神様の忘れた契約の話・4 鍾離はタルタリヤの来訪を予測していたようで、往生堂を訪ねるとすぐに彼の執務室へと案内された。
「息災のようで何よりだ」
「おかげさまで」
運ばれてきた茶に口をつけつつ、悠然と構え茶を啜っている鍾離に目を向ける。彼が落ち着けば落ち着くほど、タルタリヤは苛立つ。
「早速で悪いんだけど」
「嗚呼、公子殿が迷い込んだ秘境の話だろう」
カップを机の上に置き、「どこから話したものか」と鍾離は腕を組んだ。特にはぐらかすつもりはないらしい。のらりくらりかわされる可能性も危惧していたため、僅か浮いていた腰を落ち着けた。
鍾離が語るところによると、あれはかつて岩王帝君が創り出した秘境であり、仙境へと通じている。
仙境とはいえそこには今や仙人は住んでいない。岩王帝君がそれを創った頃、彼は気まぐれに足を運び人が迷い込むのを待っていた。何しろその場所は岩王帝君が人々の願いを叶えるために創ったものだったからだ。
神は人に試練を与える。人がその試練を突破できたなら、神は人の願いを叶える。そういう契約だ。岩王帝君が求めていたものは人の勇姿だった。願いを叶えるのも観劇の対価に過ぎない。神と人が交わす契約として条件は対等なものだった。その話はゆるりと人の間で噂されるようになり、秘境早く目を果たし続けた。
その秘境も千年経って役目を終え、入口も岩王帝君の手によって封じられた。千年以上前のことだ。元々、人の口を媒介として伝えられていた場所であったため、記録には殆ど残っていなかった。今となっては伝承としてさえ伝えられてはいない。
そのような場所があったことを創造主自身が忘れていた頃、不運な事故が起き入口の封印が開かれてしまった。鍾離は慌てた。もはやあの場所には望みを叶えてくれる神はおらず、勇者を試すための仕掛けだけが残されている。試すだけ試して何の褒美もないというのは、元契約の神としては捨て置けない事態だった。
そして、封印を解き迷い込んだ者達の中にタルタリヤはいた。鍾離が秘境に駆けつけた時には、タルタリヤは部下に運び出されている最中だったという。自身の不始末で人が死にかけているのを見て、鍾離は少々罰が悪かった。そこで秘境を消滅させるついでにタルタリヤを助けることにした。それには仙人の力を少しばかり借りたそうだ。
鍾離は仙境にあった岩王帝君の残留思念をかき集めて、形を持たせた。試練を受けたものに対価を与える機能をつけ、そのために秘境を維持するための力をすべて用いることを許可した。試練を突破した者の願いが叶った時、秘境は消滅する仕掛けになった。そして、タルタリヤの魂を秘境に用意した器に入れ、かつてと同じように試練に挑ませた。後はタルタリヤの知る通りだ。
タルタリヤは試練を突破した。タルタリヤが秘境から出ることは即ち元の身体に戻ることである。魂が戻った時、岩王帝君の加護により身体の傷も癒えたのだ。もしもあの時、他の願いを口にしていたらタルタリヤの魂は永遠にあの場所に囚われていたらしい。
あらましを聞いた直後、タルタリヤは言葉が出なかった。何からどう文句を言えばいいのか分からなくなったのだ。感謝すべきか激昂すべきかも判断がつかない。
「ああ……そう……」
長考の末吐き出したのは、そのような曖昧な言葉だけだった。これは鍾離にとっては意外な反応であったようで、彼は片眉を上げる。
「感謝されることはないと思っていたが怒りもしないとは。まだ本調子ではないのだろうか」
「いや、おかげさまで体調はすこぶるいいよ。なんなら、今から先生と手合わせしたいくらい」
「それは重畳。しかしその誘いは丁重にお断りしよう」
すまし顔の鍾離から目を逸らし、タルタリヤは長い息を吐き出した。掴み上げたカップの中で折角の茶はすっかりぬるくなっていた。冷めたことで苦味のでてきた茶を一気に飲み干し、「モラクスと戦ってみたかったな」と恨み言のようにこぼす。あの残留思念とやらに出してもらわなければ秘境から出られなかったのだと設計者が言うのなら、確かにそれ以外に方法はなかったのだろう。それでも機会を逃した事実はただただ惜しい。
「また先生の手のひらの上で踊らされていた気分だ。先生はそんなに俺の踊りが気に入ったのかな?」
「ハハッ」
温度の無い笑い声だった。どうにも調子が狂う。岩王帝君の力によって癒やされた身体には、まだ彼の残滓でも残っているのかもしれない。だから上手く反発できない。
「詫びはしたつもりだが、足りなかったのならこれでどうだろうか」
鍾離があの時のようにぱちんと指を鳴らす。タルタリヤの目の前に見覚えのあるナイフが一本現れた。間違いない。先程までこの手にあったものだ。それはふわふわと宙に浮かび、持ち主が現れることを待っているかのようだった。
「昔戯れに作ったものだが、気に入っていたようだからな」
「使い心地は良かったよ」
「そうか。それなら貰ってはくれないか?」
下手に出られると何とも弱い。まるで弟妹を相手にしている気分になっている。凡人初心者とはいえ、相手は六千年を生きた御仁であるというのに。
タルタリヤは柄に手をかけた。なかなかどうして手に馴染む。まるで自分のために誂えたものかのように。
「折角だから貰っておくよ。いい戒めにもなる」
「戒め?」
「先生には油断するなってね」
ナイフを手で弄び、その切っ先を鍾離へと向ける。
「ハハッ」
元神様はそれは愉快そうに笑っていた。