AM10:00のモーニング キッチンの窓から差し込む陽の光がだんだんと明るくなっていく。洗い桶に張っていた水に浸す手の上を光の帯がゆらゆらと揺れる光景が少し眩しい。出入り口から響くお子ちゃまたちの明るく元気な「ごちそうさまでした」の声と、続く軽い足音に耳を傾け、そっと目を閉じる。慌ただしくも充実した中で、ほっと一息つく時間。だけど、まだ。朝食の時間は終わらない。
(おっ、今日は少し早いおこしだな)
ふっと、くちもとを緩めて、蛇口を捻る。キュと小気味良い音と、ぽたりと滴がシンクに落ちる音に、控えめなのに良く耳に馴染む声が重なって響く。
「おはよう、ネロ。朝食をお願い出来るだろうか」
「おはよ、ファウスト。いいよ、ちょっと待ってて」
陰鬱な暗い色を纏いながらも、柔らかな表情を浮かべるファウストに、同じように笑みを返す。ありがとうと、当たり前に丁寧な感謝の言葉をファウストはくれる。それを、当たり前に受け取ってしまうのは、少しだけ勿体ないから。ゆっくりと噛み締めて、味わって。そうして最後に深く深呼吸をひとつ。
こうして食堂に出向いてくれることも、今では珍しくないけれど、それでもやっぱり引きこもり気味な俺たちの先生に、今朝は何を食べてもらうか考える時間を気に入っていたりする。食事であれば、こんな俺でも誠実に彼の感謝の言葉に応えられるから。
「さぁて、んじゃ、ゆっくりめの朝ごはんの時間といきますかね」
ぐっと一度伸びをして、再びコンロの前に立ち、並ぶ食材に手を伸ばすのだ。
AM 10:00のモーニング
一.オムレツ
真っ白なお皿の上には、ふわふわの黄色いオムレツ。きっと、スプーンですくえば中からとろとろの卵が溢れだすのだろう。東の国でお店を出している時は看板メニューにもしていたぐらいだから、ネロのオムレツは文句なしにとても美味しい。いつもなら冷めないうちに、すぐにスプーンに手を伸ばして、真ん中に切れ込みを入れるのだけれど……。スプーンを持った手を動かせずに、じっとオムレツを睨みつけている僕は、傍から見ればさぞ滑稽だろう。だけど、これは僕が悪いんじゃない。
「ネロ」
「いや、そんな困ると思って……は、ちょっと、いたけどさ」
綺麗なオムレツの山の上には、なんとトマトソースで猫の絵が描かれていた。じとりと睨み上げれば、犯人は噛み殺しきれなかった笑い声を堂々と零して、くしゃりと表情を緩めている。
「賢者さんに教えてもらったんだよ。こうやってオムレツにソースで絵を描くんだってさ、面白いよな」
「それで、猫を描く辺りどうなの、きみ」
「だって、ファウスト用だから」
先生、好きだろうと告げる表情があまりにも無邪気だったから、なんだか毒気を抜かれてしまった。それに、ネロがオムレツに猫を描いているところを想像すると、それはそれで微笑ましい光景だ。
「まあ、オムレツに猫を描いているきみは、かわいい」
「……いや、俺は違うくない?」
「違わないよ。かわいい」
「やめろって、それ」
不服そうに、だけど、少し照れたように顔をしかめるネロに気分が良くなったところで、再びオムレツに視線を落とす。せっかく描いてもらった猫を崩すのはやはり少しだけ残念だけれど、冷めてしまっては勿体ない。彼が作ってくれた料理を一番美味しい状態で食べたいから。
「ありがとうネロ。それじゃあ、いただきます」
「はい、どーぞ。ゆっくり食べてってよ、先生」
あとで、コーヒーも持ってくると、穏やかに微笑んでキッチンに戻るネロに小さく頷く。ゆっくりとスプーンで切り分けてすくいあげたオムレツは、いつも以上に、何だかしあわせな味がした。
二.カスタードクリーム
食べ終わったあとの食器を持ってキッチンに行けば、コンロの前に立つネロの後姿。表情こそ見えないがピンと伸ばされた背筋と、休むことなく一定の速度を保ちながら動く腕に、彼の真剣さが伝わってくる。まったく、あれぐらい真面目に僕の授業も受けてくれたら、なんて、今は小言をいうタイミングではない。
(頼りになる男なんだがな)
年上故の経験値の多さ、僕の至らない部分をうまくカバーしてくれているし、子どもたちもネロには随分懐いている。他人の感情の機微に聡いところは時に彼の性格からすると、辛くなる時もあるだろうけれど、相手の気持ちを慮る言葉を選んで、過不足なく丁度良いぐらいをくれる。東の国らしい相手との距離を置きたがるところが、僕なんかにとっては一緒に居て心地好い。彼が思うより僕のネロに対する評価は高いのだけど、相手はなかなか認めないのだ。だから、どうってこともないのだけれど。
「おーい、ファウスト、大丈夫か」
「……ネロ?」
いつの間にか目の前で揺れる水色と、困ったように眉を下げてこちらを覗き込む麦と空の色をした瞳。ぱちんと瞬きを一つ返したら、伸ばされた手がそっと額に触れた。熱を測るような仕草に心配をかけていたのだと察する。
「背後から気配感じたものの、ずっと突っ立ってるからどうしたのかと。体調でも悪いのか?」
「いや、大丈夫だ。ありがとう」
「まあ、食欲はあるみたいだから、そこは安心だけどな」
僕の手から空っぽの食器をさらうネロは嬉しそうに目を細めて笑う。この瞬間、本当に嬉しそうに笑うものだから、僕までつられて口もとを緩めてしまう。
「ごちそうさま。とても美味しかったよ。あと、とっておきのおまけも」
「それは嫌味なのか、お礼なのかどっちだ」
「きみが思うように受け取ってくれたらいいよ」
「んじゃ、気に入ってもらえて良かったってことにしとくよ」
「そうしてくれ」
かわいいネロも見れたからね、とは言わないであげた。意地悪をするのは嫌いじゃないけれど、さっきの優しく額に触れた手を想ったら、これ以上はやりすぎだろうから。トマトソースの猫についてはこれ以上深堀はよそう。
食器を手にしたネロを何となく追いかけて、彼の後ろに立つとふわりと甘い香りが漂ってくる。コンロの上には片手鍋が置かれていた。火は既に消えているから完成しているのだろうか。
「何を作っていたの」
「カスタードクリーム。今日のおやつに使おうかと思ってさ」
良い卵が手に入ったのだとにっと無邪気に笑う。その顏からカスタードクリームの出来も良いものなのだろうと簡単にわかってしまう。
「シェフ力作のカスタードクリーム、僕も見てもいい?」
「うん? 構わないよ。隣、どーぞ」
了承を得たので彼の作業の邪魔にならないよう少しだけ距離を取って隣に並ぶ。手際よく鍋の中身をバッドに流し込んでいくのを、じっと眺めた。出来立ての柔らかなカスタードクリームは、ゆっくりと流れ落ちて、銀のバッドをたまご色の海に変えた。その表面をゴムベラで丁寧に平らに伸ばしていくネロの手つきも優しくて、自然と目許が落ちていく。
「優しい色だな」
「そんなふうに表現するの、先生、面白いな」
「……そうか?」
「俺だと、やっぱり良い卵だったな、とか。卵の味が濃くて美味いだろうなって感想になるから」
「料理人らしくて良いじゃないか」
何も間違っていないと首を傾げれば、ちらりと目配せをしたネロの瞳は穏やかな色を乗せる。
「んー、なんていうかさ。味以外のものも感じてもらえてるって思えて、上手く言えないけど、好きだなって」
聞いてて楽しいと、笑顔を浮かべるネロに、悪い気はしなかった。だからもう少しだけこの時間を続けても良いなと気まぐれを起こした自分を不思議には思わない。とりとめのない会話をこの男とする時間は僕も好きだし、料理の話だったら、ネロの心は穏やかだから、きっと邪魔にはならない。
「カスタードクリームに比べると、レモンカードは、ちょっと強そうな色だね」
「なるほど。あんた、レモンパイの酸っぱいのは少し苦手だもんな」
「シノがいつも美味しいと食べているのを見て、口の中が酸っぱくなる。ああ、ヒースはカスタードクリームっぽいな」
「はは。お子ちゃまたちが聞いたらどんな顏するだろう」
脳裏に浮かぶ子どもたちの表情はきっと、お互いに似たようなものを浮かべているだろう。ヒースは少し困ったように一瞬目を丸くしたあと、はにかむように静かに微笑むだろう。シノは強いという言葉に喜んで、ふふんと得意げに笑うに違いない。ネロと顔を見合わせて、くすりと小さく笑い合う。
「嫌な顔はしないんじゃないか。ふたりとも、きみのお菓子が大好きだ。もちろん、僕も」
「ん。ありがとな。先生」
満足そうに目を細めてくしゃりと笑う。料理のことになると本当に素直なところがこの男はかわいい。偶に面倒くさくもあるけれど、それも含めて彼が自信を持てるものなのだとわかる。魔法舎での生活が以前に比べると格段に良くなったのはネロの料理のおかげな部分も多い。だから、何度だって伝えて良いと思うのだ。これは事実なのだから。
「ねえ、ネロ」
「ん? なぁに?」
「カスタードクリームも、レモンカードも、今日のオムレツも、全部美味しくて、優しい色と味をしている」
「……ファウスト?」
「きみの料理は、素直で真面目で嘘をつかない。そういうところも好きだよ」
「……なんで、またそう言うこというかなぁ、あんた」
完全に頬を赤く染めているネロに小さく笑って、彼の隣からゆっくりと移動する。随分と長居をしてしまった。まだ仕込みもあるだろからこれ以上は作業に支障を出してしまうだろう。十分にネロを構うことも出来たし、僕も部屋に戻るとしよう。
「ごちそうさまでした。おやつも楽しみにしてる」
そう言い残して立ち去る僕に向かって、楽しみにしててよと。控えめに、だけどしっかりと言葉にして伝えてくるネロに、見えないように小さく小さく微笑んだ。今日はとっておきの茶葉を使って紅茶を入れることにしよう。
三.シュークリームとレモンパイ
「ヒースとシノだ」
セットした三時のおやつを見て、零れたファウストの言葉が予想通り過ぎて思わず噴き出す。耳聡いファウストはむっとした様子で俺を睨むけれど今のは先生が悪いよ、と。言葉にはしないけれどへらりと笑って返せば、腑に落ちないけれど、きみの言い分もわかるみたいな渋い表情をされて、くすくすと短い笑い声もおまけで零れた。
「あのあと、どうしても作りたくなってさ」
「わざわざどうも」
「いやいや、良い刺激になったお礼」
縁が波打った真白の丸いお皿の上には、こんがりと焼き色のついたレモンパイと、カスタードクリームを、ナッツをまぶして焼いたシューで挟んだシュークリーム。どちらも粉砂糖とミントで軽くお洒落をしている。
「みんなも先生に感謝だな。おやつの種類が増えた」
実際お子ちゃまたちはお皿の上に並ぶシュークリームとレモンパイに大きな瞳を輝かせていたし、オーエンもわかりやすく喜んでいた。甘いものを前にした時は子どもと同じで、大人しくて扱いやすいのは有難い。まあ、お代わりの強請り方は北の国の魔法使いなのだけれど……。賢者さんはカロリーがと苦悶しながらもしっかり食べていたし、大人たちは好きなほうを選んで食べたり、半分こをしたりしていた。わいわいと賑やかな光景を思い出していた俺をお見通しなのか、穏やかに目を細めたファウストの優しい声が、珍しくカーテンを開けて陽射しが入った明るい部屋に響く。
「食堂は賑わっていただろうね」
「先生も来ればよかったのに」
「僕は、こうして部屋でひとりで食べるのがいい……けど」
「うん?」
「わざわざ運ばせてすまなかった。言い訳にしかならないけど、行くつもりは、していたよ」
「いいよ。集中してたんだろ」
今はティーセットが並んでいるファウストの机の上は授業の資料が散らばっていた。次の授業の準備を怠らない教師の鏡みたいな男だ。そういうところが嫌いじゃない。それに、キッチンでしばらく待ってはいたものの、降りてこないファウストに焦れたのは俺のほうだ。今日のお菓子はどうしても食べてもらいたかったから、こうして出張したのも、全部自分のため。ファウストが言ってくれるような優しさではないのだけれど、あえて今、口にする必要はないだろう。
「ネロ、きみもお茶にしたら」
「……じゃあ、ご一緒させてもらおうかな」
お菓子は一人分しか持ってこなかったけれど、ティーカップは二つ用意してきた。でも、俺はここでどう過ごすかはファウスト任せだった。本当に嫌だったら誘いはしないだろうから、お茶のお誘いは本心だろう。茶葉はファウストが持っていたものを淹れてくれた。ふわりと香る紅茶の香りを楽しんでから、お菓子にフォークを伸ばすファウストを見ていると、ふわりふわりと穏やかな空気で部屋が満ちていく。
「ん。美味しい。やっぱりカスタードクリームはヒースっぽいな」
「先生がそう言うから、あのあと、ヒースの顏を見たら思わず顔がにやけてさぁ」
「ふふ。それは大変だったね」
「何でもないよって言ったけど、不思議そうにしてたよ」
「だろうな。……うん、やっぱりそれに比べると、レモンカードは強そうな色だ」
「シノっぽい?」
「ああ」
続く軽快な会話に二人で笑いながら、俺も紅茶をいただく。すっきりとした味わいはどちらのお菓子にも良く合うだろう。目の前で紅茶とお菓子を一緒に味わってくれるファウストを見ていたら、今ここに在るものが全部、ぴったりと嵌って嬉しくなる。だからだろうか。なんだかふとお喋りが弾んでしまうのだ。
「なあ、今度はさ、俺と先生っぽいお菓子を考えてみる?」
「僕ときみは、お菓子というがらじゃない……こともないな、きみはかわいいから」
「だーから、それやめろって」
「だって、自分たちみたいなお菓子を、なんて提案してくるやつが、かわいくないわけないだろう」
にっと、いじわるな笑みを浮かべるファウストにたじろぐと、余計に嬉しそうな顔をされてしまう。でも、最初にお菓子を子どもたちに例えだしたのはファウストなのだから、ファウストだってかわいいことになる。
「先生のがうつったんだな、じゃあ」
「は? 何それ……。きみは、そうだな。はちみつたっぷりのパンケーキ、とか」
「真面目に考えてるし! ってか、そんな幸せを詰め込んだ象徴みたいなのが、俺でいいの?」
「きみらしいと思うけど。……小麦とはちみつは、きみの色だ」
「あ~、先生はまたそういうことを」
「照れてる」
「今のは照れるよ……じゃあ、ファウストは、黒い森のさくらんぼのケーキかな」
繊細で幻想的な雰囲気をもつ、見た目は少し重たいイメージだけど、食べたら甘くて可愛らしさもあるケーキは先生みたいだと思う。洋酒をきかせるからファウストもきっと好むだろう。
「ふうん、そんなケーキがあるの?」
「そう。ダーティーでかわいい先生みたいだろう」
「かわいいは余計だ。でも、ちょっとどんなケーキか気になる」
「じゃ、そのうち作ってご馳走するよ」
「……ああ、楽しみにしている」
その一言に、頷いて頭の中にレシピを思い描く。俺にとってはとても、心満たされる瞬間だ。
約束をするわけじゃない。俺たちは魔法使いだから。次の約束はしないけれど。
きっと、また明日も少し遅めの朝食から始まって、こんなふうに、他愛のない話をしながら、一緒に食事の時間を過ごすのだろう。その時間が、とても心地好いものだと日に日に深まっていくのは、ほんの少しこそばゆくて、だけど、ファウストが相手なら、それは決して嫌なものではなく、大切なものだと感じられるのだ。