名も無き花はひだまりに揺れて 一輪目・名も無き銀細工師 〜前編〜カランカラン。
その魔法使いは前触れもなくやって来た。
まるで私の旅立ちを見計らったかのように。
漆黒と白銀の髪、射抜くような夕闇色の瞳。
「ようじじい」
「いらっしゃいませ…おお、これはこれはブラッドリー様。久方ぶりですなあ」
「あ、お前あん時のちっちゃいのか」
「ははは、こんな老いぼれにちっちゃいのは止してくださいよ」
「よく言うぜ。俺様の半分も生きてねえのによ」
お師匠が何やら親しげに話しているのは、数十年ぶりにうちの店に来た“常連”だ。
西の国の北東部、北の国との国境に近いこの銀細工屋は北からの来客も多い。なかでも盗賊を名乗る魔法使いの太客が数十年に一度来るとは聞いていたけれど、まさかたった一年修行に来ている私がその姿を見られるなんて。しかもここから旅立つ前日に。
(あれが北の魔法使い…何百歳でも見た目が若いって本当なんだな)
失礼かなと思いつつ、好奇心に負けた私は作業台の裏からこっそり珍客を覗き見た。
こつ、こつ。
上等そうなつやつやの革靴が軽快に床を鳴らす。ブラッドリーと呼ばれていた男は、商品のブローチやら指輪やらを隅から一つ一つ品定めする。店いっぱいに満たされた静寂の中、お師匠と私は固唾を呑んで見守った。
足音がぴたりと止んだかと思えば、ブラッドリーは目の前の一つをおもむろにつまみ上げた。
(あっ、私が作ったブローチ…)
お師匠の作品よりか幾分不恰好なブローチを傾けながら、陽の光に透かすように裏側までじっくり見つめる。まるで私自身がそうされているみたいな気分だ。彼の瞬きひとつですら背中がそわそわするのに、一丁前に彫り込んだ作者のサインをいきなり読み上げるものだから、私は背後から撃ち抜かれたように肩が跳ねた。身を隠していた作業台が、私の代わりにゴトッと返事をした。
「こいつを作ったのはてめえか?」
(うわっ、気付かれた!)
「良いもん作るくせにこそこそしやがって。大盗賊のブラッドリー様を盗み見ようたあいい度胸じゃねえか。」
物言いは物騒だけど、落ち着いた声色は上機嫌な香りを纏っていた。つかつかと無遠慮に近付く靴音に恐る恐る作業台から顔を出すと、声に違わぬ満面の笑みに見下ろされた。
「す、すみません」
「てめえの師匠に比べりゃ細工はまだまだ荒削りだがセンスは悪くねえ。気に入った、今日はこいつにする」
「えっ、ありがとうございます」
「おいじじい、ぼやぼやしてるとこいつに店取られんぞ」
ブラッドリーは私の肩をばしばし叩きながら、お師匠に向き直って豪胆な笑い声を響かせた。
「はっはっは、それは参りましたなあ」
「こりゃ次来る時が楽しみだ。また会おうぜちっちゃいの。」
ブラッドリーは大きな手でわしゃわしゃと私の頭を撫でたが、不意に彼の口から出た“ありもしない日”に言葉が詰まる。
「次…」
「あいにくですが、この子は明日ここを出るんです」
しゅんと俯く私の代わりにお師匠が答えてくれた。
徴兵制。国境を守る我が街では男も女も兵役の義務が課せられる。最近は中央の国へ出て行く若者も増えて人手不足だから、帰してもらえる方が珍しいらしい。
「…そうかよ」
ブラッドリーはすっとしゃがんで、同情するでも不貞腐れるでもなく、子供をあやすような眼差しで私を見た。
「≪アドノポテンスム≫」
不可思議な言葉と共に目の前に光の粒が舞ったかと思えば、いつの間にか私の両手は一輪の花を握っていた。雪のように白く透き通った花弁が淡く光を纏ったまま揺れる。
「たくましく生きろよ。立派な衛兵になったら攫いに来てやるよ」
こちらを真っ直ぐ見つめるブラッドリーに向かって懸命に口角を上げたけれど、目の方が言うことを聞いてくれずきまり悪く視線を落とす。
ブラッドリーの節くれだった手の中で、私のブローチがずいぶん小さく見えた。
貴族でもお金持ちでもない私の元には、箒に乗った王子様の代わりに馬車に乗った役人たちが明日迎えに来る。
ブローチ作りが弾薬作りになるだけだ、そう変わりはしない。それに最後にこんな良い夢を見られた私は幸せ者だ。
そう自分に言い聞かせながら、冷たい北の空へと小さくなっていくブラッドリーの背中を瞳の奥に焼き付けるようにいつまでもいつまでも見送った。
(後編に続く…)