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青エンド数年後/恋人
最近、城下の民らが挙って囁く声がある。
「盾の名を継ぐ者、王の右腕か。御大層な呼び名だな」
ルーグとキーフォン。ブレーダッドとフラルダリウス。先代の国王とファーガスの盾。そういった、自分達にただ連なっているだけの名前にこじ付けて分不相応な理想像を抱かれているようだ。
嘆息するフェリクスは本気でそう思っているように見える。家名による結びつきはともかく、あながち不相応というわけではないのだがなとは思う。しかし、この男は滅多に賛辞を素直に受け取らない。
午後も半ば過ぎた頃、取り掛かっていた政務を中断して休憩をしていた。長椅子に二人並んで腰掛けて茶を飲んでいると、正面の窓から城下の街並みが遠くに見える。そこから風に乗って、微かに喧騒と活気が伝わってきていた。
おそらく、ここへ来る途中にでも自分の噂が耳に入ったのだろう。
「まあそう言うな。そんな偶像や理想像が民らを元気付けることもある。理想を夢見て憧れること自体は悪くないだろう」
「その対象が俺と言う点を除けばな」
「俺とお前、だ。二人で理想を演じてやれるのであればそれに越したことは無いんじゃないか」
多くの者は物語や英雄譚を好む。泥臭い部分を省略した、都合の良い夢物語を。
"無実の罪で国を追われた獅子王ルーグの末裔が、親友にしてキーフォンの末裔である男を始めとした仲間と共に国を取り戻し、そして今に続いて二人支え合い国を建て直している。"
未だ戦禍の爪痕が根深い生活の中でも、自国の頂点に立って率いる者がそのような存在だと夢見ることが出来れば細やかながらも勇気付けられ、安寧を与えられるはずだ。現実はそのような立派な人間ではない者が必死に駆けずり回り、王として至らぬことに日々苦心しているのだとしても。
だが、そのような物語を嫌い、あくまで厳しく現実を見据えようするフェリクスも共にその対象なのは、確かに可笑しさがあるというものかも知れない。
「……仕方がない。甘んじてやってもいい」
嫌々受け入れているのをあからさまにして呟くフェリクスに苦笑すると、隣からフンと鼻を鳴らす声が聞こえてきた。
「右腕、と呼ばれるのは嫌か?」
真横に向き直って揶揄うように言うと、相変わらずフェリクスは憮然とした表情のまま、腕を組む。
「お前でなければ御免だがな」
予想通りの答えにニッコリと笑みを形作れば目を逸らされた。むず痒そうに唇をひき結んでいる。そういうところが、ますますこちらの頬を緩ませるというのに。
「……だが、そうだな。そのような二つ名が無くとも、そもそもお前が望まずとも関係無い」
ふと、フェリクスがその眉間の皺を緩めて口元に手をあてた。
「何がだ?」
フェリクスの長い髪を弄びながら問い返すと、するりとその髪が指をすり抜けてフェリクスが身体ごと向き直ってきた。見下ろすと妙に妖しげな光をその瞳に宿らせており、どきりとする。
「ディミトリ」
「……っんん?」
スッと揃えられた人差し指と中指が伸ばされ、唇にあてられる。
待て、先ほどまで真面目な話をしていたじゃないか。
「この指の先から脳天、そして足の爪先」
そのまま指先が咽喉を伝って心臓の上を這う。
急に前触れなく恋人の顔になるなんてずるい。咄嗟に反応出来ないまま、フェリクスの指が止まらずに身体をなぞってくる。
「そして臓腑の一つも残らず、心の臓まで。お前の腕どころか全てのために動いているつもりだが?」
手首を掴まれてフェリクスの胸に引き寄せられた。手つきが妙に色っぽくて動揺する。そして、そんな心情は筒抜けだというように口の端を得意げにクッと持ち上げられた。
「お前はどうして時々そういうことを……」
「おい、服が皺になるからやめろ」
ぐしゃりと服を握り締めると、至って平静にいつも通りの悪態を吐かれた。
可愛い照れ隠しをしてくれるのは変わらないのに、最近は妙なところで大胆なのが厄介だ。厄介だと思うのにもっとしてほしいと思ってしまうのが余計に厄介なのだ。
「俺のものの癖に俺の意のままにならないなお前は」
「何を言っている。猪の意のままに誰がなるものか」
そうは言うが、分かっている。確かにこの男は自分のために在ろうとしてくれていることが。
思い返せば今取り組んでいる政務もそうであった。
ここ数年掛けて、コルネリアによる苛政で荒れていたブレーダッド領が落ち着いてきた。それで真っ先に着手したのが孤児の保護だ。飢えて死にゆく子供達は待ってくれない。教会による保護にも限界がある。口先だけで民への慈愛を唱えても現実はそう簡単ではない。孤児院の設立が叶っても管理に就かせる人員選びも疎かにしてはいけない。貧民街では幼い子供に過剰な労働を強いるような輩も見てきた。程度の差に関わらず、弱者が強者に虐げられるなど言語道断だ。
それでも、道徳的な理想が正しいだけで賛同は得られない。資材や資金、人手や体制の仕組みづくり。決めなければいけないことは多く、皆が損得勘定抜きに協力してくれるわけではない。
荒れる論議の中、フェリクスは下準備や根回し、何より自分の発言に対しての反論に手を抜かなかった。あまりこの手のことには踏み込んでこないものかと思っていたのに。事実、公爵を継いだ当初は黙々と自領の政務を抱え込み、発言も控えめだったように思う。だが、年を追うに連れて、実情に則した率直で鋭い切り込みが存在感が増していった。
そう言えば昔、士官学校の講義でもフェリクスの発言が結果として議論を沸かせたことがあった。フェリクスは教室を出て行ってしまったが、イングリットが目を輝かせて探しに行くほどで。思えば、度胸だけは元から一人前だった。
多くの場合は最終的に協力派である。だが理想に価値を認めてもそれを実益として勘定には入れない。目の前の現実を見据えた手堅い意見が厳しい言葉を以ってして投げかけられる。それに重ねて言い返す自分もつい威圧的なトーンとなり、周囲を緊張させて時に空気を凍りつかせることもしばしばだ。動じないのはゴーティエ伯ぐらいなものであろうか。
"剣以外のことは分からない、平和な世では居場所も生き甲斐も無いだろう。"
いつかそんなことをフェリクスがこぼしていたと人伝てに聞いた。だが、現に剣を置いて代わりに筆を、刃では無く言葉で戦うことを選んでいる。
お前の居場所は俺の隣がいい。生き甲斐も俺であればいい。
そんな我がままを隠して素知らぬ顔で公爵にと望んだはずだが、やはりそれも悟られているのだろうか。意のままにはならないと憎まれ口を叩きながらも、今こうしているのも公私ともに俺のためであることは自惚れではないはずだ。
厳しくいてほしい。フェリクスの厳しさは真剣さの顕れだからだ。剣術や鍛錬にひたすら真剣で厳しいように、俺に対して真剣であってほしい。その反面、いつか見限られてしまったら、お前の居場所にも生き甲斐にも相応しい者になれなくなったらと思うと不安になってしまう。
しかし、だからこそ何度でも自分を王として戴くことを選んだのだと実感させてくれる。
それを、何よりの僥倖なのだと思う。
「不満か?」
「……俺にはそのぐらいでちょうどいいさ」
とはいえ、時々でいいから分かりやすく優しくしてほしい気もする。政務は厳しくていいから、その、睦み合いの時間とか。そう思いながらもたれかかるように抱き寄せると、フェリクスは腕の中で身体を捩って目線を合わせてきた。
「……くく。ならばこの一時、お前の好きにしてみたらどうだ」
「え?」
「ほら。今なら好きにしていい。なんなら押し倒すか?」
フェリクスが膝の上に正面から乗り上げて座りこみ、しなだれかかってくる。常と異なる媚びるようなしどけない様子に、心臓がバクバクと音を立てる。挑発めいた口調は言外に"できるものならな"という態度が滲み出ている。
「待て、そういうことではない」
「なんだ。俺の気が変わらんうちにした方がいいぞ」
愛おしげに左胸を撫でられ、そのまま耳を押し当てられながら上目遣いで見上げてくる。分厚い装束越しには心臓の音を聞き取れるはずは無いのに、まるで聞こえているぞというような態度にいちだんと鼓動が激しくなる。
「違うんだ、その、フェリクス」
「何が違う。お前の意のままになってやるというのに」
好きに出来る。フェリクスは中性的な綺麗な顔立ちで、一見して優美な佇まいだ。しかし剣を握らせ歩かせれば、容易に隙を感じさせない立ち振る舞いで、この男自身が抜き身の剣であるかのような鋭さがある。この頃は机仕事が多いと言っても生まれたっての武人である男に舐めた視線など向けたら一刀の元に斬り捨てられるだろう。
だが、自分だけは別だ。その身を委ねてくれることを考えたことが無いわけではない。本気でそう求めれば許してくれるだろうとも。
摺り寄せられる身体に生唾を飲み込み、恐る恐る背中から脇腹まで手を滑らせる。フェリクスはお手並み拝見とばかりにニヤニヤとして動いてくれない。
その様子にムッとして、顎を掴み唇を塞ぎながら太腿から臀部にかけてを撫であげるが、これといった反応はない。領主として職責に忙しい中でも鍛錬は怠っていないらしく、張りのある筋肉質の良い脚だ。しかし最近その頑丈な足腰は専ら自分との情事に――
つい思い出しかけて顔に熱が集まる。目の前でフェリクスは何も言わないが、どう見ても百面相をする自分の顔を面白がっているようで、笑いを堪えて口元が引き攣っている。
そんな顔を見ていたら、動揺よりも不機嫌が鎌首をもたげた。
「……面白くないな」
「……ほう?大事な右腕に向かって失礼なことだ」
胸に頬擦りするフェリクスは可愛いと思う。幼い頃、会うたび出会い頭にひしとお互いに抱き合ったことを思い起こさせて。それも良いが、やはり成長したこの男に対し、その程度では足りない。
そんな、随分と強欲になった自分に知らんぷりを決め込んで。当然のように要求した。
「お前がただ大人しく俺に従うだけなんてつまらない」
「先ほど言っていることが逆だが」
「仕方ないだろう」
「では何をお望みで」
「その余裕が気に食わないな。もっと必死になって俺を求めればいいのに」
「フン、これはおかしなことを言う」
フェリクスの顔が下から迫る。そのまま有無を言わさぬ所作で両頬を手のひらで固定させられると、当たり前のように唇を塞がれた。角度を変えて数度啄まれた後、フェリクスの右手の親指が唇の端に忍び寄って無遠慮に突っ込まれて口を開かさせられた。
「ふぁ、んむっ」
肉厚の舌が捻じ込まれる。咥内が乱雑に荒らされて呼吸が苦しいのに、触れ合う舌の感触がそれを気持ちいいものに変換させる。至近距離に迫る蘇芳色は飢えた狼のような獰猛さが見え隠れし、重ねられる唇からまるごと喰われてしまいそうだ。それに負けじと喰らいつけば、切れ長の目が楽しげに弧を描いた。
やはりお前はそうこなくては。
「……っは、こんなにも俺はお前に溺れているというのに」
名残惜しげに唇を離され、至近距離で意地悪く蠱惑的に目を細めたフェリクスが囁く。やはりこの男はずるい。こちらがどう思うか分かった上で、まだ日の高いうちからこんなことを言うのだ。
だいたい、先ほどの言葉といい最近のフェリクスは開き直りすぎだ。以前は素直に好意の一つも言葉に出してくれなかったというのに――いや、悪態混じりの皮肉げな調子は今でも素直とは言い難いが――いつの間にそんな殺し文句を言うようになったんだ。
「……そこまで豪語するというなら今宵その身を以ってして証明しろ」
その身全てが俺のためと言うならば直に触れてその真偽を確かめてやろう。鋭く睨みを利かせて命令するような口調は睦言には相応しくないだろうが、この男相手にはこれぐらいでちょうどいい。
「いいだろう。望むところだ」
慣れたように平然と視線を受け止めるフェリクスは、手合わせの申し入れでも受けるように好戦的な笑みを作った。
「嘆かわしいことに我が愛は十分に伝わっていないようだからな」
「ああ、期待しているぞ」
休憩は終わりだ、さっさと仕事を片付けるぞ、と何事もなかったかのように立ち上がる。
そして、啄むように頬への接吻を最後に表情から恋人らしい甘さが掻き消えた。執務机までのほんの僅かな距離を随伴するのは最も信を置く我が右腕だ。
その姿も好ましいが、空がその瞳と同じ色に染まる頃には、再び恋人のお前と睦言を囁き交わしたい。
こんな不純な期待を悟られたら怒ってくれるか、それとも少しはこの男を熱を煽れるだろうか。手を引かれながら自身のどうしようもない思考に苦笑する。
きっと、残りの仕事は早く片付けられるだろう。