神様の忘れた契約の話・3 体感ではかれこれ数時間歩いているが、景色は大きな変化を見せない。
なだらかな平原が地平線まで続いている。時折、地面から大きさや形も様々な岩が生えているがそれだけで、史跡や建造物の類は見当たらない。
ここがモンドや璃月であったとしても、数時間同じ光景を見続けるということはありえない。璃月に関しては地理や歴史をそこそこかじっているが、このような平原が続く土地があるとは聞いたことがない。
これだけ歩いて人の姿を見ないのも奇妙だった。旅人や、行商人、はたまた宝盗団。そのいずれかは出会してもいいものの、遭遇するものはと言えば二足歩行する仮面をつけた化け物、ヒルチャールばかりだ。
ヒルチャールには個体差があった。剣や棍棒などの近接武器を持つ個体。弓矢や呪術をもちい遠距離から攻撃してくる個体。巨大な体躯を持ち身の丈ほどの斧を振り回す個体。それらは一定数で群れをなし、こちらの姿を認めるや否や襲ってくる。そして群れは等間隔で配置されていた。段々、そろそろ群れが現れるのが分かってくる。そして期待は裏切られない。人を見かけないのと同じくらい奇妙なことだった。
加えて、異常なことがある。太陽だ。体感では数時間経っているはずなのに、太陽はその位置を変えない。見間違いだろうかと思い、歩数を測り一定数を超えたら空を見上げるようにしたが、やはり位置が変わらない。ならばあれは太陽のように見える光源なのか。動かない太陽なのか。
一度立ち止まる。
延々と果のない平原を歩いているのだろうか。それとも、同じ場所をぐるぐると歩き回っているのだろうか。
そういった世の理から外れた場所には心当たりがある。秘境や仙境といった場所である。
ふと、目を覚ました直後に会った人物のことを思い出す。仙人の祖ともいわれる存在、岩王帝君。
「先生。ねぇ、先生。いるんだろ」
虚空に向かって呼びかけた。予測が外れていれば随分と間抜けな図だ。部下たちには見せられない。
目の前に突如岩が降ってきた。人の背の二倍はある。視線を上げてみると、岩の頂点はえぐられていた。まるで玉座のように。
瞬きをひとつしたら、玉座に主が鎮座していた。長い脚を組み、岩の肘掛けに両腕を乗せている。こちらを見下ろす瞳は鋭利で背筋に悪寒が走る。
「俺を呼んだのか」
腹の底にズンとくる重い声だった。知っているのに知らない。姿形こそは同じだけれど、それと鍾離とは在り方が根本的に異なる。
何という僥倖だろうと思わず天を仰いだ。
「呼んだ。そう呼んだんだよ」
ふつふつと笑いが沸き起こってくる。
「俺と戦ってよ、魔神モラクス」
ここがどこだとか、自分が何をさせられているのか最早そんなことはどうでも良くなった。なぜここに岩神が存在しているのかさえどうでもいい。
かつて璃月を武力で制した神が目の前にいるとなれば一戦交えたい。それは自分の在り方として正しい。
「……この状況下で願うことがそんなことなのか」
呆れたように岩神は言ったが、その口元は笑みの形に歪められていた。
「いいだろう。それでは契約だ。望み通り戦ってやってもいい。但しおまえの名を明かせ」
そんな簡単なことでいいのかと思い、気分が上向いた。しかしふと思い出す。この場所に来て最初に言葉をかわした相手のことを。
名を奪われぬように。
確かに鍾離はそう言った。彼の忠告は意味のあることのはずだ。そうであればいくら岩神と戦えるチャンスだからといって、名前を明かすのはリスクがある。たしかに自分は闘争を好むが引き際は弁えている。己がなければ戦いを楽しむことなどできない。
「悪いけど、名前は明かせない。先生との約束なんだ」
「成程。賢明な判断だ」
はたしてそれは誰に対しての言葉だったのか。
岩神は気分を害した様子もなく、むしろどこか楽しげな様子でパチンと指を鳴らした。
「それではこれらを倒してみろ。そうすれば、おまえの望みをひとつだけ叶えてやる」
こういう展開は予想の範囲内だった。冒険にはお決まりの展開だと、様々な世界を旅してきた旅人がそう言っていた。強い力を好むものは、相手の力量を知りたがるものだと。そのお眼鏡に叶えば、見返りは十分にあるけれど。
現れたのは三体の異形。それぞれ異なる色の透明な障壁を展開している。
アビスの魔術師。炎元素、氷元素、水元素を操る三体がこちらの周囲をくるくると回りながら、挑発するように杖を振り回していた。
「嗚呼、最高だね!」
あの障壁を破るには元素力が必要だ。鍾離に持たされたナイフによる物理攻撃では歯が立たない。けれど、今の自分には元素力を操ることができない。けれど、本当にそうだろうか。ヒルチャール相手ならナイフ一本でも十分に立ち回れた。不思議なことにこのナイフはどれほど血や脂にまみれても切れ味が落ちることはなかった。何度剣を弾いても、刃こぼれすることもなかった。素晴らしいナイフだ。ここを脱出した後で鍾離に譲ってくれと交渉したいくらいに。
けれど今は使えない。腰にナイフを差し、眼前の敵を見据える。炎元素の障壁で身を護るアビスの魔術師が杖を振りかぶり、こちらに狙いを定めた。炎が眼前に迫る。
「来い!」
叫びに応じ、両手に慣れた感触が現れる。そこに何が出現したのか確認もせず、地を蹴った。正面から炎が、左右から水と氷が襲いかかってきていたが、それらは衝突し互いの力を食い合い霧散した。
眼前にアビスの魔術師が迫る。驚いた相手が姿を晦まそうと呪文を唱えるより前に、両手の水の刃を障壁に突き立てた。
障壁が割れる。元素の粒子が舞う中、アビスの魔術師が衝撃に身体のバランスを崩した。その脳天に水の刃を突き立てる。断末魔の叫びを上げながら消えていく魔術師を足場にして、再び空へと飛び上がる。
仲間の死に他のアビスの魔術師も動揺したが、相手も戦い慣れしている。すぐさま態勢を立て直すと、一体は姿を消し、もう一体はこちらに攻撃を仕掛けてきた。複数の尖った氷の塊がアビス魔術師を中心にブンブンと回り始め、進路を塞ぐ。しかし怯まなかった。氷塊による攻撃の隙間を縫ってアビスの魔術師に肉薄する。そして、水の刃を障壁に突き立てた。先程とは違い、氷元素による障壁は水の刃を拒み凍らせる。それでも手を離さなかった。
一瞬、衝撃を覚悟してひるんだ様子の相手は、しかし刃が届かなかったと知るとにやりと笑って追撃をかけようと杖を振り上げる。しかし、その動きが鈍くなる。驚いた様子のアビスの魔術師は己の身体に起きた異常に遅れて気付く。その身体が電気を纏っていたのだ。
「遅い」
氷元素の障壁が砕け散る。水の刃に乗せた雷元素の攻撃によるものだった。身体が痺れゆらゆらと揺れるアビスの魔術師に、水元素で生み出した長槍を突き刺した。そして、同様に雷元素で生み出した長槍を背後に投げつける。
振り返って結果を確認してみると、長槍は水元素を操るアビスの魔術師をそれが生み出した無数の巨大な泡ごと突き刺した。甲高い悲鳴が響き渡り、相手との間合いを詰める。光る瞳に怯えが見えたが、躊躇はしなかった。腰のナイフを引き抜き、アビスの魔術師の急所に突き立てた。
最後の敵を倒し、岩の上にふんぞり返る神様を見上げる。
「これでどうかな?」
「ふむ。想定より早かったな。いいだろう。おまえの願いを叶えよう」
「やった」
ナイフを構え直し、望みを口にしようとした途端、口を何かに塞がれた。
「待て、公子殿。本来の目的を忘れるな」
口を塞いだ何かは、突如背後に現れた人の手だった。ちらりと視線を向けると、岩神と瓜二つの男の姿がある。彼は眉根を下げため息をこぼす。
「おまえの望みはここから出ることだ。違うか?」
「それはそうだね。でもその方法はあれを倒した後に考えるよ」
この不思議な空間から脱出する方法、それは確かに自身が求めていたことなのだろう。言葉にされると改めて確信する。自分はここから出なければならず、その術は目の前の岩神――否、岩神もどきが握っていると。
背後に本人がいるのだから、目の前の存在は偽物だ。それは分かる。しかし偽物とはいえ、秘めたる力の巨大さは感じ取ることができる。戦士としての直感だと言い換えてもいい。そうであるならば、全盛期の魔神モラクスと戦えるまたとない機会だ。この場所から脱出する術を見つけるよりも重要視すべきだ。それが、戦士としてのタルタリヤの本能だった。
「成程。おまえの望みはここから出ることが」
「は? 違うよ。俺の望みは」
「その男はお前の望みを口にし、おまえはそれに同意した。俺が叶えるおまえの望みはひとつだけだ」
狐につままれたような気分だった。これでは同じ顔の男にいいように振り回されたようなものではないか。
殺意を持って手にしたナイフを背後の男の喉元目掛けて繰り出したが、ガキンと硬質な音を立てて見えない壁に阻まれる。更に、鍾離が涼しい顔でパチンと指を鳴らしたかと思うと、ナイフは砂になってタルタリヤの手からこぼれ落ちていった。
「先生!」
「まったく……公子殿、目覚めの時間だ」
その声はまるで朝を告げる鳥の鳴き声のようだった。
タルタリヤが目を覚ますと、消毒液の臭いが鼻についた。視線を巡らせると見覚えがあった。どうやら璃月にある北国銀行の一室に設けた医務室であるらしい。
近くにいた医師はタルタリヤの意識が戻ったことを知ると、容態を診ながら説明をしてくる。
任務中、タルタリヤは大怪我を負い運び込まれた。同行していた部下たちの言葉は不明瞭だったが、整理してみると見知らぬ秘境に迷い込み、数多の敵と対峙した後、タルタリヤは落石に巻き込まれたらしい。
「秘境ね」
どうにも引っかかる。否、十中八九夢に出てきたあの男が絡んでいるのだろう。
タルタリヤは生死を彷徨っていたらしく、目覚めるかどうかは五分五分といったところだった。そこへ鍾離が現れた。彼はなぜかタルタリヤが重傷であることを知っており、面会を希望した。
北国銀行内で鍾離の正体を知っているのはタルタリヤだけだ。岩王帝君がファデュイの執行官にとどめを刺しに来たと邪推する者はおらず、どちらかといえば藁にもすがる思いで面会を許可した。そして鍾離はこの医務室へとやって来た。
彼は何をするのかと思えば、タルタリヤの額に手を当て一言二言呟いただけで、医師やファデュイの者たちの疑問をのらりくらりと交わしてさっさと出ていってしまった。それが半日前のことだという。こうしてタルタリヤが目を覚ましたのも彼のおかげだろうと、医師はにこにこ笑っていた。執行官の命を救えなかったとなれば咎めを受けるとでも思っていたのか、酷く安堵した様子だ。
「よりにもよって鍾離先生に借りを作るとはね」
迷い込んだ秘境のことや遭遇した敵、落石のことをぽつぽつと思い出しながらタルタリヤは苦々しく吐き出す。元はと言えば今回の任務も、彼の手のひらの上で踊らされたが故のものだと言えなくもない。その上、彼に借りを作るのは業腹だ。
けれど、とタルタリヤは考える。鍾離は元が契約の神だったこともあり、公正な人だ。ファデュイであれど知人が瀕死であり、自分にそれを救う術があれば手を貸すことは厭わない。けれど、逆に言えば、わざわざタルタリヤに肩入れして命を救ってやる必要もない。
その疑問を解く鍵は、夢に出てきたモラクスと鍾離だ。
タルタリヤは寝台から起き上がった。
「公子様、まだお怪我が」
「もう治ってるよ。先生のおかげでね」
腹に巻かれていた包帯を外し、そこに何の傷もないことを見せてやると、医師は目を剥いた。
動揺する医師を押しのけ、側に置いてあった服を纏って医務室を出る。向かうは往生堂だ。