体勢で困った顔をこちらに向けていた。

     こうして引っ越しの決心がついた私は、ようやく部屋の中の物を整理し始める事が出来た。荷造りや大掃除といった家の中の物を大量に整理するような場で、思わず見つけた品々に懐古するというのは幼少のころから聞きなれた話である。そうした例に私も漏れることはなかった。しかし、例えば意気揚々と入社して買ったビジネスマナーの本や、一人暮らしに息巻いて買った可愛いコップなどの食器を見る度に、昔の浅はかな考えに辟易し、苛立ちばかりを募らせていった。私にとって思い出は烙印のようなものでしかないのだ。鬱憤を晴らさんと豪快な取捨選択をしつつ要らないものを捨てていくと、最終的に六畳の洋室に段ボールが四つしか残らず、その時には憤りや自分を憐れむ感情などはとうに消えていた。少しは軽くなると思っていた部屋に溜まり沈んだ時間は何一つ変わることは無く、むしろ増しているようにも感じるほどだった。
     四つ程度の段ボールで業者を雇うのは費用の無駄な上、こうも落ちぶれた自分の状況を他人に見せるのは気が引ける。しかし、免許も持たない私が電車と徒歩を合わせた四時間の実家までの道のりを、これらを抱えて移動することはかなり難しい。そう考えあぐねていた時、父から電話がかかってきた。
    「準備はどうだ。来月の頭には退去するんだろう。荷造りは終わってるのか」
    「大体終わってるよ」
    「不動産の立ち合いの日取りは決めてあるのか。業者の手配もまだしていないそうじゃないか」
    「電気もったいないし、立ち合いは当日にやってもらうつもり。家電系も全部売っちゃったし、荷物も段ボール四つだけだから、業者は考えてるところ」
    「そうか」
     父は短く返すと、少しの間沈黙を挟んだ。何かを考えているようで、電話口にもかかわらず「それなら」とか、「でもな」などとつぶやいていた。
    「父さんが車出してあげるから、乗せていきなさい」
     返ってきた父からの提案は少し期待していたものだったが、正直あまり嬉しくはなかった。
    「でも家の車は軽だし、乗らないんじゃないの」
    「後部座席にも乗せれば入るよ」
    「でも」と言いかけたが、これ以上の粗を見つける事が出来ず「わかった」と返した。喉が熱くなり、口の中で溢れてきた唾液を呑み込む。
     母と同じく心配性な父は、その後もガスのことや荷物の仕分けといった細かい部分にまで言及してきた。適当な答えを返せば更に心配をかけられるため、父が満足できる程度の答えを用意しなければならず、電話を切るころには口の中が乾ききるほど疲れていた。加えて父の助力を請う結果になってしまったことに対して、私はまた小さな苦味を食うことになってしまったのである。
     引っ越しの当日は雨だった。まだ昼過ぎだというのに、厚い雲のせいで薄暗い。
     これまでの数日はガスの閉栓や退去手続き、不動産屋の立ち合いなどで慣れない人と話す時間が多く、疲労は溜まる一方だった。また、これから父と三時間も二人きりになることを考えると、無意識にため息をついてしまうほどには気掛かりである。
     玄関の扉を開けると、すっかり真冬になった空気が湿った鉄の匂いと混ざり、軽くむせる。口から入ってきた冷気で寒気が走り、堪らず段ボールの封を開けてマフラーを取り出した。平日の昼下がりということもあってか人も車も居らず、奇妙なほど静かな空間にコンクリートを叩く雨粒の音が反芻するのが良く聞こえた。下の階の軒下まで荷物を運び、父の車を待つ間、思わず心地よくなる音に感覚のすべてをゆだね、目を閉じる。どのくらい時間がたったのか、知らぬ間に眠ってしまったのか、座っているのか立っているのか、そんなことすらわからなくなってしまうほどの緩やかな微睡みが深い呼吸を生んでいた。
     しばらく感じていなかった心地良さに身すらもゆだねてしまいそうになていた時、駐車場の砂利を踏むタイヤの音に気が付いた。
    顔を上げると、見知らぬ白い軽自動車がこちらに背を向けて停めており、運転席から紺色のジャンパーを着た父が降りてきた。慌てて前で組んでいた腕を解く。
    「外で待ってたのか。寒かっただろ」
    「電気もガスも止まってるし、寒いのは変わらないよ」
     父の優しさに子供らしい苛立ちを感じて咄嗟に嘘をついてしまったが、すぐに恥ずかしくなり、封を開けた段ボールを足で小突いて後ろに隠す。
    「荷物はこれで全部か?」
    「うん」
    「そうか」
     父は何か言いたげにしていたが諦めたようで、スポーツ刈りの丸い頭を乱暴に掻いた。困った時に出る昔からの父の癖だ。考えを言葉にするのが苦手だという父は、昔から感情が小さな行動で現れることが多かった。大学に上がるまではその感情を汲み取る事が出来ず、父と一緒にいても楽しいと感じることは少なかった。要は苦手なのである。
     荷物を積み終わり助手席のドアを開けると、有名なドーナツ店の可愛らしいポップなロゴが書かれた紙袋が置いてあった。不思議に思いながらも開けると、チョコレートのかかったツイスト生地に生クリームが挟まったドーナツが、一つだけ包まれていた。運転席に乗った父が私の不思議そうな顔を見たのか、少し言いづらそうに言葉を詰まらせる。
    「来る途中の道でたまたま新しく店が立ってるのを見かけてな。安くなってたから買ってみたんだが、俺は甘い物は苦手だから食べてくれ」
    「甘いの嫌いなのに買って来たんだ」
    「麻希は好きだっただろ」
     このドーナツの店は今では有名だが、昔は大きな駅にしかなかったため小学生の頃の私にとっては強い憧れがあった。ピンクや水色、黄色、紫などのカラフルなパステルカラーで可愛いイラストが描かれた店内で、可愛いトッピングの甘いドーナツを食べるのは文字通り夢のような気分になれるところだったのである。しかし、買い出しや冠婚葬祭などの用事で駅を使う時くらいにしか来られなかったため、毎回ねだっていたのを父は鮮明に覚えているのだろう。
    「小学生の時の話でしょ」
    「じゃあ引っ越し祝いだ」
     珍しく照れる父に、固かった口角が緩んでいく。おかげで父と過ごす時間は懸念していたほど苦しくはならずに済んだ。

     六年ぶりに帰ってきた実家は、全くと言っていいほど変わっていなかった。車を降りて辺りを見渡すと、周辺の家や店なども数軒変わっているものもあったが大半は変わっておらず、見慣れた風景そのものだった。ここまで変わっていないとさすがに懐古の思いが湧き出てくる。それもこの辺が中途半端に田舎であるせいなのだろう。実家の周辺は住宅地のためかコンビニやスーパーなどの生活必需の店舗は多いものの、電車の駅が徒歩圏内に無く、主な交通手段は車か市営バスに限られてくる。また京都や鎌倉といった観光地のように、歴史のある古い町並みがあるわけでもない。そうした土地柄か新しく転入してこようとする人も少ないのだろう。
     車のエンジン音を聞きつけたのか、インターホンを押す前に玄関から母が出迎えてくれた。小言を言われるのではないかと身を固くする私に反し、母は優しく声をかけてくれた。
    「お帰りなさい」
     とても久しぶりに聞いたその言葉に思わず童心に帰り、肩の力が抜けていく。ようやく地面に足を着けられたような安心感だった。
    「ただいま」
    「大変だったでしょう。そうそう、麻希の部屋はそのままにしてあるから、荷物は部屋に入れなさい」
    「うん。わかった」
     荷物を担いで家に入る。
     古い木の匂いや玄関に飾られた陶器の置物を目にすると、過去を懐かしむ気持ちがより一層強く感じられた。玄関のすぐ前の二階に繋がる急な階段を見ると、先に続く二階部分は窓が少ないおかげで異常に暗い。上りながら、子供の時は何か出てくるのではないかと怖くて二階を嫌っていたことを思い出し、少し眉をひそめる。自分の名前のプレートがかけられたドアを開けると、部屋の中は六年前に家を出た時のまま綺麗に維持されていた。ベッドや天井の紐付きランプはもちろんだが、棚や勉強机に至っては置かれている物すらも記憶にある配置のままだ。積もっている埃も薄いことから、母が定期的に掃除していてくれたのだろうというのは簡単に予想が付き、少しだけ後ろめたさを感じた。
     段ボール四つという限りなく少ない荷物ではあったものの、家具の選出に荷造り、退去するまでの書類制作や多くの手続きに加え、実家までの長時間の移動で酷く疲れていた。すべての荷物を部屋に運び入れると、封を開けることなく真っ先にベッドへ倒れ込んだ。大の字になり、昔よりも染みの増えたクリーム色の天井を仰ぐ。開けた窓から隣家の、おそらく魚を焼いているのであろう夕飯の香ばしい匂いが漂ってくる。一人暮らしのアパートとは違う静けさに、六年間ずっと張りつめてきた糸が切れ、いっぱいに吸い込んだ空気を胸の奥から溶け出した体温と共に吐きだした。心地良さに思わず目を閉じて眠ってしまいそうになるが、そうすれば夕食を食べ損ねてしまう。夜中に腹を空かせて冷蔵庫を漁るような意地汚い真似だけはしたくない。
     無意識に眠ってしまわないように体を起こし、夕飯ができるまでの暇つぶしを探して再度部屋を見渡す。棚代わりにしていたカラーボックスには化粧品はおろか人形や可愛い置物などは一切無く、趣味で集めた安い画材や本、果てには下段に大学のパンフレットがいまだ残されている。勉強机には高校の時の教科書とノートが学生時代のまま並び、ペン立てには付箋や小さくなった消しゴムが押し込まれている。自分のことながら実に質素で、女の子らしくない部屋である。
     何気なく勉強机の引き出しを引くと、下敷きやクリアファイルに埋もれて一冊のノートを見つけた。取り出して表紙を見ると、「3年1組 富木田麻希 国語」と黒の油性マジックで書かれている。黄ばみの程度や字の幼さ、また私が高校三年生の時のクラスは四組だったことから、これが中学時代のノートだと考えつくのはそう難しくなかった。しかし、私が小さくも確実な違和感を覚えたのは、ノートが引き出しの中に、しかも一冊だけ入っていた事だった。幼少の頃より几帳面な父から、使った物は元の置き場所に必ず戻すように、と教えられた習慣は自然と体に染みついていた。そのため必要な教科書やノートは全て机の上に縦置きに、必要ない物は戸棚にしまっその時、不意に何かがページの隙間から抜け落ちた。
     足元に落ちたそれは、四つ折りにされたノートのページだった。
     拾って中を見ると、紙一面に絵が描かれていた。黒鉛だけで描かれたその絵は、デッサンというよりはスケッチ画のようだった。そのためか全体的に粗雑であり、しかも中学生の時の稚拙な画力のおかげで見た瞬間は何が描かれているのかわからなかったが、紙を一回転した瞬間、絵の中の人と目が合った。
    髪が長く、半袖のブラウスにスカートを履いた、女性である。
     しかし、その絵の彼女は異様なポーズを取っていた。
     胴体自体は地面に伏しているようだったが、伸びる手足は無造作に放り出され、四肢全てがバラバラに向いている。左腕は頭の上に力無く伸びているが右腕に至っては肘の部分から不自然にひしゃげていた。更には黒い髪が放射状に伸びており、それは幼い頃に見た戦隊シリーズに出てくる昆虫を模した怪人に似て、おおよそ人間とは思えない姿である。全体をよく見ると、頭の方には向かって横に線が引かれているのに対し、スカートから下半身には細い斜線が上に被るように描かれている。髪が横の線に沿って流れるような描写をされていることから、背景に描かれているのは何らかの河原であることがようやく理解できた。つまり、この女性は川に向かって倒れているのだ。ひしゃげた身体と場所を考えるに、おそらく転落したのだろう。
     悲惨な姿で描かれた女性の身体はそれだけで目を見張るものがあったが、それ以上に際立っていたのが、彼女のその顔である。スケッチ画という大雑把な全体像の中で、なぜか顔だけが異様に細かく描かれているのだ。擦ったような黒ずんだ跡や、おそらくシャーペンと思われる細い轍が顔の周りだけ多く見受けられ、何度も描き直していることが伺えた。付した状態であるため横顔であったが、少し開いた口からは苦悶の声が漏れ、上を向いた眼はこちらを凝視しているように感じるほどであった。その中でも特に瞳は、瞳孔や虹彩まで描き込まれており、それは絵である彼女の生死がわかるほど繊細なものだった。
     私はまず、この時はまだ人の顔が認識できていたのか、と驚いた。同時に、長年の悩みが解消されるかもしれない、という喜びもこみ上げ、その情動は今にも走り出してしまいそうなほど大きなものだった。
     そして冷静に絵を見返すと、首のあたりに小さな黒い点が描かれていることに気が付いた。初めはゴミかと思ったが、明らかに意図的に描かれたものだ。その時、描かれている彼女に対して感じていた小さな既視感の正体を思い出した。
     ――彼女は、同じ中学校に通っていた梶原志穂である。
     梶原志穂は、当時の中学校でマドンナのような存在だった。腰まで伸びる長い黒髪はサテン生地のような輝きを帯び、そこから覗く大きく澄んだ目と閉じれば影が落ちるほど長いまつげ、まっすぐ通った鼻筋、桜の花びらのような唇。そして左の首筋にあるほくろは彼女のチャームポイントとも言えるものである。
    彼女が秀でていたのは容姿だけではなかった。温厚ながらもリーダー性のある性格で、成績は校内でも常に一桁の順位を保ち、所属するバレーボール部では部長を冠するなど、まさしく女の子の理想とも言える人だった。そんな彼女に対する憧れは、私も例に漏れず抱いていた。
     しかし彼女は三年生の時、学校の裏の小川に落ちて亡くなった。
     葦が生い茂る、夏の暮れの出来事だった。
     校内で圧倒的な人気と知名度を有していた彼女が死亡したという話は、多くの噂と共に瞬く間に広まっていった。彼女に告白して振られた男の仕業だとか、隠れたところでいじめがあっただとか、彼女が死んだ話は嘘でまだ生きている、だとか。とにかく色んな噂が流れていたが、彼女の死の真相は後日警察から正式に発表され、落としたキーホルダーを拾うおうとして足を滑らせた事故である、というあっけないものであった。
    随分あっさりとした死後の記憶だ。確かに周りが騒ぎ、葬式にも参列したはずなのだが、これ以上のことは白いもやのようなものが頭の中を満たし、詳しく思い出す事が出来ない。
     もう一度絵に目を落とす。制服や特徴から考えるに、この絵に描かれているのはおそらく梶原志穂で間違いないのだろう。また小川に向かって倒れ込んでいるところからも、あの事件で亡くなった直後の彼女を描いたことも予想できた。
    しかし、そうしてわかったところで根本的な解決には至っていない。
     なぜこんなにも悲惨な状態の彼女を描いたのか。そもそも、どうしてこんなものを描こうと思ったのか。
     そうして悶々と考え込んでいると、下から母の呼びかける声が聞こえてきた。
    「もうすぐ夕飯できるから、運ぶの手伝ってちょうだい」
     静かな部屋では階段の下からの呼びかけでもはっきりと聞こえる。いつの間にか夢中になっていたようで、夢から覚めるような驚きに肩が震える。
     はぁい、と慌てて返事をすると、スケッチ画を元の通り四つに折り直し、変に折り曲がらないよう慎重にパーカーのポケットへ突っ込んだ。

     翌日、私は市役所にいた。仄かに薄暗くなり始める景色の中、十六時を知らせる防災無線のメロディが流れる。市役所へは転入手続きをしに来ていた。さほどやることもないためすぐに済むだろうと見込んでいたものの、窓口はどこも込み合っており、最終的に三時間以上かかってしまった。背伸びをして凝り固まった体をほぐし、疲労と少しの後悔が混ざったため息を吐く。
     これからどうしようか、と市役所の扉の前で立ち止まる。家に帰るにしても夕飯の時間までは二時間と、微妙に時間が残っている。このまま家に帰っても、やたらと精の出ない荷解きか、さほど面白くもないバラエティー番組と料理番組しかやっていないテレビを見るくらいしかやることが思いつかない。嘆くほど空しい悩みで頭をひねらせていると、目の前の茂みから猫らしき影が目の前に飛び出し、去って行った。思わず顔を上げると、家に続く大通りの坂から乾いた寒風が吹きおろし、鼻先をかすめた。その寒さに身震いし、ポケットに手を入れる。
     すると、中に着たパーカーのポケットから乾いた紙の音がした。書類を出し忘れたのかと焦って取り出したところで、それが昨日見つけたスケッチ画であることを思い出した。何気なく開いてみる。相変わらず奇妙な絵だが、やはりどこか耽美的に感じる。
    その時何の根拠もなしに、この絵が描かれた場所に行ってみたい、という妙案が頭の中に浮かんだ。
     なぜこんな考えが過ったのか、という類の謎解きは昨日で飽き飽きしていたので、考えることはしなかった。その代わりに、「長時間座りっぱなしだったせいで体を動かしたい」とか、「思い出に浸るのはいい暇つぶしになる」とか、「つまり、理に適っているんだ」とか、この妙案を正当化する言い訳が勝手に頭の中で呟かれる。そうして変に長い間突っ立っていたせいで、後ろから出てきた人に心配されて声をかけられた。さっきまでの考えがすべて羞恥に埋め尽くされ、何度も頭を下げながらそそくさと家とは反対の方向に歩き出した。
     市役所から洛藤中学校までは、歩いて五分程度の距離だ。住宅街を抜けると、梨や葡萄などの果樹園が道路を挟んで広がっており、多くの直売所が並んでいる。ゲームセンターやカフェなどの娯楽施設が多くある都会とは違い、終始閑散とする地元では昔も今も学生が立ち寄って遊べる場所は公園かコンビニくらいしかない。私が学生の頃は学校帰りにこうした直売所で暇を潰す人も少なくなかった。しかし今は時期が過ぎているためか、そのほとんどはシャッターが閉められており、廂の下に置かれたベンチは野良猫のベッドとなっているようだった。時折追いかけっこをしながら帰る小学生や、電話を掛けながら歩くサラリーマンとすれ違うことはあったが、それ以外の人通りは無い。物静かな道をしばらく歩くと、坂の下から伸びる雑木林からクリーム色の校舎が覗いて見えた。洛藤中学校だ。
     急な坂道を登り切った先にある校門は、平日にもかかわらず閉まっていた。分厚い鉄の塊で出来た格子状の門の奥には、トラロープが横まっすぐに張られ、「立ち入り禁止」と書かれたプラスチック製の看板が風に揺れて軽い音を奏でている。門の隙間から中を覗くが、当然人の気配はない。それどころか、正面のグラウンドは長年整備されていないのか囲むように雑草が生え、サッカーゴールは錆びているうえにネットには穴が開いている。西と東に分かれた二つの校舎は煤けており、いくつかの窓にはブルーシートが貼られている。明らかに人が通っている雰囲気はなく、ホラー映画に出てくるような佇まいであった。校門の脇に掲げられている石造りの銘板を確認するも、やはり「洛藤中学校」と刻まれている。
     どうやら廃校になってしまったらしい。
     喪失感こそ薄かったものの、無駄足になってしまったような気がして気分が悪い。来た道を戻ろうと踵を返した時、裏道の存在を思い出した。正門の反対側にある、通学路に並行して伸びている小川へ降りる階段のことである。通学路から坂の下の雑木林を抜けるため教員に見つかりにくく、遅刻をごまかしたり、授業を抜け出すような生徒が抜け道としてよく使っていたのを覚えている。坂を下りていく際、雑木林に注意して歩くと坂本に獣道を見つけた。人が一人やっと通れるほどの道幅だったが、奥を覗くとかなり先まで続いているようだった。先ほど落胆した気持ちが後押しし、茂みをかき分けて林の中へ入っていく。
     雑木林の中は背の高い木々が空を遮っているせいか、夜道のように暗い。左右は木々が多く、真っ暗な空間から虫や鳥の声がするのはさながらお化け屋敷を通っているような気分になる。おまけに道といっても木の根や枯れ葉が多く、何度も足を滑らせて転びそうになる。どこに通じているのかもわからなくなるほど不安な気持ちを抑えながら速足で歩いていくと、思いの外すぐに道の先が明るくなってきた。微かに聞こえる水の流れる音に期待が膨らみ、無意識に歩幅が大きくなっていく。

     林を抜けると、目の前にあの小川があった。その奥には稲刈りの終わった水田が広がっている。小川のへりに立って覗き込むと、土手から水面までは二メートルほどの高さがあり、崖とまではいかないものの、足がすくむほどの斜度だ。小川は昨日の雨で今は濁っているが、それでも底が見えることからきれいな水であることがわかる。
     もう一度あの絵をポケットから取り出し、広げたものをかざして小川の風景や土手と見比べる。この小川は梶原志穂が亡くなった場所で間違いはない。地元の新聞や噂でも散々聞いたし、私も実際にここで彼女の遺体が運ばれていくのを見た記憶はある。ここから落ちれば、死ななかったとしても大怪我は免れないだろう。もし落ちた時に頭を川に突っ込んだ状態ならば、起き上がれずに溺死する。落ちた理由についても疑問は無い。夏の暮れということもあって、この辺一帯は背の高い葦に覆われていたことだろう。例えキーホルダーが小川の中に落ちていなかったとしても、草の間を探すうちにへりと斜面の境を見失って滑落したということも考えられる。
     しかし、おかしなことに絵を描いた当時のことを全く思い出せないのである。
    何度も絵と風景を見比べるも、何も浮かんでこない。少しだけでも思い出せないかと頭をこねていると、足首辺りに柔らかいものが触れた。驚いて足元を見ると、白地に黒いまだら模様の猫が体を擦り付けていた。猫は私の視線に気が付いたのか、見上げて低い声で鳴いた。その目は青く、細くなった瞳孔の周りを這う線はゆっくりとうねっている。撫でようと手を伸ばすと、そっぽを向いて歩きだしてしまった。その後ろ姿を目で追うと、今まで気付かなかったのがおかしなほど、何匹もの猫が草の間や木の陰に佇んでいた。白や茶色、さび柄、グレーとその毛色はさまざまだ。首輪が付いていないのを見るに、全て野良猫なのだろう。
     ——それにしても、この辺にこんなにも猫がいただろうか。
    「にゃお」
     思考を遮るように、あの猫の低い声がこだました。猫は錆びた鉄の階段に座り、まるでそちらに行くことを誘うように見つめている。
     ふと、視線の隅に動くものがあった。視点を動かすと、それは手前の校舎の二階の窓にいた。学生服を着る黒くて長い髪を垂らした、女性である。
     と。
     彼女と目が合った。
     人と目が合うことなんて何年もしていなかったせいか初めはそのことにすら理解していなかったが、顔の上部に浮かんだ瞳孔に焦点があった時、あっ、と思わず声を漏らした。その二つの目はその髪と同様に黒く、そして必要以上に大きく見えた。視線は少しも途切れることなく、この瞬間も私を凝視している。
     瞬間、私の中でおぞましいほどの恐怖と、胸を焼くような高揚感が強く混ざり合った。背中に電流に似た刺激が走る。その刺激の強さは立っていることすらできないほどなのに、座り込むほどの大きな動きも取れなかった。
     私は、あの目を見たことがあった。
     ——あの絵の、スケッチ画の目とそっくりだったのだ。
     私は走り出していた。
     鉄製の階段を駆け上がり、南京錠で施錠された格子状の扉を掴んで強く揺する。中々開かない扉に苛立ちが積もり、金属同士がぶつかる大きな衝撃音を鳴らすが、扉はただ足元に錆びた塗装を剥がれ落とすだけであった。数回揺らしたところで体力が底をついて息が上がり、湧き上がる熱に侵されていた頭が少しだけ冷静さを取り戻す。改めて中へ入る道を探そうとした時、ドアノブに巻き付けられていた鎖の欠片が落ちていることに気が付いた。鎖の錆はひどく、先ほどの衝撃で一部が割れたのだろう。丁寧に引き抜くと、扉は拍子抜けするほど簡単に開いた。
     学校内に入れたとはいえ、校舎の中に入るのも容易ではない。すぐ近くにあった扉に手をかけるも、当然の事ながら鍵が掛けられ開けることが出来ない。試しに昇降口へ回ろうとした時、奥の窓に一箇所だけブルーシートが貼られているのを見つけた。ガムテープを少しだけ剥がすと、窓枠に沿って左下の方が三角形に割れている。空き巣をしているようで少し罪悪感はあったものの、ここまで来たのに引き返すというのもなんだかもったいない気がする。割れた穴から腕を通して窓の鍵を開け、中へと入る。
     そこは生徒用の机や椅子が端に積まれた教室だった。静寂をまとった暗さと、コンクリートと錆とが混ざった匂いが鼻の奥を刺激し、懐かしさは全く感じられない。床には砂埃が薄く積もっており、あまり激しく動くと咳き込むために、走る気にはなれなかった。
     廊下に出ると、まるで空の光が反射した群青色のペンキで塗りつぶされたような闇が伸びていた。その光景は教室の時と同じで、自分の中にある記憶と全く一致せず、しかしそれ以上の異様な感覚に思わず足を止める。外を見ると空はすでに紫へと変わっており、確実に夜へと近付いていた。胸の辺りから苦い感情が滲む。気付けば口は完全に乾き切っていた。しかしそうした私の背中を押したのも、また彼女への好奇心だった。
     顎を引いて、再び歩き出す。
     二階まで上がると、最上段の真ん中に白い猫が丸まっていた。猫は私に気が付くとゆっくりと立ち上がり、背伸びをして行ってしまった。後を追うように廊下を覗き見ると、一番奥の教室から橙色の光が差し込んでいた。上には「3―1」と書かれた札が横向きに設置されている。
    彼女のいた教室である。
     他の部屋を覗いてみるが、一階同様に中は辛うじて物が視認できる程度の明るさしか無い。また廃校になった学校に電気が通っているはずもない。それが異様なものであると理解するのに、そう時間はかからなかった。
     警戒しながらも、足取りが早くなる。廊下の所々には他にも何匹か猫がおり、何度か踏みそうになった。橙色に光るその扉の前には先程の白い猫が扉を引っ掻いて、扉を開けるのを催促している。
     汗のにじむ手を引手にかける。呼吸が浅い。
     いや、学校に忍び込んでからずっと呼吸は浅かった。今ようやくその事に気付いたのだ。何故こんなにも彼女に会いたいのかは分からない。だが、ここに何かを忘れている気がしてならない。深く息を吸って震えを止め、ゆっくりとドアを開ける。
     そこは、記憶の中にある教室そのものだった。
     二十八脚の机と椅子は四列に分けられ、等間隔に配置されている。しかし全てがキレイに揃えられているわけではなく、少し斜めにズレていたり、椅子が机の中に入り切っていなかったりと、それぞれの様子はバラバラで、まるでついさっきまで人が居たような印象を感じる。教室には生徒の姿は無く、代わりに猫たちが奔放な態度で散らばっていた。
     窓の外を見ると、橙色の空が広がっていた。さっきまでの空はほとんど夜になりかけていたというのに、この教室から見える太陽はまだ落ちきっていない。開いた窓からは温い風が吹き、外からの蛙と鈴虫の鳴き声が教室中に響く。下の田んぼには刈り終わったはずの黄色い稲穂が波打っていた。
     それはまるで晩夏の光景だった。一切説明の付けようもない、異様な光景である。それだけでも驚くには足りていたが、一番後ろの席に座る人物を見て息を飲んだ。
     彼女は、梶原志穂はそこにいた。
     夏服のブラウスを着て、長い黒髪を垂らすその姿は外で見た時と同じだ。しかし今の彼女が私に向ける目はとても柔らかく、先ほどの恐怖の一切を感じない、まるで人間のようなもので、記憶の中にいる彼女そのものだった。
     久しぶりに見る人の顔に、思わず見とれてしまう。目の前にいる彼女が、絵具と紙で出来た作り物なのではないかと疑ってしまいそうだったが、窓からの夏風が彼女の髪を梳き、彼女に実体があることを強調させた。
    「久しぶりだね。麻希ちゃん」
     十年ぶりに聞く彼女の声は、ずいぶんと嬉しそうに聞こえた。
     なぜここにいるのか。どうして生きているのか。なぜあなたは死んでしまったのか。
     聞きたいことは山ほどあったのに、どうしても聞けなかった。それを口にすれば彼女が消えてしまいそうで、無理やり笑顔を作り答える。
    「久しぶり。梶原さん」
     しかし私の思いとは裏腹に、梶原さんは少し困った表情を浮かべた。
    「もう、志穂って呼んでくれないの?」
     予想外の答えに困惑が隠しきれなかった。中学時代、梶原さんは誰にでも分け隔てなかったとはいえ、私が彼女を下の名前で呼ぶ程親しい間柄ではなかった。
     そう思っていた。
     なにか掴めるものがあるかもしれないと少し考えるも、やはり何も思い出せない。
    「ごめん。なんて呼んでたか忘れちゃってさ」
    「十年以上会ってないんだもんね。仕方がないよ」
     お互いに会話のリズムが上手く掴めず、少しだけ気まずい空気が流れる。
     そういえば、と取り繕うように彼女が明るい声で話しかけた。こうした空気を率先して和ませてくれる察しの良さも、変わっていない。
    「麻希ちゃんはなんで学校に来たの?」
    「暇つぶしだよ。家に帰ってもやることないし、散歩のついでに寄ってみただけ」
    「でも、思いつくきっかけはあったんでしょ?」
     私は返答に少し迷った。
    「絵を見つけたんだ。中学の時使ってたノートから落ちてきてさ」
     梶原さんが、と呼んでしまったのをすぐに言い直す。
    「志穂が描いてあったのがちょっと気になって来てみたけど、廃校になってるなんて知らなかったよ」
    「そっか」
     私に会いに来たわけじゃなかったんだね、と彼女は小さくつぶやく。
     俯いた彼女の顔に夕焼けが濃い影を落とす。声をかけようとした時、外からゆうやけこやけのメロディが流れ、私の言葉をかき消した。彼女は影を張り付けたまま顔を上げて窓の外の空を仰いだ。
    「もう五時になっちゃったんだ。そろそろ帰らないとね」
    「帰るって、どこに」
    「私の家だよ」
     死んだはずの彼女は、当たり前かのように答える。机の中から教科書やノートを出し、カバンへ詰めて帰り支度をする彼女を見て、私は何度も声をかけようと口をむぐつかせる。そうしているうちに彼女はカバンを肩にかけて立ち上がり、扉の方へと歩いていってしまった。
     それを、どうしても止めたくて、思わず頭に浮かんだ妙案をそのまま口に出す。
    「絵を、描きに来てもいいかな」
    「絵を?」
     突飛な要望だったからか、止められた彼女は驚いた表情を浮かべて振り返り、反射的に聞き返してきた。
     せっかく会えたのだからもっと話していたいとか、もっと彼女のことを知りたかったとか、理由はいっぱいあった。でも一番は、彼女との縁を切りたくなかったのだ。そう、思う。
    「でもここには何もないし、何の絵を描くの?」
    「志穂を描きたい。だめならそこらにいる猫でも、なんでもいい。だから、明日も来ていいかな」
     まるで告白をしているかのような物言いに恥ずかしくなる。彼女は少しだけ唖然としていたが、小さな声で笑い始めた。次第に胸を押さえるほど笑いが加速していく姿に、少し後悔がこみ上げてきた。
     だめも何も、と彼女は笑いを抑えた声で言う。
    「昔は何も言わずに隠れて私のことを描いてたのに、今更気にするんだね」
    「そんなに描いてたっけ」
    「ほら、ノートの端っことかプリントの裏によく描いてたでしょ。私が後ろから声かけたら慌てて隠したりしてさ」
     楽しそうに笑う彼女だったが、思い出したように教室の時計を見て、慌てて扉を開けた。
    「お母さん、いつも五時半に帰ってくるんだ」
     振り向いた彼女からは、もう止めないでね、と言われているような気がした。
    「また、明日ね」
     扉が音を鳴らして軋みながら閉じていく。扉が完全に閉められて彼女の姿が消え、残された教室には湿った夏の空気と、古い木のむせる匂いだけが満ちていた。
     その後すぐに廊下へと出たが、彼女の姿はまったく見えなくなっていた。それどころか、あれほど大量にいた猫たちも共に消え、何事も無かったかのように静寂が戻っていた。あまりにも幽玄な出来事だったが、いつまでも消えない彼女の声が現実だったことを訴えてくる。瞬きする度にあのおぞましいほど美しい瞳が浮かび、少しでも静かになればあの言葉が耳の中で響く。なによりもあの時に感じた衝動は、あの経験が夢ではなかったと納得するに足りるものだった。

     絵を描きたいと宣言した私は久々に感じる高揚感で躍起になっており、帰ってすぐに絵を描く道具を探すため、荷解きついでに自分の部屋や物置を漁った。すると物置には絵具や未使用のスケッチブックが見つかり、種類は少し心もとないが、それでもスケッチをする程度なら充分な量であった。それどころか中には油絵に使うテレピンやポピーオイル、イーゼル、さらにはフレスコ画用の漆喰なども見つかった。どう考えても私が揃えたものではないものがなぜ実家にあるのかと疑問が浮かんだが、すぐに母方の叔父からもらったものだと思い当たった。元建方職人の叔父は怪我で退職して以降、元々趣味だった絵画を本格的に行っている。私が高校で美術部に入ったと聞いた後には、家に来るたびに何かと画材をお土産と称して持ち込んでいたのがこれだろう。
     世話好きで何かと人に絡みがちな性格が災いし、両親からはあまりいい顔をされていなかったが、私とは仲が良かった。個人的に会い、遠い地方のチャリティーイベントや海の家の外壁イラストの制作、果ては山の中にある寺院のアートイベントなど、色んな所に連れまわされたものだ。上京してからは全く会っていないが、いまだに遊びの誘いが来る。叔父との思い出は過度にアクティブなものが多いが、今となっては良い経験であったと言える。それに両親には話せないような相談事や絵のアドバイスなどもしてくれるなど、よい話し相手でもある。中でも一番印象に残っているのは、なぜ絵を描くのか、と叔父に聞いた時の言葉だ。
    「その時の感情とか感覚つーのを忘れんようにするためだ。旅行とかイベントの楽しい記憶を残してぇって時に写真を撮るんなら、絵は感情を残してぇ時に描くもんだ。楽しいとか、嬉しいとか、悲しいとか、苦しいとかって感情は写真には映らねぇ。そういう感情は取り出して絵の中に閉じ込めとくんだ」
     当時は解らなかったが、今考えれば私があの時志穂に絵を描きたいと懇願したのも、無意識に叔父の考えに影響されていたのかもしれない。あまりにも懐かしい記憶にむず痒い気持ちが滲み、ふふ、と笑いが零れる。ともあれ、叔父の世話好きが時を経て幸いし、アパートでの落書きよりも少しだけ本格的なものを描く事が出来そうだ、と心を躍らせた。
     あちこちに散らばった道具を探していると、スチール棚と壁の隙間に薄い本のようなものが落ちているのを見かけた。棚を動かして引っ張り出すと、それは古い水彩画用のスケッチブックだった。ページの間からはコピー用紙のような薄い紙が何枚も挟まっており、完全にくたびれているのがわかった。表紙や裏表紙などを見るも、名前やお題は見当たらない。先ほどから未使用の物ばかりだったため不思議に思って開くと、中には落書きにも似た稚拙な絵が並んでいた。明らかに私の絵である。すべてのページが埋まるどころか、挟まっている学校のプリントらしき紙の裏にも描いてある。花や虫、手、筆箱、椅子といった身近なものや、クラスメイトの男の子や先生などの人物画も混じっており、どうやら手あたり次第描いていたようである。そうしてページを進めていくと、だんだんと同じ人物の絵ばかりが増えていることに気が付いた。長い黒髪や顔の印象、首筋のほくろからそれが志穂であることがわかった。その量は驚くほど多く、どんな感情があったにせよ彼女に執着していたことは明らかだった。
     スケッチブックを見るのに夢中になっていたのか、急に後ろから声をかけられ、弾くように振り返ると扉の前に母が立っていた。
    「すごい音してるけど、何してるの? そこの物使ってもいいけど、ちゃんと戻してちょうだいね」
     おそらく棚を動かした音が下に響いたのだろう。
     わかってるよ、とぶっきらぼうに返し、スケッチブックの表面についてしまった埃を払う。すると、スケッチブックを見たからなのか、えっ、と母が短く驚いた声を上げた。見ると、母は口元付近に手を当て、小刻みに震えて動揺している様子だった。
     どうしたの、と声をかけると、母は近づいて右手を差し出してきた。
    「それを渡してちょうだい」
     唐突な母の不審な態度と、言葉の意味が理解できず思わず抵抗する。
    「なんで? ただのスケッチブックだし、私の描いた絵なんだから私が持っててもいいでしょ」
    「あなたが描いた絵だからダメなの。いいから、渡してちょうだい」
     ますます意味が分からない。進まない押し問答にお互い苛立ちを覚え、私の言葉も強くなっていく。
    「どういうこと? ただの絵の何が悪いの?」
    「お願いだから早く渡して!」
     母の怒鳴り声などほとんど聞いたことが無く、あまりにも必死な声に気圧されてしまった。そうして固まっている隙にスケッチブックをもぎ取られ、母は取られまいと胸元に抱きかかえてその場にうずくまった。深く俯き、すすり泣く声が聞こえる。母の怒号を聞いたからか、父が慌てた様子で二階に上がってきた。うずくまる母の元へ心配そうに駆け寄り、肩を抱く。父に気付いた母が喉を詰まらせながら、少し喧嘩しただけなの、と声をかけた。その時に父もスケッチブックに気が付いたらしく、まだ残っていたなんて、と動揺で声を震わせていた。
     何が何だかわからず、私は床に座り込んだまま、肩をさすって慰め合う両親を茫然と見ていた。よろめく母を支えて二人で立ち去ろうとした時、驚いて動かなかった口からようやく声を出す事が出来た。
    「なんで、そんなに絵を嫌ってるの? その絵の何がいけないのよ」
     両親の背中に向かって半ば叫ぶように問いかけると、歩みを止めて父だけが振り返らずに答えてくれた。
    「すべての思い出が尊いわけじゃない。思い出してはいけない記憶だってあるんだ。お前の目だってその記憶からお前を守ってくれているんだ」
     お前は何も知らなくていい、と父は神妙な声で言った。
     結局何も教えてくれない両親に対し、私は地団太を踏む代わりに持った筆を握りしめた。

     両親の不審な態度は気になったが、そのためにやりたいことを止めるというのはさすがに腹が立つので、次の日から画材を持って彼女の元へと足を運んだ。多くの道具を持っていくのは骨が折れたが、廃校になっているおかげで置きっぱなしにしても咎める人がいないため、心置きなく絵を描き続ける事が出来た。
     アパートで無意味な風景を描いていた日々とは比にならないくらい、満ち足りた日々だった。それは数年ぶりに見た生き生きとした人間を描くことが出来ることへの嬉しさや、豊富な画材への幸福感だけではなく、美しいモデルへの恍惚も含まれていたように思う。
     私が絵を描いている間、彼女は私が忘れてしまった思い出を丁寧に語ってくれた。
     ある日は「八木先生って覚えてる? 社会の先生。マラソン大会でタイム計ってた時、突風でかつらが浮いたの見て全員走れなくなるまで笑っちゃってさ。でも麻希ちゃんだけは笑わないで走ってて、何人も追い抜いて三位に入ったんだよね」と、まるで演劇のような大きい手振りで無邪気に笑った。
     またある日は「私が熱で休んだ時、麻希ちゃんが給食の揚げパンこっそり持ってきてくれたんだ。でも、その時は冬だったからかちかちになっちゃってさ。すごい固かったけど、せっかく持ってきてくれたんだからって維持張ったんだけど、結局食べきれなかったんだよね」と、寂しそうに笑った。
     またある日は「そうそう! 文化祭の時、出し物の内装作ろうとして私がペンキひっくり返しちゃった時があったんだ。そのペンキが置いてあった麻希ちゃんの上着に跳ねちゃって、家に帰ってから必死に洗ったけど落ちなくて、泣いて謝ったこともあったなぁ。でも麻希ちゃんは、模様みたいで可愛い、って言って許してくれたんだよね。麻希ちゃん、本当にかっこよかったな」と、愛おしそうに笑っていた。
     そうして私との思い出を語る志穂はとても楽しそうだった。彼女の多彩な笑顔を見ていると、思い出されることのない記憶に形の無い思い出がはまっていき、私は懐かしい愛しさを感じる事が出来た。
     何も変わらぬ空間で志穂と二人きりで何時間も過ごしていたが、話す思い出は尽きることが無く、そのあまりにも楽しそうに語る姿に疑問が浮かんだことがある。
    「なんでそんなに楽しそうに話すの?」
     すると志穂は饒舌な語りをはたと止め、少しだけ恥ずかしそうに口元に手を当てた。
    「昔は言えなかったんだけど、私麻希ちゃんのことが好きだったんだ」
     あまりにも意外な話に、絵を描く手を止める。
    「そうだったんだ。私は志穂のことが憧れで、遠い存在でしかなかったから、意外だよ」
    「あっ、でも、その時は恋愛感情なんてよくわからなかったから、はっきりと恋してたとは言えないんだけどね」
     志穂は大きく手を振って照れくさそうに、えへへ、と笑った。
    「みんな仲良くしてくれるんだけど、なんか表面だけで繋がってるみたいで、それが嫌だった。でも、麻希ちゃんは私の隣に並ぶことを謙遜したりなんかしなかったし、ずっと同じ目線で話してくれた。麻希ちゃんと話してる時が一番楽しかったから、楽しく話せるんだよ」
     そう話す志穂は、その姿と相応の笑顔を浮かべた。
     話していくうちに、こうした彼女の意外な面を見ることが多くなっていき、自然と理解は深まっていった。相変わらず暇つぶしの一環でしかなかったが、そうした日々を過ごすうちに気が付けば彼女と会うことが一つの楽しみになっていた。
    しかし、彼女はいつ行っても居る訳ではない。朝は九時に扉を開けて現れ、夕方の五時になると荷物をまとめて扉から出ていくし、土日や祝日には居ないことが多い。彼女曰く、母親の出勤時間に合わせて学校と家を行き来しているらしい。
    「若いうちに死んじゃったこと、お母さんには悪いなって思ってるから」と、彼女はバツが悪そうに話していた。
     外とは季節の違う教室だが、時間の歩みは変わっていないようだった。壁に掛けられた時計は私の持っている時計と同じ時間を進み、時間割通りにチャイムは鳴り、窓の外の景色は夏の気候に合わせて日が進んでいく。しかし黒板に書かれた九月十六日の日付は前の日に消しても、次の日には必ず寸分の狂いもない同じ字で同じ日付が書かれているのである。また、空を流れる雲や風の流れ、外から聞こえる虫やカエルの鳴き声なども一切変わることは無かった。
     つまりこの教室は九月十六日の一日を繰り返しているのである。
    「私が死んだ日」
     ずっと繰り返してるんだ、と彼女は寂しそうな顔で、おもむろにそう答えた。
    「きっと私があんなことしたから、学校が怒ってるんだよ。私のしたことを忘れさせないために、ずっと、怒ってくれてるんだと思う」
    「あんなことって?」
     生徒として死んじゃったこと、と彼女は答える。
    「この学校が廃校になったのは、私があんな死に方しちゃったからなんだ。学校にとって良くない噂がいっぱい流れて、気味が悪いって先生も生徒もみんな辞めていっちゃったから、この町の人から必要ないって言われちゃったんだ。私が学校から楽しい思い出を全部奪っちゃったんだ」
     ありえないよ、と私は言った。
    「学校は感情なんて持ってないよ」
    「そうかな」
    「そうだよ。だって、学校が生きてるってことは、この中は生き物の体内でしょ。そこで絵を描いてるなんて気味悪いじゃん」
     彼女は否定も肯定もせず、ただ静かに変わらない外の景色を眺めていた。
     志穂は話している最中、私の言葉を受け流すように遠くの空を見つめることが何度かあった。その顔は寂しそうにも見えたが、すぐにいつもの明るさを戻して思い出を語り始めるのである。そんな彼女に、私は喉が詰まるような奇妙な苦しみを感じてしまうが、いつまでも気づかぬふりを続けていた。こういう時は決まって絵を描く手が重くなり、描きかけの絵を何度も捨てることになるのである。

     こうして学校へ通い始めて、一週間が経とうとしていた。日ごとに増えていた市役所のクリスマスオーナメントはとうとう周辺の街路樹にまで手を伸ばしたようで、葉を落とした銀杏の幹には赤と緑のライトが巻き付けられていた。まだ夕方とはいえ暗くなったところに光る色とりどりの電飾は通行人の足を止め、皆それぞれが携帯を掲げて写真を撮っている。年末が近いせいか、やたらと力の入ったデコレーションの賜物か、いつもよりも人の多い通りには所々に群衆が出来ている。個人的にはこういった季節柄のイベントには疎いし、写真を撮ったところで無駄なデータを食うだけなので、歩く足は止まることが無い。写真に写らないように彼らの横を頭を低くして通ろうとした時、後ろから自分の名前を呼ぶ男性の声に引き留められた。
    「麻希? 君、富木田麻希だよね?」
    振り向くと、バスロータリーから眼鏡をかけたスーツ姿の若いサラリーマンがこちらに歩み寄ってきていた。
    「僕だよ、有馬翔。最後に会ったのだいぶ前だし、もう忘れちゃったかな」
     目のおかげで顔は見えないが、顎を掻く仕草には覚えがあった。
    「覚えてるよ。ネガティブなのは変わらないね、翔」
    そうかな、と言う翔は、緊張しているのか引きつった声だ。
    「ああ、引き留めちゃってごめん。その、久しぶりに会えたんだし、良ければちょっと話でもしたいなって思ったんだけど、時間大丈夫かな」
    「帰る途中だったし、大丈夫」
     話すなら近くのファミレスにでも入ろうよ、と誘った。誘い下手なところも相変わらずである。
    有馬翔とは所謂幼馴染と呼ぶ間柄だ。保育園時代から母同士の仲が良く、幼いころから互いの家に預かってもらったり、一緒に遊びに出かけたりと、家族ぐるみで付き合いがあった。中学生の頃はテスト前に彼の家で勉強会と称してゲームをしたり、一日中二人で隣町のカラオケに籠っていたこともある。お互いにあまり活発的な遊びは好まず、気兼ねしてしまう性格で一人の時間を大切にするなど、合致するところが多く歩幅の合う良い友人だった。
     入ったファミレスは最近できたものらしく、学生やサラリーマンなど若い客が目立った。
     まだコーヒー苦手なんだよね、と飲み物を取りに行った彼は照れくさそうに顎を掻き、席に着く。
    「麻希がこっちに戻って来てるって知らなかったからびっくりしたよ。大学から東京に行ってたし、就職もあっちでしたって聞いてたからさ。いつ帰ってきたの?」
    「ちょうど一週間前。会社辞めて再就職の充てもなかったし、とりあえず戻って来たって感じかな」
    「大変、だったんだね。同じ営業としてはこの時期に悩むのちょっとわかるな」
    「翔はこっちで就職したんだっけ。帰ってきた時にお母さんから聞いたよ」
    「うん。隣の市の金属加工会社。近いし、この辺じゃ珍しく大手だから父さんも母さんも喜んでくれてるよ」
    「そうなんだ。すごいじゃん」
     そうでもないよ、と彼は小さなため息をつくように呟いた。
    「最近、思うようにいかないことが増えてきてるんだ。ほら、僕昔から説明するのすごい下手だっただろ? だからプレゼンで上手くいった試しがなくて、頑張って改善しても上司からは見放されて、指導した新入社員にはあっけなく抜かれてさ。毎日死に物狂いで働いてるよ」
     日々の惨痛を淡々と語る翔はテーブルに影が出来るほど深くうつむいていた。見えずとも、彼の顔にうつろな表情が浮かんでいることは容易に想像できた。しかし、声をかけることは出来なかった。自分も少し前までは同じような悩みを抱えて苦しんでいただけに、どんな言葉をかけても無意味だということがわかっていたからだ。
     そういえば、と気を利かせて話題を変える。
    「帰ってきた時、初めは何も変わってないと思ってたけど、よく見ると変わってるところもあるんだね。市役所はきれいになってるし、コンビニも増えてた」
     すると彼は少し憂鬱な気持ちから脱したようで、顔を上げてジュースを口にした。
    「ああ、確か近くのスーパーも潰れたかな。ドラッグストアになるらしいよ」
    「潰れたっていえば、洛藤中も廃校になってたね」
    「生徒数が少なくなって五年前に近くの中学校と統合したって聞いたよ。洛藤中の廃校話って言ったら、少し面白いものがあるんだ。当初はあそこ、校舎自体を潰して市民ホールを作る予定だったんだけど、工事が始まった途端に奇妙な現象が相次いでさ、計画自体が無くなったらしいよ」
     そう語る彼の声は、先ほどまでの陰鬱な声よりも嬉々としているように聞こえる。そういえば、翔は昔から幽霊や怪奇現象といったオカルトな話が好きで、付き合いでよく聞かされていた。怖い話を嫌うこともなかったおかげで、安くなるからとカップルを装ってホラー映画を観に付き合わされたこともある。
    「なんでも、作業員が同時に何人も体調不良を訴えたとか、授業をする生徒たちの声が聞こえるとか、人骨が出て来たって噂もあるんだよ。あとほら、あのチャイム。もう電気もスイッチも止めたはずなのに、ずっと時間割通りに鳴り続けてるんだよ。役所の人が止めに行っても治まらないんだって」
    「そんなに大事になってたんだ。最近よく前を通るけど、そんな話聞いたことなかったよ」
    「周りの人たちもみんな気味悪がって、あんまり関わらないようにしてるんだよ。あの辺、人通り少ないだろ? 梶原さんのこともあったし」
     そう言った翔はすぐに短い息を呑み、先を言わずに口を噤んだ。不意に途切れた言葉に彼を見ると、口元辺りに手を当て、何やら青ざめているようだった。
    「ごめん。久しぶりに話せたからってはしゃいじゃったね」
     翔はその気兼ねする性格から常に頭が低く、身に覚えのない謝罪には慣れていた。
     だが、この謝罪には妙な違和感を持った。
    「ごめんって、何に?」
     そう聞くと、彼はまた言いづらそうに口をむぐつかせて、顎を掻いた。
    「その、梶原さんのことだよ。あの後あんな酷いこともあったし、思い出したくないだろ」
    「あんな酷いことって何? 私が思い出したくないことって、何を?」
    「いじめだよ」
     翔の言葉が、頭の中で反芻していく。
    「麻希が梶原さんを突き飛ばしたって話が広まって、ふさぎ込むくらい責め立てられてたじゃないか」
    途端に頭の先から冷たい感覚が流れ、鼓動が煩く響いていく。気が付けば、無意識のうちに服の裾を強く握っていた。
     覚えてない、と返す私の声は、ほとんど吐息にかき消されていた。
    「志穂のことは何も覚えてない。どんな関係だったとか、何をしたのかとか、何があったのかとか、全く思い出せないんだ」
     私の声は震えていたように思う。翔も気持ちを察したのか、不用意には言葉をかけなかった。しかし、その震えは恐怖から来ているものではなかった。
    「ねぇ、私は志穂のことを殺したのかな」
     翔は少しだけ考える仕草をしていたが、覚えてないならその方が良いよ、と答えた。それが彼なりの気遣いだったのだろう。
     それから翔は志穂の話から話題を逸らし、一方的に話し始めた。幼い時のクリスマスの思い出話や最近行った飲み会での失敗談など、なるべく明るい話題を途切れさせないように話していることが伺えた。初めこそ気を使って話しているように思えたが、私が顔を上げて会話を繋ぎ始めるとつられるように翔の声も楽しそうに弾んでいた。そうして一時間ほど続いた会話は、お互いを深く知る幼馴染ならではと言える遠慮の無い楽しいものだった。
     その会話にまた暗がりが差したのは、私が三杯目のコーヒーを取りに戻ってきた時の翔の一言だった。
     あのさ、と翔は意を決したように話し始めた。
    「僕、あの時校舎の窓から二人が揉めてるのを見てたんだ」
     急な話の動きに、えっ、と思わず声を出してしまう。
     戸惑う私を見て翔は、ごめんね、と囁くほど小さな声で謝った。
    「余計なお世話になっちゃうかもしれないけど、やっぱり知っておいた方がいいと思うんだ。事件を知らない同級生には事故って伝わってるけど、知ってる人に突然教えられるよりはまだマシなんじゃないかって思うから」
     翔は空になったグラスを見つめながら続ける。
    「遠目で見てただけだから、本当に突き飛ばしたかどうかはわからない。でも次の日麻希と歩いてたら、私が志穂を落としたんだ、ってこっそり言って来たんだ。だから、きっとそうなんだと思う」
     ああ、やっぱりそうなんだ。
     志穂を殺したのは、私なんだ。
    「僕は言わなかったんだけど、他に見てた人がそのことを話したら校内で噂が広がって、酷いことする奴も出てきてさ。麻希はそのまま学校に来なくなったんだよ」
     そっか、と私はため息混じりに言った。
     それを悲観的に捉えたのか、翔は慌てて顔を上げて言葉を繋いだ。
    「でも、やっぱり僕は麻希がそんなことするとは思えないよ。だって」
     そう言いかけて、翔は動きを止めた。いや、固まったと言っても過言ではないようだった。察するに、私の反応を見て驚いていたのだと思う。
    「ありがとう、翔」
     言葉を詰まらせる彼を尻目に時計を見ると、もう六時半を過ぎていた。残ったコーヒーを飲み干し、呆ける翔を連れ出して店を出た。家までの帰路を途中まで一緒に歩く間、翔はどことなく不審な態度をとっていた。
     私はあの時、どんな顔をしていたのだろう。

     次の日もいつものように彼女へ会いに行ったが、なぜだか彼女の顔が昨日よりもぼやけて見えた。それは少し気にする程度だったが、確実な不安を覚えた。
    「どうしたの?」
     何でもないよ、と言い、気にしていないように絵の続きを描き進めながら、一時的なものであって欲しいと思うばかりであった。
     しかし、その不安は見事に的中してしまう。初めこそ気のせいだと思えたものだが日ごとに酷くなり、鼻と口の区別がつかなくなるまでには三日とかからなかった。
     そして、五日目には完全に顔が見えなくなった。彼女の美しかった顔も、他と同様に肌色の絵具で雑に塗りつぶした、ただの塊になってしまったのである。
     怖かった。
     確かに顔が見えなくなっていくことへの恐怖もあったが、それ以上にこうなった理由がわからない事への恐怖の方が大きかった。
     彼女を見る度に恐怖だけではなく、情けなさや苛立ち、焦り、そして唯一の希望が絶たれてしまったことへの絶望感といった多くの感情が少しずつ積もり、ついには学校へ行くことすらできなくなった。

     それからは、またアパートの時と同じように鈍重な日々を過ごしていた。気晴らしに父から本やゲームを借りたり、料理をしてみたりと色んなことをやってはいたが、絵を描くことはなかった。アパートの時よりは快適に暇を潰していたが、あの時と大きく違ったのは心の中である。私の中に積もる鬱憤はヘドロのような自己嫌悪ではなく、失った希望を惜しむ空虚な絶望と微かな迷いだった。
    人の顔が認識できない目。
     捨ててしまいたい、と何度も思った。この目さえなければ、私の人生はどれだけ豊かになっただろうと考えない日は無かった。
     しかし、翔や両親の話を聞いてから、頑なに嫌っていた考えが変わってきた。この目は、私を守ってくれているのかもしれない。そう、思ってしまうのである。
     もし人の顔が見えるようになったことで今以上に傷ついてしまうのなら、このままの方が良いのではないか。この葛藤は積もっていく鬱憤の一部となって焦げ付き、志穂から離れて三日が経っても頭の中を巡っていた。
    しかし、答えというものはいつも思いがけずやってくるものである。

     今朝は母の悲鳴で目を覚ました。最近は昼近くに起きることも多かったため、初めは起きるのを躊躇った。しかし階段下から呼ばれ、仕方なく降りていく。どうしたの、と眠たげに尋ねると、母は涙目で郵便物を握りながら開きっぱなしになっている玄関の外を指さした。見ると、何か白い大きな石のような塊が門扉の前に落ちている。目を凝らして見てみるもタイルと同化してよく見えず、近づく。
     それは、猫の死骸だった。
     以前中学校の階段にいたものと同じ、白い猫だ。ぐったりと横たわり、投げ出されたように手足を広げている。明らかに死んでいるようだったが、目立った外傷などは見つからない。
     母が玄関から顔を出して軍手とビニール袋、束になった古新聞紙を渡してくれた。処分方法もあらかた教えてはくれたが、母はどうしても見たくないらしく少しだけ顔を伏せていた。
    「野良犬にでも持ってこられちゃったのかしら。可哀想だけれど、家の前に置いてあると気味が悪いわ」
     何も言えないまま立ち尽くしていると、それじゃあお願いね、と母は家の中へ入って行ってしまった。お父さんにでも頼めばいいのに、とも思ったが、思い返せば父は虫の死骸も嫌がるほど極端な怖がりだった。
     面倒なことを押し付けられてしまった、と眠気を覚ます欠伸をして猫の前に屈む。半開きになった口から力無く垂れた舌を除けば、揺すれば起きそうな死骸である。素手で触らないよう軍手をはめて、死骸を掴む。
     その時、少しだけ目が動いた気がした。
     思わず手を止め、目を見る。無気力に開かれたその目は、明らかに私を見つめているようだ。ぬらりと光る眼球は青い虹彩が美しく、しかし最大まで開かれた瞳孔は全ての闇を取り込むかのように黒い。冬の寒さの中、熱さが胸の奥から込み上げて体全体が火照っていくのを感じ、目が離せなくなっていた。
     そして、私はこの感覚を知っていた。
     根拠などは無いが、ただ目の前に映る映像が頭に残った景色と重なり合い、そう思わせるのである。アパートのベランダで襲われた気味の悪さとは違い、私はこの映像を心の底から見たいと望んでいた。

     映像の中で私は死んだ猫の横にしゃがみ、ただ見ていた。フェンスの先にあの小川があり、後ろにはクリーム色の校舎が見える。倒れているのは、赤毛で縞模様の猫だ。
    「チャコ、死んじゃったんだ」
     映像の中で、女の子に声をかけられた。
     隣にいたのは、志穂だ。
     同じように屈んではいるが、猫ではなく私を見ていた。そして、彼女は楽しそうに微笑んでいた。
    「他の猫と喧嘩したんだよ。傷だらけだもん」
     私の声だ。
     猫の方へ向き直ると、確かに引っ掻き傷や噛み跡が見て取れた。
    「麻希ちゃん、すごい楽しそうだね」
    「うん。だってほら、こんなキレイな目見るのは初めてだから」
     ——楽しそう?
     自分であるはずの麻希の言動が理解出来なかった。死体を見たら普通、母のように気味が悪いと嫌がるものではないだろうか。仮に慣れていたとしても、死体に対してキレイという感想は抱かないはずだ。
    「いいなぁ」
     記憶の中で笑う志穂の顔には、濃く影が落ちていた。
     それ以上のことは思い出すことは出来なかった。急速に戻された目の前の光景にもどかしさから来る軽い苛立ちを感じた。しかし、恐怖とは違う感情が私の中で昂っているのを感じ、不思議と志穂の言葉が腑に落ちたような気がした。

     思いがけない回想にしばらく呆然としていたが、隣人の足音で半ば飛んでいた意識が戻された。このまま死骸のそばで屈んでいれば、傍から見られれば死骸を眺める変な人という不本意なレッテルが貼られてしまうことを恐れて、勘違いされるより前に死骸を古新聞紙で包んでから手早く袋を縛る。門扉前に置かれた収集用のダストボックスへと入れた時、こんにちは、と隣に住む住谷さんが声をかけてきた。見ると、箒を持ちながら白椿の生垣から顔を出している。
    「その猫は飼ってたのかい?」
    「いえ、首輪もしてなかったし野良猫ですよ。うちでは餌も与えたことないです」
    「そうかい。あなたのお母さんの悲鳴を聞いて心配になってね。それにしても、災難だったわね」
    「災難?」
    「ほら、猫って人に自分の死ぬところを見せないって言うでしょ? それなのにわざわざ家の前で死ぬなんて、猫が自分の死体を見せつけてるみたいで気味が悪いじゃない」
     心臓が一度大きく跳ねた。こんなもの、説得力なんて無いただの迷信だ。そんなことはわかっている。しかしここ最近続く不可思議な出来事のおかげか、頭が無理矢理肯定してしまう。
    「この辺猫が多いみたいですし、きっと野良犬が持ってきただけですよ」
     引きつった笑顔で否定した。そうでもしないと、住谷さんの言うことが現実になってしまいそうだったから。
     それならいいけどねぇ、と住谷さんは大きなため息をついた。どうやら心配してくれているようだ。住谷さんに一礼すると、私は階段を駆け上がって自室へ飛び込んだ。
     腹の奥が潰されるように重い。自分の中で二つの感情が駆け回っているのだ。
     住谷さんの一言で、見えない何かが私を変えようとしている、という受け入れ難い被害妄想が事実であることに気が付いてしまった。素直に助けてくれるのならまだしも、腹の中を蛇が這い回っているようで怖気がする。ストーカーにでも遭っているようだ。しかしそれ以上に気味が悪いのは、それを受け入れつつある自分の相反する考えである。
     それでも答えを与えてくれているのなら、素直に受け取るべきでは無いだろうか。
     そうして考えているうちに、一時忘れていた葛藤がぶり返してくる。葛藤がループする前に頭を左右に大きく振り、布団を被る。思考を放棄してしまいたくて、固く目をつむる。
     起きたのは昼過ぎだった。朝食を逃した中、昼すらも取らずに寝続けているとさすがに腹も減る。重い体を這いずって下に降りると、「少し怠け過ぎてるわよ」と呆れた母が小言を漏らしてきた。それを適当に流して遅い昼飯を食べる。食べている間も小言は止まらなかったが、食器を下げに行った時、おもむろにメモを渡された。どうやら買い物リストらしい。面倒くさそうに眉をひそめたところ、「ずっと家にいるんだから、少しくらいは外の空気を吸ってきなさい」と一喝された。
     この歳になって母親に叱られるというのは恥ずかしさが伴うもので、反抗期の子供のような苛立ちで少しむくれる。むきになって椅子に引っかかっていたダウンジャケットを引っ掴み、外へ出た。朝とは違い、空には厚い灰色の雲が広がっている。そのせいでやたらと暗く、重苦しい寒さに震える。門扉の先にあるダストボックスを睨みつけ、八つ当たりに軽く蹴りつけた。
     スーパーは市役所に行く途中の大通り沿いにある。幹線道路と並走するこの道路は裏道として使われるためか、さほど広くない道路にも関わらず夕方に近付いてくると大型トラックが増えてくる。その上坂道が続くのでスピードが出やすい。私も信号を無視した車に鼻先を掠められたり、事故現場を目撃したことは何度もある。
     信号を待っていると、道路の向かいに立つ男の姿が見えた。スーツを着たごく普通の若い男である。多くの通行人がいる中で一人だけ目に映ったというのもおかしな話だが、私の目にはなぜか彼だけがくっきりと浮かんで見えたのだ。その疑問は少し目を凝らして見て、すぐにわかった。
     ——顔が見えたのだ。
     今までは例え見えたとしてもパーツの位置がようやく判別できる程度だったが、目や鼻、口、眉が見えるだけではなく、感情が分かるほどはっきりと見えるのである。それと同時に、その男が有馬翔であることもわかった。翔は背中を丸めて項垂れ、口は薄く開いており、割れた眼鏡と赤く腫れた頬が何かで殴られたことを示唆している。そして、影の落ちた虚ろな目で車が走り去る道路をじっと眺めていた。
     それは明らかに、死人の目であった。
     すぐにでも大声を上げて名前を呼び、彼を慰める言葉を叫び、止めた方が良かったのかもしれない。
     でも、しなかった。
     私はただ待っていた。彼の死を見れば、何かが変わるという確信があったから。散々悩んだ挙句に、私はまた他人から享受されることを望んでいたのである。
     反対車線を走るトラックが視界の端に入った瞬間、目の前の動きすべてがゆっくりと歪んでいるように見えた。翔が縁石に足をかけ、糸が切れたように体が前に倒れていく。トラックがゆっくりと近付き、翔の体を隠す。全身がトラックの影に入る一瞬、翔と目が合った。睨まれているような鋭い眼光とは裏腹に、彼の口は微笑んでいたように思う。
     刹那、目の前が振動するほどの轟音と共に、トラックが彼を突き飛ばした。
     翔の体はトラックの進行方向に吹き飛び、一度だけ跳ねた後に数メートル先のセンターライン上で止まった。その凄まじいまでの音と衝撃は、人と車を瞬時に止まらせた。
     私は誰よりも早く道路上に転がる彼の死体の元へと駆け出した。その足取りは無邪気な子供のように軽やかだ。
     翔の死体は誰もが目を背けたくなるほど悲惨なものだった。カバンは勿論、靴や眼鏡、ジャケットのボタンも弾け飛び、方々に散らばっている。うつ伏せになった体は手足のすべてが別の方向にひしゃげている。胸からはぶつかった衝撃で肋骨の一部が皮膚を突き破り、地面に赤い痕を残していた。彼の顔のそばに膝を着いて屈み、顔を覗き込む。開かれた口からは舌が突き出し、鼻や耳からも血が出ていて泡を立てている。
     そして開かれた目は、やはり美しかった。
     心の底から愛おしい気持ちが湧いて来て、徐々に呼吸が荒くなっていくのを感じる。それは猫の死骸を見た時の比ではなかった。眩暈がするほど強い昂りに、思わずその場で腕を抱いてうずくまる。
     すると、いきなり覚えのない既視感に襲われ、非道にも昂りを止めてしまった。あまりの衝撃に茫然と死体を眺めて思考を動かすと、すぐにその正体があのスケッチ画であることに辿り着いた。しかし、頭の中に流れ込んできた映像は白黒の線だけで出来た絵ではなく、あの日の生々しい惨状である。
     変に曲がった青白い手足、泥や草に汚れた衣服、小川の水に揺蕩う黒い髪。そして、あの目。何もかもを吸い込むような黒い目。
     この追憶を皮切りに、忘れていたあの日の記憶が渦を巻く。
     気が付けばすでに周りが騒がしくなっており、野次馬の悲鳴や怒号が飛び交っている。そぞろと降りてきた運転手たちがタオルや上着で死体の周りを囲み始めた。周囲の人たちに見られないようにするためだろう。邪魔になる前に早く立ち去ろうとするも、視界は揺れ、何本もの光の筋が飛び交っており、うまく立ち上がれない。その間も頭の中ではあの日の記憶が目の前で点滅し続けている。
    すると、その内の一人が私の肩に手を置いて話しかけてきた。しかしその声はくぐもっていて、よく聞こえない。振り返ると、多くの見えない顔が私のことを覗いていた。
     その時、絡み合っていた記憶や考えが一本の線に解け、ようやくこの目が見てきたものをすべて思い出した。
     そして、私はもう一度志穂に会わなければならない、と思った。
     私は肩に置かれた手を振り払い、囲っている人や野次馬の群衆をかき分けて、洛藤中学校に向かって走り出した。人の足や肩に引っかかって何度か地面に膝を擦り付けたが、痛みはあまり感じない。体はすぐに火照り、冷気で喉から血の味がせりあがってきたが止まることは出来なかった。ダウンジャケットを道端に脱ぎ捨て、それでも必死に走った。

     翔の死体を見た時、この目は生身の人間すべてが見えないのではなく、感情を露わにする生きた人間の顔が見えず、死んでいる人間の顔は見えるということを理解した。
     私が志穂を殺したあの日、私は最愛であった志穂の死の美しさと出会い、魅了された。それは正しく恋と言うに値するものだった。しかし私の逸脱した恋慕は、周囲から理解されることはなく、怒りや憎悪といった激情を煽ることになってしまった。それはクラスメイトや友人だけではなく、先生や両親までもが私を否定することになったのだ。そうして周りから責められ、いじめられていたら、人の顔なんて見ない方が良いと思ってしまうだろう。昔から人に合わせたり、言うことを真に受けたりと、顔色を見てしまう私の性格ならなおさらである。
     ——このままでは自分が殺されてしまう。
     だから、目を閉じた。自分が愛した志穂を守るために、蓋をしたんだ。
     もちろん葛藤はあったが、それ以上にあの日見た彼女の死に様を見たい、という気持ちが上回っていた。
     学校のある坂本まで着くと、迷わず雑木林へと入って行く。通るたびに薄気味悪さを感じていた獣道すらも、今は高揚を助長させる。枝や根につまずきながら林を抜けると、いつも通りの小川が見えた。校舎へ向かうまでの土手には、多くの猫たちが力無く横たわっていた。その大半は死んでいるようだった。
     私は迷わず校舎へと走っていく。校舎の中にもおびただしいほどの猫の死骸が転がっていたが避けることはせず、ただまっすぐ走った。踏みつぶした猫の死骸は水袋のように割れて床一面に色とりどりの液体を散らしていく。割るたびに様々な感情が私を祝福してくれるようで、思わず笑い声が漏れる。私は今、人生で一番幸せな瞬間を迎えていた。
     扉を開けると、志穂は教室の真ん中に立っていた。その顔はいつになく華やかで、私が今日ここに来ることを知っていたかのように静かだった。
    「久しぶり、麻希ちゃん」
     やっと来てくれた、と志穂は心の底から嬉しそうに微笑んだ。何か返答をしたかったが、中々息が整わない。
    「どうしたの? すごい楽しそうな顔してる」
     楽しいんだ、と私は言った。
    「今まで一度も心の底から楽しいとも、美しいとも思ったものが無かった。友達から勧められた映画も、流行りの漫画も、感動するって有名な景色も。表面上では称える言葉を言えても、心の中じゃ何も感じなかった。そのたびに周りから非難されて、自分はこの先もこんなつまらない人生を送るのかって考えたら怖かった。でも翔が死んだところを見て、やっと解かったんだ」
     志穂の正面に立ち、見つめる。高揚感と緊張が混ざり、鼓動が早くなっていくのを感じた。
    「私、志穂のことを愛してる。でも、私が殺した志穂はもっと愛してる」
     だから楽しいんだ、と私が言うと、彼女の雰囲気が少しだけ変わったような気がした。
     知ってたよ、と彼女は囁く声で言った。先ほどまで柔らかく笑っていた志穂の顔は、いつの間にか不敵な笑みに変わっていた。毛が逆立つような激情を感じつつも、ねぇ志穂、と変わらぬ口調で問いかける。
    「また志穂のことを描きたいんだ」
    「どうして?」
    「忘れたくないから。私は弱いから、また非難されたら志穂のこと忘れちゃうかもしれない。今日のことを忘れちゃったら、また虚ろな毎日を過ごさなきゃいけないと思うと、怖いんだよ」
    「麻希ちゃんの心配性なところは変わらないんだね」
     そう笑う彼女に少しだけ頬を膨らませ、からかわないでよ、と不満げに返したが、それがまた彼女の笑いを誘ってしまったらしい。
     無邪気に笑う彼女が愛おしく、指で頬を撫でる。少し触っただけでもわかるほど冷えた肌は、志穂が死んでいることを再認識させた。すると彼女はようやく笑うのを止め、呼応するように私の手に自分の手を重ねる。昔はほとんど変わらなかった背も、今では私の方が頭の半分は抜けている。彼女のあどけない顔を間近で見て、自分の成長を少しだけ寂しく思った。
     頬から輪郭をなぞり、細い首に両手をかける。目を合わせる志穂の瞳には、微笑む私だけが映っていた。
    「また、殺してくれるの?」
     ゆっくりと頷く。それを見て、彼女は子供らしい無邪気な笑顔を浮かべた。
    「ずっと待っててくれてありがとう」
     両手に力を入れ、志穂の首を絞めていく。短く息を吸う高い声が聞こえたかと思うと、彼女の顔は次第に青白くなり、口を開いて苦しそうな表情を浮かべた。腕をつかむ手は汗をかき、もがくように爪を立てて体が痙攣する。
     苦しむ彼女を見て恍惚に笑った時、口の端から唾液を垂らしながら、彼女もまた笑っていた。絞まっているはずの喉から、声が聞こえた。
    「ああ、本当に」
     死んで良かった。
     志穂はそう呟くと、一度大きく目を見開いて絶命した。
     だらりと垂れ下がる手足を支えきれずに手を離すと、身体は大きな音を立てて床に崩れ落ちた。私の両手には彼女の冷たい肌の感触と呼吸の振動がまだ鮮烈に残っていた。息を荒げながら志穂の死体に近づき、顔を覗いて確認する。
     ああ。やっと、志穂を殺せた。
     そのまま床に座り込み、鳴り響くチャイムに隠れて微かに歓喜の声を上げた。窓の向こうでは、小川の先で赤い太陽が歪みながら水平線に沈んでいた。
     
     あれから半年以上の月日が経った。
    先日梅雨明けの宣言がニュースで流れ、白い太陽が猛暑を作り上げている。季節はもうすっかり夏である。
     あれから大きく変わったことが二つほどある。
     一つは、人の顔が見えるようになったことだ。はっきりとまではいかないが、表情や他人との区別がつく程度には見えるようになった。なぜ治ったのかは、正直はっきりとはわからない。しかし考えられるとすれば、傷付かないように否定していた自分自身を、再び志穂を殺したことで認める事が出来たのが一番の要因だろう。
     顔が見えるようになっていると初めて気が付いたのは、画材を取りに家に帰ったところで両親の顔を見た時である。そのことを教えると、母は私を抱きしめて大いに喜んでくれた。父は大きなリアクションこそ取らなかったものの、次の日に珍しくケーキを買って帰ってきたことから察するに、喜んでくれていたのだろう。
     もう一つは、再就職したことである。以前の会社の辞め方が悪かったからか就職活動はだいぶ難航したものの、父の勧めもあって東京郊外の企業へ就職する事が出来た。目が見えるようになったことで以前よりも仕事や人間関係に対する憂鬱感は薄れており、今のところは問題なく過ごせている。今は実家から通勤しているが、来週には引っ越してまた一人暮らしを始める予定だ。そのため、今日のような休日はもっぱら荷造りに専念せざるを得ないのである。そうはいっても、やはり引っ越し準備というのはなかなか進まないもので、荷物の半分以上がいまだ梱包されずに部屋に散乱している。私の中には大きな変化があったものの、通りかかった母から小言を言われるような日々は変わらないのである。
     志穂と過ごしたあの日々は、今だに現実に起きたものだと信じることができないほど不可思議で、幽玄だった。しかし、それを裏付ける事実も多く残っている。例えば、洛藤中学校のチャイム。執拗に鳴り続けて住民から恐れられていたが、あの日を境にピタリと止み、怪現象も無くなったため春からは中断していた解体工事が進んでいる。あの校舎で起きた現象は、正しく夢のようなものであった。
     もう一つの事実と言えば、翔の死である。彼の死は惨劇そのものであったが、警察によって丁寧に調べられ、自殺と判断された。遺書は見つからなかったものの、スマホのメモ機能の中に残された日記のように綴られた文章から、翔の勤めていた会社の指導体制の問題が浮き彫りになったようだ。程なくしてそのことがニュースに取り上げられ、大きな非難を被っていた。その後は葬式も上げられ、立派な墓が建てられている。
     葬式の際、その日記を読ませてもらったが、日々の鬱憤を淡々と書き記されていたものの、不安定な精神状態であったことが読み取れた。中でも印象に残っている文章がある。

    『十二月二十日 晴れ
     本日は二件とも商談に失敗した。どちらもプレゼンと交渉力の弱さが原因だと、上司から一時間ほど叱責を受けた。寝不足気味なせいか、思考が上手くまとまらない。外回りから帰り、資料のデザインや説明をまとめ直して帰宅。
     最近は寝不足に加えて、気味の悪い夢を見るようになった。内容は覚えていないが、こびりつくような猫の鳴き声が耳から離れない。原因はわからないが、きっかけは思い付きで行った梶原さんの墓参りではないかと考えている。なんにせよ、これ以上尾を引かないことを願う。』

     亡くなる一週間前のものである。以降、亡くなる前日まで夢見の悪さは続いていたようで、翔の母親も、日を追うごとにやつれてぼうっとしていることが多かった、と話している。奇妙な話だが、それでも納得してしまうのはあの日々を体験したからこそなのだろう。
     そしてあの日々が現実であったことの一番の証明は、部屋の奥に置かれた志穂の死体を描いた水彩画である。
     叔父が選んできた十号という誇大的なサイズに、あのスケッチ画の歪な体勢ではなく、机や椅子に寄りかかりながらも教室の床に静かに横たわる構図で描き上げた。腕は机のパイプ部分にもたれて垂れ下がり、膝から過剰に開く両脚は左右であべこべの方向を向いている。白いブラウスや紺色のスカートから伸びるしなやかな肢体は、肌色というにはあまりにも青白い。陶器のような肌に垂れる黒髪の間から、力無く中途半端に口を開けた生気の無い顔が覗く。黄色味がかった茶色の虹彩は万華鏡のようにうねり、泥の中のような瞳孔は虹彩を飲み込むほどに膨らみ、空虚な黒を生み出している。その顔には背後からの光に照らされた机の影が落ち、夏の夕暮れを反映した鮮やかな紫が全体を薄く照らし、妖しい雰囲気を作り上げていた。
     今でこそ見惚れるほど納得する出来だが、ここまでちゃんとした絵を描くこと自体が久しぶりだったため、完成までに何度も描き直し、その期間は五日を優に超えてしまった。そのため、制作の間に死体が腐ったり、消えたりしてしまうのではないか、という懸念があったが、不思議なことに一週間経っても死体は殺された当初のまま変わることはなかった。このまま残り続けるのかと思ったが、絵を描き終えた次の日に行った時には死体は消えており、死体のあった場所にはやつれた赤毛の猫の死骸だけが残されていた。

     こうして点々と残された事実から、あの日々が現実であることは確かだということは重々承知している。しかし、あんなに壮大な出来事がどうして起きたのか、何が引き起こしていたのか、本質的なところは何一つわかっていない。気になりはするが、先に述べた通り、あの日の物はほとんどが亡くなってしまい調べることすらもできない。そうなると、もはや想像で補う他に手段がないのである。

     廃校になってしまった学校が、在りし日を偲ぶために作り上げた異空間だったのか。
     死人の思いに駆り立てられた猫たちの愉快な舞台劇だったのか。

     これらはすべて私の考える妄想でしかない。
     ただ、今でも絵の中の彼女が囁くのだ。

    「有馬君には悪いことしちゃったな」
     と。
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    COTTON_san16246

    DOODLE発表会も終わったし提出してからそろそろ二ヶ月経つので、卒論供養😌
    いつかツイッタで公開しようとは思ってたけど、修正してから…修正終わってから…とか言ってたら一生公開しないのではないかと思ったので出します(真顔)
    ぽいぴくにテキストベタ貼りしました。表記上は六万字ですが、ワード君では四万行ってません。ぽいぴくすごいな……☺
    夕焼色の死体 二年半勤めた会社を辞めた。
     通知書を握りしめてベランダの柵に寄りかかり、昼過ぎの青白い空に向かって鬱憤を晴らすために吸っていた煙草の煙を吹きかけた。生温い陽光に秋風が混じりあい、長い黒髪が乱雑にうねり私の頭を殴る。
     やりたいことがあったとか、大病を患ったとか、そういうはっきりした辞める理由があったわけではない。
     ただ、限界だった。
     私は人の顔を認識できない、という厄介な目を持っていた。盲目とかではなく、人の顔が肌色の絵具で塗りつぶされているみたいに、はっきりと見ることができないのである。人間以外の動物や、絵画や彫刻、イラストといった虚像の顔であれば見えるのだが、生身の顔になると全く見る事が出来ない。眼科や精神科などの医者やカウンセリングにも何度もかかったが、一辺倒の回答ばかりを得るだけで一向に良くなることは無かった。
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