深淵より・4 『死神』の運転する車は軽快に街並みを抜けて荒野に出た。この国の西の方にこういった地形があると観光ガイドで見た気はするが、特に名所もないので近寄る予定はなかった地域だ。対向車もいなくなった頃、舗装された道を外れて暫く進むと廃屋が見えてきた。元は工場か何かだったのだろうが、天井に穴が空いていたり壁が抜けていたりと散々な有様だった。打ち捨てられて久しいようで、埃や砂塵にまみれ当然ながら人の気配もない。『死神』が車を止めたのはそんな場所だった。
促されて車を降りると、今日から一月ここで寝泊まりして修行するのだと説明された。
「修業」
「そう。人を殺すための修行。本来なら死ぬはずだった君は『鴉』の利となることを証明できなければ捨てられる」
情報屋からの説明を受けた今では『死神』の言葉は重く響いた。この国や俺の国が旅行客の死に重きを置かなければ、俺は昨日のうちに死んでいた。ただ政治的な理由で生かされているだけで、その辺の事情も一月あればクリアされる。俺はもう『夜闇の鴉』の構成員としてしか生きる道がない。
どうして、と泣きたかった。喚きたかった。だけどそんなことをして目の前の『死神』の機嫌を損ねれば、簡単に命を失ってしまう予感がした。『死神』は政治なんて興味がなさそうだし、咎めを受けたところで意に介さない。俺が今生きているのは彼が俺を殺そうとしていないからだ。
『双子』の言葉が蘇る。生きたければ殺せ。死にたくなければ殺せ。
俺は誰も殺したくないけれど、そのための術を身につけることでしか現状を打開する一歩を踏み出すことさえできないのだ。
「……よろしくお願いします」
『死神』はふんと鼻を鳴らした。
その日から俺は『死神』に命じられるまま、修行を開始した。
まずは基礎トレーニング。持久力や筋力をつけることを求められた。与えられたメニューは無茶だと逃げ出したくなるものだったけれど、死にたくない一心でそれを受け入れた。
朝から晩まで動いて、一日に二度『死神』から与えられた食事をとって、一日のメニューが終わった頃泥のように眠った。幸いにも敷地内の井戸には飲み水があり、いつでも飲むことを許されたから、それだけが希望みたいなものだった。
『死神』は退屈そうに俺を監視していることもあれば、車で何処かへ出かけていることもあった。その間、サボったり逃げたりしようとしなかったのはやはり自分が置かれている現状を正しく理解していたからだと思う。
死物狂いでメニューをこなして、七度日の出を見た。少しずつ着実に力はついてきており、初日より短い時間でメニューをこなすことができるようになってきたし、気絶するように眠ることもなくなった。
明日から次のステップに移ると言われて俺は震えた。初日の苦しみが戻ってくるような気がして。
その日のメニューが終わって寝袋にくるまる。廃工場の一角を自室として使っているが、黴臭くて埃まみれ、ベッドなんてあるわけはなく、『死神』の車に積んであった寝袋を与えられていた。
元々は倉庫であったらしいこの部屋は一応壁も天井もちゃんとあって雨風はしのげる。窓も一応あるがくもっていて外の様子は見えにくい。ただ太陽が昇れば眩しいし、夜はぼんやりとした月明かりが見える。最近はその明かりを見ていると少し心が落ち着く気がした。
ふと、月明かりよりも強い光が差した。思わず目を細める耳を澄ませる。車のエンジン音のようなものが聞こえた気がしたと思うと、光が消えた。ヘッドランプが消されたのだ。同時にエンジンの音も消える。
『死神』は昼頃に出かけて夕方には返ってきていたから、別の誰かが訪れたに違いない。俺は息を殺し眠ったふりをした。余計なことは何も聞きたくなかった。
けれど、周囲に音を出すものもないぼろぼろの廃工場では彼らの声はよく響いた。
「こんばんは、『死神』」
「……こんばんは、『骸』」
どうやら来訪者は俺も面識のある人であったらしい。どことなく嫌そうな声の『死神』に対して『骸』は淡々と話しかける。
「車があったから寄ってみたんですけど、最近見ないと思ったらこんなところにいたんですね」
「おまえには関係ない。さっさと帰れよ」
「なんでしたっけ、『賢者』?」
聞き慣れない単語に思わず彼らの会話に興味を持ってしまう。すると、『骸』の言葉に『死神』は笑い声を上げた。
「おまえのくせによく覚えてるね。そう。『双子』のお遊びに巻き込まれてるんだよ。ほんと、嫌になる」
「元々はあなたがヘマをしたんでしょう」
「あの程度、『双子』なら簡単に潰せる。わざわざお前を使って僕を止めにこさせたのだって趣味が悪い」
さっきまでは笑っていたのに『死神』な苛立たしげに舌打ちした。話の内容からして俺のことであるのは間違いがない。俺はそうっと布団を頭の上までかぶり、ますます息をひそめた。
「はぁ。つまり?」
「遊んでるんだよ、彼らは。珍しい旅行客を捕まえて、上手に踊れるか試してる。踊り続ける限り『双子』は楽しめるし、踊れなくなったら捨てて次の玩具を探す」
「ああ、最近あの人たち退屈そうでしたからね」
「聖府とも『紡ぎ手』とも膠着状態だからね。『賢者』の所為で政府と揉めるのなら願ったり叶ったりだったかも」
心臓がどくどくと煩い。二人に聞こえてしまいそうだ。
『死神』が言っている話が本当なら、俺はただ『双子』の気まぐれで生かされているということだ。政治的な理由なんてとんでもない。少し運が良かったのかとも思ったがそういうわけでもない。絶対的な力を持つ支配者の手のひらの上で彼らが満足するように踊り続けること、それが俺に求められていることなのだ。きっと俺がどれほど苦心し努力しようとも、『双子』の気分が変われば約束の一ヶ月も待たずして殺されてしまうのだろう。
胸がむかむかする。涙が出そうになる。泣きたいのに怒りで目の前が真っ赤に染まる。こんな理不尽があっていいのだろうか。この国の人々は常にそんな危険と隣り合わせで生きているのだろうか。
「あの人たちはいつもそう。自分たちばかりで楽しむ」
「オーエン」
不平不満を並べる『死神』を『骸』が遮った。オーエンというのは『死神』の名前なのだろう。知ってよかったのだろうか。知らないふりをするべきなんだろうか。否、と情報屋の言葉を思い出した。情報屋は『死神』をオーエンと呼んでいた。組織内でのあだなが外部に漏れないのなら、それが外での彼の呼び名で、俺が人前で呼んでいい名前ということではないのか。
そうだとしたなら、と考えていたら突然のドンという物音に思考を中断させられた。再びの驚きにどきどきする心臓を押さえ耳を澄ますと、何やら争うような物音が聞こえてきた。いったい外で何が起きているのだろう。
「やめろ!」
「煩いな。どうせ始まったらぐずぐずになるんですから最初から大人しくしていてくださいよ」
「こんな、場所で……人だっているのに……!」
「人? あぁ……」
突然ゾクリとした。ひっと言う音が自分の悲鳴だと気付くのに時間が必要だった。冷たい汗が流れてくる。布団の隙間から顔を出して扉を凝視した。しかし、何も起こらない。今は、まだ。
「邪魔をするなら殺します」
それは明確に俺に向けて放たれた言葉だった。姿なんて見えないはずなのに、俺は再び布団をかぶって目を閉じた。自分が無害であることを示せなければ今ここで殺されてしまう。
「いい、かげんに!」
「昨日むらむらしたんでヤろうと思ったらあなたは部屋にいないし。『傷有り』がここで仕事してるって教えてくれて助かりました。あの人いいとこありますよね」
「体よく追い出されただけだろ!?」
淡々と話し続ける『骸』に対して『死神』はずっと声を荒らげている。意外だった彼は簡単には自分のペースを乱されない人だと思っていたからだ。俺に指示を出すときもいつも楽しそうにニヤニヤ笑っていた。それがこんなふうに余裕がなさそうに叫んでいるなんて。
「他にいくらでもいるだろ!」
「まぁそうですけど。今はあなたが手っ取り早いので。『双子』の玩具に手を出すのも面倒ですし」
「くっそ!!」
物音は絶えずするのに、『死神』の声はどんどん聞こえなくなっていった。やがて反抗するような怒声は荒い息遣いに変わっていって、もしかしてと浮かんだ推測に凍りついた。
『死神』は『骸』に襲われている。一瞬、『死神』は女だっただろうかと思ったが声は低いし体は細くて膨らみもないように見えた。男同士だとしてもそういうことはできるのかもしれない。俺には知識がないし、この国の常識を知らないから異質に思えるだけで、普通のことなのかもしれない。そうだとしても、壁一枚隔てた場所でそういうことが行われているのはいい気分ではないし、次に『死神』に会った時どんな顔をしたらいいか分からない。むしろ『死神』は嫌がっていたようだから、助けに入ったほうがいいのではないか。『骸』を相手取るということは死に直結するけれど。
「ぃや……ミスラ……」
「こんな風にして嫌もなにもないでしょう」
こんな風って何、と叫びそうになった。恐怖やら何やらが吹っ飛んで羞恥心に似た気持ちにさいなまれる。心臓は相変わらずうるさいが鳴る原因が変わってきている気がする。
「……いじわるしないで……」
懇願するような甘ったるい声にくらりとした。
つまりそういことだ。野暮ってやつだ。痴話喧嘩と一緒だ。心配して損した。
頭の中を二人への怒りでいっぱいになるように意識して、体の熱のことを考えないようにして、目を閉じ耳を塞ぎ暗闇の中に睡魔を探すことにした。
結局それは嬌声と卑猥な水音が消えてなくなるまで見つかることはなかった。
それでも一応眠れはしたので、体の疲れも少しは取れた。幸いにも起床した頃には『骸』の姿は車ごとなくなっていて、更に『死神』の姿もなかった。
いつも『死神』が俺の監視時に使っている椅子の上に今日の分の食事とメモが残されていた。
レーズンの入った硬いパンをかじりながらメモに目を通す。今日は休息日とのことだった。『死神』も明日の朝には戻るので、ゆっくり休むようにと書かれている。
突然訪れた安らぎの時間に安堵したのも束の間、メモの裏に書かれていた最後の一言に俺は凍りついた。
「明日からは、人を殺す術を教える」
自分の置かれた現実を目の当たりにする時が来たのだ。